第八十九話:ただ、家族になりたかった
王位だとか。
皇位だとか。
血筋だとか。
そんな大層な言葉ばかりが先に歩くけれど。
本当に欲しかったものは、
きっと、そんなものじゃない。
甘い紅茶を分け合って、
同じ部屋で眠って、
「おやすみ」と言える相手がいること。
たったそれだけ。
たったそれだけのはずなのに、
それがいちばん遠い人もいる。
これは、
記憶を持たない少年が、
理屈ではなく“本能”で家族を選んだ夜の話。
帝国の皇子でもなく、
後継者でもなく。
ただの、
ひとりの息子としての願いの物語。
夜の寮は静かだった。
廊下の灯りは落とされ、
窓の外では風が木々を揺らしている。
与えられた客室のベッドに腰掛け、
ユリウスは、じっと自分の手を見つめていた。
――父上。
昼間、あの人を見た瞬間。
勝手に口から零れた言葉。
考えたわけじゃない。
選んだわけでもない。
ただ、呼んでいた。
「……なんなんだろうな、これ」
自分には、記憶がない。
父の顔も知らない。
母の声も知らない。
教えられたのは、
名前と、血筋と、
「帝国の忘れ形見」という肩書きだけ。
肖像画の中の男と女。
それが“両親”らしい、という知識だけ。
――なのに。
今日、会った少女。
金に近い淡い髪。
静かな瞳。
どこか懐かしい匂い。
目が合った瞬間。
胸が、
壊れたみたいに痛んだ。
「……会いたかった……って、なんだよ……」
笑ってしまう。
自分は馬鹿だ。
一度も会ったことがない相手に、
「会いたかった」なんて。
なのに。
抱き締められたとき。
腕の中が、
やけに落ち着いた。
ああ。
ここだ。
ここが、
自分の居場所なんだって。
理屈じゃなく、
身体が知ってしまった。
「……ずるいだろ、そんなの」
十八年間。
ずっと一人だった。
皇子だの、
後継者だの、
象徴だの。
勝手に期待されて、
勝手に担ぎ上げられて。
でも。
誰も、
頭なんて撫でてくれなかった。
誰も、
「生きててよかった」なんて言ってくれなかった。
「……欲しかっただけなのに」
ぽつりと零れる。
「……家族」
王位なんていらない。
皇位なんて重いだけだ。
玉座なんて、冷たそうだ。
ただ。
夕飯を一緒に食べて。
甘い紅茶を飲んで。
くだらない話して。
同じ部屋で眠る。
それだけでよかった。
「……はは」
情けなくて、笑う。
「望み、ちっせぇな……俺……」
でも。
今日。
あの人は、迷わなかった。
『来なさい』
手を差し出してくれた。
当然みたいに。
最初から、
そこに自分の席があるみたいに。
胸が、熱くなる。
「……父上」
小さく呼ぶ。
今度は、ちゃんと意識して。
それでも。
不思議なくらい、
その呼び名がしっくり来た。
「……一回でいい」
呟く。
「一回でいいから……」
三人で。
父上と。
母上と。
川の字で眠れたら。
それだけで。
たぶん、もう何もいらない。
窓の外で、風が鳴った。
その音が、どこか優しく聞こえた。




