『夢の始まり』・1
ここはあの世とこの世、天国地獄、そして未来と過去、現世を繋ぐ小さな喫茶店。日々、人々の心の拠り所として開かれる。
願いがある者の前にだけ現れるこの店は、決して現実には人々の目に映ることはない。
夢に現れ、そして願いがある者だけ店に訪れることができる。
「いつもの頂けるかい?」
「ええ、少々お待ちください」
人間は日中に活動し続けた脳と身体を休ませ、疲労を回復させるために『寝る』という行為を行う。睡眠中は細胞の修復や免疫機能の維持、記憶の調整・定着など、心身のメンテナンスが行われている。よく、勉強をする上で暗記科目は寝る前にするのが良いとされるが、その理由は寝ている間に脳内を整理整頓されるからである。
そして、睡眠には種類があり、大きく分けてレム睡眠とノンレム睡眠の二種類がある。
レム睡眠は脳が活発に動いており、主に夢を見たり記憶の整理を行っている。一方、ノンレム睡眠は脳が休息している状態であり、成長ホルモンが分泌され身体の修復や疲労回復に役立っている。
脳が活発に動いているということは、レム睡眠をしている時は熟睡できていないということだ。授業中や、昼寝の時に夢を見ること無く眠っているのはノンレム睡眠をしており、熟睡できているのである。
寝るという行為は生きる上で重要な行為である。だからこそ怠ってはいけない。寝ることにより、夢を見て不思議な出会いをすることもあるのだから。
夢を見ることは少ない。見たとしても朝起きたら忘れてしまっているし、これまで気に留めたこともない。恐らく、世界中を見て毎日夢を見てそれを覚えている人は殆どいないだろう。
けれど、時に説明できないほど浮世離れした不思議な夢を見る。夢など常に不思議なものだが、これが正夢になるのだから不思議なものである。
何処で聞いたのかなど気にすることではない。夢には正夢と呼ばれるものがある。何でも、見た夢がそのまま現実になるというのだ。
確かに、馬鹿馬鹿しいだろう。夢が現実になるなどありえない。そう思っていたのだが、実際に経験してみるとそうは言っていられないのだ。
まともに見たことが無い夢を見たかと思えば、正夢になるのだからつくづくしてやられたものである。
これから幕を開けるのは、とある夢の始まりだ。始まりの夢はこうして始まった。
肌寒さと息苦しさを感じ、助けを求めようとすると不意に身体の動きが止まった。その時初めて自分が何処かに向かって歩いていたのだと気がつく。しかし、何処を目指しているのかなど分かるはずもない。
右も左も分からない暗闇の中を宛もなく歩き続ける。自分の周りが暗いのか、それとも自分が目を瞑っていて暗いのか。それすら分からず、恐怖すら感じない闇の中をひたすらに進み続けた。
どれだけ歩いたのか分からなくなった頃、ふと目の前に小さな明かりが現れた。ゆらり、ゆらりと揺蕩うその明かりを見ると、まるで誘われるように独りでに足が動き、徐々にその動きが速まる。
考えることも逃げることもできず、ただひたすらにその光に向かって歩みを進めた。
小さな点だった明かりに近づくにつれ次第に大きくなり、気がつけば歯科いっぱいを埋め尽くすほどの強い光へと変わっていた。光の中に飛び込むと無意識に足が止まる。
光に慣れた目でその先を見ると、そこにあったのはその場に似つかわしくない喫茶店である。
「おいでませ、夢幻喫茶へ」
その声が聞こえた瞬間、視界が暗転していく。不思議な声だ。身体全体を包み込む抱擁力があり、余裕のある優しい声。声質からして男のように感じるがもはや思考する力など残っていない。
全てが暗闇に包まれ、それらに身を委ねようとした時、そんな男の声が頭の中で木霊した。
視界が白く染まり出す。朝の陽の光に照らされ、重い瞼を開けると真っ白な天井が見えた。やけに暑苦しいと感じていたのは掛け布団を鼻先まで被っていたかららしい。掛け布団から身体を引き抜き、ゆったりと身体を起こす。
