六の話 無貌面(中)
これは、何者かになろうとする者の話。
見ようによっては。自分こそは特別だと疑わない、掬いようのない愚か者の話。
間の幕 囁き声
昨日の演奏はなんだったんだ。
俺の演奏はあんなもんなのか?
客の反応も、俺の期待したものではない。
手応えも、まったくない!
なんでだ?
あいつらは、俺よりも先に居る。
技術も、稼ぎも。何もかも。
どうしてなんだ
なんで俺はこんなところで燻っているんだ?
違う。
俺はこんなもんじゃないんだ。
もっと、憧れていたプレイヤーたちに。
なんで近づけないんだ?
第五幕 朝の街 ~ マジナイ処 鈴鳴堂
午前四時半。目が覚める。ベッドの上で体を起こして、スマホからなっている推しのVライバーのオリジナル曲を止める。軽く体を伸ばして、シャワーを浴びに行く。
私の朝のルーティーンは、先輩との修行に合わせた時間になっている。先輩との修行ももう二ヶ月になっていた。
最初の内は出来なかった、体に気を乗せながら動き続けることや、格闘戦、長距離を走り続けることなんかは、正直かなりできるようになってきたし、今まで感覚で何となくやってしまっていた父と母の荒御魂である大口真神と合一した格闘戦や早駆けなども大分上手く、スムーズになってきたと言っていい。
それでも、菊理媛の制御には手間取ってばかりで、意富加牟豆美の召喚に至っては全く出来ない。
先輩は店の前に既に来ていて、私の姿を見掛けると軽く手を挙げて「やぷー」と声を発した。相変わらず、この挨拶の緊張感の無さには慣れることが無い。
青っぽい薄手のジャージに身を包み、前の部分を開けてタンクトップシャツや薄く割れた腹筋がちらちら見えるその服装は、正直どうかと思う。割と周りのおじさんや若い男の人の視線を受けているのだけど、先輩は全く気にしていない。
「いざって時はウチのが強いしな」
先輩はそう言って笑った。その言葉に偽りは無くて、五キロメートルのランニングの後、公園でやっている格闘戦の訓練では、どんなに慣れてきても一本を取ったことや、圧倒できたことは無い。父や母の力を使っても、力をいなされ、逸らされ、かわされる。そして、手痛い一撃を喰らうまでが訓練のお約束だった。
私が息切れして、芝生の上にひっくり替えっているのに、先輩は平然と立っている。私は汗だくなのに、先輩はうっすら汗ばんでいるだけ。流石に不公平ではなかろうか。
「経験の差やで?」
思考を読まれていた。
「助手ちゃんも飲み込みのエラい早い方やけどな。抜かされないか心配やわァ」
先輩はそう言うけど、今のところ抜かせる未来が見えない。
「さ、助手ちゃん、息を整えたらもうちょい続けよか?」
その後、力みが強いとか、姿勢の崩れを指摘されながら、両手両足に父と母を纏わせたにも関わらず、私はこてんぱんに負けて、一本背負いを決められてしまった。
店に戻る道では、先輩と取り留めもない会話をしていく。歩きながら呼吸と気の巡りとを意識するのは忘れず、それが日常レベルでも、無意識でも出来るようにするためのメニューでもあった。
「しかし、今回の件はまた大きくなったなぁ」
先輩は頭の後ろで両手を組みながら、空を見上げていた。
「のっぺらぼう、魂の欠落、顔の面、仙薬サプリ、動画の広告……相手の狙いが見えへんから、不気味でしゃーないな」
私も、その点では先輩と同じ意見だった。
「この犯人は、何がしたいんでしょうか? 例えば、仙薬の効果実験、とか?」
私は先輩の応答役をやってみようと思った。菊理媛のせいで先輩の声が良く聞こえるのだから、前よりも上手につとまるかもしれない。
「だとしたら、無差別すぎひん? ウチやったら、何人か足がつかない様な人を攫って試すなぁ」
先輩はさらっと怖いことを言った。
「どうやろ? 仙薬をばらまくことそのものが目的やってのは?」
「ばらまいて、どうするんです? 仙人を沢山産んで、その人たちを救うとか?」
「んー、ちゃいそうやなぁ。そもそもの話よ? 前もゆーたけど、仙薬の材料ってどれもこれもアホほど貴重やし、高価やねん。ばらまくのも、しょーじき何のメリットがあるか全く分からんわ」
「そもそも、あの薬の効果って何でしょうか?」
「今の所は、飲み続けると顔がお面みたいに外れて、自分に関する記憶が魂の一部と共に抜け落ちてしまう……なんやこれ? そもそも、効果が意味不明なんよ。その後の人達の様子を追加で見てみるしかないんかな? でも、それやと、手遅れになってまうかもしれんし」
先輩の声は沈みがちだった。
「だとしたら、ですよ? 沢山の人の顔というか、魂の一部を欠けさせること自体が目的なんじゃないですか?」
「んんぅ? それが何の意味になんの?」
「んー」
私もそこで考えてしまった。
今の所、まるで愉快犯的な犯行のようにも見える。実際、被害は出ている訳だが、顔がなくなって記憶が抜ける人が大量に生まれて、それが何になる? その後に、何が起こる? 魂が欠けることの意味はなんだ?
「やっぱり、お面が気になります」
「助手ちゃんは、のっぺらぼうになって、記憶が抜けるのと、顔がお面として落ちるってのは事件の核心に関係があると思とるわけや?」
「ええ。その、上手くは言えないですけど。顔って、その人をその人にしているとても大事な部分だと思いませんか?」
先輩は、少し早足で私の前に回り込み、私と視線を合わせるように少しだけ背をかがめた。
「確かに」
「でしょう?」
「このかわちー顔は、助手ちゃんオンリーやもん」
「……真面目に聞いてます?」
「聞いとるよ。今日も助手ちゃんはかわちー」
私はため息をついた。
「自分が自分だって一番わかる部分が、体から無くなるんだから、それがある事で認識してた事って、認識出来なくなるんじゃないですか?」
「なんや、哲学的なことを言うなあ。つまり、助手ちゃんは自分の顔がなくなった患者さんたちは、自分を認識する核を失ったから、自分に関する記憶をなくしてしまったって考えてるの?」
「魂の一部を欠けさせる薬だなんて奇妙なもの、そんな風にでもして考えて色々な可能性を探っていかなくちゃ、そもそも本質に辿り着くのなんて無理じゃないですか」
先輩はうんと唸ると、腕を解いて左手を顎に軽く当てて首を捻った。
「ますます分からんなあ。でも、うーん、顔がなくなる、のっぺらぼう、仙薬、うーん、なんか引っかかんねん」
「引っかかるって、どうしたんです?」
「いやな、昔どっかで、のっぺらぼうと仙薬が関係した話を聞いたような気がしてな……何やったかな」
「え、のっぺらぼうって、人を脅かすだけの怪異じゃないんですか。仙薬と関連することなんて」
そんな話をしていたら、いつの間にか店に着いてしまった。
今日は土曜日。学校は休みだが、店は午前十一時からは開けることになっていた。私はキッチンに入って開店準備を進めていたが、先輩はずっと仙薬のことが引っかかっているらしく、定期的に首を傾げたり捻ったりして、先生が残していった床の上の本の山から適当な本を取り上げてめくったりしながら、何とか思い出そうと必死になっているようだった。
開店準備が大体終わって、店を開けようしたそのタイミングで先生が降りてきた。目の下のクマが一層に濃い。昨日はほとんど寝ずに何かの研究をしていたらしく、小脇に数冊の本を抱え、服装は昨日最後に見た時のままだった。
「んがあああああ」
間抜けな怪獣みたいな音の大欠伸をして、頭を掻いていた先生は、床に座り込んで本を漁ろうとしている先輩を見つけた。
「おはよう、諸君……マユミは何をしとるのかね」
先生の目が真っ直ぐに私の方に向く。私は、今朝の一件を簡単に説明した。
「ああ、その話かね? それだったら「のっぺらぼう」じゃなくて「ぬっへっほ」の話だよ」
私は、意味がわからなかった。
「あの、もう一度お願いします」
