第八十五話:望みは、王位ではなく
その日、学院は異様だった。
廊下の空気が、ざわざわと落ち着かない。
「聞いたか?」
「帝国の生き残りがいるらしい」
「王子だってさ」
「王位継承権者だぞ……?」
ひそひそ、ひそひそ。
視線が一点に集まっている。
中庭。
そこに立つ、黒髪の少年へ。
――ユリウス・ヴァイス。
十八歳。
深い蒼の瞳。
整った顔立ち。
そして。
かつて滅んだアスティリア帝国、最後の皇子。
「ぜひ我が家へ」
「後見人に」
「王家と連携すれば――」
取り囲む貴族子弟たち。
必死。
野心むき出し。
まるで宝石の取り合い。
「……あの」
ユリウスが、困ったように首を傾げた。
「なんの話ですか?」
「ですから! 王位です!」
「あなたは正統な継承者で――」
「いや」
きっぱり。
「興味ないです」
「「「は?」」」
全員固まる。
「だって、もう王太子殿下いらっしゃいますよね?」
きょとん。
本気で不思議そう。
「なのに、なんで俺が王になる話になるんです?」
「そ、それは血筋が――」
「血筋より」
す、と。
ユリウスの視線が動く。
離れた場所。
木陰。
リディアが立っていた。
「父上が生きてる方が大事なので」
空気が止まった。
「……は?」
「王位とかどうでもいいです」
さらっと。
本当にさらっと。
「俺は」
一歩。
リディアへ歩く。
「父上と」
もう一歩。
「母上と」
「誰が母上だ!!!」
即ツッコミ。
ルカだった。
「俺は母じゃねぇ!!」
「でも家族ですよね?」
「違ぇよ!!」
「違うんですか?」
「ぐっ……」
理詰めで来るなこの天然。
そして。
ユリウスは、当たり前みたいに言った。
「三人で暮らせれば、それでいいです」
静かに。
笑った。
「それ以上、何が必要なんです?」
――あまりにも。
あまりにも小さな願いだった。
帝国最後の皇子の望みが。
それだけなんて。
「……っ」
リディアの胸が、きしむ。
レオナールだった頃。
国を背負い。
民を背負い。
理想を背負い。
ただ一度も。
“家族と穏やかに暮らしたい”なんて願ったことはなかった。
なのに。
この子は。
それだけでいいと言う。
「……父上?」
不安そうに、袖を掴まれる。
ああ。
駄目だ。
「……本当に……あなたは……」
気付けば、抱き締めていた。
「……すまない……」
謝罪しか出てこない。
「違います」
ユリウスは首を振る。
「父上は、逃がしてくれた」
「生きててくれただけで、十分です」
ぐしゃ。
胸の奥が潰れた。
「……重い……」
「血筋だな」
「お前もだろ!!」
ルカが呆れた声を出す。
「母上」
「呼ぶな!!!」
「怒られます」
「当たり前だ!!」
しゅん、と素直に謝るユリウス。
でも。
リディアの袖は絶対離さない。
「……帰りましょう、父上」
「……ええ」
「母上も」
「だから違うって言ってんだろ!!」
ぎゃーぎゃー騒ぐルカ。
くすくす笑うユリウス。
涙を拭うリディア。
帝国の皇子。
王位継承者。
そんな肩書きは、どこにもなくて。
ただ。
家族みたいな三人が、並んで歩いていた。




