橋本源五郎68歳は自転車を買った。
橋本源五郎68歳は自転車を買った。
有名な台湾メーカー製のスポーティーなバイクだ。かっこいい黒とガンメタリックのツートンカラーが彼にまだ残る少年の心を刺激した。
とても長い間、自動車にばかり乗っていた。
運動不足を医師から指摘され、何かいい運動になるものはないかと探していたところにネットで自転車をおすすめされたのだった。
タイヤを外すまでもなく、自転車は彼のSUVの荷室に収まった。しかしもう夜になろうとしていた。
運転席に乗り込んで振り向くと、街明かりにうっすらとその存在感を漂わせながら寝そべっているその乗り物が、生き物のように見えた。
「おい、相棒。今日は部屋で一緒に寝よう。明日は朝から一緒にどこかへ行こうな」
満面の笑みを浮かべてそう話しかけると、一人暮らしのアパートへと帰っていった。
翌日は朝からよく晴れていた。
夏は終わったというのに外はまだ暑い。いつもなら暑さを嫌って部屋でゴロゴロダラダラしている源五郎が、ウキウキと相棒を担いで階段を下りていった。
ペダルを上向きにして足をかける。
自転車屋さんで教わった通り、そこに体重を乗せて、右足を地面から離すと、相棒が頼もしく走りだした。
風が前から彼を包み込み、後ろへ流れはじめる。
「えーと……。変速機はペダルを回しながらじゃないと操作しちゃいけないんだったな」
慣れない相棒の操作方法にしばらく気を取られていたが、慣れてくると周りの景色が広がった。
普段見慣れているはずの近所の景色が違って見える。
こんなところにこんな店があったのか、知らなかった。
こんなところにあんなばあさんが住んでたのか、友達になりたいな。
そんな発見をするたび、源五郎の気持ちは踊った。
ペダルを漕ぐと足が疲れた。こうでなくては運動ではないと、自分を奮い立たせる。軽いギアで足を素速く動かす。自分の足で走るよりは楽で、自動車で走るよりは随分しんどい。とにかく30分以上は走り続けるぞと決めて、白い眉毛をキュッと上向きにして、ちょっと笑うような表情で前を見つめながら、前傾姿勢でペダルを漕いだ。
細いサドルがお尻に食い込む。でもこれでなければダメだとネットで読んで知っていた。ハンドル、サドル、ペダルの3点に力を分配することを意識すると楽になった。
「海まで行ってみるか」
そう決めると、30kmと少し向こうにある海をめざしてスピードを上げた。
途中でへこたれた。
20kmも行かないうちに、これは自分には無理だと思い知った。
方向転換して、アパートへの帰路を走りだす。
目を下にやると、相棒のガンメタリックのフレームが、秋の光にキラキラ輝いている。そこへ自分の顔から、そしてたるんだお腹から、汗がポタポタと降り注いでいた。
「……フッ。今日はへこたれたが、いつかはめざすぜ、海!」
元気よく相棒にそう誓うと、住宅街に入っていく。アパートまではもうすぐだ。
そんな彼の姿を、私は自動車の中から見かけた。
真新しいスポーツバイクに乗って、ゆっくりとペダルを漕いでいた。白いシャツが汗でお肉に貼りついていた。くたびれきったような、お肉のたるんだブルドッグのような顔をして、でも眼鏡の奧の目が楽しそうだった。
私は彼に橋本源五郎という名前をつけ、勝手に68歳にし、物語を作ってみた。
「私も人生を楽しまなきゃ」
そう思わされ、ふふっと笑ってしまいながら、見知らぬ太っちょのおじさんに元気をもらった初秋の昼下がりであった。