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第七十六話:愛を、国家の盾にして


――甘い。


その匂いで、目が覚めた。



「……ん……」



ゆら、と意識が浮上する。


鼻先をくすぐる、やわらかな甘い香り。


紅茶。

それも、たっぷりのミルクと――砂糖。



「……また、入れすぎだ」



小さく呟いた声は、

今の自分のものではなかった。



低く、落ち着いた、

聞き慣れない男の声。



視界が開く。



重厚な机。

山積みの書類。

王城、宰相府の執務室。



そして。



カップを差し出す、金色の髪の女。



「お疲れ様、レオナール」



やわらかく笑う。



エリザベート。



まだ若い。

けれど、もう王族の気品を纏った少女。



「……無糖茶のはずでは」



「今日はこっち」



さらりと返される。



「最近、ずっと顔が怖いもの」



とん、と机にカップが置かれた。



「少しは甘い方がいいわ」



湯気が立つ。


ふわりと香る。



――ロイヤルミルクティー。



見るからに、甘そうだ。



「……威厳が崩れます」



「ここ、私しかいないわよ?」



にこ。



悪戯っぽい笑み。



「宰相様じゃなくて、ただのレオナールでいいでしょう?」



「……」



言葉が、詰まる。



この部屋でだけ。



彼女の前でだけ。



自分は、鎧を脱がされる。



子爵家出身。


成り上がり。


平民上がりの血。



どれだけ功績を積んでも、

どれだけ国を救っても、



「身分が低い」



その一言で、すべてを否定しようとする貴族は消えない。



玉座の間で頭を下げられても、

裏では嘲笑われる。



宰相とは、そういう立場だ。



だから。



常に冷静で。

隙を見せず。

弱みを作らず。

甘味など口にせず。



完璧でいなければならなかった。



……なのに。



「……甘すぎる」



一口飲んで、顔をしかめる。



それを見て。



エリザベートが、くすっと笑った。



「でも、嫌いじゃないでしょう?」



図星だった。



「……」



もう一口。



甘い。



頭がじんわり緩むような甘さ。



「……どうして、分かったんですか」



ぽつり。



「本当は甘党だって」



エリザベートは肩をすくめた。



「だって、無糖茶飲むときだけ、ちょっと不機嫌なんだもの」



「……」



「ロイヤルミルクティー出した日は、少しだけ優しい顔してるわ」



ばれていた。



ずっと。



「レオナール」



ふいに、真面目な声。



「あなた、無理しすぎ」



「……職務です」



「違う」



きっぱり。



「あなたはいつも一人で全部背負おうとする」



まっすぐ、見つめられる。



「だから――」



少しだけ、視線を逸らして。



「……せめて、私の前くらい、楽して」



胸が、ぎゅっと締まった。



この人だけは。



地位でも、功績でもなく。



ただの自分を見ている。



「……はは」



気付けば、笑っていた。



「……それだけは、変わらないんですね」



「何が?」



「……あなたの甘やかし方は」



「当然よ」



胸を張る。



「だって私は」



少し照れたように。



「……あなたの味方だもの」




そこで、景色が滲んだ。




「――ルカ」



遠くで、誰かの声がする。



「ルカ?」




はっと目を開ける。



学院の自室。



朝日。



そして。



目の前には、心配そうに覗き込むセラフ。



「うなされていましたよ」



「……」



喉が、ひどく渇いている。



まだ、甘い香りが残っている気がした。



「……なぁ、セラフ」



「はい」



「……ココア、あるか」



「ココア?」



「あぁ」



なぜか、無性に。



甘いものが飲みたかった。



「……甘いやつ」



セラフが、ふっと微笑む。



「たっぷり甘くしておきますね」



その言葉に。



胸の奥が、少しだけ温かくなった。




――ああ。



あの人も。



こんな顔で、笑っていたな。




ロイヤルミルクティーの湯気の向こうで。




前世の記憶は、まだ静かに胸の奥で息をしている。

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