ズキズキと頭が痛みを発し、視界をぐらりと歪ませた。痛む頭を抑えて掛け布団に視線を落とす。
いつぶりだろうか、こんなにもはっきりとした夢を見て今も覚えているのは。なんとも不思議な夢を見た気がする。
暗闇の中に佇む喫茶店。あの謎の男の声が今も頭の中でその声が反響しているようだった。
「へー、不思議だねえ」
向かいの席に座り、身体をこちらに向けて話を聞いていたクラスメイトの華夏は、なんとも呑気な声を上げた。
昼ご飯を食べながら、今朝見た夢を思い出し試しに華夏に話してみたのだ。窓側の席で陽の光を浴びながら、彼女は興味津々といった様子で話に聞き入る。オカルトや怪談話などといった類が好きな彼女に離してみれば、期待通り的を得た話を語って聞かせてくれた。
「もしかしたら正夢になるかもね」
ニッコリと笑い、口元に人差し指を当てる。その仕草は誰が見てもあざといと感じるだろう。無意識の内にしている仕草は時々心配になる。
「正夢?」
「知らない? 夢で見たことが現実になる夢のことだよ」
オカルト好きの華夏の話にはいつも驚かされる。それでも彼女の話は中々に面白く、時には信じたりもした。しかし、今回ばかりは馬鹿馬鹿しいとしか感じられなかった。
夢と現実は違う。夢が現実になるなとありえないだろう。
「ないない、だって夢だよ? 現実じゃあるまいし」
「えー、私は正夢あるとおもうけどなあ。幸せな夢とか現実に鳴ったら良いと思わない?」
「確かにそれは良いと思うけど、怖い夢が正夢になったらどうするの?」
少し間が空く。しばしの沈黙を経て、華夏は目を泳がせ始める。そそくさと食べ終わった弁当を片付け始め、逃げるようにベンチから立ち上がる。
「あ、逃げた」
「そうやっていきなり難しいことを言い出すんだもん。私に難しいことは分かんないよ」
べーと舌を出して悪態をつく。昼休みの終わりを告げるチャイムと共に、廊下は慌ただしい足音でいっぱいになった。
夕焼けが広がる空の下、一人帰路につく。商店街の中を歩きながら、ふと昼ごはんの時に華夏と話した『正夢』について思い出した。夢が本当になる、そんな事有り得るのだろうか。到底フィクションにしか感じられないが、華夏は随分と熱心に語っていた気がする。
華夏があれだけ熱心に語るのだから、それなり有名な話なのだろう。
カラン。
一人考えながら歩いていると、何処からか音が鐘のような音がした。小さなその音は聞き間違えと思うほどに繊細なものである。少し立ち止まって辺りを見渡すが、その音の根源らしきものは見当たらない。気のせいかと止めていた歩みを再び進めた。
カラン、カラン。
次は進める足に呼応するように同じ音が二回連続して鳴った。間違いない、今度は幻聴でも何でも無くはっきりと耳に届いたのだ。ふつふつと恐怖が募り出し、ゆっくりと後ろを振り返る。しかし、その先に広がるのは先ほど歩いてきた道が続いているだけ。隣を通り過ぎていく人々は鐘の音が聞こえていないのか素通りしていく。
「はぁ、良かった…」
強張っていた身体から力が抜け、一人商店街の真ん中でほっと胸を撫で下ろした。前を向いて歩き出そうと一歩足を踏み出す。ふわりと一風変わった温かい風が肌を掠めた。
「へっ……?」
有り得ない。こんなこと、有り得ない。
「何、これ……」
目の前には、さっきまでなかったはずの喫茶店が堂々と建っていた。しかもこの喫茶店には見覚えがある。
「夢で見た、喫茶店?」
───もしかしたら正夢になるかも───
なってしまった。恐怖と好奇心に心臓がバクバクと脈打ち出す。そよ風が肌を撫で、まるで自分だけが異世界に来たかのような錯覚に陥らせた。
「あれ、え?」
風か何者かに突然背中を押される感覚が襲い、無理矢理店内へと押し込まれた。自動ドアではないはずなのに入口の扉が一人手に開く。
カラン、カラン。
