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鈴鳴堂怪奇譚  作者: 秋月大海
2年生編
7/12

五の話 逆鬼子母(下)

このお話は、偉大なる母の愛の話。または、女という生き方を貫く者の話。

見ようによっては、歪んだ母の愛の話。我が子の為なら鬼にも変ずる、尊く愚かな母性の話。

第七幕 マジナイ処 鈴鳴堂

先輩と先生が向かい合っている。間のテーブルには、 「セラピーストア ラクシュミー」のパンフレットが置いてある。

先生と先輩は二人であるページを熱心に読み込んでいる。

私はとりあえず邪魔にならないように、先生用のミルクコーヒーと、先輩用の蜂蜜が多めのミルクティーを準備していた。

この二人は、仕事の話をし始めると途端に真剣というか、息のあった掛け合いになる。それまではズレた漫才みたいなやり取りをしているのに。

「マユミの見立ては分かるが、この真言はラクシュミーのものじゃない。ハーリティのものだ。この吉祥果、まあザクロに着目した時に、ストレートに解釈しても良かったかもしれんぞ」

「ん、名前に引っ張られすぎたんや……んん」

「それと、ここの部分は別の真言だ。真言というかマントラと言うべきなのか……ひどく珍しい、使われているのを見たことがない」

先生は軽く真言を唱えながら、眉間に皺を寄せる。

「おん、しゃれい、しゅれい、じゅんてい、そわか。准胝観音に仮託されているようだが……その次の真言も、これは……黒暗天女……カーリー女神……」

先輩の顔が曇る。

「待って、なんでお母ちゃんたちの互助グループの主催者がカーリーなんて祀っとるん? やってカーリーって」

「うむ、ドゥルガーから生まれ出てた黒き破壊者にして狂乱の踊り手、シヴァのシャクティにしておぞましき死林の神、ダーキニーの首領だ。からら、しりえい、そわか、ふむ、間違いないだろう」

「どういうこと? 理想の母ちゃんをめざしとる連中が戦争や殺戮の女神を祀っとるん?」

「さてな、それを下手に推測すると見るべきものが狂ってしまう」

先生と先輩のカップを並べてテーブルに置く。

「ありがと、助手ちゃん」

そう言ってカップを取る先輩の顔を、先生は少し驚いた表情で見ていた。

「……良いのか、マユミ」

「ええの、決めたから」

「そうか」

先生の表情に一瞬、暗い影が差した。

先輩の中にある影を、先生なりに慮っていたのだと思う。これまで、この仕事に係るまでは全く仕事を受けていなかった。今回も調査はしてみるけれど、と言った風で、全く乗り気ではなかった。

「助手君、話は聞いていたかね」

先生はそう言って私を向く。

「ええ、ある程度しか分かりませんでしたけど、違和感がある、んでしたね?」

「せや。コレ見てみ」

先輩が見せてきた絵は、あまり気持ちのいいものではなかった。青黒い肌をして、冠を被った女の人が思い切り長い舌を出して、口を裂けるほど開いている。たくさんの腕と、たくさんの武器、首には、人の生首をネックレスにしてかけている。スカートは、人の腕。絵は踊っているように見えるが、その下には男の、人? が横たわっている。その人のお腹の上で、この女の人は踊っているようだ。

「なんですか、この気持ち悪い絵」

「ん、助手ちゃんには刺激が強かったかぁ」

そう言いながら抱きついてきそうだったので、私はお盆を突き出して持たせてしまった。

「ぷー」

「宗教という奴は、わかり易さが大切なのだよ助手君。この絵の女神だがね、君は気持ち悪い以外にどう思うね」

「え? そう、その。男の人が手も足も出ないでいるんだから、その、強いんだろうなぁ、とは。その、武器、もたくさん持ってますし」

我ながら小学生みたいな答えを言ってしまったと恥ずかしかったが、先生は満足そうに頷いた。

「よく分かってるじゃないか、その通り、この絵は見たままを感じれば良い。この絵の女神はとんでもない破壊衝動を秘めている。一度暴れ出すと周り一帯を破壊し尽くすまで辞めず、その足踏みが地を毛破り、揺るがせるから、仕方なくシヴァの大神がその腹の上で踊らせているのさ。この世の破壊と創造を司る、ヒンドゥー教の三大神の腹の上でだぞ?」

先生はどこか愉快そうにニヤついた。

なるほど、あまりに凄まじい力を持つ戦の女神。それがカーリー女神なのだ。

だとしたら、である。そんなものを信仰しているセラピストがまともな人なんだろうか?

「助手君、常識という言葉を疑いたまえ」

先生は私を見つめて言う。

「例えば、飯の椀を持たず食うのは、我が国では犬食いと言って嫌がるが、隣のお国では椀を持つことを卑しい食い方として大層嫌う。僅かにそれだけでも大きくズレるのだよ。例えば、カーリーに関してもその圧倒的な力のおかげか、現在でも根強い信仰があるのだよ」

「女が弱くあるんでなく、強くある訳やし、しかも女の神さんが魔物を殺し尽くした武勇譚が元やからなあ。ドゥルガーにしろカーリーにしろ、今の女性にはむしろウケがいいんかなぁ」

先輩は、額を指でひたひたと小突きながら唸っている。

「神と言うのは、時代によって、また人や地域によって疎まれもするし望まれもする、という事だ」

先生はパンフレットを手繰り寄せ、他のページも幾らかパラパラとめくっていたが、ふと渋い顔をして手を止めた。

「二人とも、見たまえ」

そのページには、座禅というか、ヨガのポーズを組んだような女の人の写真と、その写真に被るような形で、いくつかのマークが書かれている。その写真の周りには、みんなでエクササイズをしている様な写真が乗っている。なんというか、オシャレなジムのCMで見るような写真だとは思うが。

「この動き……それにこの瞑想法は……」

先生は、そう呟いて写真を見つめた。私も先輩と写真を見てみるが、私はどうもよく分からない。

「カーリーの神格は一つではない。破壊と殺戮をもたらす女神と同時に、子宝をもたらす女神とも言う。神話のひとつにね、暴れ狂う彼女を宥めるためにシヴァ神が幼い子供に化けて近づいていったら冷静さを取り戻して正気に帰ったというものがあるのだよ。そこら辺から来ているのかねぇ……。これだけ多様な神格としての側面を持つからこそ、多くの信仰を得ている訳だがね。正しく、鬼子母神の一角と言って差支えは無い訳だなぁ」

先生はそう言うと、パンフレットを閉じて先輩に渡した。

「ここを調べると言うなら、マユミ、支度を整えることだ。よく調べ、内部に潜り込むことも必須だろう。相手は下手をすると素人ではないよ。母、なんて言う不安定なものをターゲットとするからには、それなりに人心掌握に長けている上に術を使う可能性もあるからな」

「わかったわ。助手ちゃん借りてもええ?」

「やってみたまえ。僕は僕で、独自に調査を進める」

先生はソファに深く腰かけ、ミルクコーヒーをすすりながら低い声でブツブツと何かを呟いている。積み上げられた本を開いては、顔を宙に向けて目をなにかを追う様に泳がせる。

「兄さんはああなると当分動かんのよ」

先輩はお盆を抱えながら、先生の方を見ていた。その視線は普段のものよりちょっと熱っぽい気がした。

「さ、うちらも授業の続きして、支度を始めよか」

先輩に促されて、私は今日も呼吸を意識し始める。


第八幕 セラピーストア ラクシュミー

そのお店は、三条市から下り電車に乗って一時間、駅を七つ過ぎた街の中にあった。雑居ビルの一階から二階を使っている。一階はガラス張りになっていて、明るい店内の様子が見える。一階は、雑貨店を兼ねているようだった。

「入る前に、これ渡しとくな」

先輩は、私の右手の人差し指に指輪をはめた。ピッタリとサイズがあっているのがちょっと怖いけど、よく見ると表面に真言が幾つか刻みつけてある。

「はめてる間だけ、気を喰うんやけど、その間隠形をかけ続けるっていう……試作品」

「え、試作品?」

「急拵えやけど、今まで作ってきた咒具のグレードアップ版やから大丈夫。先輩を信じてや」

「はぁ」

私は指輪に気を流すイメージを取る。ほんの少しずつ、気が指輪に流れ始め、リンクが繋がった感覚がある。

「もって一時間てとこや、はよ調べてみよや」

先輩は、自分で隠形を施した後、店の入口の周りを素早く見回した。そして、右手を入口に向けてかざした。

『三番、展開』

先輩の右手薬指にはめられた指輪が薄く光る。先輩の薬指から気が白い糸のようになって漂い、入口の周りを撫でるように這いまわった。

「うん、特に感知系の術や道具はないな。入ってみよ」

先輩に連れられ、私は店に入る。

入ってすぐ、妙に甘い匂いが鼻をついた。

店の中は、まじないの知識がある人間のものだとすぐに分かる作りをしている。幾つかの魔除けの置物や壁掛け、先生の店の資料でも見たインドの女神たちの絵画などが配置されて、簡単な結界を作り出している。店の入口側には、お香や小さな神様の像、指輪やネックレスなどの雑貨に見える咒具、咒物が並べてあって、他にもたくさんのパワーストーンなどが並べられている。

先輩は素早く店内を見回す。店主らしき人の姿は見えない。先輩は油断なく店内をぐるりと見回して、目線を上に向ける。

先輩は私を近くに寄せて、上を指刺す。

だけど、決して言葉を話さない。ふざけている訳ではなく、咒具の多さから罠を警戒しているようだった。

私は頷いて、左手の念珠に右手を添えて念じる。言の葉に乗る言霊でなく、自分の体の中側から父と母に霊的な繋がりがあることを意識する。父と母の目と耳が、私に通じていることを強く意識する。

『なれのみみは、わがみみ。なれのめは、わがめ。あいつうじよ、わがみみ、わがめ』

口には決して出さず、心に強く念じると、次第に今見ているものが遠ざかり、父の目線へと移り変わる。私と先輩を見つめる目線。父は、私が望むまま、ゆっくりと上の階へと昇っていく。目線が次第に高くなり、一瞬風景が暗くなる。


『おんまかきゃらやそわか、おんまかきゃらやそわか、おんまかきゃらやそわか、おんまかきゃらやそわか』

空間の中に音が満ちている。父の耳を通して聞くそれは、薄暗い空間の中で何重にもこだまして、空間そのものを震わせるようだった。

薄ぼんやりとした蝋燭の光に、黒い女の像が浮かび上がる。左右に髑髏の盃を持った別の女を従えている。そんな異形の祭壇には、場違いなほど穏やかに微笑みながら、空間を見守っている女がいる。

『おんまかきゃらやそわか、おんまかきゃらやそわか、おんまかきゃらやそわか……』

空間に音を広げているのは、祭壇に祈りを捧げている女たち。ざっと見ただけで二十人はいる。彼女たちが絶え間なく、音の波を広げている。

「さあ、自らを解放するんです。怖いことはありません。自らの生き様を解放し、心を解き放つのです。あなた達女性は素晴らしきカーリーの使い、認められた者!」

女たちに向けて祭壇の女が語り掛ける。この女が、このセミナーの主催者にしてこの店の主のようだった。

集まっていた一人の女性が、急に叫び出し、暴れ始めた。会場が一瞬ざわめくが、祭壇の女が手を挙げると会場が静まり返る。

女はその場から動かずに囁く。

「素晴らしい、解放の時だわ。皆さん、仲間の門出を、新たなる誕生を見届けましょう」

叫んだ女性の体は酷く痙攣し、口からは泡を吹いている。これが新しい目覚め?

