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第百六話:兄上と呼ばれた日


 応接間を出た後の回廊は、やけに静かだった。


 石壁に反響する足音が、妙に大きく感じられる。


「……ルカ」


 呼び止める声は、思ったよりも低かった。


 ルカが振り返る。

 片眉を上げる。


「なんだよ、兄上」


 一瞬だけ、空気が止まる。


「……その呼び方は」


「事実だろ」


 軽い。

 だが、前世を正面から叩きつける言葉。


 アランは小さく息を吐いた。


「少し、話がある」


「珍しいな」


 二人は回廊の奥へ歩く。

 人の気配が消えたところで、足を止めた。


 沈黙。


 先に口を開いたのはアランだった。


「……レオナールは、どんな男だった」


 ルカの視線がわずかに細まる。


「急だな」


「確認だ」


「何の」


 答えない。


 答えられない。


 ただ、続ける。


「優秀だったのだろう」


「優秀だった」


 即答。


「冷静で、無駄を嫌って、責任を全部背負う奴だった」


 アランの指先がわずかに強張る。


「……エリザベートを、愛していたのか」


 言ってから、自分で驚く。


 なぜ、そんなことを。


 ルカは少しだけ視線を落とし、そして言った。


「最期に自覚したらしいな」


 それだけ。


 飾らない事実。


 アランは黙る。


(最期に、か)


 自分はどうだ。


 自覚しているのか。


 まだ、言葉にできない。


「……そうか」


 短い返事。


 怒りも嫉妬もない。

 ただ、考えている。


 去り際、ルカが止まる。


「今のリディアは、レオナールじゃない」


 振り返らずに言う。


「そこ履き違えるなよ、兄上」


 足音が遠ざかる。


 回廊に一人残された。


 石壁に手を当てる。


(俺は……何を比べている)


 前世の夫婦か。


 それとも。


 今の自分の位置か。


 静かに、目を閉じる。


 そして、ゆっくりと息を吐いた。


「……比べるな」


 誰に向けた言葉でもない。


「今は、今だ」


 拳を握る。


 フリードリヒの名は、口にしない。


 レオナールの影も、追わない。


 ただ。


「俺は、俺として隣に立つ」


 その決意だけを、胸に刻んだ。


 回廊の窓から、夕陽が差し込む。


 影が伸びる。


 けれど。


 その足取りは、止まらなかった。

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