先程聞こえた鐘の音が鳴り、気づけばとっくに中に入ってしまっていた。こうなれば外に出ることすらできない。逃げることを諦めて、渋々店内へと視線を巡らせた。オレンジ色のモダンな照明が印象的な喫茶店である。
(なんだ、全然普通じゃん)
「おや、お客様ですか」
突然話しかけられ、その声にビクッと反応する。声の方を見ると、カウンターの中にいる長身の男性と目が合った。
「おいでませ、夢幻喫茶へ」
「あっ、いえ! 私、客ってわけじゃなくて」
何処かで聞いたことのある台詞を口にした男性は、カウンター席の一つを手で指し示しながら席に着くよう促してくる。
「こちらの席へどうぞ」
拒絶する間もなくまた勝手に体が動き、カウンター席へと座らせられた。席につくなり男性がカウンターの中を移動して目の前に立つ。長い白髪に通った鼻筋、色白の男性は随分と整った顔立ちをしていた。その姿に思わず目を奪われる。
「何に致しましょう」
「え、えっと……」
テーブルの上に置いてあるメニュー表を見る。全て手書きのメニュー表だ。しかし、殆どのメニューが横文字で何が何だか分からない。その中で目に付いた『カフェラテ』という慣れ親しんだ文字を見つけ、この沈黙から逃げるように注文した。
「じゃ、じゃあ、カフェラテお願いします」
「かしこまりました」
男性は穏やかな笑顔を浮かべ、そう言うと奥へと入っていった。
初めての場所ではソワソワしてしまう。辺りをキョロキョロしながら緊張を紛らわせる。この店は夢と同じものであるが、夢では店内までは見なかった。けれど内装は何処にでもあるレトロな喫茶店である。
しかし、これは現実か?
ならばどうして、
(店の中に、妖怪がいるの!?)
一体どういうことだ。中にいる客は人間ではなく人外ばかりである。よくアニメや絵本などで見る妖怪達が当たり前のように座り、コーヒーやらケーキやらを口に運んでいた。
その異様さに思わず凝視してしまう。見た目は人間に近い者が多いが、身に纏っている服は何処で仕入れたのか聞きたいくらい現実では着ないようなものばかりである。一瞬コスプレかと疑ったほどだ。
(あんまりジロジロ見たら駄目だ。見なかったことに)
『おや、見ない顔だねぇ』
「ひぃっ……」
(何、ろくろ首!?)
顔の横からぬんと女の顔が出てきた。ぎこちなく顔を動かすと、長く伸びた首と女の顔が目に入る。二周ほど首を絡み付けると耳元で『ふふ』と笑った。
『若い娘か。また不思議なこともあったもんだね』
舐め回すかのようにジロジロと足の先から頭の天辺まで、ろくろ首は観察し始めた。怖いと言うよりも早く終わってくれという気持ちが強く募る。
(勘弁して……)
『見るからに高校生かい? 普通の娘に見えるけど』
「そこら辺にしたらどうだい」
その時、ろくろ首の声に被せるようにして男の声がした。声の主の方をろくろ首と一緒に見る。そこにはひらひらとした外套と軍服を身に纏った若い男がいる。
カウンター席の一番端に座る男はゆっくりとカップを置いた。その装いは大正時代を思わせる軍服に外套とモダンなものだ。大日本帝国の日本軍にも見えなくはないが、その雰囲気は軍人と言うには柔らかく優しさがある。
「軍人、さん?」
『つれないねぇ、あんたも。そんなんだから誰にも相手にされないんだよ。現にそんな端っこに座って、ねぇ』
その人物はカウンターの端の席から立ち上がると隣の席に座り直す。足を組み机に頬杖を着くと、ろくろ首を睨みつけながら男は言った。
「それは君の方だろう」
『あんたにゃ言われたくないね』
男にそう言われるや否や、ろくろ首は恥ずかしそうに顔を赤らめる。荒々しく吐き捨てるとそそくさと首を縮めケーキを食べ出した。
男はろくろ首から興味をなくし、真っ直ぐと目を合わせて言う。
「君は、初めてのお客さんだね。ここにやって来たということは」
「縁がある、ということですね」
この喫茶店の店主が白いカップを持って戻ってきた。何だか意味深な言葉を二人で言っていた気がするが、聞き返すよりも先に目の前にカップを置かれた。