そう訝しく思っていると、女性の体はひときわ大きくビクリと跳ね、口からどす黒い何かが蠢きながら出てきて、天に昇っていった。

「ご覧になりまして? この方の苦悩や苦痛、それら全てをカーリー様がお聞き届けになったのです!」

祭壇の女は初めて自身から動き、気絶している女性の元へ歩み寄った。そして、不安そうに見守る他の参加者を他所に、その人の顔に手を触れると、ゆっくりと覆いかぶさった、ように見えた。

すると、倒れていた女性がゆっくりと起き上がった。よく見てみると、二十代前半くらいの若い女の人だった。目からハラハラと涙を流しながら、憑き物の落ちたような晴れやかな顔をして……。

「あ、光が、光が見えました……あたたかい光が、私の心に挿して、とても今あたたかい」

その女性はうわ言のように繰り返す。

「さあ、皆様も解放されましょう! 皆様も解放される資格がある、選ばれた方々です。女性は虐げられるものでも従わなくてはならないものでもありません。子育ても夫婦の仲も全て皆さんの思うまま、成すがままに……さあ、カーリー様と共に歩みましょう!」

女性たちは皆涙を流しながら祭壇の女の話を聞いている、その女の周りに、異様な黒い瘴気が渦巻き、黒い女神の像が不気味に脈動しているのも見えずに……。

「あら?」

祭壇の女の気配が変わる、感覚を共有する父が怖気立つのを感じる。私は父に対して戻れと強く念じ、自分の体へと意識を引き戻した。

「気付かれました」

小さく隣の先輩にしか聞こえない声で呟く。先輩が上の階に目線を送る。先輩はジーンズのポケットから素早く銀色の板のような物を取り出して、右手でいじり始めた。

「何してるんですか、逃げないと」

「ただ逃げてもすぐに痕跡を追われるだけやで、助手ちゃん。せめて時間稼ぎくらいせんとな」

先輩の右手の中のものをまじまじと見てみると、それは銀色の旧式携帯電話だった。スマートフォンが主流になった今では全く見なくなった形の、でも何となくソレと分かるもの。折り畳めない形の、銀色で、画面が少し大きく、テンキーもボディも全て銀色で統一されていて、かなりシンプルな印象を受けた。ただし、こんな緊急事態に弄っているべきものでは無いことだけは確かだった。

「助手ちゃん、固定概念でモノを観るとしくじるって兄さんに教わったやろ?」

先輩は不敵な、八重歯を覗かせた笑みを浮かべる。携帯電話の真ん中にある大きめのボタンを最後に押し込むと、携帯電話から機械的な、だけども何処かで聞き覚えのあるような男の声が聞こえてきた。

『術式確認、術式十五番展開』

その声と同時に、私たちの周りにゆらゆらした薄くぼやけたヴェールのようなものが出現した。先輩は私の右手を掴んで、ゆっくりと動き出す。薄ぼんやりとしたヴェールは私たちの動きと一緒に動いていく。

「ええか、助手ちゃん。呼吸を乱さんように、ウチの呼吸のペースに合わせてな。指輪に気を多めに送って、それが全身をまた巡るイメージを強く持って。それ以外は考えたらアカン」

普段と変わらないような調子でそう言うと、ゆっくり店の扉を開けて進んでいく。上の階からバタバタと音が聞こえてきたが、先輩は気にしない。ただ普段の通りに店を出て、普段のように歩いて先へ進んでいく。店から若い、揃いの白い服を着た女性たちが五人程度飛び出してきて、きょろきょろと当たりを見て回るが、私たちに気付いている様子も見えない。私は目線を女性たちから外すことにした。その方が、より「良い」選択ではないかと思えたからだ。

先輩は私の手を引いたまま、決して歩みを止めようとしない。女たちがこちらの方に走ってきているが、慌てている様子は無い。私も先輩のペースに合わせる。先輩の呼吸のペースに自分の呼吸を重ねていく。女たちは、すぐそばに居るはずの私たちが全く見えていないのか、そのまま素通りして見当違いの方向へと走っていく。

「先輩、これは」

「助手ちゃんが褒めてくれた隠形やで。普段イタズラに使ってる奴じゃなくて、完全に仕事用の奴な」

周りにあるヴェールをもう一度確認する。あえて二つ目の瞼を開け、観察してみると、無数の梵字が波のように私たちを取り巻いているのが見えた。あまりにも咒に込められた力が大きかったが為に、目でただ見ただけの光景すらおかしくなってしまっていたのだ。

だけど、先輩は確か、気の総量が人よりもかなり少ないはず、こんな大規模な術なんて組めないし、動かせないはず。でも、術は全くほころびもなく動いている。

「種明かしは店に帰ってからな、それより今は」

先輩の足が止まる。私は止まりそびれてつんのめりそうになったが、先輩が軽く私の体制を建て直した。そして、顎で前方を観ろと促した。私も目線を動かしてみる。薄ぼんやりした、輪郭の崩れた人の影のようなものが立ち尽くしている。

「厄介やなあ」

私は咄嗟に父と母に目の前のモノを壊すように命じようとしたが、先輩が肘で思い切り私を小突いたせいで集中が切れかけ、慌てて指輪への意識を集中させ直した。

「余計なことしたらアカン。兄さんは自制は教えてないんやな。まず妙なモノを見た場合、即座に逃げられるように構えはしつつ、相手を確実に観察して対処を検討する。マジナイを相手取る時の基本やで」

怒っている訳でも無く、ただ冷静な声で先輩は私を制する。今にも暴れそうな父と母の制御を改めて自分に取り戻す。そしてよくよく相手を観察する。

その影は、まずその場から動いていない。だけど、腕のように見える部分を定期的に広げたり閉じたり、伸ばしたり縮めたりしている。まるで、イソギンチャクが獲物をつかまえようとするように。

「あれ、もしかして私たちを捕まえようとしてませんか」

「あたりぃ」

「だったら破壊してしまう方が」

「アホやなあ、助手ちゃん……兄さんみたいな脳筋の戦い方は死に急ぐのと同じやで」

先輩はゆっくりと私から離れる。そして例の携帯電話を再び操作し始める。

「あの手の式神は、大体幾つかの咒を組み込むもんなんや。せやな、ざっと観ただけやけど」

先輩の琥珀色の瞳に気が宿り、まるで本物の琥珀のように煌めいた。

「式神を攻撃した相手に呪いを与える咒に、式神の霊体を崩す呪いを与える咒、攻撃したものに憑依する監視の為の式を混ぜ込む咒……雑な作りやけど、結構めんどくさい仕掛けになっとるで。とはいえどれも、あの式神がウチらを一瞬でも認識するのが鍵みたいやね」

「え、観ただけで、そんな」

「それはあと。こういう奴の場合は」

先輩の右手が止まる。今迄の話の間ずっと操作を続けていたらしい。携帯電話からまた音声が鳴る。

『術式確認。術式百番、二十二番、七番、順次展開』

まず、私たちのいる場所の風景が急に歪んだかと思うと、前後左右の感覚が急に高速で回転するような異様な気持ち悪さを味わった。猛烈な吐き気を感じて蹲ると、その気持ち悪さが急激に引いた。

あまりのことにビックリして辺りを見回すと、私と先輩は店の裏庭に立っていた。

「え」

私は思わず目を擦った。こんなことがあるはずがない、だって私は今の今まで、ここからずっと離れた場所で先輩といた訳で。

私はパニックになっていた。考えようとしても訳が分からなすぎて頭が働いてくれない。何故、何、どうしてが頭を無駄に高速で回転していく。

「なんや、助手ちゃんは禹歩は初体験やった?」

事も無げに先輩は言うが、先輩も荒く息をついている。

「今のが、禹歩、なんですか。あの、龍脈の中を進むって、言う」

「せやで、縮地なんてまがい物やない、ほんまもんの禹歩や。それに今頃あの式神は置き土産を喰らってお釈迦になっとるやろなあ」

「先輩は、つまり、隠形で姿をくらました上で禹歩で逃げてきて、で、置き土産?」

「時限爆弾みたいなもんやねえ。烏枢沙摩明王の真言がウチらがあっこから消えて五分後に発動するように仕掛けておいたんやで」

先輩は思い切り身を投げ出して、裏庭に寝転んだ。

「せやけど、これで充電分は完全にパーやわ。ここ三ヶ月分の貯金がのうなってもうた」

先輩は力無く笑う。

私は先輩の隣にへたり込む。

「あの、先輩。先輩は気の総量が人よりかなり少ない、んですよね?」

「……せやで」

「でも、禹歩は発動にたくさんの気と、複雑な術式や作法を必要とすると習いました。先輩が、あの一瞬でそれを仕込んだなんて思えません」

「それで?」

「先輩の持っている、その携帯電話、咒具ですね。しかも」

「せやで。これまでの術者の常識にしてきたことを全部ひっくり返す大発明や」

先輩は改めて携帯電話を見せてくれた。流線が綺麗な、シンプルな銀色の携帯電話だ。テンキーには、数字以外は何も書いていないし、外見的な特徴は裏の面に「喼喼如律令」の文字が刻まれている位だろうか。

