【第1話】招かれざる2人の客
帝国と王国を繋ぐグラッツ渓谷。この渓谷は両国を結んでこそいるが、その道のあまりの険しさから、普段はほとんど人の往来がない。だが両国の間で勃発した戦争の影響で主要な交易網が麻痺した今、この道を行き交う者もわずかながらに増えていた。
しかしそれすらも明るい時間に限れば、の話である。夜の帷が降り、渓谷が闇に覆われれば、この不毛な谷間に響くのは静寂と冷たい風、そしてこの渓谷を根城にする盗賊団の笑い声だけだ。
今宵もまた、彼らは簡易的な野営陣を敷き、酒を飲みながら今日の成果を誇らしげに語り合っていた。
「カモは増えるは警備はザルだは。本当に戦争様様って奴だな」
ボトルから直接ワインを豪快にあおるその男は、猿のような鋭い目つきをした男だった。体格こそ小柄ではあるが、時折見せる鋭い眼光や身体のあちこちについた切り傷の痕が、彼が歴戦の強者であることを如実に示している。
キースと呼ばれるその男は、共に焚き火を囲う男たちを揶揄うように軽口を飛ばし、その場の空気を支配していた。中には彼よりも倍近く巨体な男もいたが、その誰もが自分よりも遥かに小さなこの男を格上として認めている。
「かーーっ うめえなこれ。おいビショップ、こりゃいったいなんて酒だ?」
キースは焚き火から少し離れた場所に目をやる。そこには、焚き火の輪に加わらず、一人静かに台帳をつけている男がいた。焚き火の光が彼の背中を僅かに照らすが、その表情は薄暗い影の中に隠れている。
「ラフィレット・マルトー。今君が飲んだ分だけでも5万クローネは下らない高級ワインですよ」
ビショップと呼ばれた男は、振り返ることもなく淡々と答えながら作業を続けている。長身で線の細いその男は、他の無骨な団員たちとは明らかに異なる雰囲気を纏っていた。どこか洗練された気品を感じるその姿は、一見すると盗賊団の一員のようには見えない。だが、商隊から奪った品々をどのルートで売却するかを冷静に考えるその姿は、今の彼が確かにこの盗賊団の中枢を担う存在であることを物語っている。
「かーっ。なんだそのふざけた値段、つーことはこれ1本で10万クローネってことか?下手すりゃ帝都に家が建つぜ?」
「おやおや、君に計算が出来るとは驚きですね。そこまで分かるなら飲まずにこっちの売却リストに入れてもらえますか?そうすれば我々盗賊団の経営もだいぶ楽になるんですけどね」
「ばーか、売ったとこでどうせその金で酒を買うだけだろ?それなら今飲んじまった方が賢いじゃねえか。明日が必ず来ると思ってると、あの世で泣きを見るぜ?」
キースはニヤリと笑い、残ったワインを一気に飲み干してしまう。ビショップはそんなキースの様子を見て、一瞬作業の手を止めて「やれやれ」と呆れた表情を浮かべた。盗賊という仕事をする中で、明日を迎えられなかった者を数多く見てきた彼らにとって、キースの言葉は口ぶりとは裏腹に重たい。だがそれでも団の明日を考えなければならないビショップはすぐに作業を再開した。
「まったくそれにしても戦争中だって言うのに密輸までしてこんな高い酒を飲みたがるなんて。帝国貴族って奴らは良いご身分なもんだね。」
キースは空になったボトルを興味なさげに近くに置くと、無造作に積まれたワインの山から1本を引き抜き口に運ぶ。「なんだ、やっぱこっちも美味えじゃねえか」と言う彼の口ぶりからは、ワインの側にこだわる貴族に対するある種の軽蔑が含まれていたことだろう。
「我々もまた、その戦争で良い思いをしている立場ですけどね。それよりその空いたボトル割ったりしないで下さいよ?中身を詰め替えてその帝国貴族様とやらに売りますから」
ビショップは悪態を吐くキースからボトルを受け取り、それを他の盗品と同じように並べた。ラベルを挿げ替えるだけで簡単に騙される貴族を思えば、値段に関係なく美味そうに飲み干している彼の方が物の価値を正しく見極めているのかもしれない。
「で、その戦争ってやつはどうなんだ。まだまだ俺たちに良い思いをさせてくれそうなのかい?」
「さあ?今頃ボスがそれを考えてくれているんじゃないですかね」