「耳が遠くなったかね、助手君? 「のっぺらぼう」じゃなくて、「ぬっへっほ」の話だよ。別名は「肉人」とも言うが……おい、待て助手君、おい、マユミ! ほうけている場合では無い! お前の後ろにある本の山の丁度真ん中の和綴本だ!」
先生の声にはっと我に返った先輩は、言われた山から慎重に本を抜き出した。
本のタイトルは、『画図百鬼夜行』とかろうじて読める古い時代の本だった。先生はボロボロの和紙のページを素早くめくり、私たちに一枚の絵を見せた。
「何やこれ? ええと、ぬっへふほふ。何、この出来損ないのジャガイモが潰れたみたいな姿の妖怪は?」
「読んだ通りだ。ぬっへっほふ、またはぬっへっほ。目も耳も鼻もない、巨大な肉塊のような化け物のことを言う。夜道で出会した人間を脅すとか、驚かすとか、脂を吸い取るとか、まあ、出会ったところで命までを取るようなものでもないんだが。問題はこいつの類話にある」
先生の目線は素早く中空を左から右へと数回移動した。多分、頭の中に記憶した本の内容を読んでいるのだ。
「江戸時代に書かれた『一宵話』という本があるのだがね。慶長の頃、徳川家康が居城としていた駿府城の中庭に、形は小児の様で、手はあるが指はなく、顔も目鼻も判然としない肉の塊が出現したんだ。城内の人間は気味悪がって、主君家康の指示に従って素早く逃げ回るその異形を追い出してしまったのだがね」
「それだと、単に妖怪が出てきたっていう報告じゃないですか」
「短気だな助手君、話は最後まで聞きたまえよ。後からその話を聞いた薬学者が大層悔しがったのだよ。貴方たちが追い出した生物は古代中華帝国の書物に見る「封」と言うもので、食べることができたら様々な力を発揮できる仙薬そのものだとね」
そこまでの話を聞いて、私もようやく話の意図が分かってきた。先輩の勘は間違いではない。のっぺらぼう自身にも、仙薬との関係が存在していた。
「因みにこの肉人とも封とも呼ばれるものは、科学の世界でも多少の解明が進んでいてね。一種の粘菌だろうと言われている。もっとわかりやすく言うと何だね、アメーバだな」
「アメーバぁっ?!」
先輩が心底呆れたような顔をしていた。
「アメーバってあの、理科の授業とかで聞く、あれですか?」
「そうだ。自ら移動を繰り返し、時にキノコのような姿に変化して自らの子孫を残すという真性粘菌が、長大な歳月を費やして集合し、土中で成長したものを、古来より視肉とか、封とか言うのだよ。『山川経』にも多くの記述があるがね。特に興味深いのは、「食べても食べても無くならない肉」である点だ」
「待ってください。肉ですよね? だったら、食べたらそれっきりですよね」
「助手君、前後の文脈も踏まえて判断してみたまえ。視肉はアメーバの集合体なのだよ? もしも一欠片ほど残しておけたら、どうなると思うね?」
先生はメガネを半分ずらしながら私に問いかけた。
「ええと、アメーバ、だから、その、ええと、どうなるんでしょう?」
理科系の授業はマジナイ屋の呪文よりも複雑なのだ。起きていられた試しは無かったし、アメーバの生態なんて今まで考えてみようと思ったこともなかった。
「考えるのを放棄するのは猿でもできるのだよ、助手君。考え続けたまえ」
先生の無慈悲な言葉が耳に痛い。
「兄さん、助手ちゃんをいじめとる場合ちゃうやろ。アメーバだとしたら、細胞の分裂と移動を繰り返すことによって、人間の目には、取った肉が回復している様に見える、でええんやろ?」
「つまらんなあ、正解だ、マユミ。それが減らない肉、ぬっへっほのカラクリだな」
なるほど、何となく分かってきた。その、アメーバのすごい奴は昔から目撃されて、場合によっては仙薬の材料ともさてきたと。だとするなら、今回のっぺらぼうになってしまった人達の最後は、どんな状況になると言うのだろう?
「しかし、でかしたぞ。この理屈は突破口の一つとなるかもしれん。そしてもう一つの気になる点は、助手君のいう「お面」さ。こいつも、助手君の目のツケ所が良かったと素直に褒めておきたいね」
先生は、私と先輩を交互に見つめた。
「諸君はペルソナという言葉を知っておるかね」
私は口から出かかった言葉を思い切り飲み込むのに必死だった。つい最近発売されたゲームソフトのタイトルが『ペルソナ/スティグマⅤ』で、私の推しのVライバーが昨日の夜丁度攻略動画の配信を行なっていたけども。それが油断のために口から飛び出そうになっていた。違う、絶対にこれじゃない。
「心理学の言葉やろ? 表層的意識とか人格を表す言葉やったっけ?」
先輩の答えにとりあえず便乗して首を縦に振っておく。
「そうだ。心理学者のユングという男が提唱した理論による人間の一番目につきやすい意識の層を、ギリシア語で言う「仮面」に準えてこう呼ぶのだがね」
仮面……確かゲームでも、仮面とか人格とか、本当の自分というのがテーマだった気がするけれど。仮面?
「待ってください、人間の意識を仮面と呼ぶんですか?」
「そうだ、助手君。また繋がったではないか」
先生は口の片端を持ち上げて歪な笑顔を作った。
「人間の精神段階には、表層的な意識の他にも、深層心理である自我とか、人間の心の根本をなす超自我とかがある訳だが。ユングは意識を仮面に例えた。つまり人間は常日頃から、自分の本心を隠し、自分の顔というか、意識という仮面を貼り付けているのだと」
「仮面なぁ、上手いこと言うもんやな」
先輩は、ソファまでやって来て私の隣に座ると、私の顔をふにふにと弄り出した。
「助手ちゃんの顔のお面なら、ウチ欲しいなぁ」
「ふざけてる場合じゃないでしょ、先輩」
「ふざけて無いよ。むしろ、凄く真剣やよ。なぁ、助手ちゃん。助手ちゃんみたいに可愛い顔って、ウチ羨ましいで?」
先輩も可愛らしいというか十二分に美少女の部類だ。実は私のクラスの男子は何人か先輩にときめいてるらしいのだけど。そんな事を考えて、すぐに頭の中の考えを消した。先輩の言葉の裏側から、「やって、モモちーは普通の女の子の顔やもん」という声を聞いてしまったからだ。
「他人の顔を羨むってのは、昔からあるよな。あの子と同じ顔が欲しいって思うこと。ほら、アイドルのメイクとか流行るやん?」
そう言われるとちょっとだけ納得した。クラスの子達もTick Tackで流れてくるメイク動画の話は良くしている。
「脱線しとるぞ。マユミ。助手君、チミはさっきマユミの言葉の裏の言霊を無意識に読んで会話を選んだろ?」
先生の指摘に私は怯んだ。
「人間は、常に本心や自我をひけらかすものでは無い。時、場所、人、そこに対する気安さや、信頼感、自分の立ち位置などで発言や振る舞いは変化してくる。場に応じた仮面を被っている、という表現は別に不思議では無いだろうね」
先生は、深くソファに身を埋めて、長くため息をついて天井を睨みつけた。そしてその姿勢のまま、訥々と話し始めた。
「人間の表層の意識や振る舞いは、その人間が本来持っている気性に影響もされるが、実際にはその多くが後天的環境の中で獲得されるのだ。親の機嫌の取り方から始まり、褒められる振る舞い、怒られる振る舞い、友との接し方、話し方、話題選びや、そういった経験を蓄積させることで獲得していく。それがいいとか悪いとかでは無くて、そういうもんなのだよ」
「それが、まるで仮面の様だと言うんですか」
「本心を隠すためでもあり、世を渡るためでもある。どんな人間でも、この世界という巨大な劇場の中の一人の役者に過ぎんのだよ。社会とは、その場に集まった人間たちが、いつの間にか自分に与えられた役割の下、いつの間にか与えられた台本の下でこなして行く仮面劇という側面を持つのだよ。人間はな、本当の自分を知ってくれという欲を皆持つが、世の人間の大半は他人の真の姿なんて興味すらないのだ。その人間が、自分のいる劇の中でどんな役割を担うか以上の興味がある人間はいるのだろうかね?」
「そうでしょうか? 友達同士なら、本心を語れる友達、だっているんじゃないですか?」