先輩はゆっくりと体を起こして、あぐらをかいて座った。携帯電話を私に見えるようにしながら右手で素早く操作する。

「これなら片手で使えるやろ?」

画面には数字と記号によって、数式のようなものが組まれていく。情報の授業でやった、プログラミングの式にも似ていた。

「計算の時の数式も、プログラムを動かすコードも、元をたどれば特定の現象を目に見えるようにするための咒式なんやて。せやったら、デジタルデータの上でも咒式を組んだり、保存しておくこともできるんちゃうかなって」

先輩は携帯電話の真ん中の決定ボタンを押した。

携帯電話からやっぱりどこかで聞いたような電子音が聞こえる。

『術式展開不可、発動不可、再充填要請』

「で。これなら大量の札やら笏やら、杖やら刀やら持ち歩かんでもええし。コードを打ち込んで決定ボタンを押せば、指定したコードの通りに術を発動できるって仕組み、なんやけど」

携帯電話を弄びながら先輩は苦笑した。

「普段身につけて、ちょっとずつこいつに貯めといた気をつこうて術を打つしか出来んの。やから、こいつの中の気が切れたら、ウチはもう丸腰になってまうわけ」

よく先輩を観てみる。この携帯電話以外にも、よく見れば体のあちこちにアクセサリを付けている。耳にはイヤリング、髪に目立たないように細工のあるヘアピンが、指にもいくつかの指輪、今見えていない部分にも何か隠し持っているんじゃないだろうか。それらのアクセサリも、よく観ないと分からないけれど、先輩と同じ気を帯びているのが分かる。

「気の量がちゃんとある術士や、あっち側の連中とやり合うには、ウチにはこういうこっすい手しか残ってへんかった。この携帯はその最終系や。まだ完全やないけど、いつか完全に作り上げて、そんで」

先輩の気配が変わった。殺気が混じる。

何故か私は、咄嗟に先輩の空いている手を掴んでいた。

先輩は急なことにびっくりして固まって、殺気は消えていったけれど、私もなんでこんなことをしたのか自分で分からず、固まってしまった。

「あ、あの、その」

「……ごめんなぁ、ありがと、モモちー」

私を名前で呼んで、先輩は私の左肩に頭を預けて動かなくなってしまった。

その内離れるだろう、とタカをくくっていたら、浅い寝息が聞こえてきた。

「え? ちょっ、はぁぁ」

私にしがみついたまま、先輩は離してくれない。最初は引き剥がそうと思ったけれど、それも気が引けた。先輩がしがみついた左肩がいつの間にか濡れていたからだ。

先生とは真逆の様で、そっくりな先輩、でも、心の中にある傷みたいなものが少しづつ見えてきた。私がいることで、この傷が癒えているのか? そんなこと、全く分からない。


第九幕 マジナイ処 鈴鳴堂

「あの、娘が是非にと言って連れてきてはくれたのですが、ここはどんなお店なんですか?」

私と先輩、そして先生は、ガラステーブルの向かいに座る谷戸さんと、お母さんを見つめた。

お母さんは、パッと見た限り三十代の後半に見える少しやつれて肌が荒れた人だった。谷戸さんと違ってオドオドした様子なんかないけれど、逆にこちらを警戒している様子がありありと伝わってくる。


こんな状況になったのは、あの日に話が遡る。セラピーストアに潜入したあの日、先生は中庭で途方くれていた私の所にやって来て、鮮やかな手際で先輩を引き剥がすと店のソファに寝かしつけ、私に報告を求めた。いつもの様に出来るだけ詳細に、自分たちのやらかしも隠さずに報告することにした。先生は感心とも諦めともつかないため息を何度もついて、最終的にはいつものソファに倒れ込んだ。

「相変わらず、こいつは無茶ばかりする。逝き急ぐ様に」

先輩の頭に手を置き、先生はくしゃくしゃとゆっくり髪を撫でた。

「だが、君が歯止めになると僕は信じている。まこと勝手な頼みだが、義妹の事を、マユミの事をよろしく頼む」

先生は私を真っ直ぐに見つめてそう言った。

私は、黙って聞いていた。

あの時に私が垣間見た先輩の闇、先輩が少しずつ漏らしていた悲しい声が私の耳に木霊した。

でも、私は先輩の闇を背負う覚悟はなかった。先生の言葉に返答ができない。

そんな私を見て、先生は悲しげに微笑んで、それ以上は何も言わなかった。


先輩が起きてから、先輩と私をひとしきり説教したあとで作戦会議が始まった。あの場で見た光景から、先生はなにかに思い至ったらしく、谷戸さんと母親を両方とも直接観る、と私たちに指示を出した。先輩もこれに関して素直に従っていた。私は塚本さんにすぐに連絡し、谷戸さんには無理にでもお母さんを連れてきて欲しいと頼み込んだ。


そして、今に至る。

改めて谷戸さんのお母さんを見る。頬が少しやつれ、目の下には目立つ隈。化粧っ気のない肌は荒れていて、はっきりと疲れが目に見えて漂っている人だった。これで、疲れが取れて、目の下のクマやコケた頬が治り、ちゃんとお化粧をしていたら、とても美人に見えるのじゃないかと思える人だった。穏やかに笑っているものの、よく見ると体や肩が強ばっている。

先輩も、静かにじっと谷戸さんのお母さんを見つめている。琥珀色の瞳が鈍い光を帯び、その光が眼の中で生き物の様に揺らめいていた。

「こんにちは、谷戸君。初めましてでは無いだろう。どうも、お母様。この店の主人の黒井と申します」

「あの、そのお母様というのは……もちろん私はこの子の母ではありますが、その前に一人の人間です。どうぞ、ユキエとお呼びください」

「左様ですか、お母様」

先生は、決してお母さん……ユキエさんのペースに乗ろうとしない。ユキエさんは笑みを絶やさないが、父と母とのリンクを強めた今の私には分かる。この笑顔は嘘だ。感情が歪められているせいで、黒く淀んだモノが胸の内から外に漏れ始めている。この感覚は、怒り、だろう。

「なに、谷戸君から相談されたのですよ。最近のお母様の様子が奇妙だとね。僕はそう言う珍妙な相談の解決を生業としていますので」

先生は悠然と構えていつものペースを崩さない。うっすらと笑みすら浮かべている。

「はぁ、私の、ことが。奇妙、そうですね」

ユキエさんは谷戸さんをちらりと見る。その目は、笑っていない。谷戸さんもびくりと身体を震わせた。いつも以上に縮こまって、ユキエさんの様子を伺っている。

「そうですか、でも私は今は幸せですから。私は母であると同時に、私であると気づかせてくれた方がいます。今まで子育てと、仕事に追われて私は自分を見失っておりました。その時に、その方に救っていただいたのです……。私が私であると。それに気付いてからは、私は、この子にもようやく優しくなれました」

「それはそれは」

先生は、なんの感慨もなく言った。

「しかしねぇ、だとしたら、小晴君の様子がおかしすぎやしませんか。優しい母親の娘にしちゃあ、怯えすぎている。まるで、獅子に睨まれた羊のようだ」

ユキエさんは、キッと目を釣りあげて先生を睨みつけた。

「さっきからなんなんです、アナタはっ!」

「安い脅しですねえ」

先生は動じない。

「自分の信じるものが崩れたならば、かくも人間とは脆い。化けの皮も面の皮も、貴女のモノは酷く薄く、弱く、そして脆い」

先生はいつの間にか手に照魔鏡を握っていた。

先生の言葉に霊威が載り、言霊となって発せられる。

『貴女に、貴女が女だと、一人の人間だと気付かせたその人物のおかげで、貴女は自分を取り戻したので幸せでしょう。では、貴女の娘は?』

「なにをっ! 娘は充分私を愛していますし、私も娘を十分に愛しています! それはコハルにも伝わっています、必ず、私の愛は、私はずっと彼女達のために働いて、養って、すべて、すべてっ! 私の人生は、私のっ!」

『母というものは』

一段強い声が、ユキエさんを沈黙させた。

『酷く不安定なものです』

先生は、照魔鏡を無造作に二人にかざす。

『人は獣です。本来、獣の本能に従うなら、雌という生き物は次の世代に子を残し、種を残そうとするものです。ですが』

照魔鏡から、チラチラと光が漏れてくる。それに照らされた二人の影が、だんだん色を濃くしていく。

『知恵の果実を食らった我々は、己の人生を思う。獣としての己、月の障や雌として群れに尽くそうとする本能的な自我と、理知理性を持った人間個人という矛盾に満ちた自我とを心の中に飼うようになった』

先輩が身構えるのを、先生はゆっくりと左手で制する。

『いいですか、自己は在るモノですが、母や娘には成るのです。子を産んだから、子を育てているから母なのでは無い。その過程で次第に母に成るのです。母という生物的な本能と、人生ある個人という理性が衝突することに、今の人々は耐えきれなくなりつつあるのでしょう。ねえ』

