『夢の始まり』・3
朝の通学路を同じ学校の制服を身に纏った他の生徒達に紛れながら歩く。友達と登校している生徒達はやけに楽しげで、あちらこちらから笑い声が聞こえた。
昨日のあの店は現実だったのだろうか。店内もお客の顔も声も、カフェラテの味も全て鮮明に覚えている。だが外に出ると跡形もなく消えており、ただの空き家しか無かった。辺りを見渡そうが、その空き家の周りを探ろうが、喫茶店は初めから存在していなかったかのようにパタリと姿を消したのだ。
夢かもしれないと考えもしたが、どうもそうとは納得できない。あの店で飲んだラテも猫又もろくろ首も軍人も、皆この目で見て存在を感じた。
あれは誰が何と言おうと現実だ。夢で見た喫茶店は、本当に夢月の目の前に現れたのだ。華夏の話の通り、正夢になったのだ。
(昨日は、楽しかったな)
また行けるようにとただ願うだけ。一度手繰り寄せた出会いはそう簡単に途切れるものでは無い。この出会いは少しづつ夢月にとってかけがえのないものへと移り変ってゆくのだろう。
「夢ちゃん、おはよう」
「おはよ、華夏」
不意に肩を叩かれ振り返ると、そこには高校に入る前からの付き合いになる親友の華夏がいた。楽しげに笑う彼女の笑顔はいつでも花のように明るい。
何度この笑顔に救われてきたのか、もう数え切れないほどだ。華夏は朝から元気そうで、夢月の顔を見るなりニヤニヤと笑っている。
「なんだか嬉しそうだね。いいことでもあった?」
幼さが残る笑顔を浮かべ、夢月の横にピッタリと着ついた。肩と肩がぶつかり、互いに身体がよろめく。
嬉しいことといえば、この間華夏に話した喫茶店のことだろう。あの話をした日の放課後、夢月の目の前にその喫茶店は現れた。そしてその喫茶店でありえない存在を目の当たりにする。そんな経験を夢月はつい昨日したのだ。まさか本当に正夢になったと言って、彼女は信じるだろうか。いや、華夏なら信じるかもしれない。
オカルト好きの華夏ならば、目を輝かせて話に聞き入ることだろう。非現実的な話にも乗り気で聞いてくれる華夏は良い友人だ。普段からオカルト話を聞かされるが、そのどれもが新鮮で飽きることを知らない。彼女と話している時間が好きなのだ。
でもあの店は自分だけの秘密にしたい。決してあの喫茶店が夢月のものであるという訳では無い。夢で見て縁があって訪れることが出来た。ただそれだけだとしても、ほんの少しあの店で過ごした時間が何よりも楽しかったのだ。
マスターの物腰柔らかな接し方も、珠吉のマスコットのような癒しも、神楽の大人の余裕も、店の暖かな雰囲気も、全てが愛おしい。
神楽が「この店を愛している」と言った理由が、たった数時間滞在しただけで分かった気がするくらいだ。
だから今はまだ自分だけの秘密にしていたい。華夏にも縁があってあの店にやってくることもあるのかもしれないが、それまではどうか夢月だけの心の拠り所として胸の奥に秘めていたい。なんて我が儘かもしれないけど。
「そうかなあー、特にこれといった出来事はなかったけど」
「本当にー? 何か隠し事してるでしょ」
「本当にないったら。ほら、早くしないと遅刻するよ」
「夢ちゃんのケチ」
華夏は悪態を着きながら分かりやすく肩を落として見せた。大して気にしていないように見えるが、こんな小さな嘘をつくだけでも胸の奥がチクリと痛む。
夢幻喫茶のことがバレそうだとかそういった懸念ではなく、ただ華夏に対して平気で嘘を吐いてしまった自分に対して蔑みを感じたのだ。
きっとこれまでも多くの嘘を吐いてきた。そしてこれからも嘘を吐き続ける。相手が華夏であろうと、夢幻喫茶の面々であってもそれは変わらない。
学校の門を潜るまで、自分で吐いた嘘が頭の中でぐるぐると駆け巡っていた。
近頃、一日の進みがやけに早いと感じる。朝起きて学校に行くまでは飽き飽きとするほど長く感じるのに、昼休みを乗り越えるとすぐに放課後になる。それくらい時間の進みが早い。
「今日一緒に帰れる?」
そして放課後。終礼終わりに荷物を整理していると、鞄を背負った華夏が夢月の席に来るなり言った。
「あー、ごめん。今日はこの後寄りたいところがあるから先帰ってて」
「そっかあ、分かった。それじゃまた明日」
「うん、またねー」
華夏が別のクラスメイトの元へ行ったのを確認すると、鞄の中を漁りクッキーの詰め合わせを取り出す。
