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第八十話:砂糖壺の約束


帝都の冬は、底冷えがする。


石造りの王宮は特にだ。

廊下を渡る風は冷たく、夜半を過ぎれば暖炉があっても指先がかじかむ。


それでも――


「……甘い匂いがするな」


執務室の扉を開けた瞬間、エリザベートは小さく笑った。


紅茶ではない。

花でもない。


もっと、子供っぽい匂い。


砂糖と、ミルクの匂いだ。


「レオナール?」


机に向かう男の背中。


帝国宰相、レオナール・ヴァイス。


書類の山に囲まれ、相変わらず隙のない姿勢でペンを走らせている。


いつも通り。

完璧な宰相。


……の、はずなのだが。


「……」


机の端。


見慣れないカップが一つ。


そして。


隠しきれていない。


角砂糖の瓶。


「……」


エリザベートは、そっと近づいた。


背後から覗き込む。


カップの中身。


ロイヤルミルクティー。


しかも色が濃い。


濃すぎる。


どう見てもミルクティーというより、もはや“甘味”。


「……レオナール」


「……なんだ」


「それ、何杯入れました?」


「……普通だ」


「普通とは」


「……」


沈黙。


視線が泳ぐ。


あ、今嘘ついた。


分かりやすすぎる。


「……三杯だ」


観念したように小さく答える。


「ふふ」


思わず吹き出す。


「笑うな」


「だって……」


帝国一怖い宰相が。

貴族たちを震え上がらせる冷血の改革者が。


砂糖三杯。


「子供みたいです」


「……放っておけ」


拗ねた声。


珍しい。


彼がこんな声音を出すのは、本当に自分の前だけだ。


「皆の前では無糖茶を飲んでいるだろう」


「はい」


「甘い物好きだと知られると、威厳に関わる」


真顔で言う。


「だから隠しているだけだ」


「はい」


「笑うな」


「笑っていません」


完全に笑っている。


レオナールは小さく舌打ちして、カップを持ち上げた。


だが。


「……」


止まる。


飲まない。


「?」


「……甘すぎる」


「三杯も入れたからでしょう」


「……」


少しだけ困った顔。


その顔があまりに人間らしくて。


エリザベートは胸の奥が、きゅっと締め付けられた。


この人は。


国では鉄の宰相で。


誰にも弱みを見せず。


誰よりも孤独で。


なのに。


甘い物が好きで。

猫が好きで。

実は少し不器用で。


そして、誰よりも優しい。


「……貸してください」


「?」


そっとカップを取り上げる。


砂糖瓶を開ける。


さらさら、と。


もう一杯。


「……四杯目だぞ」


「ええ」


「入れすぎだ」


「いいんです」


くるくる混ぜる。


そして。


「どうぞ、レオナール」


差し出す。


「……」


彼は少しだけ目を細めて、それを受け取った。


ひとくち。


「……」


沈黙。


「……どうです?」


「……」


もう一口。


それから、小さく。


本当に小さく。


「……悪くない」


その瞬間。


エリザベートは思った。


ああ。


この人を守りたい、と。


戦場で国を守るのではなく。


この、小さな幸せを。


この人が、こうして甘い紅茶を飲んで、少しだけ肩の力を抜ける時間を。


守りたい、と。


「レオナール」


「なんだ」


「お誕生日、おめでとうございます」


ぴたり。


彼の手が止まる。


「……誰から聞いた」


「お兄様から」


「余計なことを……」


耳が、少し赤い。


「本当はケーキも用意したんです」


「……」


「ですが、宰相閣下が甘党だとバレると困るでしょう?」


「……」


「だから、せめて紅茶だけ」


静かに笑う。


「あなたの好きな味にしてあげたかったんです」


レオナールは何も言わなかった。


ただ。


そっと。


空いている方の手で。


エリザベートの手を掴んだ。


ぎゅ、と。


強く。


「……エリザベート」


「はい」


「……お前の前だけでいい」


「?」


「……こうしていられるのは」


不器用な男だ。


愛している、とも。

ありがとう、とも。


絶対に言わない。


代わりに。


「……離れるな」


それだけ。


それだけで、十分だった。


「ええ」


微笑む。


「一生、離れません」



――甘い紅茶は。


ただ一人のために。


ただ、この人のためだけに。



その夜。

帝国宰相は、珍しく早く執務室の灯りを落としたという。

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