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第九十話:静かな粛清は足音を立てない


 学院の朝は、異様なほど静かだった。


 鳥の声も。

 生徒の笑い声も。


 まるで、全部どこかに吸い込まれたみたいに。



 代わりに響いているのは――



 かつ、かつ、かつ。



 硬い革靴の足音。



 規則正しく。

 無機質で。

 感情のない音。



(……軍靴?)



 窓辺に立っていたリディアは、視線を落とした。


 中庭。


 黒い外套を纏った集団。


 胸元に光る銀章。



 ――王政評議会直属監査局。



「……早すぎるわね」



 昨日の帝国皇子騒動。

 その翌日に、これ。



 偶然なはずがない。



◇◇◇



「おいおいおい……」



 ルカが欠伸混じりに窓の外を見る。


「なんか物騒なの来てんぞ」


「監査局よ」


「は?」


「王城の“掃除屋”」



 淡々と告げる。



「不正、汚職、思想犯、危険人物――

 国にとって“邪魔な存在”を静かに排除する部署」



「……物騒すぎんだろ」



「ええ。だから嫌いなの」



 前世でも何度か見た。


 あの黒。



 あれが動いた後は、

 必ず誰かが消えていた。



◇◇◇



 講堂。



 全生徒、強制集合。



 壇上に立つのは、灰色の長衣を着た男。


 表情がない。

 声も抑揚がない。



「王立政治学院において、予算流用および不正な物資操作の疑いが確認された」



 ざわ。



「よって本日より、学院の一部機能を凍結し、監査を実施する」



 ざわざわ。



「関係者の事情聴取も行う」



 その瞬間。



 空気が、凍った。



 そして。



「――最初に」



 男の目が、まっすぐこちらを向く。



「アルヴェス令嬢」



 名指し。



 ざわっ。



 視線が一斉に集まる。



「今回の不正発覚の発端は、貴女の報告書だと聞いている」



「……はい」



「詳細を聞かせてもらおう」



 周囲の空気が変わる。



(ああ……なるほど)



 理解した。



 これは聴取じゃない。



 ――見せしめだ。



「……行ってくる」



 小声で呟くと。



「待て」



 ルカが袖を掴んだ。



「一人で行く気か」



「呼ばれているのは私だけよ」



「関係ねぇ」



 真顔。



「俺も行く」



「あなた関係者でも何でも」



「関係者だろ」



「は?」



「お前の味方」



「……」



 反則。



 その言い方は、反則。



「……勝手にしなさい」



「おう」



◇◇◇



 監査室。



 冷たい机。



 硬い椅子。



 光の入らない部屋。



「……さて」



 男が書類を開く。



「アルヴェス令嬢」



「はい」



「君は優秀すぎる」



「……?」



「新入生が、上級生も気づかなかった不正を見抜く。

 偶然にしては出来すぎだ」



 じっと見られる。



 値踏み。



 疑い。



「何者だ?」



 核心。



 部屋の空気が張り詰める。



 ルカが、横で小さく舌打ちした。



 でも。



 リディアは、微笑む。



「ただの辺境伯令嬢ですわ」



「本当に?」



「ええ」



 す、と視線を上げる。



「ただ少し、“国が崩れる瞬間”を知っているだけ」



 男の目が細まった。



「……どういう意味だ」



「さぁ?」



 にこ。



 完全な令嬢スマイル。



 だが瞳だけが。



 冷たい。



 凍るほどに。



「意味は、ご想像にお任せします」



 沈黙。



 数秒。



 やがて男は書類を閉じた。



「……監査は続行する」



「どうぞ」



「だが――」



 一瞬、目が合う。



「君は“観察対象”だ」



「光栄ですわ」



 皮肉を、優雅に包む。



◇◇◇



 部屋を出た瞬間。



「……はぁぁぁぁ……」



 大きく息を吐くリディア。



「疲れた……」



「お前、ああいう時だけマジで怖ぇよな」



「褒め言葉として受け取るわ」



「褒めてねぇ」



 でも。



 ルカは、少しだけ笑った。



「……でもまぁ」



「?」



「やっと“いつものお前”に戻ったな」



「……」



「さっきの、完全に宰相の顔だったぞ」



 胸が、少しだけ痛んで。



 そして。



 少しだけ、安心した。



(ああ……そうか)



 私は。



 まだ、戦える。



 守るために。



 今度こそ。



 本当に。



監査局の背が、回廊の向こうへ消える。


 張り詰めていた空気が、ようやくほどけた。


 リディアは小さく息を吐く。

 気づかぬうちに、指先が冷えていた。


「……大丈夫ですか、父上」


 振り向く。


 少し離れた柱の影。

 いつからいたのか、ユリウスが立っていた。


 深い蒼の瞳が、じっとこちらを見ている。


「聞いていたの?」

「少しだけ」


 責める色はない。

 ただ、心配そうに。


「……出てこなくてよかったの?」


 自分でも不思議な問いだった。

 彼が名乗れば、全て黙らせられたはずだ。

 帝国の正統後継者。

 それだけで、あの場の力関係はひっくり返る。


 けれど。


 ユリウスは、首を横に振った。


「出ません」


 きっぱりと。


「僕が出たら」


 静かな声。


「父上の功績が、“血縁の圧力”になります」


「……」


「それは、嫌です」


 まっすぐだった。


 十八の少年とは思えないほど、澄んだ目。


「父上が勝ったのは、父上の力だから」


「父上の政治は、父上自身の手で認められてほしい」


 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。


「僕は」


 少しだけ笑う。


「後ろで見ているだけでいいんです」


「……ユリウス」


「だって」


 照れたように、視線を逸らして。


「あなたは、僕の自慢の父上ですから」


 反則だ。


 そんな顔で言われたら。


 理屈も、覚悟も、全部崩れる。


 リディアは一歩近づき、

 そっと黒髪を撫でた。


「……ありがとう」


「はい」


「でもね」


 小さく笑う。


「たまには、甘えてもいいのよ」


「……では」


 ほんの少しだけ距離を詰めて。


「終わったら、ケーキ食べましょう」


「ふふ、なにそれ」


「父上は甘いもの食べてる時が一番幸せそうなので」


 図星だった。


 思わず吹き出す。


 政治も、権力も、帝国も。


 全部どうでもよくなるくらい。


 ただ。


 この子が笑ってくれるなら、それでいいと。


 そう思ってしまう自分がいた。




◇◇◇


次話予告:


「選別」――監査の裏で動き出す、もう一つの名簿。

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