第七十七話:甘さは、記憶の鍵になる
宰相府の夜は、静かだ。
夜更けになればなるほど、人の声は減り、紙の擦れる音と、ペン先が走る音だけが残る。
宰相レオナール・ヴァイスは、机に積まれた書類を淡々と片付けていた。
炎のような情勢も、氷のような政争も、結局はこの紙の上に帰結する。
剣よりも、火薬よりも、言葉が国を殺す。
無糖の茶が、いつも通り机の端に置かれた。
彼は視線だけを向ける。
そして、ほんのわずかに眉を動かした。
湯気。
香り。
それから──甘い匂い。
「……これは」
無糖茶ではなかった。
濃い乳と茶葉の香りに、砂糖が遠慮なく溶け込んだ香り。
扉の方から、柔らかな足音がする。
「お疲れさま、レオナール」
その声に、胸の奥が小さく揺れた。
彼の妻──エリザベートが、当たり前のように部屋へ入ってくる。
夜更けに相応しくない、春のような匂いを連れて。
彼女はカップをもう一つ置き、何も言わずに椅子へ腰掛けた。
そして、小さな皿を机の中央へ滑らせる。
イチゴのショートケーキ。
生クリームは雪のように白く、イチゴは宝石のように赤い。
「……何のつもりだ」
レオナールは、平静を装った。
声も、表情も、いつも通りに。
エリザベートは、あっさり笑った。
「誕生日でしょう」
「……誰が言った」
「私が覚えているだけで十分です」
淡々とした返しが、やけに強かった。
レオナールは目を伏せる。
誕生日。
生まれた日。
そんなものを祝う余裕は、彼の人生にはなかった。
子爵家の出で、身分が低いと陰口を叩かれ続けた。
頭が良い、それだけで足を引っ張られ続けた。
宰相になってなお、貴族たちは彼の出自を槍にして突いてくる。
祝われる資格などない。
祝われていい人間などではない。
「……無駄だ。甘いものなど」
言いかけたところで、扉が控えめに叩かれた。
「入るぞ、宰相」
王の声だった。
扉が開き、王が顔を出す。
疲れの滲む瞳のくせに、今日は妙に愉快そうだ。
王は室内の様子を見て、軽く肩をすくめた。
「やはりここか。お前は誕生日だろうが何だろうが、仕事をしていると思った」
「……陛下」
レオナールが立とうとすると、王は手を振って止めた。
「いい。立つな。今日は儀礼の日ではない」
王は小さな箱を机に置いた。
中身は、同じくショートケーキだった。
「エリザベートに言われてな。『宰相の機嫌が少しでも良くなれば国益です』と」
「言いました」
エリザベートが真顔で頷く。
「俺の妹は、いつからそんな現実的な脅迫をする女になった」
「最初からです」
あっさり。
王は吹き出し、レオナールはほんの少しだけ目を細めた。
笑っているわけではない。
ただ、息が楽になっただけだ。
エリザベートはロイヤルミルクティーのカップを彼の方へ寄せる。
「砂糖、入れました」
「……入れすぎだ」
「今日だけは、甘えてください」
その言葉が、胸の奥を叩いた。
甘える。
彼が最も不得手な行為。
王が腕を組み、低い声で言う。
「宰相。今日くらいは、国のために休め。お前が倒れれば国は混乱する」
「脅迫ですか」
「正当な国益だ」
エリザベートが、ケーキ用のフォークをそっと差し出す。
「あなたが生まれてきてくれて、良かった」
レオナールの指が、一瞬止まった。
言葉は出ない。
喉が、熱い。
彼は視線を逸らし、フォークを受け取る。
「……余計なことを言うな」
エリザベートは笑った。
王も、笑った。
その夜だけは、宰相府の空気が少しだけ柔らかかった。
◆
「……はは」
記憶は、いつも突然だ。
今世の空気。
今世の光。
そして、今世の自分の身体のはずなのに。
ルカ・ヴァレンティンは、厨房の前で小さく笑ってしまった。
(それだけは、変わらねぇんだな)
自分が今、手にしているのは。
真っ白な生クリームに、赤いイチゴが乗ったショートケーキ。
そして、濃い茶の香りのするロイヤルミルクティー。
砂糖は、遠慮なく。
自分の好みではない。
だが、あの人の好みだ。
(……そうだった)
(お前は、こういうのが好きだった)
ルカは、息を吐く。
胸の奥に引っ掛かるものがある。
割り切っている。
自分は自分で、エリザベートはエリザベート。
そう言い聞かせている。
それでも、どうしても──
今世のリディアに、惹かれてしまう自分がいる。
だからこそ、今日は、少しだけ。
彼女に、甘いものを渡したいと思った。
◆
宰相府の執務室。
リディア・アルヴェーヌは、書類の束に囲まれていた。
宰相としての顔。
政治学院で鍛え上げた理性。
それらを鎧にして、淡々と処理している。
だが、ほんのわずかに。
眉間が、いつもより険しい。
「……疲れているのです」
誰に言うでもなく呟く。
扉が叩かれた。
「入るぞ」
ルカの声だった。
リディアが顔を上げると、彼は両手に荷物を持っていた。
箱。
カップ。
そして、甘い匂い。
リディアが目を瞬いた。
「……ルカ? それは」
「差し入れ」
短い答え。
いつも通りの無愛想。
ルカは机の端へ箱を置き、カップをそっと並べた。
カップの中身は、濃い茶色。
湯気が立っている。
「……ロイヤルミルクティー?」
「そう」
「砂糖の匂いがします」
「するだろうな」
ルカは、箱の蓋を開ける。
イチゴのショートケーキ。
真っ白な生クリーム。
艶やかな赤。