ビショップは盗品の記録をつけていた手帳をパタンと閉じると、焚き火から少し離れた静寂に包まれた大きなテントを見やった。暗闇の中にひっそりとたたずむそのテントは、中こそ見えなくともその中にいるボスの存在感をはっきりと映し出している。
「さて、台帳も付け終わりましたし、ボスへの報告がてら君の質問も聞いてきてあげますよ。くれぐれも飲み過ぎて周囲の警戒を怠らないようにしてくださいね」
「誰に向かって言ってんだ。俺は寝てたって気配は見逃さねえよ」
「早く行け」と言わんばかりにひらひらと手を振るキースに見送られるように、ビショップは静寂に包まれたボスのテントへと向かった。
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「……」
大きなテントの中で赤髪の大男が商隊から奪った紙に鋭い目を落としていた。鍛え上げられた巨体はまるで鋼のようで、彼が一流の武人であることを容易に想像させる。だがその堂々たる体躯でありながら、彼は豆粒のように数字が書き連ねられた書類の束を繊細な手つきで扱いながら情報を読み取っていく。積荷の内訳や雇い主の名前など、1枚1枚は表面上些細な情報に見えるが、彼にとってはその全てが重要な謎を解く鍵だ。
盗賊団の頭領であるガルドは、時折、テント内に山積みされた地図や資料を手に取り、新たに得た情報の信憑性を確認していく。昼間は巨大な剣を振り回す豪快なリーダーでありながら、夜はこうして緻密な情報分析をする知的なリーダーになる。その二面性こそが、彼がこの盗賊団のリーダーとして、誰もに信頼されている所以なのは言うまでもない。
「ボス、入ります」
「おう」
ガルドがその低く響く声で応えると、今日の成果をまとめたビショップがテントに入ってきた。彼はガルドに一礼をすると、ガルドの向かいに座り今日の成果の報告を始める。
「今日の成果ですが、美術品が8点、その他香辛料やドレスが数点。合計で50万クローネほどで売却できる見込みです。それと…」
ビショップは淡々と成果を報告すると、太った不細工な貴族の男が描かれた1枚の絵を取り出した。
「それは?」
「商隊の積荷の中に紛れていました。描かれている男は王国のピート伯ですが、彼を題材に絵を描こうなどという物好きはいないでしょう。つまり…」
ビショップはそこで一旦区切り、ガルドがどのような結論を下すのかを待った。自身の推理を先に言ってしまえば、いらぬ先入観を与えかねない。故に彼はまず確実なことだけを述べ、自身の推理はガルドの結論を聞いた後に述べることにしている。
「描かせたのはピート伯本人。当然その絵も奴の家にあったもんだろう。そんなもんがここにあるってことは、すでにピート伯領は帝国の手に落ちたってことか」
「ええ、まず間違いないかと。辺境のピート伯まで落ちたとあれば、もはや王国は虫の息。我々にとっては残念ですが戦争終結はそう遠くないでしょうね」
ビショップはボスが即座に正確な分析をしたことにかすかに嬉しそうな笑みを浮かべた。ガルドはいつも彼の望む結論か、もしくはそれ以上の結論を導き出してくれる。そして今回はどうやら後者だったらしい。
ガルドはしばしの間、静かに深く考え込む。そしてしばしの沈黙の後に低く、はっきりした声で答えた。
「いや、そう単純じゃねえかもな」
「と言うと…?」
「お前の言うとおり、ピートの領地が落ちたのは間違いねえだろう。それに王国が虫の息なのも俺の情報と合致する」
ガルドはそこで言葉を区切ると、「だが」と重々しく話を続けた。
「帝国の連中はどうしてピート伯領なんていう辺境にわざわざ侵攻した?王国を潰すだけならあんな僻地に進軍する必要はねえだろう。」
「……」
ビショップは言葉に詰まり、ガルドの深い洞察に敬意を抱いた。確かにピート伯領は王国の中心から遠く、軍事的にも経済的にも侵攻する価値はほとんどない。王国を降伏させたいだけであれば、まず進軍されないエリアだ。
「つまり帝国の連中はただ単純に王国をぶっ潰したいってわけじゃねえ、それ以外に何かしらの意図があってこの戦争を吹っかけてやがる。こりゃあ意外と長引くかもな、この戦争は。」
