婚約者ごっこ
柴野いずみ様主催「匿名狂愛短編企画」参加作品です。
※暗いです!注意!
私には婚約者がいる。
プラチナブロンドの髪とアメジストの瞳が良く似合う青年、ファビアンだ。
ピンク色のバラの花束を携えて、今日もまた彼はきてくれた。
「可愛いオリビアに似合うと思って。淡いピンク色、好きだろう?」
ファビアンは私の顔を見るなりいつも破顔する。それがとても嬉しい。
「わあ、可愛い! 私の好きな色、覚えていてくれたのね。とても嬉しいわ! いつもありがとう、ファビアン」
両手を合わせ、儚げに笑う。
「いいや、元気になったら、一緒に街へ好きな花を買いに行こう」
「ええ、楽しみ! ずっとベッドの上じゃ、つまらないもの」
「そうだろう。さあ俺に気にせず横になって。無理をしてはいけないよ」
病弱な私は、一日の大半をベッドの上で過ごしていた。
ときどき腰掛けて本を読み、少しだけ窓を開けて風にあたる。そして、花瓶に生けられたお見舞いの花を眺める毎日だ。
心配性なファビアンは三日と空けずに会いに来てくれるから、部屋はいつだって可愛らしい花で溢れている。
横になる時もファビアンは手を貸してくれた。
そこまでしなくてもいいのにとは思うけれど、心遣いが嬉しくてつい甘えてしまう。
私を見る彼の甘い瞳に抗いたくもなかった。
しかし、彼の手を借りながらベッドに転がった時、私はしまったと思った。
頭の上で、何かを潰したようなカシャッと乾いた音がした。
──ああ、失敗したわ。
思うや否や、ファビアンの表情はみるみる険しくなっていく。
「──オリビア。外には行けないはずだろう? この枯葉はなんだ?」
「……ええと、メイドさんが落として行ったのかも」
「君の頭の上に? 見え透いた嘘はやめたまえ。君は、毎日を、このベッドで過ごすんだ。庭木の葉が頭に付くなどあり得ない。病弱な君は、外に出られないのだから」
ついさっきまでの熱はどこへ行ったのか。
驚くほど鋭利な視線で私を射抜く。そんな彼の顔は見たくなかったから、文句も言わずに頭を下げた。
「……ごめんなさい。気をつけるわ」
「わかればいい」
そう言った後、ファビアンは再び優しく目元を緩ませた。
切り替えの早さにはいつも感心する。
「……強く言いすぎたかな。でも心配なんだ。心配してしまう俺の気持ちもわかってほしい。愛してるよ、オリビア」
「ええ、わかってる。私も愛してるわ」
近づいてきた瞳に、自分の姿が映っていることを確認して──目を閉じた。
唇が触れ合うたび、感じる彼の熱が、私を幸せにしてくれるのだ。
◇
ファビアンが帰るまで、窓から眺めていた。何度も振り返って手を振る彼が愛おしかった。
姿が見えなくなったあと、サイドテーブルの引き出しから髪留めを取り出す。長く伸びた髪を簡単に纏めながら、部屋を出た。
向かった自室では、メイドが待っていてくれる。
「……お疲れ様でした」
「なあに。いつものことでしょ」
「だから、ですよ。いつも無理に付き合って差し上げる必要もございませんでしょう」
心配と怒りと悲しみを複雑に抱えたメイドに着替えを手伝ってもらう。
好きな濃紺のワンピース。邪魔な髪はシニヨンにまとめてもらった。
自室は、茶色と紺、深緑といった落ち着いた色で揃えられている。そこに飾られた、一枚の肖像画──場違いなほどに明るい色で描かれた絵の前で、目を瞑って十数える。本来の自分に戻るための儀式を終えて、腕を伸ばした。
「かっこいいでしょう? 好きなんだもの、仕方ないわ」
「ですが、オリビアお嬢様があまりにお可哀想で……!」
家の事情をよく知るメイドは、私のことを思ってくれているのだ。嗜めることはしない。むしろ無茶をしているのはこちらのほう。
肖像画には今より少し幼い私──私と瓜二つの少女が描かれていた。名をエミリアと言う。
幼い頃から病弱だった、私の片割れは、三年前の冬を越えられなかった。
あれから三年。まだ三年だ。
「でも彼は、私の名前を呼んでくれるのよ。私だと、ちゃんとわかってる」
ファビアンは元々エミリアの婚約者だった。
お淑やかで可愛らしくて誰からも好かれるエミリアは自慢の婚約者だっただろう。もう少し身体が強ければ、と悔やみたくもなる。
反対に、私は人の二倍は元気だ。きっと、エミリアの分の生命力を私が奪って生まれてしまったのだ。馬に乗り、弓が好きで、木にも登る。そんな私は気に入られなかったようで、以前の婚約者には早々に婚約破棄されていた。
「だけどちゃんと愛を囁いてくれるのよ。私に、愛をくれるのよ? それがどんなに幸せなことか、あなたには想像できないでしょうけれど。ああ、咎めるつもりはないの、あなたが私のことを考えてくれているのはわかっているから。これで、このままで満足なの。お願いだから放っておいて。ちゃんと幸せだから」
「オリビアお嬢様……」
ずっと好きだった。
ファビアンはずっとエミリアを愛していた。そんな彼を好きな自分は、どこかおかしいのだろうかと悩んだこともあったけれど。
