プロローグ「囚人番号:259461437221」
僕たちの革靴が、カツカツと硬質な音を刻む。
規則的に並ぶ檻の列。その中心を僕――朧木 晢と上司の二人だけが歩いていた。
薄暗い廊下には、埃と錆、そして幾層にも塗り固められた罪人たちの饐えた体臭がこびりついている。
ここは犯罪者の収容区画。鉄格子の奥から放たれる無数の視線は、もはや人間のものではない。飢えた獣のそれだ。犬の遠吠えにも似た卑屈なざわめきが足音にまとわりつき、逃げ場のない不協和音となって冷たいコンクリートに反響していた。
「囚人とバディを組むなんて、捜査の邪魔になるだけです」
数歩先にいる上司を追いかけながら、僕は連なる檻の塊を一瞥して不満をぶつけた。
鉄格子の隙間から、幾筋もの手が縋るように伸びてくる。それは天から垂れた糸を掴もうとする救いの手なのか、あるいは深淵に引きずり込もうとする爪なのか。
法を遵守し、秩序を執行する側の僕にはその判別すら忌まわしい。知る由もないし、知る必要もない。規律を乱した落伍者たちは、僕にとって一顧だにする価値もない「排除対象」に過ぎなかった。
「そう言うな、晢」
「ですが、犯罪者が外を歩くんですよ?」
上司の諫める言葉にも耳を貸さず、僕は食い下がる。
「なら誰がやる? 誰もなりたがらないからこの制度ができたんだぞ」
「そ、れは……」
「お前はまだ若い。だがそれ故に危ないところがある。だからここに配属されたんだ」
廊下の突き当たりには、さらに地下へ続く重厚な扉が据えられていた。
上司が手首につけているスマートバンド型の端末を操作すると、電子的な駆動音とともに強固なロックが解除される。
ゆっくりと開かれたその先には、底の見えない暗い階段が口を開けていた。
階段横につけられた小さな明かりを頼りに、僕たちは下へ降りていく。
一段、また一段と降りるにつれ、囚人たちの呻き声はやがて遠のき、代わりに僕たちの足音だけが冷たい空間に木霊し始める。
「……僕は執行官になりたかったわけじゃありません」
「そういうところが若いんだ。犯罪者を捕まえて市民を守る。それは執行官だって同じだろう? 違うか?」
「…………違いません」
二人の間に重苦しい沈黙が流れる。
陽の光すら届かない地の底。人工の光に照らされた階段を降りきると、その先に目的の囚人が収監されている区画の扉があった。
上司が立ち止まるのを見て、僕もそれに倣うように足を止めた。
(……こんな場所に人がいるのか)
いや、もはや人かどうかすらもわからない存在か。
目の前に聳え立つ威圧的な鉄扉を見上げる。先ほどまでの廊下で見た鉄格子とはわけが違うそれに圧倒された。
光も届かず、誰の声も聞こえない。食事も、外の空気を吸う権利も、自由な時間という概念すら存在しない場所。
一切の隙間なく密閉されたそれは、ただそこにあるだけで周囲の空気を圧迫していた。
まともに生きていれば、縁のない場所。
そんな罪人がこの扉の向こうにいると思うだけで、胸の奥がわずかにざわついた。
「いいか、晢。これは決定事項だ。捜査に先入観は捨てろ」
僕の心情を完全に見透かしたような低い声。上司は一度もこちらを振り返ることなく、扉を見据えたまま釘を刺した。
直後、静寂を切り裂くように扉の錠が次々と解除され、固く閉ざされていた鉄扉がゆっくりと開き始める。
ギィィ――ッと耳障りな金属音が薄暗い廊下に不気味に反響し、暗く閉ざされていた空間へ光が差し込んでいく。
僕は息を詰め、光の先を見据えた。
「変異囚とはいえ、元は人だ。くれぐれも平等に頼むぞ」
上司の言葉を背に、僕たちは一歩、踏み込む。
そこは高さだけが際立つ、色彩を剥ぎ取られたような狭隘な空間だった。
唯一あるのは、垂直な壁を蹴り登ったところで到底届きそうにない高所の小窓だけ。張り巡らされた鉄格子は、囚人が脱獄という空虚な夢を見ることさえ断固として許さない。
その閉ざされた薄暗がりの中心で、一人の男が背を向けて立っていた。
僕たちの足音が止まると男がゆっくりと振り返る。
口輪の奥で、ニィと薄気味悪く笑った。
「アンタが俺の飼い主?」
両手には手錠。口元を覆う口輪。首を締め上げるような分厚い首輪。そして一部が欠けた片耳には、バーコードのような耳飾り。
ありとあらゆる枷を嵌められたその姿は、異様としか言いようがなかった。
口輪の隙間から覗く、鋭利な犬歯。男がふいに首を傾げると、ジャラジャラと金属が擦れる音が重く響いた。
ありとあらゆる枷を嵌められたその姿は、異様としか言いようがなかった。
囚人番号:259461437221。
この男――レキが僕の監視対象だった。
この出会いがやがて僕の正義を揺るがすことになる。
その時の僕はまだ、知る由もなかった。