昨日の晩、無性に何かを作りたくなってクッキーを焼いた。久々のお菓子作りだが、人に渡すことを目標にしたからかそれなりに上手くできたと思う。こうして綺麗に包んだのはあの店のみんなに食べてもらいたい、一緒に食べたいと思ったからだ。
誰かと共に自分の作ったものを口にする。夢月はそんな小さな夢を昔から抱いていたのだ。
(喜んでくれるかな……)
まだ出会って間もない彼らに、こうして何かをあげたいと思ってしまうのは気が早いだろうか。
でもあの人達なら、と思ってしまう。きっと、あの人達なら喜んでくれるだろう。出会って間もないというのに何故かそんな自信が夢月にはあった。
お菓子の包みを丁寧に鞄の中にしまい、肩に担ぐと逃げるように教室を出てそのまま早足で学校を後にした。
昨日と同じ道を同じ時間帯に歩く。夕方の商店街にはまだまだ人が多い。学校帰りの小学生達が精肉店の店主に出来たてのコロッケを貰っている様子を見て、夢月の腹が空腹を訴えた。
そんなのどかで変わらない風景を流し目で見ながら、ある場所を目指して歩き続けた。
一本人気の少ない路地に入る。時間的に建ち並ぶスナックは開店していない。夜の賑やかさは当然今の夕方にはなく、しんと静まり返った路地を夢月は一人歩いた。
カラン。
遠くで鐘の音が鳴る。昨日も聞いたあの音だ。
カランカラン。
「良かった」
昨日と全く同じ場所にあの喫茶店はあった。思わず惚けた声が漏れる。
変わらない見た目に安堵し、今日は自分で扉を開き中に入った。中に入ると変わらず香り豊かなコーヒーの匂いが立ち込めている。
カウンターに立つマスターが夢月を見るなりふうわりと微笑んだ。
「おいでませ、夢幻喫茶へ」
「こんにちは」
カウンター席に座ると珠吉がテーブルの上にちょこんと座り、梢も首を伸ばして近くに寄ってくる。
すっかり妖怪に好かれたなと心の中で呟いた。霊感だとかいう体質が自分にあるわけではないし、単純にこの妖怪達に目をつけられたのだろう。
別段不快に感じるわけではないし、むしろ心地よく感じるのだからつくづくこの店は不思議である。
「何に致しましょう」
「カフェラテお願いします」
夢月は慣れた調子で、すっかり気に入った昨日と同じカフェラテを注文する。微笑みを崩さないマスターは、慣れた手つきでカフェラテを入れ始めた。待っている間手持ち無沙汰になり、不意にカウンター席の端っこを見ると、昨日はそこにいたはずの人物が居ないことに気がつく。
誰も座っていない席を見つめながら、無意識のうちにその問いを口にしていた。
「神楽さんは?」
『あの小僧は……。早く来る日もあれば、遅い日もあるのよ……』
何処か気だるげに梢が答える。喜んでいるようにもつまらないと口をとがらせているようにも見える表情で、彼女もカウンター端の席を見た。あれだけ喧嘩腰で接していたが、実際にいないといないでつまらないのだろう。
喧嘩するほど仲が良い、そんな言葉が頭の中に浮かんだが、彼女に言えばその首で締め上げられそうである。一人悶々と呑気に考えていると、店の出入り口である扉が揺れ動いた。
カランカラン。
『噂をすれば来たわね』
扉が開くと同時に梢が夢月の耳元で呟く。その声に反応して夢月も入口の方に目をやった。
店の扉の向こうから二人の軍人が入ってくる。一人は昨日名前を聞いた神楽という男。もう一人は神楽と同じ服装をしているが面識がない。やけに不機嫌そうな仏頂面で、体格は神楽よりも大きい。
「お、本当に今日も来たんだね」
「こんにちは、神楽さん」
神楽は真っ直ぐ夢月の隣に座り、もう一人はじっと夢月を見つめている。
自分よりもうんと背の高い男に見つめられることなど今までに無い。顔に傷のある三白眼の強面も男と見つめ合いながら、夢月は微かに恐怖を覚えた。
「この娘は……」
その人物はしばらくその場に立ち止まる。優しい神楽の声とは違う低く冷たい機械のような声でぽつりと呟いた。
怯えている夢月に気がついたらしい神楽が男を宥めるように微笑みを向ける。
「そう睨みつけるなよ。その娘はびっくりすると固まるから」
そう言われ、無意識に固まってしまっていたことに気づきびくりと身体を震わせた。
男も同時に身体の硬直を取り、夢月と真っ直ぐと目を合わせる。そんな二人の様子を神楽はくすくすと笑いながら見ている。仲介に入るなりしてくれてもいいんじゃないかと心の中で悪態をつきながらも、強面の男から目を離せないでいた。
