第九十二話:静かな水面の底で
朝。
寮の窓から差し込む光は、やけに穏やかだった。
昨日までの騒ぎが嘘みたいに、
世界は何事もなかった顔をしている。
「……平和ね……」
リディアはカップを両手で包み込みながら呟いた。
甘いココア。
砂糖多め。
マシュマロ三つ。
完全装備である。
「糖分過多だろ」
「燃料よ」
向かいの席でルカがパンを齧る。
いつもの光景。
いつもの距離。
いつもの気だるい朝。
「母上、それ甘すぎませんか?」
「ぶっ」
ルカがむせた。
「だから母上って呼ぶな!!」
ユリウスはきょとんと首を傾げる。
「事実では?」
「違ぇよ!!」
「でも昨日も川の字で――」
「言うな!!」
朝から騒がしい。
そして。
「……君たちは、朝から元気だな……」
少し離れた席で、
アランが疲れた顔をしていた。
なぜか距離がある。
なぜか一人席。
なぜか孤島。
本人も理由が分かっていない。
「王子、もっと近く座れば?」
「……いや、ここでいい」
直感が告げている。
あの三人の間に入るのは危険だと。
(なぜ家族の食卓みたいになっているんだ……)
尊厳、今日も瀕死である。
◇◇◇
午前の講義。
学院内は、奇妙なくらい静かだった。
昨日まであれほど騒いでいた貴族派が、
まるで何事もなかったように大人しい。
「……妙ね」
リディアは資料をめくる。
監査報告書。
物資配分。
予算。
決裁印。
全て、整っている。
整いすぎている。
(……早すぎる)
通常なら、あと数日は揉めるはず。
抗議も。
言い訳も。
責任転嫁も。
何もない。
まるで最初から「無かったこと」になったみたいに。
「どうかしたか?」とアラン。
「……いえ」
違和感。
小さな棘。
説明できないけれど。
(静かすぎる)
嵐の後の静けさじゃない。
これは。
嵐の“前”の静けさ。
◇◇◇
中庭。
ベンチに並んで座る三人。
ルカが昼寝。
リディアが書類。
ユリウスが本。
穏やかすぎる時間。
ふと。
ユリウスの指が止まった。
「……?」
「どうしたの?」
「……いえ」
視線だけが、遠くを向いている。
王都の外。
もっと遠く。
もっと向こう。
「……なんとなく」
「?」
「胸が、ざわざわします」
理由は分からない。
理屈もない。
ただ、本能が警鐘を鳴らしている。
「……変な感じがするんです」
ぎゅっと胸元を掴む仕草。
子供みたいで。
でも、やけに切実だった。
「大丈夫よ」
リディアは自然に頭を撫でる。
「何かあったら、私が守るわ」
「……はい」
ほっとしたように笑う。
その顔を見て。
ルカはぼそっと呟いた。
「……フラグくせぇ」
「何か言った?」
「別に」
空は、どこまでも青かった。
◇◇◇
――同時刻。
王城。
地下会議室。
「対象、確認済みです」
「間違いないのか」
「ええ。黒髪、蒼眼。年齢一致。血統反応も一致」
机の上に置かれた報告書。
そこに書かれた名前。
――ユリウス・ヴァイス
「帝国正統後継者、生存」
「……ようやく、か」
低い笑い。
「計画を前倒しにする」
「学院ごと、囲うか?」
「いや」
静かな声。
「まずは“孤立”させろ」
「家族ごとだ」
蝋燭の炎が揺れる。
「甘い夢は、ここまでだ」
とん、と印が押された。
赤い封蝋。
それは。
王政評議会の紋章だった。
◇◇◇
その頃。
「今日のデザート、いちご追加な」
「やった!」
「糖尿になるぞ」
「ならないわよ!」
笑い声が響く。
何も知らず。
何も気付かず。
ただ、幸せな午後が続いていた。