「そうかなぁ、助手君。僕はこんな台詞をよく聞くのだが……「あの子が、あの人が、あんな人だとは思わなかった」。この言葉がなぜ生まれるのかを、チミは説明できるかね?」
その言葉を聞いて、私は言葉に詰まった。人間は、意識して他人の本質なんて見ない。その人がどんな役割をその場所でしているかが全てで、その人が本当は何を考えているか、とか、その人の家庭はどんなものだ、とか、そんなことには関心なんて基本払わない。それは、友達の間だってそうかもしれない。私も、先生が聞いたのと同じ言葉をこの店の相談客から沢山聞いてきたのだから。
「結局、人間にとっては見えているものが真実なのだよ。そんなもの、事実でしかないのだが。そこを区別している人間は数が異様に少ないのだ。教師にとってダメな生徒は、実は生徒にとっては良き友人なのだと、コミュニティでは十全に機能する人間なのだと気付く人間が少ないのと同じだね。だから、知らないモノを見せられると、さも怪異に化かされたかの様な反応をする」
先生は、目線を私たちに向けた。
「さて、ここからだ。まず一つ目として、仮面を身に纏うことの本来の意味を知るべきだ」
先生の纏う雰囲気が変わる。マジナイ屋としての先生へとスイッチが切り替わったらしい。
「いいかね。本来、仮面とは大和言葉では「オモテ」という。今の漢字では表と同じ発音だ。それこそ、人間の顔を示す言葉だが、同時に器物としての面は、かつては人間以外の何かを象って作られた咒術的側面の強いものだった。縄文時代に作られた土面、古代中華の青銅面などは分かりやすいね。あれこそは、非実在的な存在を具象化し、現世に確たる影響を表そうとする試みだよ。そこから、神仏の姿がハッキリしてくると、面にもその姿を落とし込む様になる。そして、神前や仏前で舞を踊り儀礼を行う者は、様々な仮面を纏うことにより己を消し、神霊をその身に宿して舞い踊った。現在に残る形としては能が一般的かね」
「兄さん、つまり仮面を被るってことは、端から別の何かになるって意味が強いってこと?」
「本来はその意味しか無かったのではないかね? アフリカでもアメリカでも古い時代の面は神や霊を模した物が基本形で、かなり時代が下るようになってから自らの顔を隠す面が普及するのだが」
「じゃあ、兄さん、二つ目の問題ってなんや?」
先生は、あまりにも長いため息をついて、眉間に深い皺を寄せ、腕組みをして固まった。
沈黙が続く。先生は、言葉を探すように口をもごもごと動かし続け、ううむ、と苦しげに唸ると私たちに問い掛けた。
「君達の仮面は幾つある?」
最初、言葉の意味が分からず、私は固まってしまった。先輩も困惑している様子だったけど、私よりは早く思考が纏まったらしく、ぽつりと言った。
「はっきりと分かんのは、兄さんの前、助手ちゃんだけの時、学校、あと黒井の家の中の四つや」
「ふむ、助手君は?」
「意識した事はほとんどないです……強いて言えば、一人の時と、それ以外です」
「ふむ」
また少しの沈黙。
「なんや、兄さんにしては歯切れ悪いなぁ、何が言いたいん?」
「その、仮面の正しさ、と言うべきなのかね」
「え? 仮面の正しさ?」
「正確さ、と言うのか。適応度というのか。ふさわしさ?」
先生は、本当に珍しく状況を言い表す言葉が出てこないようだった。
「……自分の本当の姿、でしょうか?」
私が出した言葉に、先生はおお、と感嘆の声を漏らして膝を打った。
「そうか、それで良いのだ助手君。マユミ、自分の本当の姿と言うのは、本来自分でも分からないものだがね、今の世の中は其れがさらに混迷を極めているのだよ」
「はぁ?」
「分からんかね。今の人間は、仮面を持ちすぎるのだ。学校、職場、友人グループそれごとに一つずつ、下手したら部活と普段の友人では使う仮面が違うかもしれん。それにインターネット上の付き合いまで含めてしまうと、どれが本来の顔だったかわからん奴も出て来るだろうよ」
「あぁ、そういうこと? 自己を確立させるための場所が多すぎて、どこに自分の立つ場所を求めるのか分からんくなるって?」
「そうだ。更に問題なのは、コミュニティの広大さだ」
「コミュニティの広さなんて今も昔もそう変わらんやろ? フツーなんてウチ知らんけど、友達グループとかそう言うのって今と昔でなんかちゃうの?」
私も首を振る、そこら辺の話題は私には無縁すぎる。
「インターネットの登場が、それを変えた。今や、個人の晒される世界は、個人の両の目で見えているだけの世界ではなく、縦にも横にも無限の如く見える広さを持つ、文字通りの全世界が相手なのだよ」
先生は、ようやく語るべき事が定まったと、何度か頷いた。
「本来、自分の仮面、要は表層の意識作りには他者との接触が必要だが、それは自分に関わりのある他者に限定される。付き合いが少ないのなら、逆に惑わされることは少ない。接触対象と比較対象が少ないのなら、自分の顔を何度も変える必要も無いし、そのコミュニティの中で満足に立ち振る舞えているなら疑いの余地なんて挟む必要は無くなるからだ」
先輩は、はっと息を飲んだ。
「そうか、今はインターネットに多くの人間が繋がっとって、発言も何も色んな場所に駄々流しで、それを何百万人の人間が見るかもしれんねや。とすると、本来拾う必要のなかった色んなことが押し寄せてくる。比較対象も、接触対象もアホほど増えてくるってなると」
「どう仮面を作ればいいか分からなくなる。そして、自分にない仮面を持つものや、成功者への羨みも強くなる。いつも、我々は他者の成功を覗き見させられ、自分と比較をさせられ続けることになる。そうなれば、どうだね?」
「確か、表層の意識が少しずつ自我にも反映されてくんやったっけ?」
「幼少期の体験が決定打らしいがね」
「じゃあ、ですよ?」
私は言葉を継いだ。
「今の人たちは、自分の本当の姿も分からなくなって、自分の仮面を作る材料も比べる材料も多すぎて、何もかもが過剰すぎて、自分を作れなくなっている人が多い、ってことですか?」
「そして、常に理想化した自分という届き様も無い存在、それこそ、生まれ変わった自分などという物に縋り付く者も増えた気がするね」
先生は、大きく息をつく。
「今回の仙薬テロは、そういった人間の心の隙間を巧みに縫って仕掛けられている気がしてならんのだよ」
先生は、枯れ枝の様に細く色のくすんだ指で、私にミルクコーヒーをくれと合図した。私は急いでキッチンに向かい、先輩と先生用の飲み物を作り始めた。
「ねえ、兄さん。じゃあ顔の落ちた人達って、兄さんはどう扱う気なん?」
「何らかの理由で自分を保てなくなり、自分という意識が切り離された状態だ、と捉えている。それが、咒的作用として顔の仮面としての剥離と、魂の一部の消失が発生している、と仮定している」
「これから何が起こるん?」
「分からんね。だが、今日、これから僕と小崎君は君たちが会うのに失敗した少年の診察に向かうことになっている。そっちは僕達に任せたまえ」
「ウチらは?」
「もう一度石井川女史の診療所に向かってくれたまえ。こちらも何も用意が無い訳では無い。考えがあるのだよ」
先生の声は、沈んでいた。
私はその時、始めて先生の言葉の裏を垣間見た。先生は、恐れていた。
何を、かまでは分からないけれど、先生の恐れるもの、とは一体何なのだろう?
間の幕 囁き声
目指しても、目指しても埋まらない。
極限の強さなんてないのは分かってる。
だけど、私はもっと強くなければいけない。
技に冴えを生むように。
獣が己の牙を研ぐように。
日々の鍛錬の中にこそ、その高みがあるのだ。
だけど、辿り着かない。
今のままでは、私の拳など価値などない。
もっと、強く。
もっと、鋭く。
もっと、逞しく。
なぜだ、ここまで真摯に向き合っているのに、何故たどり着けない!
私では、無理なのか?
