第七十九話:ただ君のために、砂糖を三杯
春の王宮庭園は、まだ朝露の匂いを残していた。
白い小径。
淡い花々。
手入れの行き届いた低木。
王族専用の私的庭園は、まるで世界から切り離された箱庭のように静かだ。
「……本当に、人払いしたんだな」
低い声。
レオナールは辺りを見回した。
「ええ。今日は誰も来ません」
向かいで微笑むエリザベート。
まだ結婚して、ひと月も経っていない。
王妹殿下にして、宰相夫人。
そして――
彼の、妻。
その響きが、未だに現実味を持たない。
「宰相閣下は忙しすぎますもの」
白いテーブルクロスの上。
銀のティーセット。
小さなホールケーキ。
苺のショートケーキ。
「……これは」
「誕生日、でしょう?」
さらりと言う。
レオナールは目を瞬いた。
「……覚えていたのですか」
「夫の誕生日を忘れる妻がいますか?」
当然、という顔。
胸の奥が、妙に熱くなる。
戦況も、政務も、貴族の圧力も。
どれよりも、この人が一番手強い。
エリザベートは紅茶に砂糖を入れる。
一杯。
二杯。
三杯。
まだ入れる。
「……殿下」
「はい?」
「それは、紅茶ではなく砂糖湯では」
「甘い方がお好きでしょう?」
にこ。
見抜かれている。
「……人前では控えているだけです」
「私の前では?」
「……」
視線を逸らす。
負けだ。
「……構いません」
小さく答えると、彼女は嬉しそうに笑った。
「はい。どうぞ」
差し出されたカップ。
一口。
「……甘い」
「ええ」
「……ですが」
もう一口。
「悪くない」
エリザベートが、ほっと息を吐く。
その顔を見た瞬間。
気付く。
ああ。
私は、この人にだけは。
弱くていいのだ、と。
「レオナール」
名を呼ばれる。
柔らかな声音。
「生きてくださいね」
不意打ちだった。
「……突然ですね」
「だって貴方、すぐ無茶をするでしょう?」
困ったように笑う。
「国も大切ですが……私は、貴方の方が大事です」
思考が止まる。
剣より鋭い。
政治より重い。
そんな言葉。
「……殿下」
「エリザベート、です」
「……エリザベート」
初めて、名で呼んだ。
彼女の目が、少しだけ見開かれる。
「貴女が隣にいるなら」
静かに告げる。
「私は、もう少しだけ強くなれそうだ」
風が吹いた。
花びらが舞う。
陽光が、二人を包む。
誰もいない庭園。
ただ、紅茶の香りと甘い空気だけが満ちている。
「……来年も」
エリザベートが言う。
「再来年も」
そっと指が触れる。
「ずっと、こうして祝わせてくださいね」
レオナールは小さく笑った。
「……ええ。約束しましょう」
その日。
帝国最強と呼ばれた宰相は。
たった一人の女性の前でだけ、
ただの、幸せな新婚の夫だった。
――そしてその甘さは。
時を越えて、別の人生でも繰り返されることになる。