先生の目はまっすぐにユキエさんを捉えた。

『ユキエさん、貴女のように』

言霊の載った声で、名を呼ばれた人間は相手に自分の魂の支配権を渡してしまうのだという。それを先生は「魂呼ばい」と言った。

もう、ユキエさんは先生から逃げられない。

『だが。安心しなさい。貴女の愛は矛盾していたとしても小晴君に届いていたし、小晴君なりに応えようとしていた。確かに娘さんは貴女を愛していましたよ』

八卦の刻まれた照魔鏡は、谷戸さんを捉えていた。

『お前は誰だ?』

「え?」

先輩が右手を胸の前にかざす。今度は先生も止めようとしない。

『お前は誰だ』

「わた、私は、谷戸……小晴……」

『お ま え は だ れ だ』

照魔鏡から漏れ出た強い光が、谷戸さんを包んで隠す。私は素早く二つ目の瞼を開き直して観た。

谷戸さんの背後から肩にかけて、ユキエさんがまとわりついている。しかし、本物のユキエさんはきちんとソファに座っている。

「コハちーは、生霊憑きやったんよ。しかも、とびきり近い人間から貰ってしまった、魂の欠片に取り憑かれてたんや」

先輩のかざした右手に、気が集まっていくのが観えた。それは人差し指にはめられた指輪に集約していき、指輪がきらりと光ったような気がした。

『一番、展開』

その言霊と同時に、先輩は自身の人差し指から青白く輝く霊威の弓を顕現させた。弓から伸びた弦をゆっくりと引き絞り、狙いを定める。

びぃぃぃぃぃぃぃんっ

虚空を震わすような甲高い音が鳴り響き、私は思わず耳を塞いだ。先輩の弓の、見えないしあるはずも無い弦が鳴いている。

谷戸さんにまとわりついたユキエさんの生霊の額に、青白い矢が突き刺さっていた。その矢の周りから生霊の形が崩れ、霧散していく。

先輩のそこまでの流れには一瞬の迷いも躊躇いもなかった。まるで、獲物を狩り慣れた猟師のように。

谷戸さんは、その場で気を失い、力無くソファに沈み込んだ。


ユキエさんは、その光景を驚愕した様に見つめている。そのユキエさん自身も、耳の穴や鼻の穴から黒い瘴気が盛れ出していた。

「い、今のは、わたし? 私がもう一人、コハルは、わたし? わたしは?」

完全に混乱状態にあるユキエさんの体から少しづつ黒い瘴気が、勢いを増して吹き出し始める。

『強引な手段ではありますが』

先生の言霊が止まない。

『小晴君に取り憑いていた生霊、貴女の分身を祓わせて貰いました。次は貴女の番ですよ、ユキエさん』

照魔鏡を構え直した先生はまっすぐにユキエさんを見据える。

『さぞや気持ちが悪かったでしょう、自分を見つめ続けるのは。貴女は小晴君を自分自身の分身として考えていたのですよ。娘は自分の成す通りに成らねばならぬ、とね? それがいつの間にか、彼女に自分の魂の欠片を背負わせる結果に繋がった。だが、根本を見失っちゃあいけませんな』

先生は、攻撃を止めない。

キレている、のだろう。先生の口調は丁寧で、行動も落ち着いているけれど、放っている気配はいつも以上に攻撃的だ。

『子供は貴女と血を分けた者だから、顔立ちや仕草が似ることもある。が、貴女とは端から百違う存在だ。貴女を見て育つのだから、貴女に思考や行動が似ることもあるが、それでも一から百まで考えも性格も行動も、人生の歩み方も違う。そんな根本を、貴女は理解しているのだろうか?』

「わたしと、コハルは、ちがう?」

『貴女の時間が小晴君達の為に消費されるのは、子を成した生物的な雌の役割としては当然だ。子を成した生物は、子が独立する迄はそれを養う。これは徳の問題でも義務の問題でも人権的問題でもない。本来は生物的な役割の問題だ。それを、人間は理性と結び付け、道徳や親子愛などという言葉で誤魔化すから分からなくなる。真っ当な普通の親、立派な子を育てる親が世間の普通と言う認識は、子を育て独立させるのが当然という生物としての在るべき姿を言うのです』

先生の言霊に、私は先生の人生を一瞬垣間見た気がした。先生はユキエさんの祓いを通じて、自分の、そして、先輩のなにかに決着をつけようとしているのではないだろうか。

『そして、小晴君を自分の理想の人生に沿わせようとするのも間違いだ。小晴君の中に貴女はいない。血を分けて時間と空間を共有したとして、貴女と小晴君は別種の生き物なのですよ。貴女を小晴君がイライラさせるのは、小晴君が貴女の指示や躾に従わないからじゃない。貴女が小晴君を自分の思うとおりにどこまでも動かそうとするから生じる矛盾を理解出来ずに苛立つのです。小晴君の人生は小晴君だけのもので、貴女のものでは全くない。貴女が小晴君の為にかけた時間や労力の見返りを、小晴君に求めてはいけない。それは、貴女が小晴君たちを成したが故に負うべき選択を、貴女がしたというだけの事。貴女個人を害しても、貴女個人を消してもいない。ただ』

先生はユキエさんから全く逃げない。

照魔鏡を握る手に力が込められた。

『見失って苦しむ理由を、小晴君に押し付けていただけだ』

照魔鏡をユキエさんに突き付けて、先生の言霊をぶつけた。

『改めて問う、お前は誰だ?』

ユキエさんは膨大な言霊で翻弄されて混乱している。頭を掻きむしりながら喚く。最初に見た、物分りの良さそうな母の姿など何処にもない。

「わ、わたしは、わたしはこのこのははおや、わたしはわたし、わたしは、わたしは、わたしは?」

ユキエさんは泣き叫ぶ。

「わたしは、わたしはだれえええ!?」

照魔鏡から強い光が放たれる。

ユキエさんの体から瘴気が引き剥がされ、それが徐々に朧な人の輪郭を作っていく。その姿は、私と先輩が見たあの式神とそっくりだった。

式神は自分が無理やり依代から引き剥がされたことを悟り、先生に向けて無数の瘴気の槍を突き刺そうとしている。

先生は照魔鏡と逆側の手に御札用の紙を握って、それを悠然と構えていた。

『しきしきじん、けんしきじん、じゅしきけんげん、きゅうきゅうにょりつりょう』

友斬葬事件の後に先生が開発していたという、式神や咒式を絡め取るという専門の咒符だった。それに、いざ攻撃をしようとしていた式神が段々と吸い込まれていく。そして、札の上に徐々に咒式が描き表され、形がしっかりと浮かび上がっていった。それに従って式神の姿は掻き消えて、ユキエさんは放心したようにソファにへたり混んだ。


「ふむ、これは厄介だぞ」

先生は自分の手の中の符を見つめながら、浅くため息をついた。

先輩も符の咒式を見て、顔をしかめる。

「なんやこれ、蠱毒(こどく)の咒式やんか」

「そうだ。単純化されてはいるが、蠱毒の中でも宿蜂蠱(しゅくほうこ)の術式が使われている」

蠱毒。先生の授業の中で何回か触れた、呪の形。複数の毒虫をひとつの壺の中に入れて封じ、共食いをさせることでより強力な毒を持つ虫を生み出して、それを呪いの依代として使うというものだけど、ここで言う虫は、本当は蟲。この世の人以外の存在をまとめた呼び方だと習った。

「人の中に混じり込んで頭を狂わせるのが「宿蜂蠱」だ。比較的制御が容易いのだよ。こいつは。元々が、蝶の幼虫に寄生して狂わせる蜂を基にした蠱毒なので、性質がハッキリしているのが理由だ。そのためか、最近では術士の間でも式神としても良く使われる」

先生の眼鏡に気が集まっている、低く呟くように言霊を並べて式神をより細かく調べているようだった。

「少なくとも、あのカウンセラーは詐欺師であり術者だ。他人の頭の中に蟲を巣食わせ、他人を支配下に置き、まるで開放されたかの様に見せかける。単に心を鈍らせ、術者の操り人形へと変えていく……しかし、ではあの術者は何を求めている?」

私はあの時に見た光景をもう一度考える。祭壇に飾られていたおぞましい女神。女性の口から出てきたどす黒いなにか。そしてセラピストを語る術者の行動。

「先生、もしかしたらですが」

「ん、言ってみたまえ」

「式神、その蟲は本当に支配のためのものなのでしょうか?」

「どういう事だね?」

「その、先生の言う宿蜂蠱は、ガに寄生するハチを基にした式神なんですよね」

「ああ、そうだが」

「それで、相手の頭に寄生させて普通は操るんですよね? 私も実際、操られているような人に追われたので、それは確かだと、思うのですけど」

「何が言いたいんだね?」

「多分、あのセラピストは自分の信者さんに式神を仕込んで、その、ゆりかご代わりにしていたんじゃないのかなって」

先生の顔が曇った。

「ウチと助手ちゃんがみたあの儀式はじゃあ、なんだったって言うん?」

「えっと、あれは成長した式神を抜いて、次の式神を入れる作業だったんじゃ、ないかと。……確証は無いんです。信者さんの口から出た黒いものが、これまで見てきた式神の色とすごく近い気がするんです。だから」

先生は得心したように頷いた。

「つまり助手君。君は今回の術者は信者を操ることが目的なのではなく、人に式神を仕込むことと、それを回収することが目的だと言うんだな?」

「はい」

単に、観た光景からの類推に過ぎない。でも、今回に関しては何かザワつくものが胸に押し寄せている。予感めいたものなのか、勘の様なものなのか。ここ最近、私の中の父と母の繋がりが強まったからだろうか、動物のような勘が鋭く強くなってきた気がしているのだ。

「黒い女神と蟲か。信者を蟲、式神の群れに変えて、お互いに食い合わせている訳でも無いようだし、人間で蠱毒の壺を再現したい訳でもないようだが」

先生は唸る。なにかあと一歩絞り切る証拠がないようで、自分の手の中の札をじっと見つめると、大きくため息をついて天を仰いでしまった。


先生は使い物にならなくなったけれど、先輩は少し違っていた。先輩は放心している谷戸さん親子の様子をつぶさに調べている。目を覗き、脈を調べながら、気の流れを観察しているのが分かった。

「気脈は低下、瞳の収縮は弱い。呼吸は一定、心拍は安定、意識は混濁状態、回復には数時間を要する、式神を強制的に剥離した強いショック状態あり。うーん、こはちーの方は気の流れも安定、問題なし。憑き物が落ちた際の一時的ショック状態、次第に回復の兆候あり……」

細かく二人の状況を調べ、低く呟きながらそれを確認している。決して間違えや見落としがないようにしようとするように。僅かな証拠も逃がさないように、丹念に調べあげようとしていた。

そんな先輩の姿をじっくり見てしまったから、だろう。私の中で先輩に対する違和感が大きくなってきた。

先輩が二つ目の瞼を開けて観察をしようとすると、先輩の瞳がきらきらと光を帯びて、琥珀のような色が一層濃くなる。私が二つめの瞼を開けて観ているからか、先輩の目に異様に気が集まっているのが分かる。まるで、先輩の体に着いているアクセサリと同じように……。

先輩は、一頻り観察を終えたらしく、息をついて気を集中する状態を解いた。でも、目に対する気の集中だけ解除されていなかった。瞳の中で、気の流れているのが見える。幾重にも折り重なった複雑な光が煌めいて、まるで目の中に万華鏡がある様に。この光を、私は先輩と一緒に見た事がある。


