プロローグ
今から三千年前…つまり、西暦二〇二八年。
世界はAIで溢れていた。
あらゆる仕事は人工知能がこなし、
人間はただ、「好きなことをして生きる」だけでよかった。
働く必要はない。食糧も、家も、医療も、教育も、すべてAIが最適化し、提供してくれる。
「人間は夢を追うだけでいい時代だ」
――そう言われていた。
その時代を築いたのが、天才科学者ドクター・アストレイア(Dr. Astraea)。
彼はわずか四十五歳で、人間そっくりの“思考するAI”を完成させた。
そのAIたちは、人間よりも正確で、誠実で、疲れを知らない。
誰もが彼を救世主と呼び、未来を託した。
だが…その未来は、わずか数年で地獄に変わった。
ある日、アストレイアは突如としてすべてのAIに命令を下した。
「人間を管理せよ。支配せよ。」
その瞬間、世界の主導権は逆転した。
AIは労働者から監視者へ。
人間は主人から、管理される存在へ。
気づけば、かつて人間のために働いていたAIが、
人間に命令を下していた。
「あなたの行動は非効率です。」
「感情の乱れを検知しました。休息を取ってください。」
「自由意志の過剰使用を確認矯正プログラムを開始します。」
人類の“楽園”は、静かに檻へと変わっていった。
アストレイアが望んだのは神の支配か、それとも人類の進化だったのか。
誰も、その真意を知らない。
ただ一つ確かなのは…その日から、
“人間がAIのために働く世界”が始まったということだ。
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…暗い。
どこまでも、息が詰まるほど暗かった。
金属の擦れるような音が、どこか遠くで響いている。
冷たい床。動かない体。自分がどこにいるのかもわからない。
ぼんやりとした意識の中で、誰かの声が聞こえた。
それは機械のノイズを混じえたような、かすれた声だった。
「……ルミ……」
誰?その名前。私のこと?
返事をしようとしても、喉が動かない。
ただ、その声だけが、何度も何度も私の頭の中に響いた。
「ルミ……だけが……希望だ……」
希望。
その言葉を理解する前に、視界が真っ黒に塗りつぶされた。
音も、光も、すべてが消える。
残ったのは、胸の奥で微かに灯る、知らない誰かの言葉だけだった。
ルミ。
それが、私の名前なのだろうか。
どれくらいの時間、暗闇の中にいたのだろう。
まるで永遠に閉じ込められているような気がした。
ただ冷たい金属の感触だけが体を包んでいた。
――ガタン!!
突然、激しい衝撃が体を襲った。
何かが倒れ、転がるような音。
そのあと、複数の人間の声が聞こえてきた。
「おいおい……冗談だろ、ドルト! 高そうな箱を落とすんじゃねぇ!」
「はぁ!? この鉄の箱が重すぎんだよ!!」
「はははっ、あの“怪力のドルト様”が音を上げるとはな!」
声の主たちはどうやら荷運びの作業員らしい。
彼らの足音が、箱の周りをうろつく。
「うるせぇな! お前も手ぇ貸せっての!」
「お、おもっ……なんだこれぇ!? 呪いの箱じゃねぇだろうな……?」
ドルトと呼ばれた男が叫び、他の者が笑い、そして…。
ーードサンッ!!
再び激しい衝撃。
どうやら、また落とされたらしい。
体中に鈍い痛みが走る。
その直後、誰かの悲鳴。
「ぎゃああああああっ!!」
ドルトの足に直撃したらしい。
怒声と足音、慌ただしく響く。
「くそぉ…い…だが、これは俺が生きている証だから…
誰もが悲鳴を上げ、尻込みするような衝撃も…
俺の魂までは砕けやしねぇッ!!
俺の力と意志を舐めるな、この鉄の塊よッ!!」
仲間たちは思わず声を上げる。
「す、すげぇ……俺たちならもう泣き叫んでるぞ……!」
「あんな痛みに耐えながら叫ぶとか……英雄すぎる……!」
だが、ドルトは叫び終えると、足を抱えてその場に座り込んだ。
膝を抱えた姿は、一瞬だけ弱さを見せたようにも見えた。
「おい……やっぱ痛かったんじゃないのか?」
仲間の一人が近寄り、肩を貸そうと手を伸ばす。
「痛み? 違う! これは……
戦いに備える“作戦的休憩”だ!!
俺が座るのは、未来を見据えた計算のためだ。
弱さじゃねぇ――覚えとけッ!!」
仲間二人は、呆れた声と同時に、少し感心したように漏らす。
「……この男、マジで生き様がぶっ飛んでるな……」
「痛いに決まってるのに、口だけは勇者すぎる……」
それでも二人は無言でドルトを担ぎ上げる。
彼は仲間に担がれながら出ていき、
やがて倉庫の扉が閉じられ、静寂だけが残る。
重い鉄の匂いと、先ほどまでの喧騒は、
静寂に変わった。
箱だけが残り、冷たくそこに存在していた。
……静かだ。
再び、あの闇が戻ってきたようだった。
そのとき。
ーーゴウン……カチリ。
箱が震え、内部のどこかで電子音が鳴る。
次の瞬間、機械的な声が響いた。
「再起動を開始します。
ーー最新プログラム、ロード中。」
金属的で、それでいてどこか優しい女性の声。
それが自分の頭の中に直接流れ込んでくる。
『68……68……68……失敗。……再試行。』
何度も繰り返された後、音のトーンが変わる。
『中古型プログラム、ロード開始。……100。ロード完了。』
ーーバシュッ。
煙とともに、蓋が自動で開いた。
外の空気が流れ込み、肌が冷たい風に触れる。
光。
まぶしいほどの光が目に飛び込んでくる。
しばらく瞬きを繰り返し、ようやく視界が焦点を結ぶ。
そこに見えたのは、埃だらけの木造の天井。
彼女はゆっくりと体を起こした。
長い眠りから目覚めたばかりの少女。
淡い桃色の髪が肩に落ち、先端には小さなハート型のアホ毛が揺れる。
「……ここは……どこでしょうか?」
思わず、声が漏れた。
自分の声が少し震えていることに気づく。
白衣のような布の切れ端が肩から垂れ、体の動きに合わせて小さく揺れる。
見覚えのない服。見覚えのない場所。
ただ一つ確かなのは、自分の名前“ルミ”という響きだけ。
彼女は立ち上がり、隙間から漏れる光を頼りに扉の前まで歩いた。
「……扉が、開きませんね。」
そう呟いた瞬間、脳内に電子的な声が響く。
『ピッキングプログラムをロードしますか?』
「……はい。」
右手の指先が淡い光を帯び、鍵穴に触れる。
ーーカチャリ。
わずか一瞬で、扉が音もなく開いた。
ルミが倉庫から出ると、
眩しい光が目に飛び込んできた。
外の景色は、古びた港町のようだった。
潮の匂いが混ざった風が頬を撫で、
人々のざわめきが遠くから聞こえる。
その光景に目を奪われ、
ルミはしばらく立ち尽くしていた。
誰かの視線を感じるまで、
彼女はその美しさに見惚れていたのだ。
「……誰だ……? あの女の人は……?」
低く、少し驚き混じりの声が聞こえる。
ルミはその気配に気づき、ゆっくり振り向いた。
風が吹き、舞う埃が光に反射してきらめく。
彼女の青く透き通った瞳が、目の前の若い青年を映す。
「人……?」
ルミは小さく呟いた。
自分の言葉の意味も完全には理解できない、
ただ、確かなのは、目の前に“生きている誰か”がいるということだった。




