陸奥方志穂
不意に自分の名前を呼ばれ、幸太は困惑したまま女性を見つめていた。
今目の前にいる黒いスーツに身を包んだ女性は細身の体躯で身長は幸太とほぼ変わらないように思え、恐らく百七十センチ程はありそうに思えた。
細い糸目で終始口角を上げて笑みを浮かべており、肩まであるミディアムボブの黒髪から時折覗く耳後ろの赤いインナーカラーがスタイリッシュさを感じさせる。綺麗な顔立ちで叶とはまた違ったタイプの美人だ。その穏やかな笑顔からは柔和な印象も受けるが、幸太は何処か見透かされているようにも感じて警戒感を強める。
そんな幸太を見つめ、女性はかけていた丸い眼鏡を指で軽く直すと首を傾げて更に口角を上げた。
「ふふ、何か警戒されてますね……」
「あ、いえ、そのどちら様ですか?なんで俺の名前知ってるんですか?」
幸太が戸惑いながら問い掛けると、女性は深々とお辞儀をし真剣な表情をして話し出した。
「失礼しました。私は嵯峨良探偵事務所で秘書を務めております陸奥方志穂と申します。実は鬼龍叶さんに廃病院の調査依頼の話を振ったのは我々なんですが、実は彼女と連絡が取れなくなってしまったのでどうしようかと思っていた所なんです」
そう言って変わらぬ笑みを浮かべる志穂に、幸太は声を上ずらせながら思わず詰め寄る。
「えっ、どういう事ですか?貴女が叶さんの仕事仲間って事なんですか?まさか叶さんに何かあったんですか?」
「そんなに迫らないで下さい、倉井幸太さん。我々も今情報を集めている所なんです」
冷静に対処する志穂の態度を見て、幸太も我に返ると自分の行動を恥じるように俯き数歩下がって頭を下げた。
「あ、すいません、つい。あの、それで叶さんがどうなったか分からないんですか?」
「ええ、そうですね。とりあえず場所を移しましょうか。ここじゃ少し話しにくいでしょう」
そう言って志穂が促すと、幸太もようやく周りの視線に気付いた。ここは多くの人々が出入りするマンションのエントランスであり、多数の人々が幸太と志穂を好奇の目で見つめていた。
叶の事となり、つい興奮気味に志穂に詰め寄ってしまった事が気恥しくなって俯く幸太を志穂が「さぁ行きましょうか」と言って促しその場を後にする。
志穂に先導されるようにマンションの敷地を歩いて行くと、銀色のスポーツカーの横で志穂が足を止める。
「さぁ横に乗って下さい。運転は私がしますので」
そう言われ、幸太は戸惑いながら助手席のドアを開けると、運転席から志穂がこちらを覗いていた。
「さぁ早く。彼女の事、心配なんでしょ?」
戸惑い尻込みする幸太を急かすと、ようやく幸太も車に乗り込んだ。
「さぁ行きましょうか」
「はい」
幸太が頷くと志穂は慣れた手つきでミッションを入れ車を発進させる。
車内では特に会話もなく、鼻歌混じりでハンドルを握る志穂の横で、幸太は窓の外を流れて行く見慣れない街中の風景をぼんやりと見つめていた。
やがて車は喫茶店の駐車場に入ると、志穂は車を停め二人は喫茶店へと入っていく。
四人掛けのテーブル席に案内された二人は向かいあって座ると志穂が笑顔で語り掛ける。
「では倉井幸太さん、あらためまして私は陸奥方志穂と申します。少しまだ警戒されてますか?」
「あ、いえ、なんていうか、知らない女性と二人っきりでこうしてて、どうしたらいいのかと……」
幸太が少し戸惑ったように俯きながらそう言うと、志穂は思わず吹き出しそうになりつつ、片手で口を隠してくすくすと笑いを押し殺していた。
「ふふふ、失礼しました。そうですか、ふふふ、まぁリラックスしていただければいいのですが。それはそうと、実は私朝食もまだでして、ここでついでに軽く済ませようと思っていましてね。倉井さんもよろしければ一緒にどうですか?ここの食事代ぐらいこちらで持ちますよ」
「えっ?そんな、大丈夫です」
実際は朝食もまだ取っておらず、空腹だった幸太からしてみれば嬉しい申し出だったが、まだ素性もはっきりしない女性にご馳走になるのも気が引け、何より叶の事が気になりそれどころではなかった幸太は思わず断ってしまった。
「あまり食欲はない感じですか?無理にとは言いませんが一人で食事しててもなんて言うか、味気ないんですよ。だから一緒に食べていただけると嬉しいんですけどね。ここの店チェーン店ですがサンドウィッチとか美味しいんですよ」
そう言って志穂が笑顔で勧めてくる為、幸太も「それじゃぁ」と言ってサンドウィッチとコーヒーを注文する。
「それじゃぁ料理が来るまでの間、今わかってる事整理していきましょうか」
志穂は幸太を覗き込むようにしてニヤリと笑った。