あれは、先輩が持っていた


先生の、結晶


私がまじまじと先輩の目を見つめているのに、先輩自身も気付いた。

先輩の反応は。

顔を歪めて、ぐしゃぐしゃと髪を両手で乱しながら、前髪で両目を隠そうとし始めた。そんなこと、私たちの目には無意味なのに。でも、先輩にとって、私がしてしまったことが本当にして欲しくないことだったのは分かった。

「いやぁ、いややぁ、なんでぇ?」

先輩は消え入りそうな声で言う。

「なんでぇ? なんでみてしもたん?」

まるで駄々をこねる子供のように、私に力なく拳を打つ。

先輩は私が何を見たのか、何に気がついたのか分かってしまったのだろう。

「マユミ、お前は助手君を確かに育てあげたんだ。だからこそ気付いた。それに」

困惑する私を落ち着かせるように、また、昂った先輩を落ち着けるように先生は口にする。

「助手君が成長すればいずれ辿り着き、そして、いつか君に尋ねたろう」

「にいやん、なんでとめんの?」

先生に、まるで幼い子供のように、助けるように甘えた声を出す。

「隠し事は一つあるだけで、心に澱を産み、それが暗鬼とも化すだろう。もしも、助手君をマユミが受け入れたいと思うのなら、マユミ、お前に隠し事はあってはいけない……それが、お前の最も知られたくないことであったとしても」

先輩……麻由美さんは不貞腐れたように私の腕を抱き抱えたまま、ソファに座り込んだ。泣きじゃくり、子供みたいにむくれたまま、何も話してくれない。私より年上なのに、ずっと幼く見える。

「…………」

前髪で目を隠して、私の肩に頭を擦り付けるようにしてしゃくりあげて泣いている。先生はと言えば、何も言わずにさっきの式神の札を眺めている。あくまでも、麻由美さんが自分から言い出すのを待っているようだ。

「先輩……麻由美さん」

私は声を掛ける。

麻由美さんは何も言わないけれど、私の腕から手を伸ばして私を抱きしめる形になった。

「ももちー、きらいや」

本当に子供みたいに、私にまで甘えるように麻由美さんは言う。

「なんでみてしまうん」

「その、ええと」

何を言ってもダメだと思った。

「うちのめ」

私を抱く麻由美さんの腕の力が強まって、私の胸に頭を沈める様にして言う。

「うちのめ、きもちわるいやろ」

「え?」

「みんなきもちわるいていうん。なんで、なんで、みんなにいやんをわるくいうん?」

ゆっくり顔を上げて、麻由美さんは私の目をしっかりと見つめながら言う。はじめて、私は麻由美さんの目をしっかりと観ることになった。私が先生から与えられた父と母の念珠にも、琥珀が入っている。だからこそ、琥珀の気配や気の動き方に普通よりも敏感になっていたのだと思う。

麻由美さんの眼は、琥珀色の瞳をしているんじゃなかった。眼そのものが、普通の人の眼と見分けがつかないほど精巧に作られた「琥珀の義眼」になっている。麻由美さんの瞳の色は、本物の琥珀の色だった。

「ウチな、生まれた時に両の目ぇを神様に貰えんかってん。目のとこの穴ぼこだけ貰うて生まれたんやて。目はな、術者にとって世界と繋がるための窓なんや、すごく大事なもんなんや。でも、ウチは神様に取り上げられて、貰えんかった。やから、本当のお父ちゃんにも、お母ちゃんにも、いらんて捨てられたんや」

「僕にはそれが許せなかった」

先生が言う。

「僕も当時は言霊しか使えない出来損ないとして扱われてきた。まかり間違えば災厄を撒き散らす存在としてね。実家の中でも腫れ物扱い、息が詰まるようだったよ。そんな時に僕にあてがわれたのがマユミだった。……実家の連中にしてみれば、僕に対するおもちゃか何かのつもりでマユミを寄越したのだろう。それがまた気に食わなかったのだよ」

滅多に聞くことの無い先生の過去にも麻由美さんは深く関わっている。

「だから。僕はマユミを僕の生徒として育てることにした。僕にできることは彼女がひとりで立って生きられるように、誰からバカにされることも無く生きられるようにすることだと、若くて阿呆な僕は考えついたのさ」

先生は、自分の目を指さす。

「まず、僕はマユミに眼を与える事にして、僕と同じ鼻つまみ者だった遊之助という男に声をかけた。こいつは咒具師見習いだったが、奇妙な品ばかり作る上に、作る品は高品質高性能を追求しすぎて使える人が限られるという、僕と別の意味での欠陥品さ。奴と協力して、当時手に入れられる中でも高純度かつ高密度の琥珀を入手して、細工を整え、僕の気を入れ込んで、幾重にも言霊を重ねることで、僕の『智慧の眼』(ちえのめ)は完成した」

先生は鼻から大きく息を吹き出した。

「遊之助の技術を全て注ぎ込んで、気を込めた人工神経まで接続して、ゆっくりとマユミに馴染ませた。気はどうしても食ってしまうが、今は完全に彼女の眼になっている」

先生は目を細めて麻由美さんを見ている。だけれども、悲しそうに唇を歪めていた。

「『智慧の眼』は、名前の通り普通の義眼では無いんだよ。魔を避け、災いを退ける琥珀の、しかも最高純度のものに、当時最高峰の技術を惜しげなく注ぎ込み、言霊の重ねがけをしたが故に。『智慧の眼』は、其の眼に写したものの、ありとあらゆるモノの本質や真実の姿、在り方を移し込む。僕が使っている照魔鏡の何倍も強力な見顕しと、あらゆるモノの本質を紐解く力を宿してしまった」

だからこそ、なんだろう。麻由美さんの様々な咒具を作り上げる技術の根元にあったのは、先生の作った麻由美さんの為だけの咒具だった。

「このめ、にいやんがくれたたいせつなもんなのに、みんなきもちわるいて! なんでみんなわるくいうん? うちがふつうのめぇもっとったら、だれもにいやんのこと、わるくいわへんのに! うちがもっとがんばっとったら、だれもばかにせえへんのに、でも、うまくできひん、うまくできひんの、だから、ししょうも、にいやんもばかにされんの、ごめん、ごめんなさい、かんにんして、にいやん」

私に縋り付いて、麻由美さんは感情を爆発させた。私を自然に強く抱きしめる形になったけれど、もう、私には麻由美さんを引き剥がす気にはなれなかった。頭に手を添わせて、ゆっくりと撫でてみる。麻由美さんは抵抗なく、私のされるがままに任せている。

それが、何故か無性に悲しくて、いじらしく思えて、私の中のナニカが、それを感じて動き出した、気がした。私が撫でている手を通じて、そのナニカが麻由美さんに語りかける様な不思議な感覚に捕われる。麻由美さんの強ばりが手を通して段々とほぐれていくのを感じる。

『きかせて』

私の口を通じて、私の中のナニカが動き出した。それは私にとって嫌な感覚ではなくて、それこそが自然という様に。

「ぅんん」

麻由美さんは何も言わずに、体を私に預ける。体の熱が私につたわり、そこから、まるで無数の星が散るような光が見えてくる。私の本当の視界ではなくて、私の中のナニカの視界と私の視界が重なって見え始めた。

生まれた時の麻由美さんが見える。

幼い日に、周囲の暗闇に怯える麻由美さん。はじめて『智慧の眼』が入り、先生やお師匠様の顔を見た麻由美さん。黒井の家の見習いさんたちに暴力を振るわれる麻由美さん。先生と一緒に楽しそうに学んでいる麻由美さん。先生と引き剥がされて、心を閉ざしてしまった麻由美さん。

そして、闇の中で、化け物の死骸の上で。元は人だった鬼の上で。術士との戦いに倦み疲れて。泣き叫び続け、一人で手を伸ばす麻由美さんの姿をはっきりと観た。


一つ一つの情景が、その時の感情が、麻由美さんの心の中に折り重なった想いが、麻由美さんの積み重ねてきた人生がはっきりと観えた。まるで、麻由美さんと共に人生を過ごしたかのように。


そして、急に全てが黒い影に飲まれた様に静かになった。

黒い世界には、私と、ナニカだけが残っていた。


私が観ていた情景も、感情も、私の中のナニカに流れ込んでいた。ナニカはそれを一つ一つ紐解いている。麻由美さんの心に積もったものを解きほぐす様に。ナニカは、私を通じて麻由美さんに語りかけると同時に、私にも語りかけていたのだと、気付いた。

『きいて。みて。しって。そして、おもって』

頭の中にはっきりと残る、だけれども、優しく励まし、道を示す様な、意思をはっきりと感じさせる女の声だった。

私は、はじめて。自分の眼で、耳で、全ての感覚を使ってナニカを認識できた。

白銀の、長い髪を靡かせて、白い薄衣をまとった、穏やかな頬笑みを浮かべた、少し憂いを感じる女の人の姿をしている。よく見ると、全身に父や母のような隈取りの文様が薄く浮かんでいる。

威圧感などは何も感じることはなく、あまりに自然に寄り添われ、私自身驚く程にすんなりとその存在を受け容れてしまった。


私はナニカと向き合った。

『貴女は私の揺籃。私は貴女の宿す力。私は貴女と常に共に在るモノ』

「何故、貴女は私に麻由美さんの記憶を観せたのですか」

『この幼子が貴女に掬って欲しいと強く願ったから。貴女には分って欲しいと願ったから。貴女への願いは、私にも聴こえる。私に出来るのは、聴き、智り、解し、そして傳えること』

「貴女は聴くのですね」

『そう、私は聴く。この豊葦原中国の、根堅洲国の、黄泉の、高天原の、遍く理を。私は聴くモノ、理を聴き傳え、壽ぎを報すモノ』

「貴女の名前は」


『「キクリヒメ」』


私の言霊と、ナニカの言霊が混じって、ひとつのものになる。ナニカ……キクリヒメは、私の両の頬に手を添えると、柔らかく微笑んだ。


『聴き、観て、智り、解し、想い、思い、慮い、傳え、報せ、この現世の禍事を祓い、幽世に流し、言祝ぎ、壽ぎ、報せ示せよ、我が神子よ』


私の中にキクリヒメが居る。キクリヒメの力が在る。それを確かに自覚した。


私の手に、麻由美さんの温度が戻ってくる。それと同時に、麻由美さんの中に渦巻く感情が流れ込んでくる。

無知、無理解、嫉妬、畏怖、恐怖、侮蔑、羨望、絶望、一つずつの感情がどんなものか、直感的に理解出来る。麻由美さんが私に眼を意識された時に感じてしまった、深い悲しみと、痛み、これまでの人生を経ることで得た、人に対する失望を。それが綯い交ぜになった黒い感情の波の中で、私の眼の前には幼い麻由美さんが立っていた。


