第七十八話:甘い紅茶は、ただ一人のために
帝城の回廊は、嫌になるほど長い。
磨き上げられた床。
等間隔に並ぶ柱。
無駄に豪奢な装飾。
(……歩きにくい)
レオナールは内心で舌打ちした。
子爵家出身。
成り上がり。
平民上がりの官僚。
陰ではいくらでも好きに呼ばれている。
――泥靴宰相。
――血塗れの理性屋。
――王の犬。
今日も、背中に刺さる視線が痛い。
「……」
だが足は止めない。
止まれば負けだ。
俯けば、付け込まれる。
ただ前だけを見る。
それだけで、この城を生き延びてきた。
◆
「――宰相閣下」
甘い声が、廊下に落ちた。
レオナールは反射的に警戒する。
振り向く。
白いドレス。
金の髪。
光そのもののような微笑。
王の妹。
第一王女、エリザベート。
(……最悪だ)
貴族の頂点中の頂点。
最も関わってはいけない相手。
即座に跪く。
「王女殿下。御身に栄光を」
「堅苦しいのはやめてください」
「しかし」
「立って」
命令口調ではない。
お願いみたいな声音。
それが余計にやりにくい。
仕方なく立つ。
「……何用でしょうか」
「お茶に誘いに来ました」
「……は?」
素の声が出た。
「お茶、です」
「私が?」
「ええ」
「なぜ」
「……駄目ですか?」
上目遣い。
ずるい。
(意味が分からん)
王女が。
この国で最も尊い存在が。
なぜ、自分なんかを。
「……私のような者が隣に座れば、殿下の品位に傷がつきます」
「つきません」
即答。
「あなたはこの国で一番忙しい人です。だから捕まえるのが大変でした」
「捕まえる……?」
「三日追いかけました」
「なぜ」
「会いたかったから」
意味が分からん。
本当に意味が分からん。
◆
半ば強制的に連れて行かれた庭園の東屋。
用意されたのは紅茶。
そして。
やたら甘い匂い。
「……これは」
「ロイヤルミルクティーです」
「……砂糖が」
「はい。たくさん入れました」
「……」
明らかに入れすぎだ。
色がほぼベージュ。
甘味の暴力。
「閣下、甘い物お好きでしょう?」
「……なぜ」
「この前、厨房でお菓子をじっと見てました」
「見てない」
「見てました」
「……」
「でも、人前では絶対食べませんよね」
言葉に詰まる。
図星だった。
「……威厳が、崩れますので」
「威厳なんて、私の前では要りません」
さらりと言う。
「私は、あなたの部下でも国民でもありません」
カップを差し出される。
「ただの、エリザベートです」
「……」
「好きなもの、好きって言ってください」
「……」
「誰も、笑いません」
沈黙。
やがて。
そっと、一口。
「……甘……」
思わず漏れた声。
エリザベートが、ぱっと笑う。
花が咲くみたいに。
「美味しい?」
「……悪くない」
「ふふ」
それが、妙に嬉しそうで。
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
◆
「閣下」
「……はい」
「私、あなたと結婚したいです」
ぶふっ。
紅茶を吹いた。
「な、な、なにを」
「兄上にはもう言いました」
「待て」
「あなたの地位を確固たるものにするため、と説明しました」
「待て」
「政略結婚です」
「待てと言っている!!!」
息が切れる。
この人は。
とんでもない爆弾を笑顔で投げる。
「……なぜ、そこまで」
「決まってるでしょう」
エリザベートは、首を傾げた。
当たり前みたいに。
「好きだからです」
「……」
「あなたが、好きだから」
迷いゼロ。
真っ直ぐ。
まるで子供みたいに純粋。
「……私は、あなたに何も返せません」
「隣にいてくれれば十分です」
「……命を落とすかもしれない」
「一緒なら平気です」
「……」
「あなたが一人で戦うの、もう見ていられない」
その言葉だけが。
胸に刺さった。
(……一人)
ずっと。
ずっと一人で戦ってきた。
そう思っていた。
「……」
気付けば。
手が、触れていた。
白い指先。
温かい。
「……甘い物は」
「はい?」
「……もう少し、甘くてもいい」
エリザベートが目を丸くする。
それから。
泣きそうなくらい嬉しそうに笑った。
「はい、旦那様」
「まだ違う」
「すぐそうなります」
強い。
この王女は。
誰よりも強い。
(……勝てないな)
生まれて初めて、そう思った。
理でも剣でもなく。
ただ、心で。
◆
その日から。
彼の机には、必ず甘い紅茶が置かれるようになった。
誰にも言えない。
二人だけの、秘密の味だった。