第六幕 家庭訪問/石井川特殊診療所
僕達人間は、社会で生きるために身分というものを持つ。
特に、教員という身分は、最悪な事にこれ迄の人生の中で僕を何度となく助けてきた。マジナイ屋という、一般的な人間とは乖離した職種である僕が様々な場所に潜り込めるのは、一重にこの身分の恩恵である、と理解せねばならない。
部屋は、男子高校生の部屋としてはかなりこざっぱりと片付いている。母親から話も多少聞いては見たが、若干過保護の気があるようだ。定期的に掃除に入っているのだろう、几帳面なまでに部屋が整っている。
ベッドの上の生徒は、顔を布で覆われている。顔を見られるのを嫌がるために付けた、と母親は言う。
一緒に来た小崎先生に母親の相手を押し付けて、僕は生徒の観察に入る。
顔の布をどけてみると、取り立てて注目する点のない男子高校生の顔がそこにあった。一つおかしな点をあげるなら、顔の本体と、顔そのものが僅かに斜めにズレていることか。
僕は、照魔鏡入のメガネに咒を掛けつつ、二つ目の瞼を開く。顔の面部分は、気が集中して出来ているように見える。そして、糸状の気が顔から面に繋がっていた。
その糸は、僕の記憶の中の蚕の繭から紡ぎ出される絹糸に近かった。どこか銀を彷彿とさせる滑らかな表面。それが、自然と薄い黄金色にも見えるような。
「天蚕の糸、か」
誰に聞かせるでも無い声が漏れた。
「黒井大先生、いくら何でも酷いっすよ!?」
小崎先生が部屋に入ってきた。
「俺だって事情は分からねえってのに、お母さんに何を説明すりゃいいんすか!」
「ちゃんと宥めてきたんだろうね?」
「そりゃあ、まあ」
「じゃ、いいじゃないか」
「え、まぁ……いや、良くないっすよ」
小崎先生は相変わらずキレのいい反応をしていた。
「いや、巫山戯ているんすか?」
「僕は常に真面目だよ。現に、患者の診察は粗方終わったよ」
不服な顔をしてむっつりと押し黙った小崎先生を放っておいて、僕は道具箱から玻璃の小瓶を三つ、吸口と竹筒を取り出した。
「小崎先生。君の生徒は妙な薬を服用して苦しんでいる。その薬が体の中で妙な暴れ方をしているようでね」
そう言いながら、僕は生徒にかかっていた薄手のタオルケットを剥ぎ取った。上半身の寝巻きを僅かに捲り、腹だけ観察できるようにした。
「普通、こういう怪異に見舞われている人間には、見顕しと言うのを掛けて原因を探るんだ。それが呪いの類なのか、術の類なのか、別の存在からの干渉なのか、それが分からないと治療のしようも無いからね」
下腹部が、不気味に盛り上がり、蠢いている。僕は今、二つ目の瞼を開けているが、そんな技術のない小崎先生の目にこれがどう写るのか。
「なんか、え、腹んところが動いてます?」
「わかった、君にもあれは見えるのだね」
僕は自分の疑惑が確信に変わった。しかも、最悪な方向での正解に変わったことに、内心で大いに毒づいた。
僕は持ってきた小瓶から薬液を慎重に吸口に垂らし、竹筒から清水を注ぎながら真言を唱える。
『ナウマクサンマンダ・アビラウンケン・ソワカ』
大日如来の真言の言霊を受けた吸口の中の水は淡い光をたたえ始める。
「少年、少し水を飲みたまえ。気分がだいぶ良くなるぞ」
僕は吸口を少年の口に当て、ゆっくりと薬液を流し込んでいった。彼が戻したり、吹き出したりしないように、呑み込める分だけを少しずつ。
彼の口はちゃんと口として機能しており、水を飲み下す度に喉仏がきちりと動いた。後は、待つのみ。
「黒井先生、何飲ませたんすか?」
「こういう時は、これと相場が決まってる薬がある。そいつを、浄め祓いを施した清らかな水に混ぜて呑ませた。僕の見立てが合っているなら、そろそろ効果が現れる筈だがね」
少年の体が大きく跳ねた。ベッドの上で体を折り曲げんとする程に強く、唐突に跳ねた。
『オン・カラカラ・シバリ・ソワカ』
僕は咄嗟に早九字を切って、金縛りの咒を叩き付けた。少年の体はベッドに咒的に拘束され、跳ねることは無くなったものの、大きく震え続けた。
「ちょ、黒井先生、アンタ!」
小崎先生は、僕に掴みかかる寸前だったが、少年が口から多量の粘液を吹き出したのを見て、仰天してその気が失せたようだ。
「はぁ?」
少年は、とめどなく粘液を口から吹き出し続ける。その内、口の中から粘液に混じって、なにか個体が飛び出してきて、床の上でびちゃびちゃと不快な音を立てて蠢いた。
「効果覿面」
僕は、持ってきた大きめの玻璃の小瓶を用意し、粘液まみれで蠢くモノをピンセットでつまみとって入れた。それを、光に当てて見てみる。
「小崎先生、呆けている場合じゃないぞ。この瓶の中身が見えるかね」
「いや、黒井先生、こいつは!」
小崎先生は生徒の方が気になるようだ。
「よく見たまえ、彼はもう大丈夫だよ」
小崎先生は、僕に促されて生徒をよく観察し始めた。確かに、一般的感性の人間がさっきの光景を見たら目を疑うだろう。受け入れるのに時間もかかろうか。しかし、少年の体からは妙な気も抜け、顔も元通りに着いている。呼吸も脈も、普通の状態に戻って来ていると言って良い。
「彼に呑ませたのは、蟲下しだよ。体の中に巣食っている寄生虫を殺し、かつ体外に排出する効果のある薬だ。それを呑ませてみた所、これが吐き出された」
小崎先生は、ようやく小瓶の中身を確認した。
「うぇっ、なんすか、これ、芋虫?」
小瓶の中には、白い体に緑の斑模様が着いたような、人間の親指程はあろうかという大きな芋虫が見える。しかも小崎先生にも問題なく見えているのだから、これは実態のある存在なのは間違いがない。
芋虫は瓶の中で不気味に、しかしまるで耐え難い苦痛に抗う様にのたうち回っている。人間の体内でないと、上手く生きていけない特性を持つのかもしれない。
「これが、この少年を含め、あの謎のサプリメントを服用した人間の腹の中に、勝手に植え付けられているんだ。あのサプリメントは、要はこれの卵と言って良い」
「じゃあ、薬飲んだ人全員の腹の中でコイツらが育ってるってことっすか?」
「そうなるね」
芋虫は、徐々に動きが緩くなり、終いには動かなくなった。しかし、溶けたり消えたり等はしていない。
普通、咒式で編まれた式神などはこの時点で溶けて形を保てなくなったり、煙か薄靄の様に消えてしまったりする。さらに言えば、決して見鬼の才のない人間には観ることも出来ない。それが今回小崎先生にもはっきりと見えた実体のある存在だったことが、今回の件の異常性を物語っている。
「蟲が原因でおこる怪異自体は幾つもあるのだがね、コイツは本当に前例が無いよ。まず、それらの蟲は実体のない霊的存在である場合が多い。この蟲は異様だよ。特性的にいえば、蝶とか蛾とかの幼虫に近いが、こんな生態のモノは知らない」
そんな風に蟲の観察を続けている僕を他所に、小崎先生は母親を呼びに走り、掃除道具を一式持って現れた。母親は部屋の惨状を見て悲鳴を上げ、僕の事を一方的に非難したが、それも仕方の無いことだ。
「貴方は、教師だとか言って上がり込んで、うちの息子に何をしたらこんなことに!」
「断りなく治療を進めたことは謝罪致します。申し訳ない」
「治療!? 治療ですって!?」
「お母様の処置が適切だったため、本当の大事に至る前に対応することが出来ました」
僕は、敢えて母の会話を遮るように話した。
「事情を説明致します。端的に言えば、息子さんが飲まれていたサプリメントが非常に有害なものだったため、その毒素の排出を少々強引に行わせて貰いました。その結果、お部屋は大変に汚れてしまいまして」
「そうよ、こんなにこの子の部屋を」
「重ねて謝罪致します。ですがお母様。本当に処置が早くてようございました。このまま放置して居れば、この生徒さんは命がなかったかもしれません」
「何ですって?」
「お母様が訝しんでサプリメントの服用を早い段階で止めていただいた事が、彼が助かった要因なのですよ。ありがとうございます」
母親は当惑して力無く呆けた。実際、もしこの蟲が育った場合、最悪この少年の命を蝕むものになった可能性がある。蟲が蠢いていた場所は、気功の領域では「丹田」とされる、人間の重要な気の集約点の一つなのだから。
「若干の衰弱が見られますので、気付け薬を三日分、同じような症状が出た時のために弱い蟲下しを処方いたします。どちらもぬるま湯に溶かして、吸口などでゆっくり呑ませてください。そうすれば、一週間内に体は回復します」
「はぁ、体は、ですか?」
母親は呆けたまま戻らない。
「そうです。元々部活動の練習や日常生活などで悩みがあったようです。まずは、お子さんの言うことを黙って聞いてやる事ですな」
「はぁ」
「黒井先生、横から口挟んで悪いんすけど」
小崎先生は、真剣な面差しだった。
「それだけでいいんすか?」