「おねえちゃん、だれ?」

眼の前の幼い麻由美さんはあどけない顔で私に問う。両の眼は閉じられている。麻由美さんが自分を純真だと感じている時期は、眼がなかった自分なのだと理解出来てしまった。

「私は、貴女の後輩ですよ」

「こーはい? おともだちとちがうん?」

幼い麻由美さんは必死に縋り付いた。

「おねえちゃん、うちとおともだちになって? うちな、おともだち、いいひんの。いいひんくて、かなしいの」

私は、そっと麻由美さんを抱き寄せる。麻由美さんは擽ったそうに、でも嬉しそうに声を上げた。

「うち、うれしい!」

無邪気なその体からは、絶え間なく瘴気が漏れだし続けている。本当の瘴気ではなくて、彼女の記憶の中の負の感情が凝り固まったものが今の私の眼にはそう観えているだけなんだろう。

「麻由美さん」

「なあに」

「私でいいんですか」

「? うん!」

「本当に?」

「うん!」

「私は愛想は悪いし、口は悪いし、可愛くないし、性格はへそまがりな貧相な体つきの女ですよ」

「そんなことない」

麻由美さんの眼が開かれて、琥珀色の輝きが漏れる。それと同時に幼かった麻由美さんの姿が少しづつぼやけて、今の麻由美さんの姿へと変化していった。

「モモちーは、うちと出会ってからウチの事、拒絶したことなんかなかったよ。ウチがうざく絡んでも、いつも優しくしてくれたん、忘れへんよ」

麻由美さんは言う。

「モモちーの中の誰かが目覚めたのやって、モモちーがウチの事受け入れようとしてくれたから、目覚めてくれたんや」

涙を浮かべながら麻由美さんは言う。

「ウチと出会ってくれて、おおきにな」

私も、麻由美さんの両頬に手を当てて、軽く額を重ねながら言うことにした。

多分、ここから現実に戻ったら、絶対に言わない言葉だから。

「……私こそ、私を選んで、先生になってくれてありがとう、麻由美さん」

私は他の誰にも聞こえないように、本当に小さな声で続く言葉を囁いた。その瞬間、全ての感覚が一気に現実世界へと引き戻されて行った。


私と麻由美さんはソファで抱き合った状態で惚けたようになっていた。先生はいつの間にかキッチンの中にいて、年季の入ったヤカンから濃い紫色の不気味な蒸気を吐き出させていた。谷戸さん親子は、目の前のお客様用ソファで放心している。

「帰ってきたかね」

先生は、湯のみに酷い匂いのする薬湯を注いでテーブルに運んできた。それを谷戸さん親子の方において、私と麻由美さんを心底呆れたように見つめた。

「助手君、いつまでそいつを抱きしめているんだね。マユミ、お前もいい加減にして起きろ」

先生に指摘された麻由美さんはバツが悪そうに起き上がって私の体から名残惜しそうに手を離した。私は意地悪く笑いかけてみると、麻由美さんが顔を真っ赤にした。

「あ、モモちー、さっきの言葉って」

「なんのことでしょう?」

「え、だってさっき」

「あんまりよく覚えてないんです。きっと私の中の……キクリヒメの悪戯でしょう?」

先生は目を見開き、真由美さんは飛び起きて私から離れた。さすがに反応に傷ついていると、二人は私に問いかけた。

「何故キクリヒメだと分かったのだね?」

先生は流れるような手つきで意識のない谷戸さん親子に薬湯を飲ませながら問う。

「教えてくれたんです、私は理を聴くものだって、自分から」

「モモちーは対話したん? カミと?」

「ええ、それはだって、話しかけてきた、から」

「信じられん、まさかこれほどとは」

今までに見た先生のどの反応とも違う、驚愕と少しの、色々なオソレの感情が入り交じった顔。麻由美さんもかなり驚いたようで、『智恵の眼』を見開いて私を観ている。

「え?」

私は本当にただ訳が分からずに呆けてしまった。


その後、谷戸さん親子が目を覚ますと先生は治療費と称して五千円をユキエさんから受け取ると、すぐさま二人を返してしまった。

「あの母親の中身を祓ったのだ。当面は平和だろうさ。小晴君も、自分とは上手く付き合えるようになるだろう」

先生はそれだけ短く言うと早々に店じまいをして、私と麻由美さんをソファに座らせた。

「まず、マユミ。今の気分と気の巡りはどうだ?」

麻由美さんは力無く笑って見せる。

「むっっっちゃ疲れとる。けど、不思議と気分は軽いわ。なんや、ずっと抱えとったモヤがスッキリ晴れた感じ? なんか心が落ち着きすぎてて逆に慣れへんくて……気の巡りも過去最高にええわ」

軽く右手を握ったり開いたりして確かめていた。

「ふむ。では助手君。何か自分の中の変化は?」

「へ、そ、そうですね」

私は自分の胸の辺りに手を当ててみた。そこに、自分のものでは無い、でも確かに揺らがない温もりを感じていた。父や母とはまた違う、自分を取り戻したような感覚でもあった。

その事を先生に伝えると、先生は眉間に皺を寄せて黙り込んでしまった。

私は自分の特殊性が分からない。それが先生を困惑させているのだと分かった。麻由美さんも私に対してどんな反応をしたらいいか分からないと言うように、ただじっと先生の出方を伺うように黙り込んでしまった。

少しの沈黙の後、先生は私をじっと見ながら語り始めた。

「いいかね、助手君。君の役割を推測した僕は、此岸と彼岸を繋ぐ場所の祓えを務める巫だろうと考えていた。だが、君の存在はそんなに生易しいものじゃない」

先生の淀んだ目には困惑の色が見える。

「君は、あまつさえ自分の中に「人格のある神」を抱えていることが分かった。こういう存在を、我々は「(かみ)宿(やどし)」と呼んでいる」

先生は枯れ枝のような指で空中の何も無い場所を指さした。

「本来、日本の神と呼ばれるものには人格や個性というものは無い。本来の神は大自然の霊威そのものだった。大河や巨木、巨岩や火山、そういった神座(かみくら)を通じ和御魂(かみのめぐみ)(かみの)御魂(わざわい)をもたらす自然の霊威と対話を試みるところから信仰が始まった」

「……せやけど、ヤマト朝廷ができた時に、その頂点たるスメラミコトの立ち位置を明確化するために、神々を個性や個人的な思惑のある存在に置き換えてな、スメラミコトは最高位の神の血筋であるという新しい信仰の体型と歴史観を作ったんや。古事記や日本書紀に書かれた神様は、本当の日本の神様と言うよりも、ある時点から神様として作り上げられたモノ、やった」

先生の解説に麻由美さんも加わった。

「えっと、つまり。古事記なんかに書かれている神様は、偽物、なんですか」

「そうではないよ」

先生はメガネを半分下にずらして私と麻由美さんを見つめる。

「マユミの説明も不正確だなぁ。記紀神話に登場するのは、かつてヤマト朝廷に仕えていた人々の先祖にあたる皆様だよ。そのご先祖様達が何のかんのと頑張りもうされて、この日ノ本が出来たということ、そして、どこの誰とも判然としない当時のヤマト朝廷の高官たちの来歴が明確に、家系図的に分かるようにしたのさ。もっと言うと対外的に説明できるように、稗田阿礼などが血肉を捧げて整理したのだよ。だから、どこまでが本当かは当然分からないが、記紀神話に登場する神々は一種の特定可能な個人だったのでは? と僕は考えている。元が人間なのだから、それぞれの神とされた存在は別個の感覚や人格を持った存在だったのではないかとも考えている。それが僕の考えている「人格を持つ神」という理屈だ」

先生は眼鏡をかけ直して私を観た。眼に気が集中しているのが今までよりもはっきりと分かる。私の中のキクリヒメを観ようとしている。

「――駄目だ、僕の才覚では分からん。分かるのは、助手君の気の巡りが変質していることくらいか」

「ウチの眼には、モモちーの魂の色が三つに視えとるけど」

「ちょっと待て、三色?」

先生は麻由美さんを制して聞く。

「せ、せやで。モモちーの胸の辺りに、綺麗な魂の火が視える様になってて、それが、人の魂の気の色と、淡い黄色みたいな色と、後は、これ……桃色や」

「人の魂の色味は、変化はすれども基本は一色に視える筈だろう」

先生は麻由美さんに問う。

「僕はどう視える?」

先生の問いに答えて、麻由美さんは先生を観始めて、困惑した顔をした。

「あかん、やっぱり一色や」

先生は私に改めて向き直った。

「助手君。君はキクリヒメだけを宿しているのではない、と思う」

「え?」

「前例が無さすぎて判別できん。だが」

先生はまゆ根を思い切り寄せた思案顔でため息をついた。

「君の魂が三色に視える、とマユミが言っているという事は、君の魂には君も含めて三つの何かが宿っている様なのだ。それはキクリヒメではない何かで、未だ君の中で眠る何かだ」

「はぁ……?」

実感が無さすぎて、私自身が困惑することになった。話が壮大になりすぎて、ついていけない、と言っても良い。

「ううん、こないなこと急にバンバン言われても分からんよな、モモちー」

麻由美さん自身も困惑していた。麻由美さんの眼が、そのものの本当の姿を視るのなら、私はさぞヘンテコな姿で見えているのだろうか。

「いや、モモちーはモモちーにしか見えんて」

麻由美さんは誤魔化したように笑う。

何故だろう、今まで以上に周りの人の感情が手に取るように分かってしまうのは。

「キクリヒメの力だろう」

先生は私の混乱を見透かしたように言う。先生お得意の偽千里眼だろうけど、やっぱりこの見透かされているような感覚には慣れない。

「キクリヒメは、何故か日本書紀の異聞にのみ記された「報せを傳える」神だ。伊邪那岐命と伊邪那美命の痴話喧嘩を仲裁した事から縁結びの神でもあるそうだが。なにせ、あまりに神話が無さすぎるせいで、キクリヒメ……菊理媛命がどのような神格で何をもたらすのか知られていないのだよ。ただ一つ分かるのは、人の言の葉を、理を聴き、それを誰かへと傳えるということだけだ。助手君はその力に目覚めたという事なんだろう」