エミリアを見るなり優しそうに笑い、エミリアの身体を心配するファビアンが、私の目には常に輝いて見えていて、自分の気持ちを認めることしかできなかった。
だから三年前、ファビアンからの提案に飛びついた。
「エミリアを感じさせてくれるなら、君と婚約したい」と言ったファビアンの目は仄暗く、顔は青白く、髪も肌も荒れていて、以前の彼ではなくなっていた。正気を失っていた彼に付け込んだのだ。
この頃、屋敷中がエミリアの喪失感で占められていて、私がエミリアの格好をしたところで咎める人間もいなかった。
父も母も悲しみに暮れるだけだったし、使用人たちも哀れみの目を寄越すだけだった。
それをずっと続けている。時々失敗して叱られることはあるけれど、続けてさえいれば、ファビアンは愛をくれるのだから。
◇
もちろん歪な関係だとわかっている。だからいつも不安で、それを隠すように完璧に演じなければならなかった。
今日もまた、エミリアが好きなピンク色に身を包んで、ファビアンを出迎えた。
「しばらくきてくれなかったから、すごく寂しかった。何かご用事だったの?」
少し嫌な予感がした。
ファビアンの顔を見たのは、二週間ぶりだった。最後にもらった花はもう萎れている。
「……いや。大したことでは、ないんだ。──いや、大事なことだ」
違和感を決定づけるように、いつも見せてくれる満面の笑みは、陰っていた。
歪な関係が始まったあの日と同じ、ファビアンの目も顔も髪も肌も、荒んでいる。
どうして、と思う間もなかった。ファビアンは決心が鈍らないようにだろうか、口早に理由を話してくれる。それは聞きたくない言葉だった。
「……これまで、すまなかった。俺が愚かだったと気づいたんだ。エミリアは戻らない、そんなこと本当は前からわかっていたのに。君の優しさに甘えて……君を理想で縛って。エミリアの代わりにした」
「だから、もうこんな事やめよう、って? そんなの許せない。絶対に許さないわ!」
その先を遮るように、演技も忘れて大きな声を上げた。そんなこと、今更、許せるはずもなかった。
エミリアとしてファビアンに愛される日々は、もうかけがえのないものだ。それが無くなれば、正気を保てるかわからない。
宥めるように、困ったように眉を下げる彼は、初めて見る。
「違うんだ。エミリアの代わりに、ではなく、これからはちゃんと君のことを見たいと思って」
「ふざけないで」
これは私が愛する彼ではない。
「それで、エミリアを忘れるの? ──ふざけないで。ファビアンが好きなのは、エミリアでしょう?」
私が知るファビアンは、誰よりも何よりもエミリアを愛し、大事にした。
エミリアに向かって笑いかける姿は、どんな宝石よりも輝いて見えた。愛おしいと訴えかける紫の瞳が綺麗だった。
そして、それを受け入れるエミリアは──、一等美しく、楽しそうに笑うのだ。
「今さら、普通の愛なんていらないの。ファビアンに、私は、愛されたくないの。もし私を少しでも大事に、憐れに思ってくれるなら、エミリアを愛してよ」
趣味ではない可愛らしいドレスの裾を握りしめて、活発を隠した笑顔を向ける。
「ねえ、ファビアン。どうしたの? いつもみたいに笑ってほしいわ。いつもみたいに、抱きしめてキスをして。エミリアにするみたいに」
「……オリビア」
ファビアンはただ戸惑うだけだ。
私が見たいのは、決してそんな顔じゃない。
「……あなたは一度も名前を間違えなかった。だから一緒だと思ったのに。この嘘を喜んでくれると思ったのに」
エミリアに成り代わりたいわけじゃなかった。
エミリアに向けられる愛が欲しかったわけでもない。
ただ感じたかっただけ。
一番エミリアが輝いていた瞬間をずっと眺めていたかった。
目元を拭われて、自分の涙に初めて気づく。
私を案じる彼を見てしまえば、腕に縋りつくこともできない。ここにエミリアはいなくて、彼の目にも彼女は映らず、それが苦しくて、震える手で目を覆う。こんな世界に何の価値があるだろう。
「すまない、今日は帰るよ。……また出直す」
額に口付けされて、胸が潰れた。求めるようなキスではなく、宥めるようなキスは初めてだった。
顔を上げると、もうファビアンは背中を向けていて。自分の大事なものが消えてしまうような、立っている場所がどこなのかもわからない、気持ち悪さだけが残った。
◇
それから二週間後、再び訪れたファビアンの手には、ピンク色のバラの花束があった。
ファビアンの一時の迷いは消えたのか、彼の瞳にはエミリアが戻っている。髪も表情も元通りで安心した。
喜んで花束を受け取りながら、違う色の花が一本混ざっていることに気づく。青いカーネーション──私の好きな青い色を、そっと引き抜いて床に落とした。
「わあ、私の好きなピンク色ね! いつもありがとう、ファビアン」
「…………ああ、ここは少し寒い。早く部屋へ入ろう」
無邪気に、暖を求めるように擦り寄りながら、カーネーションを踏み潰した。