第百八話:屋根の上の影
王都の夜は、静かだった。
昼間の喧騒が嘘のように、学院の中庭は月の光に沈んでいる。
リディアは窓辺に立っていた。
明日の準備は終わっている。
書類も。
思考も。
覚悟も。
それでも、胸の奥に残るざらつきが消えなかった。
「……」
夜風が、ラベンダーの髪を揺らす。
その時。
ふと、視線を感じた。
ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。
反射的に窓の外を見る。
庭には誰もいない。
灯りもない。
ただ、屋根の上に――
影。
リディアは小さく息を吐いた。
「……そこにいるわね」
沈黙。
影は動かない。
月光に縁取られた、ひとりの男。
灰色の髪。
そして、こちらを見ている瞳。
銅灰。
鈍い金属のような色だった。
「降りてきなさい」
静かな声だった。
命令でも、威圧でもない。
ただ、当然のように言った。
数秒の沈黙。
やがて影が動く。
音がしない。
まるで重さがないように、男は屋根から地面へ降り立った。
距離、十歩。
月の光の中で、顔がはっきり見える。
歳は三十前後だろうか。
細身の体。
無駄のない動き。
そして腰には、短剣。
リディアの心臓が一度だけ強く鳴った。
「……あなた」
男は答えない。
ただ、じっと見ている。
その視線は、敵意でも、好意でもなかった。
ただ、確認するような目。
長い沈黙。
先に口を開いたのは、男だった。
「……宰相」
低い声。
それだけだった。
だが、その一言で、空気が凍る。
リディアは、ほんの一瞬だけ瞳を細めた。
「……久しぶりね」
男の眉が、わずかに動く。
「そう呼ぶの?」
「だって」
リディアは肩をすくめた。
「あなたは、そう呼ぶでしょう?」
沈黙。
男は数歩だけ近づいた。
足音は、やはりしない。
月光の下で、銅灰の瞳が鈍く光る。
「……なぜ」
男が言う。
「なぜ生きている」
それは責める声ではなかった。
ただ、理解できないという声音。
リディアは少しだけ空を見上げた。
月が高い。
「さあ」
軽く笑う。
「それは、私にも分からないわ」
男は動かない。
まるで、時間が止まったようだった。
そして、ぽつりと言う。
「……あの夜」
短い言葉。
だが、そこには十年以上の重さがあった。
「なぜ、抵抗しなかった」
風が吹いた。
リディアのラベンダーの髪が揺れる。
しばらく黙ってから、彼女は言った。
「抵抗しても、結果は同じだったでしょう?」
「……」
「それに」
ほんの少しだけ、声を落とす。
「あなたは、仕事だった」
男の目が揺れる。
ほんのわずかに。
「だから」
リディアは静かに続けた。
「恨む理由もないわ」
沈黙。
長い沈黙。
やがて男は、低く息を吐いた。
「……理解できない」
「でしょうね」
リディアは笑った。
困ったように。
「私も、あなたがここに来た理由が分からないもの」
男は答えない。
ただ、月の下で立っている。
影のように。
そして、ぽつりと言った。
「……また」
言葉が途切れる。
少し間を置いて、続けた。
「また、殺される」
リディアは瞬きをした。
「政治は、同じことを繰り返す」
その声は、静かだった。
怒りでも、警告でもない。
ただの事実。
リディアは少し考えてから、言った。
「そうかもしれないわね」
そして、男を見た。
「でも」
月の光の中で、ラベンダーの瞳がやわらかく光る。
「今度は、簡単には死なないわよ」
男は、初めて少しだけ笑った。
笑ったというより、口元が動いた程度だが。
「……そうか」
短い返事。
それだけ言うと、男は一歩下がった。
「待ちなさい」
リディアが言う。
男は止まる。
「名前くらい聞いてもいい?」
沈黙。
数秒。
やがて男は答えた。
「……ヴァル」
それだけ言うと。
次の瞬間には、もう屋根の上だった。
影が、夜の中に溶ける。
完全に消える。
リディアはしばらく空を見上げていた。
「……そう」
小さく呟く。
「あなた、生きてたのね」
夜風が吹く。
ラベンダーの髪が揺れた。
王都の夜は、また静かに戻った。