「それに、ウチとの授業でモモちーの元々の憑依霊だった大口真神との合一もかなり引きあげてるから」

「野生動物並みの超感覚のおまけ付きか」

先生は唇を歪めて笑いながら、天を仰いだ。

「規格外の神の力か、とんだ笑い話だ」

乾いた、引き攣るような笑い声を上げてひとしきり笑った後、先生は大きくため息をついて私と麻由美さんを見た。

「マユミ、急ぎ助手君に咒具を拵えてやれ。モモ君、君にはこの高純度の水晶を渡しておく。今日は一晩、その水晶を身に付けて寝たまえ。あの術者に対する対応は、また明日以降話し合おう。今日は、もう帰りたまえ」

そう言って、私と麻由美さんは店から出されてしまった。仕方なく、麻由美さんは下宿しているお師匠様の所へ、私は自分のアパートへと歩き始めた。


第十幕 逆鬼子母

「助手ちゃん、急拵えで悪いんやけど、これを右手首に付けとってな」

そう言って先輩が付けてくれたのは、真新しい念珠だった。父と母の念珠とは全く違う酷くシンプルなものだ。私があの日、先生の言いつけの通りにしてみたら翌日には結晶が六倍ほどの大きさに成長していて、黄色のような金色のような、幾重にも煌めく光が閉じ込められていた。先輩はそれを加工して、念珠の形に落とし込んでくれた。結晶と、何かの木で作った球を入れ込んだ念珠は、先生が作ったものよりももっと私の体に馴染む感覚が強かった。

「どういう調整にすればいいかほんまに分からんかったから、助手ちゃんの中のキクリヒメとのリンクを強めるくらいしか使いようはないと思うねん。何回か使うてもろて、助手ちゃんに必要な機能をつけてくしかないねんな」

そう言って私の体に触れながら、先輩は先輩のやり方で念珠の馴染み具合を調べているようだった。ひとしきりチェックが済んだらしく、ふむ、と言って私を抱きしめてから離した。

最後の動作は単にそうしたかっただけだろう。満足そうにむふう、と息を吐いた。

「助手君には感謝をすべきだぞマユミ。お前の咒具の完成を早めたのも助手君だろうに」

先生は、自身の咒具をひとつずつ点検しながら言う。札の補填をし、不動の利剣を軽く振って感触を確かめ、照魔鏡の曇を取り、それらの動作を無駄のない動きでこなしていく。

「マユミの開発していた携帯電話型咒術発動装置だがね。気の蓄積と消費量に問題を抱えていたんだが、バッテリー部分を交換可能にすることで残弾の心配を無くすことに成功したんだ。この前助手君が生成したあの大結晶に膨大な気が封入されているのが分かってね。あれを小分けにしてバッテリーに落とし込むことに成功したのだよ」

先生の発言を受けて先輩が胸を張る。先輩の腰には、確かに予備のバッテリーと思しきものが三個ほど付けられていた。その他にも、先輩は前以上に無数の咒具を身に付けていた。文字通りの完全武装なんだろう。

「猟犬には猟犬の狩り方がある。マジナイ屋にはマジナイ屋の狩り方があるのだよ、助手君」

先生は道具をひとつずつ丁寧に道具箱に入れて、背負った。黒いソフト帽に黒いインバネス、黒い紬の着物に黒い花緒の下駄。先生もまた完全武装だった。

そして私は。

先輩が徹夜で仕上げたと渡してきた、黒を基調とした洋服を着ていた。ワンポイントに濃いめのピンクのリボンを控えめにあしらったワンピースのような服で、その上にはジャケットを羽織るようになっている。これも、不気味なほど私の体に馴染んでいた。

「助手ちゃんの育てた結晶を加工して、込められた気を糸状にして織り込んだ布を使って仕立てたんやで。兄さんの紬の着物とかインバネスとかと同じように、助手ちゃんを守ってくれる咒具なんやで?」

いつの間に先輩にスリーサイズも含めた体の情報を掴まれていたんだろう。もしかして、智慧の眼というのはそういうものまで見透かしてしまうのだろうか。

「なんや、助手ちゃん? 人の事、変態見るみたいな眼で見んといてくれる?」

私は軽く舌を出して、普段の仕返しをしてやったとほくそ笑んだ。先輩は何故か顔を赤らめている。

「支度は整ったな、二人とも。では行くぞ」

先生の後に続いて、先輩と私は店を出る。


これから、黒い女神を祓うのだ。


先生の下に周藤さんから情報が寄せられたのが昨日のことだった。

周藤さんは、三条市とその近郊の市から、不自然なほど苛烈な虐待による子供の事故死が相次いでいるという相談を先生に持ちかけていたようで、先生はそれを自分だけで調査していたようだ。結局、その事件と私たちの依頼とは重なる内容のものだったと、谷戸さん親子を見て確信したらしい。私と先輩が咒具を調整していた数日間、物証集めや改めての情報の整理などをしてくれていた。

それによると、例のセミナーに行った女性の内、未成年の保護者たちが次第に精神に変調を来たしてしまい、子供に手を挙げるようになっていったこと、最終的には、子供を責め抜いて殺してしまい、茫然自失の状態から回復しなくなってしまうことが分かった。

「小晴君はすんでのところで自分の嗅覚を持って切り抜けた、という所だろうか。相談に来たのがもう少し遅ければ、他の子供たちのように、あるいは」

そう呟いた先生の顔には、暗い影が指していた。宮内さんたちのこと、これまでに救えなかった人たちのことを思い返している様に見える、悲しい表情だった。

「報告によると、もうひとつ奇妙な点がある。亡くなった子供たちの奇怪な共通点として、体内の血液が大変に少なくなっていた、ということだ」

「血液ぃ? なんでそんなもんが抜かれとんの、術者は何がしたいねん」

「式神の術式には特段血にまつわるものは無かった。人の頭に侵入して命令を実行させる術式、術が剥がされた場合対象者を攻撃し呪いを付与する術式、元となったヤドリバチの魂を安定化させて咒物化させる術式……そんな所しかない」

「何人もの子から血が取られていて、働きバチたちが女王バチの所へと運んだんでしょうか」

先生と先輩の動きが止まった。

「あ、あの、なにか?」

先輩が私の肩を思い切り掴む。

「それ、それ、それや!」

「どれ?」

「何つまんないボケかましとんねん! 助手ちゃん、ハチや、ハチ! あの式神はハチなんよな」

「それが何か?」

「やから、信者たちが働き蜂なら術者は女王蜂になれるんとちゃう? 働き蜂は女王蜂の所に餌を持って帰るもんやで。子供たちの血が餌やったとしたら?」

「そんなことありえますか?」

「有り得る」

先生は断言した。

「相手は式神だ。ヤドリバチその物では無い。本来のヤドリバチにはスズメバチの様な社会性は無いはずだが、術式でそれを付加して使おうとしている」

「何のために使おうとしとるん?」

「マユミ、原点に帰れ。マハー=カーリーはいかなる神か?」

「…………祈るための生贄」

「子供の血を生け贄に、何をカーリーに祈るんでしょうか」

先生は大きくため息を着く。

「目的は問題では無い。実際の被害が術者によって齎されている。それこそが今回の問題だよ助手君。だから僕たちは潰しにかかる」

昨日の夜はそうやって話し合いが打ち切られ、今私たちはその店に向けて動き始めた。


あれから約一週間。店は静まり返り、表通りのショーウィンドウや飾り窓にはカーテンが敷かれ、全く人の気配がしなくなっている。

「さて、ここまで不自然に周囲に人がいないということは」

先生の声がけと同時に先輩が携帯電話型咒具を操作する。

『術式判定開始、術式判定中、お待ちください』

もう聞き慣れた電子音が鳴り響く。

「おい、咒具に僕の声を入れたのか」

先生が片眉を釣りあげて先輩を見る。

「やって、この声が一番しっくりくるんやもん」

先輩は悪びれる様子もなく告げる。

ああ、聴き比べるとよく分かった。先生の声を継ぎはぎした電子音声だったのか。

「判定結果が出たで。人払いは当然やけど、建物に弱くやけど防護用の結界が貼ってあるわ。せやけど、ひどい雑な式やなこれ。盛り塩かなんかした程度なんかな」

先輩は続けざまに携帯電話を素早く操作していく。

『術式三番、展開』

携帯電話から銀色の糸のようなものが無数に伸びて、建物に吸い込まれていく。ほんの数秒して、ガラスが遠くで落ちて砕けたような音がした。

「これで結界も切ったし、特に呪詛返しもないなぁ。結界が切れたことを知らせる探知の術式みたいなもんもないし」

先輩は携帯電話の画面に映る結果を見ながら呟く。私も二つ目の瞼を開けてよく観察をしてみるが、結界のようなものは見えていない。建物の二階に瘴気が集中しているように見えるだけだ。

瞬間、全身が総毛立つ感覚に襲われた。

あまりに急なことで、体が上手く動かない、言葉が出ない。

何か巨大で力のあるものに覗き込まれた様に、まさしく、蛇に睨まれた蛙みたいに、私は金縛りにあってしまった。

『おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まにはんどま じんばら はらばりたや うん』

先生の声が強く響き、眩い光が先生の周りから放たれた。不思議なことに、体が少し軽くなったように感じた。

『りん、ぴょう、とう、しゃ、かい、じん、れつ、ざい、ぜん』

先生の声が鋭く響き、体が急に楽になった。先生が行った仏の功徳を願う光明真言の詠唱と、魔を祓う動作、九字切りが、得体の知れない視線を打ち払った。

「まったく、助手君に邪視避けを持たせていないのか、落ち度だぞ」

先生は先輩の頭を軽く小突く。

先輩は口を歪めて悔しがった。

「うううう……」

「試作段階とはいえ、それ位は盛り込んでおきたまえ。対抗術は持っておいて損は無いのだから。特にお前、自分の礼装には盛り込んでおいたから当然になってしまって盛り込みそびれたんだろう」

私は思わず笑ってしまった。緊迫した状況なのに、この二人の掛け合いは幼い兄と妹のように見えたからだ。それでも、私が邪視、というか何かに観られたのは事実だ。敵に居所が知られたことも。

