『夢の始まり』・4
そう言うと女の子はびっくりしたのかその場から走り出し、真っ直ぐと伊吹の元へ向かい彼の高い膝の上へと登った。当たり前のように膝の上に座った童女の頭を、伊吹は慣れた手つきで撫でる。
誰かの子供だろうか。この中に既婚者らしき人は居ないが、まさかこの童女も珠吉や梢と同じ妖怪なのか。
「え、子供? 誰かの子供ですか?」
『座敷童子よ』
「え?」
テーブル席で静かに梢がケーキを食べながら言う。フォークを食器の上に置くと、ちらりと横目で夢月を見てから伊吹の膝の上でニコニコと笑っている童女を見つめた。
座敷童子って、あの座敷童子? 漫画やアニメなどで出てきがちの王道中の王道の妖怪。この小さな女の子がかの有名な座敷童子だと言うのか。
おかっぱ頭にピンクの着物を身にまとい、赤色の大きなリボンの帯を巻いている姿は確かに座敷童子と言われればそう見えなくもない。
猫又やろくろ首を見た後だからか、こうも一見妖怪とは思わない姿をしているとどうも勘違いを引き起こしてしまう。着物を着た小さな女の子など、いる場所によっては何ら違和感は無い。
所見でこの童女が座敷童子であると誰が気づけるだろうか。少なくとも夢月には無理な所業であった。
座敷童子は伊吹の膝の上に行儀よく座り、皿に並べられたクッキーを見て目を輝かせている。
先程の物欲しげな目も、夢月のスカートを引いたのもこのクッキーが欲しかったからなのだろうか。座敷童子とはいえ心は幼子のようである。
「食べますか?」
クッキーを一つ摘んで差し出してみる。座敷童子はビクッと身体を震わせると、恐る恐る夢月の顔を見た。
どこにでもいる普通の女の子、けれどその正体は座敷童子であるという。
座敷童子はクッキーと夢月の顔を交互に見つめ、やがてそっと小さな手で受け取った。
『あ、ありがとうございます。えっと』
「夢月です。如月夢月」
『とこよ、です。これ、ありがとうございます』
呂律の回らない口で必死に感謝を伝えようとする。紅潮する頬はぷにぷにとしていて愛らしい。思わず抱きしめたくなるほどの可愛さだ。さすがに初対面でそこまでする訳にはいかないけれど。
店内にいる他の客も彼女を知っているのか、とこよを見守る視線は温かい。この店の居心地の良さというのは、客同士の距離感にあるのだろう。暖かく見守る視線は近すぎず遠すぎずの関係を守っている。
座敷童子は伊吹の膝の上で、小さな口でせっせとクッキーを頬張る。その姿はなんとも可愛らしいものだ。
「ゆっくり食べなさい。誰も取らないから」
優しく神楽は座敷童子の頭を撫でた。クッキーを食べながら嬉しげに頬を綻ばせる。
神楽の座敷童子を見る目は愛おしげで、自分の妹を見ているようである。彼くらいの年ならば、座敷童子ほどの年代の子供はギリギリ娘として見られるかもしれない。流石に神楽に子供がいるようには見えないし、純粋に座敷童子の可愛さに表情を緩めているだけだろう。
伊吹の膝の上を陣取り、神楽に頭を撫でられている座敷童子自身、ここにいる者達にはよく懐いているようで警戒心もないようだ。満更でもなさそうな様子が返って座敷童子としての地位の高さを感じる。
「それにしても、ろくろ首に、猫又、座敷童子って。……ここは凄いですね」
当たり前のように会話をしているが、人間と妖怪が関わりを持っているこの店はやはり変わっている。この店に来るのは二回目だが、既に夢月の感覚は麻痺していた。当たり前のように珠吉と触れ合い、大人の女性として梢と関わる。
それがどれだけ非現実的なことなのか、こうしてこの店のことを考え始めてからやっと気がつくことだった。
生きる時代は違えど神楽と伊吹も同じ人間であるはず。マスターが“どちら”なのか今は分からないが、この不思議な店を営んでいるだけあって慣れているようである。
皆種族など関係ないというように、親しみを持っているようだ。人間と妖怪が楽しげに会話を交わす。夢かもしれないと思った瞬間もあったが、今なら思う。
これは夢ではなく現実であると。いや、今だからこそ思えるのだろう。
「妖怪だろうが人間だろうが、願いというものは誰にだってあるものです。もちろん、とこよさんからも願いはお聞きしましたしね」
そう言い、マスターはポケットから一つの飴を取り出す。それを座敷童子に差し出すと、とこよはにっこりと笑って受け取り、大事そうに懐へとしまった。
座敷童子改め、とこよは神楽達だけでなくもちろんマスターにも懐いているようだ。皆が親戚のように見えて少し羨ましい。決して伊吹の膝の上に乗りたいだとか、神楽に頭を撫でられたいだとかは思はないが、親しみを持って近い関係でいられる彼らがただただ羨ましいと感じる。
『ありがとうございます。……えへへ』
妖怪の願いとは一体どのようなものなのだろう。妖怪が願いを抱くことなどあるのかと思うところもあるが、こうして妖怪が存在していることをこの目で見てからならば、人間と同じように何かを願うこともあるのだろう。
少なからず、願いと言えど人間とかけ離れた考えを持っていそうなものだが。
そして何より、この店にいるということは、妖怪だけでなく隣りに座っている神楽や伊吹にも願いがあるということだろう。
どんな人にも願いがあり、縁があってここにいる。願いは叶えようとしなければ叶える事はできない。
では、夢月の願いとはなんだろう。
(願いなんて、考えたこともなかった……)