リディアの目が、わずかに輝いた。
だが、すぐにいつもの顔に戻ろうとする。
「……甘すぎるのではありませんか」
「甘いの好きだろ」
即答。
リディアが固まった。
「なぜ……それを」
ルカは、ほんの一瞬だけ視線を逸らす。
言えない。
前世の記憶を、ここで全部話すには、まだ早い。
だから、雑に誤魔化す。
「……なんとなく」
リディアは数秒、彼を見つめて。
そして、観念したようにフォークを手に取った。
「……いただきます」
一口。
生クリームの甘さが広がる。
リディアの頬が、ほんの少しだけ緩んだ。
それを見た瞬間、ルカの胸が勝手に静かになる。
(そうだ)
(そういう顔だ)
ルカは、咳払いをしてから言った。
「リディア」
「はい?」
「誕生日、おめでとう」
リディアが、瞬きをした。
それから、ほんの少しだけ。
困ったように笑う。
「……ありがとうございます、ルカ」
その声が、やけに柔らかかった。
◆
「……面白くない」
低い声が、執務室の空気を切った。
リディアがフォークを止める。
ルカが顔を上げる。
扉の前に立っていたのは、アラン・セリーヌ・アスティリア。
王太子である。
灰青の瞳が、静かに燃えていた。
「殿下」
リディアが立とうとすると、アランは手を上げて止める。
「座っていてくれ。今、私は非常に理性的に話している」
「理性的?」
ルカが眉をひそめる。
アランは机の上のケーキとミルクティーを見て、ゆっくり息を吸った。
「……私は聞いていない」
「何をだよ」
「リディアの誕生日を、ルカが先に祝うという事実をだ」
「事実って何だよ」
「事実だろう」
真顔で言い切るな。
リディアが小さく咳払いをする。
「殿下、誕生日は祝うものです。誰が先でも」
「違う」
アランが即答した。
「私は、王太子として、国家として、祝う準備をしていた」
「国家として?」
ルカが嫌な予感に顔をしかめる。
アランは、胸を張る。
「祝賀の花。祝砲。祝宴。議会の承認。式次第。全て用意してある」
「待て待て待て待て」
ルカが手を出して止めようとする。
「誕生日に議会の承認って何だよ」
「必要だ」
「何が必要なんだよ!」
アランの視線が、ケーキへ落ちる。
「その程度のケーキで満足するのか?」
「程度って言うな!」
「私は、王宮専属菓子職人を呼んだ」
リディアが嫌そうな顔になった。
「殿下、私は甘いものは……」
「好きだろう」
アランが即答した。
リディアが固まる。
ルカが横を向いた。
(……おい)
(なんで知ってんだよ)
(俺の専売特許じゃなかったのかよ)
アランはさらに続ける。
「特大のケーキにする。苺も、砂糖も、クリームも、国庫が許す限り」
「国庫をケーキに使うな!」
ルカのツッコミが響いた瞬間。
扉の向こうが、騒がしくなった。
「陛下……じゃない、殿下! 本当に花火を……」
「祝砲の許可はどこへ……」
「議会の招集状はもう出してしまいました……!」
側近たちの悲鳴が聞こえる。
リディアは頭を抱えた。
「……殿下」
「うむ。今日という日は重要だ。宰相の誕生日は国の祝日とする」
「しないでください」
即答。
ルカも即答。
「マジでやめろ!」
アランは、灰青の瞳を細める。
そして、静かに宣言する。
「対抗する」
「対抗って何だよ!!」
リディアがフォークを置き、淡々と言った。
「殿下。対抗するなら、まず執務を終えてからにしてください。祝宴の前に予算審議が必要です」
「……宰相らしい指摘だ」
「褒めてません」
ルカが机に突っ伏した。
「なんで誕生日が戦争になってんだよ……」
リディアは、ミルクティーを一口飲んだ。
甘い。
懐かしいほど甘い。
彼女は、ほんの少しだけ目を細める。
「……美味しいです」
その一言に、ルカの胸がふっと軽くなる。
そして、アランの表情がさらに険しくなる。
「……今のは」
「はい?」
「私の前で、そのような顔をするのは反則だ」
「何の話ですか」
「反則だ」
王太子は、真剣だった。
◆
その日の宰相府は、なぜか花で埋まりかけた。
なぜか議会の一部が動きかけた。
なぜか王宮から特大ケーキの運搬計画が提出された。
そして、ルカはただ一人、思った。
(……誕生日って)
(こんなに面倒だったか)
リディアは甘いココアではなく、ロイヤルミルクティーを飲みながら、
ほんの少しだけ柔らかい顔で笑っていた。
それだけで、今日は、十分だった。
七十七話です。
そして私事ですが、本日、作者の誕生日です。
まさか自分の誕生日に、自分の小説の更新が重なるとは思っていませんでした。
なんだこの奇跡。運命か? バグか??
せっかくなので、今回は「甘い回」にしました。
前世ではエリザベートがレオナールを甘やかし、
今世ではルカが無自覚に同じことをしている。
書きながら「うわぁ……尊……」ってなってました。
作者が一番ダメージ受けてます。
あとアラン。
お前はなんで誕生日ひとつで国家を動かすんだ。
でも、にど恋らしいのでヨシ!
こうしてまた一話、積み重ねられたことが嬉しいです。
ここまで読んでくださっている皆さま、本当にありがとうございます。
これからも甘かったり、政治したり、爆発したり、尊厳が虚数になったりしますが、
どうぞ末永くお付き合いください。
そしてリディアも、作者も、誕生日おめでとう。




