第八十三話:覚えている者で
少年を見た瞬間。
胸の奥が、ぎゅ、と掴まれた。
黒髪。
深い蒼の瞳。
整った顔立ち。
――知っている。
理屈じゃない。
記憶でもない。
本能だった。
血が、心臓が、魂が。
叫んでいる。
この子を、知っている、と。
「……父上」
その一言で。
世界が止まった。
父上。
今世で、誰からも呼ばれたことのない呼び名。
なのに。
胸の奥の何かが、壊れそうなほど軋んだ。
「……っ」
息が、吸えない。
視界が滲む。
喉が焼ける。
この子は、誰だ。
違う。
違わない。
分かっている。
分かって、しまっている。
「……ずっと……会いたかった……」
少年が泣いていた。
必死に。
縋るみたいに。
子供みたいに。
いや――子供、なのだ。
まだ、たった十八の。
「父上……生きてて……よかった……」
やめてくれ。
その言葉は、駄目だ。
理性が、保てない。
呼ばなければ。
名前を。
この子の、名前を。
「……」
出ない。
知らない。
私は――
この子の名を、知らない。
守れなかった。
生まれる前に、死んだ。
父親なのに。
何一つ、知らない。
それなのに。
腕が、勝手に動いた。
ぎゅ、と。
強く。
壊れそうなほど、抱き締める。
「……すまなかった……」
「……すまない……」
謝罪しか出てこない。
情けない。
情けなさすぎる。
名前すら呼べない父親など。
少年の手が、服を掴んだ。
「違います……っ」
「父上は……僕たちを逃がしてくれた……だから……」
震えている。
必死だ。
まるで、置いていかれた子供のまま。
胸が、潰れる。
「……君は……」
ようやく絞り出した声は、ひどく掠れていた。
「……名前を……教えてくれないか……」
情けない問い。
父が、息子に。
少年は目を見開いた。
それから。
少しだけ笑って。
「……ユリウスです」
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま。
「ユリウス・ヴァイス」
そう名乗った。
「あなたの、息子です。父上」
――その瞬間。
何かが、決壊した。
「……ユリウス……」
初めて。
初めて。
やっと。
息子の名を、呼べた。
腕に込める力が、強くなる。
失くしたはずの時間が、
失くしたはずの未来が、
胸の中で、確かに息をしている。
遅すぎる。
全部、遅すぎる。
それでも。
今だけは。
ただ。
抱き締めることしか、できなかった。