夢月だけではない。この店が存在していることすら知らない他の皆は、例えば華夏などは自分の願いに対してここれほどまでに深く考えたことがあるだろうか。
オカルトなど関係なく、自分の願いに真正面から向き合ったことなどこれまでに一度もなかったと言い切れる。
それくらい自身の願いに無頓着に生きてきた。それがこの店に訪れる前の夢月であった。
「気になりますか?」
他の皆には聞こえないよう、夢月に向かって小さな声でマスターは言う。その表情は優しく、きっと現代にいればモデルやらで引っ張りだこだろう。見た目の派手さからも、彼がいるだけでその場が明るく華やかになっている気がした。
この店に始めて来た時から思っていたが、マスターの声は不思議だ。聞いているだけで気分を落ち着かせてくれる。マスターの包み込むような優しさには、この店をこれほどまでに賑やかにさせる力があるのだろう。
凛としていて冷たく感じる声だが、よく聞くと柔らかく、かと言って弱くはなく芯を持った声をしている。
「はい。こんなに小さな子供もこのお店に来るものなんですね」
「そうですね。本当にどんな方でもお越しくださいます」
「妖怪とか、昔の人とか、でも皆願いを持っている。やっぱり人によって願いは変わるものなんだ」
「願いの中でも、特にとこよさんの願いは変わっていましたね」
「変わっていた?」
「ええ、とこよさんは『この店にやってくる人々に幸せが訪れますように』と願っていらっしゃいました」
マスターは夢月から視線を動かすと、座敷童子や神楽達の方を幸せそうな笑顔で見つめ始めた。家族以上の強い絆というものが彼らにはあるのだろうか。縁で巡り合わせられただけの関係、それが夢幻喫茶という場所を経てこんなにも強い縁で結ばれた。
夢月も同じように、マスターの眺める方向へ視線を動かす。一匹の猫又と一人の童女の姿をした妖怪、二人の軍人は楽しげに笑っている。
目の前に広がる光景はただ不思議であるのに、不審だとは思わない。居心地が良く、ずっと見ていたいとさえ思う。そして叶うならば、あの輪の中に自分も入ることができないだろうか。
店にやってきてまだ日が浅い夢月にとって、そんなこと烏滸がましくて到底できないが。
『いっぱい食べろー』
「こら、君が作ったわけじゃないだろう。君は遠慮を知りなさい」
我が物顔でクッキーを咥える珠吉を神楽が一蹴する。しゅんと項垂れた珠吉を神楽は苦笑を零しながら見つめ、渋々クッキーを一枚摘んで差し出した。
切り替えの速さは流石猫と言える。神楽に差し出されたクッキーに瞬時に飛びつくと、満足げに一口かじっていた。その様子を神楽は呆れた様子で見ている。
「美味いか?」
『美味しいですっ』
三人と一匹はワイワイと楽しげにしながら、夢月の作ったクッキーを楽しく美味しそうに食べていた。
その様子を見て夢月はふと思う。やっぱりこの人たちに贈ってよかったと。
今まで誰かにこうして作ったものを食べてもらうなんてことが無かったから、無性に嬉しいと感じる。
出会って間もないはずなのにこれほどまでに心を許しているのは、彼らが生きる時代など関係ないと思っているからなのか。素の性格が人と仲良くなりやすいからなのか。
彼らがどうであれ、店に漂う温かな空気はこの店ならではだろう。
「その願いは……もう叶ってますね」
「そのようですね」
『何話しているんだ?』
珠吉が興味津々の様子でテーブルの上を移動する。その身体をすかさずマスターが抱き上げた。
小さなふわふわの身体は簡単に持ち上げられ、はらりと毛が舞う。
「いえ、何も。ほらあまり動かないでください。毛が落ちますから」
『ふんなぁぁああああ! 我はただの猫じゃなぁぁぁぁぁあああいいい!』
「猫で無いなら、大人しくしてくださいね」
慣れた手つきで珠吉を抱えあげるマスターはとても幸せそうだ。その反面、不貞腐れた珠吉は何とも情けない声を上げている。
その様子を神楽は頬杖を付きながら笑って見守り、膝の上で座敷童子を抱える伊吹も微かに笑って見ていた。
神楽の言う通り、この店を愛しているからこそ笑顔が絶えないのだろう。
とても居心地の良い店だ。時空の狭間にあるというが、変わった客を除けば普通の喫茶店と変わらない。
人にとって喫茶店という親しみを持ちやすい場所に、彼らの温かさが合わさったからこんなにも居心地がいいと感じるのだろう。
「ずっと、ここにいたい……」
「いてくださってかまいませんよ?」
夢月の呟きを聞いたマスターがなんとも妖しい笑顔を浮かべて言った。そんなに分かりやすく声に出ていただろうか。
見れば、マスター以外にも神楽や伊吹、とこよに珠吉も夢月を見ている。その視線は決して責めているわけでも獲物をとらえるものでもなく、優しく嬉しげだ。
やはりこの店に来てよかった。もう何度そう考えたか分からない。それでも考えずにはいられなかった。
「この店は皆様の心の拠り所となる場所。気が済むまでここにいてくださって構いませんし、何度でも来てくださればいいです」
「……良かった。それなら、安心して明日も来れます。私、これから時間が許す限り毎日通いたいですから」
そう言ってやれば、マスターは整った顔をくしゃくしゃにして笑ってみせた。
皆の表情が笑顔に変わる。きっと、彼らも思いを抱いているはずだ。だから常連客になるくらい通っているに違いない。
ずっとこの時間が続けば。いつまでもこの時間が続けば。夢月は楽しげな彼らを見て密かにそう願った。