「ああ。それだけで彼の精神は大分持ち直す。逆に小崎先生の言う「それだけ」が難しいのだがね」
僕は改めて部屋を見渡す。幾らかの賞状にトロフィー、写真が飾られている。また、本棚には使われた形跡の薄い参考書が数冊。部屋の掃除の行き届いている様。僕は、確認したい事を炙り出すため、言霊をかけることにした。
『お母様、失礼ですが大分心配をなさる性分とお見受けしますが』
「へ、え、ええ。あの、良く主人にも言われます、そこまで気にすると、むしろ神経質だとも」
『左様で。それは、息苦しいでしょうなぁ。どんな事をなさっていても心配が勝ちますか』
「ええ、つい、心配になって、良くない方に考えがち、かも知れません」
母親は、自分でも本音を吐露し始めているのに気づいても居ないだろう。小崎先生ですら、保護者の変化に驚いて固まっている。
『ふむ。その心配が、お子さんを苦しめているようですなぁ』
「はい?」
『お子さんを心配なさるのは当然の事です。子供というのは予測不能なものです。親の予想外にある諸々事を起こしますし、行く末だって気になるでしょう。出来れば良い方へ、幸せな方へ育って行って欲しい』
「え、ええ、そうです、私はこの子がサッカーが好きだったので、サッカー部の規模も大きい大和大学三条高校に入れたのですけど、勉強とか、進学とか、やっぱり色々気になって、部活動では、怪我だってしますでしょう?」
母親の目線は小崎先生に向かった。
「いや、そうならない様にトレーニングやストレッチをしますし、俺たちがグラウンドに入って指導をしていますよ」
「でも、怪我はあるんでしょう? 故障や、疲労による筋肉の、それに、練習量が多い気がして、いつも疲れてあの子帰ってきて、私」
小崎先生は困惑して、僕の肩を軽く揺すった。
「確かに、このお母さんちょっと心配性というか、過保護っぽいかなと思ってはいましたけど、黒井先生、なんかしたんすか?」
母親に聞こえないように囁く小崎先生の目は、母親から離れなかった。
母親は一人で蹲り、ブツブツと独り言を喋っている。自問自答しているようだが、答えが出ている気配は無い。内容をかいつまんで聴くと、「心配することを心配している」様な無益な独自をしていた。
「この少年の精神の置かれてる状態が知りたくてね。母親の精神を言霊でほんの少しだけ揺さぶったんだ。ここまで効果が出るとは思ってみなかったがね」
母親にはもう、僕の言葉も届かなくなりつつあり、小崎先生の姿も見えなくなりつつある様だ。
「心配が行き過ぎると起こるのが、善意から発生する過干渉だよ」
僕は母親のすぐ側まで近づき、耳元で真言を唱えた。
『オン・マリシエイ・ソワカ』
陽炎を神格化した摩利支天の真言が、母親の視界をぼやけさせ、酩酊させた様な状態を引き起こし、気絶させた。
「今は休んでおいて頂こう。部屋を簡単に掃除したら、お暇しよう小崎先生。道すがら残りは話す事にしよう」
僕と困惑の度合いを含める小崎先生は、取り敢えず目立つ粘液汚れを軽く掃除して、少年の家を後にした。
「黒井大先生、あんな適当でいいんすか?」
「屁理屈言う気は無いがね、適当な、処置はしたよ。それに、身体が回復したとして、精神の回復はすぐそばに居る人間の行動に左右されることが多い」
小崎先生は、あの少年の背景を家に入るまで僕に伝えていた。少々人の目を気にしやすい性分だったという。アドバイスなどは素直に聞いてくれるものの、聞きすぎるきらいはあったと。
「少年のその性格は、母親の心配性の裏返しだと思う。彼の部屋を見たかね。男子高校生の部屋と言う割には綺麗に整えられすぎていたし、寝巻きの柄やシーツの柄も、どちらかと言えば子供っぽい柄だった。あの部屋、定期的に母親が出入りしていたんだろう。つまり、母からの過度の干渉が存在するのが普通だった。行動の決定などの際も、周りの言葉をよく聞くという事は、周りの意見を聞かざるを得ない状況が普通のことであって、自分の行動を決める際にも日常的に母からの圧はあったんじゃないか」
「それが、今回の変な状況とどう関係するんすか?」
僕は、少し間を置いて語る。
「人間の、自分という意識は思春期頃に形が顕になって来るという。家族を離れ、友と会い、広い世界を知りながら、己の役を知り、自らを作り上げていくのだと言うのだよ」
「教育理論とか、心理学の理論で教わるヤツですね。確か、フロイトとかユングとかっすね」
「おお、小崎先生、覚えていたかね」
「案外好きなんすよ、そういうの」
「じゃあ、話は早いな。その自我形成に大人が干渉し過ぎると、大人になろうとする自分と、子供としての自分の葛藤がきちんと完了しない状況になったり、自分としての軸が作れずに周囲の意見こそ正義になってしまったり、する訳だよ」
僕は息を吐いた。
「つまり「俺は何なんだ」となる」
小崎先生も、大きく息を吐く。
「顔が落ちた、って時の前のセリフですか」
「部活でも成績が伸びずに悩んでたんだったね」
「そうすね、トレーニングとかは熱心にやるんすけど、何と言うか、結果を直ぐに求めすぎるんすよ。このトレーニングしてるから上手くなる、って考えちゃうみたいで。実際のトレーニングってのはものすごい頭も使いながら、コーチとかを頼って、自分に合う形を試行錯誤して整えていくもんだと思うんすけどね」
「多分、答えが直ぐに出る環境にずうっと居たんだろうよ。それを、母が与えていたのか、動画がその答えだったのか知らないけどね。今まで通じたことが通じなくなって、壁を乗り越えられず自我がぶれたんだろう。そこに、あの薬の販売元に付け込まれた訳だな」
「生まれ変わった新しい自分にっすか」
「理想の自分に簡単になれるなら、何物でもない自分から、理想的な自分へ成れるなら、苦しみから手を出そうとしたモノも多かったのではないかな」
僕も、小崎先生も、その後は少し塞ぎ込んだように、道をゆっくりと歩いていった。
私と先輩は石井川さんの医院に再び来ていた。先生との問答の後、石井川さんに連絡をとったところ、患者さんたちの状況はおかしな方向に悪化を始めたと知らせてくれた。
実際、二人の患者さんの他にも、三人の患者さんが増えていた。それぞれの方の背景も聞いてみたが、全く点でバラバラで共通性なんてない。でも、例のサプリ「UKA 2000」を服用していたという共通点はある人達だった。三人の患者さんの状況は、前回の二人と同じ程度。でも、前回から居た二人は、今や繭に包まれている。
誇張でなくて、ベッドの上に人間サイズの繭が形成されているのだ。
先輩は繭に対して、『智慧の眼』を使って見顕しを掛けていた。
「中には人間の気が確認できるけど、パッと見でそれと分からんくらいには変質しとるな」
「それって、もしかしてドロドロに溶けてるように見える、とか?」
「え、石井川さん、視える人やっけ?」
ここで言う視えるとは、見鬼の才があるのか、という事だ。でも、私の知る限り石井川さんはそういう才能は無いお医者さんでしかないはずだけど。
「いえ、状況からの推測っすよ」
石井川さんはあまり整えられていない髪を掻きむしりながら言う。
「この繭の形、どう見ても蛾の蛹とかそこら辺に通じるヤツっすよね。この感じだとカイコが近いのかな。昔、図鑑で覚えてたんすよ。蝶とか蛾とかの虫って、完全変態するって」
「変態?」
私は思わず素朴に聞き返してしまったが、先輩は顔を軽く赤らめた。
「んもぅ、助手ちゃんもお年頃なん?」
「……気持ち悪いこと言わないで下さい。どういう意味か分かってからかってますよね?」
「ちぇ、つれないなあ」
先輩は繭の表面を軽くなぜる。
「完全変態ってのは成長の中で完全に姿を変える生物に使う言葉やね。代表的なのは、蝶とか蛾や。だから、この虫たちはむかーしから、生まれ変わりやとか再生、もしくは魂の化身と言われとった」
「それが、人間で再現されている?」
「新しい自分に生まれ変わる……悪趣味やな、強制的な尸解仙やないか」
「あのー、すいませんね」
石井川さんは、眉根を寄せて困惑の色を強めた声で聞いた。
「尸解仙てなぁ、なんです?」
「警察からなんか情報は来てます?」
「あー、はい。薬の成分分析ですけど、黒井の先生から言われた成分が、まさかのほぼ含有されてましたね、いやもう、アホかと。水銀に砒素、ヒスイの成分やら琥珀、松ヤニっすよね。その成分も。あと、人の骨の成分も。あと、よく分からないものが二つ出たそうっすよ」
「もしかして、未知の昆虫の卵と、粘菌とかやないですか?」
「ほぼ正解っすね。何らかの昆虫の、多分幼虫なのかな? のタンパク質やらが検出されたと。正しく蝶や蛾の類のそれによく似ているそうで。後は粘菌、これも仮死状態のものが検出されたと。粘菌は種類によっては人間の人体に害を与えるものもあるんすよ。まあ、それ以外の成分もあまりにも有毒なもののオンパレードっすけどね」