「カフェラテでございます」
『あー! ずるいぞ!』
突然視界の右から黒い塊がひょっこりと現れた。カップに頭から突っ込みそうなほど近くまで寄っていた黒い塊には、三角の耳が二つと先が二つに別れた尻尾が着いている。ふわふわの毛は生まれたての子猫のようにパヤパヤと膨れ上がっていた。
「な、何これ。ぬいぐるみ?」
『ぬいぐるみとは失礼な! 我はれっきとした猫又様だぞ!』
「ね、猫又ぁ!?」
大げさに叫ぶなと視線で訴えられたが、これでも押さえたほうだ。突然に目の前に現れた猫が一人でに喋り、仁王立ちでふふんと鼻を鳴らしながら語るのだから無理からぬことだろう。
「駄目ですよ。貴方はすぐ零すのでこちらへ」
馬鹿にされた訳では無いが驚かれたことに、猫又は不機嫌極まりないと言って表情を浮かべた。しかし男性に軽々と持ち上げられ動きを制御されてしまう。持ち上げられたまま四肢を動かし猫又は暴れ回る。
『ふなぁぁぁぁあああ! 離せぇぇえええ!』
猫又シャーと鳴きながら暴れ回る。やはり本能自体は猫と変わらないようで、威嚇の仕方や仕草は野良猫に威嚇された時と同じである。
しかし猫又の二つに分かれた尻尾がただの猫ではなく妖怪であることを物語っていた。
「本当に尻尾が二つに分かれてる」
『猫又だから当たり前だ!』
(いや、まず猫又が当たり前じゃないんだけど)
「人間のお嬢さんに猫又と言って、信じると思うかい」
『そ、それはぁ…』
黒猫は持ち上げられながらしゅんと拗ねる。よく持ち上げられた猫の身体が伸びるなんていう動画があるが、フェイクではなく本当だったみたいだ。実際に店主に持ち上げられた猫の身体は、チーズのように縦に伸びている。
弄り倒されているからか、この店のマスコットという愛さしさからか、周りの客もクスクスと笑っていた。
「ああ、そうだ。まだ名乗っていなかったね、お嬢さん」
紳士的で穏やかな雰囲気を醸し出す軍人はこちらに体を向け、軍帽を取る。癖づいた茶髪がはらりと帽子から舞い落ちた。帽子で隠れていてよく見えなかった顔は、穏やかながらにも冷静さが滲み出ている。
「私は神楽右京。よろしく、お嬢さん」
見た目からして二十代ほどか、見た目の割に随分と大人びている人だ。軍人だからか佇まいには余裕さが隠しきれずに溢れている。
軍人が名乗ると、店の主である男性も拭いていたカップを置き名乗り始めた。
「では、私も名乗らないとですね。改めまして、この夢幻喫茶の店主、アルと申します」
アル、という名は本名なのだろうか。それならば随分とキラキラした名前だなと思ってしまった。外国人なのかもしれない。白い肌に白い髪は日本人離れしている。しかし、随分と流暢な日本語を話しているし、所作などからして日本人のようだ。
次に名乗るため、猫又はカウンターの上を移動し目の前に座った。佇まいに緊張感はなく、ゲームセンターのクレーンゲームの景品にいそうな見た目をしている猫だ。これだけを見いているとぬいぐるみと言われても何ら違和感はない。
『我は猫又の珠吉様だ』
猫又のわりにハキハキとした口調で猫又は名乗る。首輪についている青い玉がからんと音を立てて揺れた。自分のことを様付けで呼ぶとは何とも傲慢な性格をしている。
神楽と名乗った軍人はろくろ首を横目で見ると、懲りずに煽りと取れる口ぶりで彼女の自己紹介を促した。
「んで、そっちの無愛想なのが」
『梢よ。無愛想って失礼ね』
当然梢の機嫌は斜めになっていくばかりである。ぱくりとショートケーキを口に入れると、何も映らない真っ白な窓に視線を移した。話しかけるなオーラを醸し出した彼女は、これ以上神楽と話すつもりはないらしい。
「わ、私は如月夢月、です」
「夢月さんですか、これからよろしくお願い致します」
この出会いが、夢月の人生を変えるきっかけの一部となることをまだ知らない。