「っ! し、失礼」
男は軍帽の庇を摘み、深く被り直した。その仕草は緩んだ表情を隠すためだったのだろう。
夢月とは反対の神楽の隣に座り、神楽と自分との間の机に軍刀を立て掛けた。初めて間近で見る刀は鞘に入っていても威厳を感じる。
『久しいな』
珠吉が神楽ともう一人の軍人の間に座って、軍人に向かって言った。
軍人は珠吉とも面識があるらしく、慣れた様子で珠吉の頭を撫でた。満更でも無い様子の珠吉は耳を垂らし、うっとりと頭を男の手に擦り付ける。
「ああ」
「最近忙しかったからねぇ。鍛錬もいいがそろそろ身体を壊してしまうよ」
「またそんな事を言いやがって、お前は適当すぎるんだ。もう少し真面目にだな……」
「伊吹さん、初めてのお客様ですよ」
マスターの声に伊吹と呼ばれた軍人は、夢月のことを神楽を挟んで見た。何度もこうして目が合っているが、どうにも慣れない。それは夢月だけでなくこの男もそのようで、神楽が間にいなければ目でさえも合わせられないのだろう。
だが案外男は冷静に夢月と目を合わせた。初めの不器用な一面はどこへやら、今はただの少し強面な青年である。
「ああ、申し遅れた。俺は伊吹海以、こいつの同僚だ」
「き、如月夢月です」
ぎこちない自己紹介を終えると、伊吹と名乗った男は一つ頷きふいっと顔を背けてしまった。不器用なのか無愛想なのか、はたまたその両方なのか、神楽と同じで彼もまた何を考えているのか分からない。
出会って間もないというのにそう考えるのもおかしな話だが。
「カフェラテです」
マスターの声がなんとも言えない雰囲気を打ち壊す。目の前に出されたカフェラテは昨日とは違うアートが施されている。一体幾つレパートリーがあるのかと少し期待してしまう。これは何度も通って全デザインを制覇したいものだ。
「マスター、いつもの頂けるかい?」
「はい、少々お待ち下さい。伊吹さんは何に致しましょう」
「コーヒーを頼む」
温かいカフェラテに口を付けながら彼らの会話を隣で聞いていると、そこでようやくクッキーのことを思い出した。突然鞄の中を漁り始めた夢月を神楽は隣で不思議そうに見ている。
取り出した包みの中には、多種多様の手作りクッキーが入っている。妖怪や過去の人間である彼らの口に合うのかは分からないが、食べて貰えなければ分かるものも分からない。
「あっ、あの、これ良かったら、食べてください」
意を決してマスターに包みを差し出す。マスターは一瞬驚いた顔をしてから、微笑んでそっと包みを受け取った。
「これは、クッキーですか。ふふ、ありがとうございます」
マスターは受け取ると小皿を取り出し、綺麗に並べる。こうして綺麗に並べると、それなりに良く見える。皿のデザインが洒落ているのが大きな理由だろう。
テーブルに置かれるや否や珠吉が飛びつこうとしたが、伊吹が鷲掴みにしてそれを止めた。ジタバタと暴れる珠吉をものともせず、仏頂面の伊吹は猫又の身体を両手の中にすっぽりと収めた。
「とてもいいものだね。手作りかい?」
「はい」
「夢月さんは菓子作りがお好きなのですか?」
「ま、まあ、簡単なものならそれなりには」
皆が一つずつクッキーに手を伸ばし、口に運び出す。その様子をまじまじと見つめながら、夢月は彼らの反応を待った。
少し経つと皆は嫌な顔一つせず、表情を綻ばせ始めた。一応作った時に味見はしたがそれでも他人に贈るとなると心配になるもの。
度が彼らの反応を見るからに味は大丈夫なのだろう。大丈夫どころか随分ときに行ってくれた様子でもある。
「美味しいですか?」
恐る恐る聞いてみる。ドクドクと心臓が脈打ち、いつ以来感じたのか分からない緊張が身体を縛り上げた。
だがそんな緊張など杞憂だったようで、クッキーを頬張った珠吉はぱあっと表情を明るくする。
『すっごく美味いぞ!』
珠吉がケラケラと笑いながら言う。猫だと言うのにクッキーを食べて大丈夫なのか時になったが、妖怪なのだからそこら辺は大丈夫なのだろう。妖怪とはなんとも便利な存在だ。
「昨日の晩、思いつきで作ったのでちょっと心配だったんですけど、喜んでもらえて良かったです」
そんなことを言っていると、何者かにスカートの裾を引っ張られている感覚を感じ、ふと足元に視線を落とした。
足元を見ると小さな女の子が、こちらを物欲しそうな顔をして見つめている。
「…誰?」