「はぁ、ホンマにあの成分が入っとるんか、作った奴はアホちゃうか」
先輩は、大きなため息とともに天を仰いだ。
「あのサプリは仙薬ちゅうて、人間が仙人になるための薬なんです。仙薬の効果は「飲んだ回数」に左右されるモノもあって、今回のサプリは複数回飲むことを前提にするタイプやと思います。で、人間が死んだ後に仙人になる事を、ウチらは尸解仙と呼ぶんです」
「じゃあ、この繭の中で起きてるのは」
「人間が、仙人に作り替えられてるんやと思います、けど」
先輩は、小さく唸り、首を捻った。
「兄さんの調べでは、ここ三百年は仙人になったという人間の記録はほぼ無いそうです。せやから、この薬の本当の作用は分からん、そうです。でも、まだ人としての形を残しているなら、この薬が有効だ、と」
先輩は、ガラスの小瓶が三つ入った木箱を石井川さんに差し出す。
「毒を体外に排出する作用のある咒薬二種類と、ウチらの業界で蟲下しって言われとる薬です。これを混ぜて吸口で飲ませて欲しいと預かりました」
「効果は実証済みですか?」
石井川さんの顔は、真剣に先輩の目を見つめていた。彼女もお医者さんなのだから、薬の効果を気にするのは当たり前だった。
「さっき、兄さんから連絡がありました。別の患者で試したところ、原因を除くことに成功したそうです」
「分かりました、頂戴します。お代は後からお支払いするんで」
石井川さんは木箱を受け取ると、処方の準備をするために一度下の階へと降りて行った。
「助手ちゃん」
先輩は、私の肩に静かに手を置いた。
「この繭の中の人に呼び掛けられる?」
先輩の言葉に、私は強く唇を引き結ぶ。
菊理媛の力を使って欲しい、という事だ。私は、先輩が調整してくれた右手の念珠を握り締め、父や母を呼ぶ以上に神経を集中させて、呼吸を菊理媛と同調させるイメージを持つ。
『おしえて』
私の口から、菊理媛の声が漏れる。
私はそっと繭に触れる。
その瞬間に、濁流の様に私の中に、菊理媛の中に記憶が流れ込んでくる。
だけど、記憶に形がない。ドロドロに溶けて、泥のようになったなにか、感情も分からない、元々この人がなんだったのかも分からない。
あまりの事に、私は怯んで目が眩み、そのまま倒れそうになった。
次の瞬間、私はひたすら真っ白な空間で、菊理媛と向き合っていた。
『人間って不便ね』
彼女は言う。
『前に傳えたでしょう? あなたはわたし。わたしはあなた。わたしのみみはあなたのみみで、あなたのくちはわたしのくち。ただ、それだけなのに』
まるで拗ねた子供のように、菊理媛は告げる。
「あの繭は何なんですか」
『しらないわ。わからないわ』
「私には、壊れた記憶の群れしか見えませんでした」
『そうね、あの中にはそれしかない』
「あれは人間でしょうか」
『もう違うわ』
「では、何ですか?」
『しらないわ。わからないわ』
菊理媛はまた拗ねた。
『だって、聴こえないのだもの。話せないのだもの。私のわかることは、聴こえる事や話せる事だけ』
「案外不便なんですね」
『あなたは聴かないことが解るの? 話されないことが判るの?』
菊理媛は更に拗ねた。
『わたしは、あなたに出来る以上の事は出来ないの』
「え?」
『カミは何でもは出来ないの。出来ることが凄く出来るだけ。わたしなら、聴くこと、傳えること、報せること。それ以上は出来ない』
私は、自分の勘違いを思い知った。
そうか、今まで制御する事ばかりに気を取られてきたけど、実際に必要なのは菊理媛の耳や目を制御したり使おうとする事ではなくて、自分の目や耳の様に使ってみようと考えることだったのか。
『だから、この中のモノは、人間じゃない。それだけはわかるの』
「わかりました」
その瞬間、私は一気に現実の場所に引き戻された。体には妙な浮遊感が残っていて、正直気持ちが悪い。
すぐそばに居る先輩や、他の患者さんの声が何十倍にもなって耳に入り込んでくる。今、自分が本当に聞くべき音が分からなくなる。呼吸を普段通りに、体の気の巡りをいつも通りに整えようとするけれど、上手くいかない。
「がっ、あっ、はぁ、ぉっ」
頭が、割れる様に痛い。意識が引き剥がされない。ずっと痛い、気絶も出来ない。音の波、波が、駆け回って。
耳に、手が触れる。先輩の顔が私の顔のすぐ側にある。泣きそうに目が潤んでいる。耳に何かが付けられた。音が、引いていく?
頭の痛みが引いて、胸の動悸が治まって、段々と気の巡りがいつもの調子に戻り始めた。先輩は、自分の両の手で優しく私の耳を覆っていた。
「大丈夫!? 助手ちゃん、聴こえる?」
先輩の口から出る声だけがハッキリ聞こえた。
「はぁ、はぁ、はぁ、だい、じょうぶ、になりま、した」
先輩の手を上から触る。慌てたのか、少し汗ばんでいて、冷たい。
先輩の手がゆっくりと離れる。私はそのまま、先輩の手の下にあった自分の耳に手を触れてみる。触り慣れない感触が、耳にあった。
「あの、これは?」
ようやく息が整い、普段通りに会話ができるようになった私は、まだ涙ぐんで私を見ている先輩に問いかけた。
「試作品の、咒具や。助手ちゃんを守る……霊的な耳栓やで。そのまんまの耳栓やと可愛くないから、イヤーカフの形にしたんや。いたく、ない?」
私の耳の形にぴったりと馴染んで、重くもないし、違和感もない。
私は、平気だという証明に軽く微笑んだ。
「ここは、鏡が無いんですね。あったら見てみたいな」
「なんで?」
「凄く可愛いと、思うので」
「……っ、ホンマに、似合っとって、可愛ええよ」
先輩は強引にではなく、緩く私の腰に手を回して、肩に顔を埋めてため息をついた。あの一瞬、先輩も私が苦しみ出してしまってパニックになったのだろう、それでも咄嗟に対処してくれた。
それが、私は嬉しかった。
それを気取られない様に、先輩を半ば抱える形で、耳元で伝える。
「菊理媛でも、この中の状態は分かりませんでした。記憶もブツ切れになってますし、本当にドロドロの何かとしか言えないモノがあって」
そんな話をしていると、一つの繭の天井部分に大きな亀裂が入った。
「先輩っ!」
私の声に、先輩はすかさず私から離れて繭を見て、臨戦態勢に入る。右手には、先輩特製の咒具である「携帯電話型咒発動機」を握り締めながら、繭と距離を取った。私も父と母をいつでも呼び出せるように息を整える。
繭の亀裂はどんどんと大きくなり、亀裂からゆっくりと、青い燐光を放つ大きな蝶のような羽根が現れた。そして、繭が崩れていくと、そこには巨大な燐光を放つ蛾が現れた。
「な、なんやこれ?」
私も二つ目の瞼を開きながらこの蛾を捉えているが、これは実際の目にも見えていて、見鬼としての眼にも観えている。気の雰囲気は、人間のそれからかなり懸け離れている。だけど、瘴気ではない。むしろ、澄み切って人間の気よりも数段美しくすらある。
「助手ちゃん、手ぇ出したらあかんで」
先輩は、そう指示すると手の中の咒具のボタンを素早く操作し、右手を蛾へと向けた。
『術式七番、発動』
咒具が、機械的な先生の声を再現して術の発動を告げる。不可視の鎖が、謎の蛾を拘束して動きを封じる。
「ぎぃゅぃ」
蛾は苦しそうに呻く。鎖から逃れようと藻掻くが、それを解くことは叶わない。
「これ、纏っているのは凄く澄んだ気……自然の木とか、岩とかに宿る気と凄く近いもんや。ウチらは仙気って読んどる。これ、多分仙人なんや」
「この蛾が?」
「これが、あの薬のもたらす尸解仙をしたモノの姿なんや」
蛾は、ただ藻掻く。その度に、美しい羽根は避けていく。
「あかん、それ以上動かんといて」
「私たちの言葉が通じるんでしょうか」
「そうは見えんけどな、でも」
その時、蛾の動きがピタリと止まった。そして、羽根も、身体も何もかもが、もろくなった土のようにポロポロと崩れ始めてしまった。
「はぁ!? 何が起きてるん?」
私は懐に入れておいた回復用の咒符を蛾に投げつけ、印を結んで真言を唱えた。
『オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ』
全ての病を癒すという薬師如来の真言を札に作用させてみたけれど、蛾の崩壊は止まらない。
先輩は急いで咒を解いたが、解けても崩壊は止まらない。
「咒の影響やない。自分で自分の体を崩しとる、なんで?」
先輩の経験の中にも今回みたいなことは無かったようだ。私も必死で次の手を考えようとするけれど、あまりに異様すぎて頭が追いつかない。
迷っている間に、蛾の体はほとんど崩れてしまい、後にはキラキラと光る黄色味を帯びた宝石のような物が残された。
私も先輩も二つ目の瞼を開いたままでいたため、その正体がすぐに分かった。
人間の生命力、気、それが押し固められたもの。
