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第八十一話:この手が守ると、信じていた


 春先の午後だった。


 宰相府の私室は、珍しく静かだ。


 窓から差し込む陽光が柔らかく、白いカーテンを透かして揺れている。


 書類の山に囲まれた執務机。

 その端で、レオナールはペンを置いた。


「……ふぅ」


 珍しく、仕事を中断した。


 理由は、向かいのソファにいる。


「レオ」


 エリザベートが、穏やかに微笑んでいた。


 両手は、そっと自分の腹に添えられている。


 まだ膨らみはほとんどない。

 言われなければ分からないほど、ささやかな変化。


 けれど。


 そこには確かに。


 命がある。


「……本当に、ここに……?」


 レオナールの声は、らしくないほど弱かった。


「ええ」


 エリザベートは笑う。


「あなたの子です」


 その一言で。


 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。


 戦も。

 政治も。

 国家も。


 何度だって切り捨ててきた。


 だが。


 この小さな命だけは。


 どうしても、怖い。


「……触れても、いいか」


 恐る恐る。


 許可を求める声。


 まるで壊れ物に触れる子供みたいだった。


 エリザベートは、くすりと笑う。


「あなたの子ですよ?」


 そっと、手を取られる。


 導かれるまま。


 レオナールの大きな手が、彼女の腹に触れた。


 温かい。


 やわらかい。


 まだ、何も分からない。


 けれど。


 確かに、そこにいる。


「……」


 喉が、詰まる。


 言葉が出ない。


「レオ?」


「……怖いんだ」


 ぽつり。


「……守れる気が、しない」


 帝国宰相。


 冷酷無比。


 鉄血の策士。


 そう呼ばれる男の顔は、どこにもなかった。


「私は……国すら救えていない男だ」


「多くを切り捨ててきた」


「そんな私に……父親など……」


 情けない、と自嘲する。


 だが。


 エリザベートは首を振った。


「レオ」


 そっと。


 彼の頬に触れる。


「あなたは、ちゃんと守ってます」


「……何を」


「私を」


 即答だった。


「ずっと、私の前では無理してないでしょう?」


「……」


「無糖茶しか飲まないくせに」


 くす、と笑う。


「本当は甘いもの大好きなの、知ってますから」


「……っ」


「ロイヤルミルクティーにお砂糖いっぱい入れても、何も言わずに飲んでくれるでしょう?」


「……あれは……」


「私の前だけ、でしょう?」


 図星。


 言葉に詰まる。


「そんなあなたが、守れないわけないじゃないですか」


 手を重ねる。


 腹の上に。


 二人の手が、重なる。


「この子も、きっと大丈夫」


「あなたの子ですもの」


 静かな声。


 疑いのない声。


 その無条件の信頼が。


 何より、胸に刺さった。


「……エリザベート」


「はい」


「もし」


「はい」


「私が、また間違えたら」


 言い淀む。


「その時は」


 彼女は笑った。


「一緒に間違えます」


「……は?」


「夫婦でしょう?」


 当然みたいに。


「あなたが地獄に落ちるなら、私も一緒です」


「……」


「だから、安心して前に進んでください」


 強い。


 この人は、本当に強い。


 自分より、ずっと。


「……敵わないな」


 小さく笑う。


 それから。


 ぽつり。


「……生まれたら」


「はい」


「誕生日には……甘いケーキを用意しよう」


「ふふ」


「砂糖たっぷりの紅茶も」


「あなた用ですね?」


「……否定はしない」


 エリザベートが楽しそうに笑う。


「では、約束です」


「約束?」


「毎年、家族で甘いお茶会」


 そっと、小指を差し出す。


 子供みたいな仕草。


「……子供か」


「嫌ですか?」


「……いや」


 レオナールも、小指を絡めた。


「悪くない」


 指切り。


 小さな、ささやかな約束。


 国家でも。

 条約でもなく。


 ただの、家族の約束。


 それが。


 彼にとって、何より尊い未来だった。



 ――この時。


 彼はまだ知らない。


 この小さな命を、守れない未来が来ることを。


 それでも。


 それでもなお。


 この温もりだけは。


 確かに、幸せだった。

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