ガルドは鋭い眼光をきらりと光らせながらそう言った。全く敵意の込められていないはずなのに、その眼光の鋭さにビショップの背中に冷たい汗が流れる。
「やはりボスには敵いませんね…その大局的な思考。私だけでは到底辿り着けませんでしたよ」
「なに言ってんだ。俺だけじゃその絵のデブがピートだって分からなかったさ。お前がいてくれたからこそ導き出せた答えだぜ」
ガルドは手に持っていたペンをデスクに放り投げると、ふっと息を吐き、テーブルに置かれたグラスに酒を注いだ。そして話がひと段落ついたと示すように「まぁ一杯飲め」と言いながらビショップに手渡す。
ビショップとしては本来なら立場が下の自分が注ぐべきところだが、ガルドはそんな上下関係を気にしないフランクな性格だ。むしろ、そういう気遣いを煩わしく思うようで、いつも率先して自分で酌をするのが彼のやり方だった。
「しかしそうなると戦争はいつ終わるんですかね?我々としてはなるべく遠い未来であって欲しいものですが」
「さあな。だが、いつ終わるかはともかく帝国が勝つことだけは揺るがねえだろうな。」
ガルドの言葉にビショップの眉がわずかにぴくりと動く。
帝国優勢の報を聞く度に、ビショップの胸中では穏やかではない気持ちが湧き上がる。帝国に裏切られ貴族の地位を追われた彼にとって、帝国の勝利は望ましいものではない。より正確に言うのであれば、帝国が勝利をすることで彼を破滅に追いやったリットハイム公が利することが彼は許せないのだ。
しかし彼はその気持ちが顔に出ないように押さえ込むと、何事もなかったようにガルドの言葉に相槌を打つ。たとえどれほどに憎くとも、それは私情であり私情を組織の判断に挟んではいけないということを彼はよく理解していた。そういう男だからこそ彼はガルドの右腕として盗賊団の行末を決定する重要な役割の一端を任されているのだ。
「ったくエミールやらヴォルフガングやら。帝国には有能な奴がどんだけいるんだ?それに比べて王国でまともに戦えるのはハルバートのジジイくらいじゃねえか。あんなジジイが前線に引っ張り出されてる時点で、王国軍に勝ち目はねえよ」
「それに」とガルドは一拍間を開けて話を続けた。
「なんでもリディア王女が帝国に捕縛されたらしい。国の象徴たる王家の人間が捕縛となりゃ王国の士気はガタガタだろうよ」
「王女が捕縛…本当ですか…?」
「ああ、帝国宰相フィリップの発表だからまず間違いないだろう。」
フィリップの名に思わずビショップの表情が強張った。その痩せ細った外見と冷徹な手腕から骸骨ともあだ名されるフィリップの名は、すでに帝国民では無いビショップすら未だに恐れさせる。
「しかし…なぜ…?とうとう帝国軍は王都まで侵攻したということですか?」
「いいや、それがどうにも前線で捕縛されたらしい」
「王女が前線で?信じられません…なぜ王女がそんな危険場所にいるんですか!?」
「どうにも義憤に駆られて出しゃばってきたらしい。姫なら姫らしく城から手を振ってりゃ良いのによ、お転婆にもほどがある。ま、一番悪いのはお転婆姫すら制御できない王国だけどな」
ガルドは王国の無能に呆れるかのような表情で言い終えると、「気概は立派だけどな」と付け加える。そう言った時のガルドの顔は先ほどまでの呆れた顔ではなく、どこか自嘲気味で、どこか遠い目をしているようにビショップは感じた。
ガルドは時々こういう顔をする。その意味をビショップは未だに計りかねているが、ガルドに聞いても答えてはくれないだろうという確信があった。
「(ですがボスが言わないということは、私は知らなくて良いことなのでしょうね)」
それをガルドからの信頼が無いと落ち込む者もいるだろう。だがビショップにそのような感傷的な気持ちはない。彼は情報が強力な武器になることを知っている一方で、情報を持っていることが弱点になり得ることもまた知っているからだ。
「まぁいい。報告ご苦労だったな。お前も少し休んで、あいつらと飯でも食ってこい」
ガルドは、柔らかい口調で感謝と慰労の意を込めてビショップに声をかけた。ビショップはその言葉に一礼すると、静かにテントを後にする。