「あかん、そうか、これ」
先輩が手を伸ばして、その宝石を取ろうとした瞬間、宝石は突如現れた黒い穴の様なものに飲み込まれて、その場から消えてしまった。
「は?」
先輩は、様々なことが一挙に起こりすぎて流石に困惑の色を深めていた。
だけど、その顔色は段々と青ざめ、表情は真剣そのものに変わってきた。
「助手ちゃん、急いで兄さんに連絡してっ!」
その声を聞き付けて急いで戻ってきた石井川さんに事の顛末を説明しながら、私は急いでスマホを取りだし、先生を呼び出した。
間の幕 囁き声
なぜあの小娘はワシを超えたのか。
ワシの七十年に渡る呪の研鑽は、あの小娘に抜かされたのか。
たった数週間。
この余りにもわずかな時間で、あの娘はワシを超えてみせた。
おかしい。
これは違う。
これは何かが間違えなのだ。
あの小娘は仙薬を作ろうとしている。
そうはさせん。
こんなものはインチキだ。
この、このワシがたどり着けない境地に、あんな小娘がたどり着くものか。
そうだ、この薬をあの小娘も飲んでいる。
これが仙薬なら。
ワシも、生まれ変わってしまえれば。
第七幕 三条警察署
「被害報告は三条市に留まりません。今、全国で同様のケースが報告されているそうです」
周藤さんは、緊張した声音で告げる。
ここは、警察署の中にある会議室。三条警察署の刑事さんである周藤さんは、緊張した声で資料を読み上げた。この場には、マジナイ屋から先生と先輩、そして私。石井川さんと周藤さんの五人が集まった。他の人たちを入れないのは、事情が分からない人達が入って混乱をしないようにという考えからだった。
「いつもご協力いただきありがとうございます、先生」
周藤さんは、先生に一礼する。
先生も、真剣な面差しでこの場に挑んでいる。
石井川さんの医院から先生に連絡を取ると、先生は信じられない速さで病室に駆けつけ、あと一つ残った繭を見るとすかさず行動を起こした。私たちには症状の軽い人達へ蟲下しを呑ませることを指示した上で、繭に無数の札を貼り付けていった。そして、繭の中のドロドロに崩れた何かを無理やり人の形に戻すために気を練り直そうと試みたが、失敗だった。
結局、繭からは美しく青い羽根を持つ巨大な蛾が生まれ、今度こそ状況を見守ってみたが、完全に羽根が乾き、羽ばたこうとした瞬間に体の崩壊が始まった。
寧ろ、先生はその瞬間を待っていたようだった。蛾が崩壊しきり、また宝石の様なものが残された瞬間に、宝石に金縛りをかけてその場から逃さない様に咒的に固定すると共に、また現れた謎の穴にすかさず札を一枚投げ付けて、その札が穴に吸い込まれた瞬間に、先輩に命じて穴を破壊させてしまった。
先生は、その一連の動きを流れるように指示を出し、先輩も寸分の狂いもなく穴の破壊をやってのけた。
「今回の一件は、ある特定個人の仕掛けた、超大規模な資材調達の過程であると考えて下さい」
先生は、ゆっくりと告げた。
先生は、手の中にあった例の宝石のようなモノを皆に見えるようにかざした。
二つ目の瞼を開ける人間だけでなく、周藤さんにも石井川さんにも見えている。
「資材の調達、ですか? これだけ多くの人間を巻き込んだこの事件がですか?」
「ええ。これの作成を目的としたね」
周藤さんの問いに先生は答える。
「それは何です、先生のご報告では、人間の体から出てきたものだと」
「だけど、人間の体の器官でそんなもんは無いっすよ?」
石井川さんが言う。
「これは、人黄と言うものです」
先生が言う。
「人間の中に存在する咒的なエネルギー、気の高濃度結晶体になります。存在自体は様々な文献で明言はされていましたが、実物を見るのは僕も初めてですな」
「気の高濃度結晶体っすか?」
石井川さんは怪訝な顔をする。
「そうとしか言いようがないのですよ、石井川女史。荼枳尼天という神が仏教にはおりますが、これが様々な神通力を発揮する上に、人間にもその力を授けると言います。その、力の大元が人黄です。荼枳尼天は死期の近い人間からこれを喰らう事で神通力を得ているそうでしてね」
先生は手の中の人黄を光に透かして見た。
「事実、これを咒術師や咒具師が用いれば、自分の気の総量を優に越える気を用いる術を、代償や反動なしで使えるようになりますからね。マジナイ屋にとっての夢のアイテムと言って良いでしょう」
「じゃあ、先生。あのふざけた薬は、これを作るためだけにばら撒かれたって事っすか?」
「左様です」
先生は、人黄を握り締める。
「変わりたい願望のある人間に対して、サブリミナル効果のある広告や動画を拡散し、仙薬を買わせて飲ませる。そして、生まれ変わりをチラつかせながら」
先生は、大きくため息をつく。
「実際にはコイツを作らせる」
手から、人黄が零れ落ちる。
「ここからは、僕の弟子たちが説明を続けます。マユミ」
先輩は頷いた。
「えっと、お二人共、人黄の効果はわかって貰えました?」
「なんとなく、はですが」
周藤さんが言う。石井川さんも頷く。
「実は、この人黄はあるものの材料なんです」
「はぁ? これが材料?」
石井川さんが呆れたように叫んだ。
「ただでさえ人間を材料にするとかアホなことしてんのに、この上これ使って何作るってんです?」
「……本物の、仙薬、「金丹」です」
「きんたん?」
「人間が、仙人なんてトンデモ存在になるには、体全部を根っこから、仙人ていう別の生きもんに作り替えんとアカンのです。そのために使うホンモンの仙薬である金丹には、人黄を使うレシピがあるんです」
周藤さんは、絶句していた。石井川さんも口に手を当てて黙り込んだ。
「無理ありません、やって、こんな人の道に逸れる様な薬、幾らウチらマジナイ屋がアホやからって手出しません。伝説の薬やったんです」
先輩は、二人の反応を見ながら、ゆっくりと語り始める。
「でも、製法は伝わっとる。かつて、古代の中華帝国で、仙人を目指した人らは、材料を専用の炉にくべて、何日も何ヶ月もその中で火にかけ続けて、丹を練る、という作業をしたんです」
先輩は、ホワイトボードにイラストを書いて、門外の二人にわかりやすく説明をしようとしていた。
「この丹は、練れば練るほど効果が強くなって、仙人になれる期間が短くなるんです。一番練られたもんで、九回。これを九転の丹と言って、呑むとそのまま仙人になれると」
「それに、その、人間を使う訳ですか?」
周藤さんが、低い声音で聞く。
「……はい」
先輩も、歯を噛み締めて、苦しそうに呟く。
「人間って、普段の生活でエネルギーを燃やして生きてますよね、石井川さん」
「ん、そうっすね。人間の体はこんな小ささのくせして、とても巨大な化学工場でも顔負けな位の化学反応を起こしながら、エネルギーを燃やして生きてますよ。それが何か?」
「やったら、人間の体も、炉、ですよね?」
石井川さんは、はっと驚いた顔をして絶句した。
「ある方士、あの、仙人を目指す人が、考えたんです。自分で丹を練るのでなく、人間という炉の中で練った丹であれば、どの様な効果をもたらすのか、と」
先輩は、息を吐きながら言う。
「そいつは、時の皇帝を騙して、多くの奴隷や五十人を超す少年少女、仲間を引連れて、中華帝国から、倭国に渡ってきて、実験を繰り返したんです。そして、人間の気を食って育つ蟲を生み出して、その蟲を少年少女の体の中で飼わせ、育て、その蟲の中から人黄を取り出す技術を開発した、そうです。その人黄を寄せ集めて、作り出した丹の名前が「九転太清神丹」。作った方士の名前は、徐福、です」
会議室の中に沈黙が流れた。
周藤さんが、資料を見て、言う。
「既に、全国に照会してみた結果、同様のケースが各都道府県で相当数報告されています。今のところ、繭から人黄が生まれたケースが三十件以上。各地の専門家が対応しているようですが、繭まで来てしまえば、破壊するしかないと、破壊まで行ったケースも、あると」
先生が、口を開いた。
「繭の破壊は殺人と同じですよ」
「しかしっ!」
周藤さんは机に拳を打ち付けた。
「それ以外にやり方があるのですか!」
「……すみません、ありませんな。繭を形成する前段階、顔が剥離する症状の段階なら、まだ蟲下しや毒消しが効くのですが、繭まで行ってしまうと人間には戻せなくなってしまう。変質が進みすぎてしまうのです」
「早期に発見し、投薬するしかないということですね」
「そうすれば、まだ被害は減らせます。緊急事態につき、今回使用した蟲下しや毒消しのレシピと製法は、マジナイ屋の協会を通して全国に公開します。その薬さえ飲ませる事が出来るなら、身体の中に巣食う、「常世神」を排除できます」
先生は、ため息混じりに言った。
「なんすか? トコヨノカミ?」
「ええ、薬の中に混じっていた謎の蟲の正体ですよ」
「あ、あの患者さんが吐き出した芋虫っすか?」
あの後、新しく来ていた患者さんには蟲下しが効いた。口から大量の粘液とそれなりに大きな芋虫が吐き出される瞬間を見たけれど、あんなに気持ち悪い光景も中々ない。
「ええ。昔むかし、大生部多という天皇の養育係に連なる家の出である術者が、橘の葉につくある蟲そのものを常世神として祀ると、老人は若返り、貧者は富を得るのだと触れ回り、信者を急拡大していたと言います。彼の活動地は、今で言う富士川のほとり。そしてこの一帯には、先に九転太清神丹の作成法を考案し、実際に作り昇仙したと伝わる術士、徐福の伝説が多く残る地なんですよ……無関係と思えますまい?」
先生は言う。
「良質の丹は、別の金属と混ぜて炉にくべると金を生じるとも言うのですよ。丹そのものから金を生じるとも。そして、呑めば生まれ変わりを促す丹、それを作り出す蟲。多分、大生部多は丹を作りたかったのでしょうね……実際は、朝廷から遣わされた秦河勝によって捉えられ、この常世神ブームも終結した、らしいですがね。単なる邪教程度に朝廷は動きますまいて。実際は、今回同様の国家の大事とされたのでしょう? でなければ、国書である『日本書紀』などに記されるはずは無いでしょうに」
先生はそこまで言って再び口を噤んだ。そして、指で私を指すと、続きを、と促した。
「後は、この件の犯人、です」
周藤さんと石井川さんの緊張が高まるのを感じた。
「周藤さんも、石井川さんも、覚えがないですか?」
私の問いかけに、二人は困惑したようだった。
「それは、平坂さん。我々が犯人を既に知っている、と言いたいのですか」
「はい」
私は、迷いなく言う。
あの時の穴の気配、先生の照魔鏡が見たもの、先輩の目が捉えたもの。私が経験してきたこれまでの事件の中に、背景は違ったけれど、よく似た手口の事件があった。
「覚えていませんか、「友斬葬」事件。あの時も、動画を使って呪いが販売されて、たくさんの場所で被害が出て。今回のやり口と凄く似ているんです」
周藤さんは、静かに頷いた。石井川さんも、眉間に皺を寄せ考えている。
「ネットを使った無差別なマジナイの行使、確かに、そうっすね。でも、あの時の犯人の二人は」
「僕が殺しました」
先生は、ゾッとするほど静かに、感情を押し殺した声で呟いた。
「ですが、あれは実行犯でしかありません。黒幕は別人です」
先生は、ゆっくりと立ち上がった。
「助手君、人黄を掠め取った穴、あれに見覚えがあるね?」
「はい。宮内さんと鷺坂さんが使っていた術式と同じものです」
自信を持って言える。あの二人と、術のやり取りをしたのは私だけだから。
「あれを作ったのは、僕の、弟子の一人だった人物です」
「先生、じゃあ、あの先生の報告にあった、三条高校のソフトテニス部の事件の主犯ですか」
「そうです、あれは学内の問題でしたから、僕が手を下しましたが、今回も、前回も、もう「彼女」を庇い立てする理由は無くなりました」
先生は拳を握りしめる。
「彼女は、自分の利益と興味のために罪もない、関係もない多くの人間を手にかけてしまった。それは、術者として許されぬことです。もちろん、人倫に照らしても看過できぬことです」
先生は、溜息を押し殺し、唇を固く結んだ。それを、ゆっくりと開き、告げた。
「今回の主犯、津田沼里緒菜と対決せねば、ならんでしょう」
先生は、とても苦しそうにそう告げた。
間の幕 ナリタイワタシ
ワタシは、何者かになりたかった。
出来るなら、特別になりたかった。
出来るなら、誰かの特別になりたかった。
ワタシは、人よりも人と上手く話せた。大人だって、子供だって、同い年の子だって、人よりも余程上手く話せるし、余程楽しくさせることが出来た。
そんなワタシを、みんなは褒めてくれた。
ワタシは、人よりも人の心を察することが出来た。母や、別れた父、再婚した義父、周りの教師、彼らが何をすれば喜んで、どう受け答えれば微笑んでくれるか知っていた。
そんなワタシを、みんなは褒めてくれた。
ワタシは、特別だった。
ワタシは運動が好きだった。テニスが好きだった。努力をするのは嫌いじゃななくて、上手くなるのは好きだった。みんな褒めてくれた。ワタシも褒められるのが好きだった。どんどん強くなった。それがワタシの喜びだった。
そんなワタシを、みんなは褒めてくれた。
ワタシはメイクが好きだった。服を集めるのも好きで、髪型はオシャレにしたかった。でも、テニスの先生たちには短い髪の方が喜ばれた。ワタシは我慢した。それで褒められるならそれで良かった。
部の中でも強くなった。みんなに頼られた。部長を任された。どんどん特別になっていく。辛いこともあったし、理不尽なこともあった。でもそれは、ワタシが特別な何かになるために必要な事で、当然のことだと、そう思っていた。
本当は、ゲームが大好きで、イラストを描くのが好きで、編み物が好きで、あみぐるみを一日作っていたい日もあった。旅行が好きで、景色を見るとワクワクしたけど、部活が忙しくてそれどころじゃない。でも、それで良かった。だって、自分の好きを我慢して、一番の好きに打ち込んでいたらみんなが褒めてくれたから。これこそが、特別なんだ。
先生が、大好きだった先生が、この人になら教わりたいと思った人が、死んでしまった。この人の下でなら、特別になれたのに。なんでこんな理不尽な目に合うのだろう。
部を継いだ先生も、産休で居なくなる。ワタシは、どうしたらいい?
新しくやってきた先生は、すごく変な人だった。今まであったことも無いような、すごく変な人だった。
でも、熱心だった。いつでも、ワタシ達の傍に居ようとしてくれた。正直、それをこの人が望んでないことくらい分かって居たけれど、それでも、変な先生はワタシの話を聞いてくれた。
ワタシが特別になるためにどれだけ頑張ってきたのかを。ワタシがワタシになるために、どれだけ頑張っているのかを。変な先生は沢山聞いてくれた。
ワタシは、この人の特別なのかもしれなかった。他の部員たちがしないような話もしてくれた。車で移動する時に、運転をかってでてくれて、その間もたわいない話をしてくれた。
練習で困っていた時、試合で勝てない時、たくさんのオマジナイを教えてくれた。
こんなのは、知らない。
これこそ、本当に特別なもの。
これが覚えられたら、使えたら、本当に特別になれるんだ。
必死に覚えた。テニスと同じくらい真剣に覚えた。変な先生もきっと喜んでくれる、褒めてくれる、これで上手くいく。
変な先生が、うちの部の顧問になった。その頃から、先生は笑わなくなった。顔は笑っているけれど、いつも辛そうだ。立場が変わったのか、コーチたちといつも揉めている。そんな姿、見たくは無いのに。
変えて欲しいんじゃない。聞いて欲しいだけ。打ち込んで欲しいんじゃない、そばにいて欲しいだけ。変わって欲しいんじゃない。寄り添って欲しいだけ。
先生と、ワタシたちはどんどんズレていく。
ねえ、褒めてくれないの? 聞いてくれないの? ほんの数ヶ月前まで、先生は笑っていたよね? なんで笑わなくなったの?
信じていたコーチは、言うことが移り変わって信じられなくなった。あれほど熱心に話を聞いてくれたのに、今は、何も。あの人たちも、ワタシの本当は分かってくれない。
ワタシは、ただ。
ただ?
何をしていたんだろう?
ワタシは特別になりたかった。だから、みんなに褒められるようにたくさん、頑張って、でも、あれ? これはワタシのしたいこと? ワタシ、何のために頑張ったの?
本当のワタシを、苦しんだワタシを見せたら、みんなソレはワタシじゃない、なんて言う。ちがう、みんな知らないだけで、これがワタシ。本当の。
あれ、みんな本当のワタシは見たくないの?
あれ、ワタシ、みんなに本当のワタシなんて見せてきたっけ?
ねぇ、先生、みて、ほら、たくさんオマジナイを覚えたんだよ? 凄いでしょ? これで、褒めてくれる?
ねぇ、なんでそんなに悲しそうな顔をしているの? なんで、何も言ってくれないの? ねぇ、どこに行くの? 明日は、大切な試合の日なのに。
先生は来なくなった。顧問を辞めた、と聞かされた。産休だった先生は帰ってきたけど、ワタシが欲しかったものは何も手に入らなかった。ワタシが成りたかったワタシには、なれなかった。
変な先生は二度と来なくなった。
二度と、姿すら、見せなかった。
なんで? なんで? なんで? なんで?
ワタシは、特別になりたかった。
ワタシは、特別なワタシになりたかった。
ワタシは、特別になれないのなら。
足りない、足りない、足りない。
知識が足りない、技術が足りない、もっと、もっともっともっと。全部、ワタシは誰よりも特別になれるなら。ワタシが誰よりも特別に、特別な、本当の、ワタシに、誰からも必要とされる、ワタシに。
ねえ、ワタシを、みて?