テントに1人残るガルドはしばしの間、ビショップに向けた優しい笑みを浮かべていたが、彼の気配が遠ざかると再び険しく引き締まった。ほのかにテントに残っていた酒気は一瞬で吹き飛び、張り詰めた空気がテントを支配する。
「皇帝レオナール……あいつが無意味に戦禍を広げるわけがねえ……一体何を企んでやがる」
ガルドの口から漏れた独り言は、テントの薄暗い空間に吸い込まれるように静かに消えていった。
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「がはは!ほら飲め飲め!家が立つワインだぞ!!」
ビショップが宴に戻ってくると、先ほどしまったはずのラフィレット・マルトーをキースが団員に飲ませていた。あのワインは1本しか無かったはずだ。おそらくビショップの詐欺の手口を聞いたキースが面白がって空き瓶に適当なワインを入れて”高級ワイン”と吹かしているのだろう。
「お、ビショップじゃねえか!お前も飲むか?家が立つワイン」
キースは誇らしげにボトルを掲げ、団員たちと一緒に高笑いする。その騒々しさに、ビショップは眉をしかめながら答えた。
「遠慮しておきますよ。それより酔っ払ってそのボトルを割らないで下さいよ。それだけで2、3万クローネになるのですから」
ビショップは呆れた声でキースに注意するが、そう言いつつもキースがボトルを傷つけることはないと確信していた。あの猿顔の男は、どれほどふざけていようとも決して一線は超えないのだ。
「ははっ、辺境なら家が立つな!」
キースはまたもや大笑いし、周囲の団員たちも一緒になって腹を抱えて笑っている。一体何がそんなに面白いのか、とビショップは内心でため息をつき、ふざけたやり取りに辟易しながらもワインの山から比較的上質なものを探し出し、栓を開けた。
「そうそうさっき君に聞かれた話ですけどボスと話してきましたよ。何でも戦争はまだ…」
ビショップがそう言いかけた瞬間、周囲の音が一瞬で消えた。焚き火の燃えるかすかな音と、自身の心臓の鼓動だけが耳に響く。周囲に漂っていたはずの酒気も笑い声もグラッツ渓谷の闇の中へと吸い込まれてしまったかのようだった。
キースに目をやれば、すでに酔いの気配を一切消し、腰の短剣に手をやりながら真剣な目つきで暗闇の一点を見つめている。他の団員もキースのただならぬ様子をすぐさま察知してすでに警戒体制を取っていた。
「客だ。2人。素人じゃねえ。まっすぐこっちに向かってくる」
無駄の一切ないキースの言葉。ビショップもキースが見つめる方向に視線を向けるが、そこにはただ暗闇が広がるばかりで、ビショップの目には何も見えない。
「(だがキースが言うなら間違いない…こんな時間に何者だ…?)」
闇の奥から何かが近づいてくる恐怖。だがそんな恐怖を即座に押し殺し、ビショップは持ち前の頭脳で敵の可能性を推測する。
「(盗賊なら様子を伺いながら近づいてくるはずだ、真っ直ぐ向かってこない。商隊ならばこんな時間に行動しない……)」
ビショップは可能性を1つずつ消し、謎の2人組の正体に近づいていく。彼はキースのような鋭い感覚を持たないが、キースとは違い鋭い頭脳を持っている。
一方キースはその鋭敏な感覚で、謎の2人組の正体を捉え始めていた。
「この音…甲冑か…?にしては音が随分軽いな…」
キースの感覚からもたらされる情報がビショップの分析をさらに鮮明にしていく。そしてビショップが1つの可能性に思い当たったと同時に、2人組の姿が焚き火の淡い光に照らされ、キースたちの眼前に浮かび上がる。
銀と黒の甲冑が焚き火の光を受けて不気味な輝きを放っていた。それは数年前に帝国で開発された新型合金が使われているのだろう。防御力を維持しつつ、極限まで軽量化されたその鎧を纏った2人は、まるで鎧の重さなど感じさせぬような軽やかで無駄のない足取りをしている。
その者たちの歩みの一歩一歩が、まるでキースたちは死へと追い詰められるような圧迫感を与えていた。ただ歩くだけで場の空気を支配する圧倒的な存在感。兜の目元からかすかに覗く視線は、今まさに命を選別するかのようにこちらを鋭く睨みつけている。
「帝国…諜報部…」
ビショップの口からかすかに漏れ出たその声もグラッツ渓谷の闇に吸い込まれ、あたりは再び静寂に包まれた。