店の扉が開いて、中から十人くらいの女の人達が出てきた。みんな年齢はバラバラだけど、全く同じデザインの白い服を着ていた。それぞれに、手に棒のようなものも持っている。その人たちが一斉に私たちのところにやってくる。

「なるほど、物理的に片付けるつもりか、助手君」

私は左の念珠を構えて父と母を呼び寄せ、両手両足に纏わせた。

先輩は携帯を腰に刺して、腰を低く落とし両の足を前後に大きく開き半身を隠すような構えを取った。

「授業の成果を見せてもらうぞ」

先生はそう言って一歩引いた。

それと同時に女の人達がこちらに殺到した。みんな殺気立っているし、動きに迷いがない。近くで見ると、手に持っているのは金属の棒のようなもので、黒光りしている。

女の人達が棒を振り上げながら突進してくるけれど、その動きがとてもゆっくりに見えた。何処をどう崩せば倒れるか、今の私には分かる。一人目は肘を打って軌道を曲げる、二人目は膝を裏から蹴り上げる。腕には父の力を、脚には母の力を纏わせているから、力加減だけ十二分に気をつけないと、人の体なんてボロボロにしてしまうけれども。三人目はただ突進してきたので、鳩尾に軽く手を当てて吹き飛ばした。

先輩はもっと機敏に、素早く、機能的に動いていた。私が三人を無力化する間に五人無力化していた。やっぱり敵わない。たった一ヶ月の付け焼き刃の動きでここまで動けるなんて自分でもびっくりしているけど。先輩のそれは、完成しつつある達人の動きだった。

「流石だな」

先生は一言だけ呟いた。

何もしてないのかと見てみれば、倒れた女の人達に札を飛ばして、印を結び咒を唱えている。女の人達から黒いモヤが抜けていく。

残りの人たちも難なく無力化して、先輩は女の人のひとりを抱き起こして確認を始めた。手に持っていたのは伸縮式の警棒だった。

「この人、三十歳くらいかなぁ。この人の力でも目一杯振ったら、ウチらの骨くらいはポキッとイけるで」

武器の見聞が終わると、次に瞳孔の開き具合や脈拍を見る。まるで震災の時に野外で活躍する救急救命の看護師さんの様に無駄のない動きだった。

「どの女性も皆、谷戸君の母と同じように宿蜂蠱を仕込まれてるな。自分で判断なんぞ出来ない程に精神に食い込んでいた。でなけりゃ、往来で人なんか襲わんだろう」

先生はそう告げながら、店の入口から視線を外そうとしない。先輩も一頻りの見聞を終えて、軽く息を吐いた。

「どの人も正気に戻るまでかなりかかりそうやで? 瞳孔は開きっぱなしで反応無し、脈や呼吸はしとるけど」

「魂的にはもぬけの殻かね」

「完全には消えてない、ってだけやね。酷く弱まってしもて、回復が難しいとは思うねん」

私は仕方なく、道路の方に倒れている人をみんな避けておいた。人払いを打ったからと言って誰も来ないという訳じゃない。車になんか引かれてもらっては困る。

「でも、こんなにまでして術者は何を求めてるんでしょう?」

私の問に先生は応えない。明確な応答ができるほどの情報が今回は無いのだろう。だからこそ、目的でなく被害を重視すべきだと割り切ったことを言うのだろう。でも。

私にはどうも引っかかったままだ。

何がこれまでと違うのかは自分でも理解できないけれど、ただ祓うだけでは何の解決にもならない気が強くしていた。


店の中は、なんの物音もせずに静まり返っている。一階には何も無い。あるとするならば二階だ。

「敵の本丸まで行くしかないのか」

「逃げてるってことはない?」

「ないだろう。神ってのは呼ぶ作法が面倒くさいもんだ。一度祭壇をこさえた場所から簡単には動かせんよ。使っている神が何かにもよるんだろうが」

先生と先輩、私は油断せぬように階段を上がる。私は父と母を纏わせたままで、先輩は携帯を構え直していた。先生が扉を確認して、開ける。

扉はなんの抵抗もなく、開いた。


鼻につく妙に甘ったるいお香の匂いと、うっすらと紫色を帯びた煙が立ち込めている。部屋の中には祈りを捧げ続ける女の人達。その向こうに、私が父の目を通じて見た女が革張りの白いソファに腰掛けている。全身真っ白な出で立ちの丈の長いドレスのようなものを着て、薄く微笑みすら浮かべてこちらを見ていた。

『おんまかきゃらやそわか、おんまかきゃらやそわか、おんまかきゃらやそわか、おんまかきゃらやそわか』

言霊が載った声が幾重にも、波のように打ち寄せて来て気持ちが悪い。この空間そのものが酷く歪んでいるように思えてくる。

「惑わされるな助手君。場所を作るのはマジナイの基本だ。ここは、あの」

先生は白い女の後ろの祭壇を指さす。

十本はあるかという腕を広げ、手に手に武器を握り、黒い肌に突き出された舌、爛々と輝く見開かれた両目。

「偉大なるカーリー=マーの御前だ」

先生はそう言って、ゆっくりと、着実に術者の方に歩みを進めていく。

先輩は術を打つ為に携帯を操作しようとしていたが、私が袖を引くと止まった。

「兄さんはどうするつもりなん?」

「正体を見極めるつもりでしょう」

「正体?」

「狩人には狩人の狩り方がある、マジナイ屋にはマジナイ屋の狩り方がある、そう言っていましたね、先生は」


真言を波のように唱える女の人達を気にする風でもなく歩を進め、その合間を風かなにかのように歩を進め、術者の女の前に先生は立っていた。

「お初にお目に掛かる」

「どうも、はじめまして」

拍子抜けするほどの穏やかさだ。でも、二つ目の瞼を開けてみれば、押し寄せる瘴気の渦の中で平然と立っている先生の姿が視える。

「アナタがこの土地の守り人さん?」

「そんな具合で」

「では、引いて下さらない?」

「そうも行きません」

「何故?」

「貴女が当地に障りを成すからです」

「さわり?」

「ええ、その後ろにおわすカーリー=マーに贄を与えて、貴女は何を望んでいる?」

真言の声がふつりと止んで、殺意に満ちた目線が私たちに注がれる。

「アナタには無用の事、違います?」

術者の女がゆっくり手を掲げると、女の人達がゆっくりと立ち上がる。手には、皆ナイフを持っている。

「ここまでしつこく追われるだなんて。正直予想外でした。さすがに邪魔だわ」

悠然とした動作で余裕を崩さない、いつでも私たちを始末できると思っているのだろう。

先生は一向に姿勢を崩さない。

「貴女の「娘」と同じ脅し方ですな、なんとも、安い」

女は先生を見たまま動かない。

「その余裕、何時までもつかしら?」

女の手がゆっくりと下がると、一斉に女の人達が私に殺到する。さっきの戦いも術者の女は確かに観ていた。この人たちの目を通じて、私を観察していたのだ。

纏った父と母の出力を上げすぎないようにして、女の人達のナイフを持つ腕を中心に打撃を加えて無力化していく。でも、襲ってくる人はさっきの倍の数。とても捌ききれない。

『一番、展開』

耳に、先輩の声が届く。

女の人達の輪の外にいる先輩の手には、いつの間にか異形の大弓が握られていた。青白く淡い光を放つその弓は、谷戸さんの生霊を祓った時と同じものだ。

『ひきてかえせよ あずさゆみ ひきてかえせよ あずさゆみ』

弓に霊威が宿り、光が強くなっていく。

先輩は弓の弦を目いっぱいに引く動作をした。先輩の手の中に、無数の光の矢が生まれた。

『ひところす すくうはむしの くちはれて うごきもやらず かぜにふきさぶ』

矢の先端に一際強い光が宿る。

『てんちげんみょうぎょうじんぺんつうりきしょう!』

先輩の言霊が打たれるのと同時に、先生が言霊を被せて打った。矢たちは弓から放たれて、意志を持ったように女の人達の頭へと飛来し、刺し貫いていく。

血飛沫の代わりに黒いモヤが溢れ出て、霧散していく。それが一瞬のうちに行われた。

「っ!?」

術者の女は明らかに動揺した。

手足となっていた宿蜂蠱を宿した女たちは皆動かなくなった。

先輩は異形の大弓をすかさず術者の女の方に向けた。先生は一歩も動かず女を見つめている。

『だから、底が浅いと申し上げたでしょうに』

女は先生をじっとりと睨め付ける。

『その余裕は何時まで持つのかね?』

先程と全く同じ言葉を、全く同じ調子で女に返す。先生は、口の片方だけ歪に釣りあげて笑っている。

女は、自分の持ち駒全てをなくしたのだろう、ただ引き攣った顔をして無言で先生を見ているだけだ。

先輩は続けざまに矢を射ろうとしていたが、私はそれを制した。不用意に攻撃して、妙なことを起こしたくなかった。

『さて、セラピスト殿。貴女は一体どのようなセミナーを行って、この惨状を招いたのでしょうね』

「っ、アナタはっ」

『貴女にとっての死神、物語の幕引役、猟犬を操る猛獣使い。呼び方はご自由になさると良い』

酷く落ち着いた声音で先生は語る。

『異教の神を呼び込んで迄、貴女が叶えようとした事、子供の血という最上の贄まで用意して、黒く偉大な母神に祈ろうとすること。カーリー=マーは本来は大地の女神であったと言います。それがヒンドゥー教に取り込まれる過程で、パールヴァティーの神話体系やシヴァの神話体系に組み込まれていき、現在の黒き猛々しき女神へと変じていったと』

女のいる祭壇に一歩。

『さて、店の名前は吉祥天女(ラクシュミー)という。しかし祀っているのは烏磨妃(パールヴァティー)であり、准帝仏母(ドゥルガー)であり、その正体は黒暗天女(カーリー)であるという。これらは全てインドの中で尊崇を集める女たちの姿の戯画化とも言える神であるが、貴女はどの女を理想としていたのです』

さらに一歩。

『良き妻ですか、優しき母ですか、麗しき永久の乙女ですか、それとも、猛々しくも強き女ですか』

さらに一歩。

『カーリー=マーは、その猛々しき姿をもって恐れられもしますし、その神話の中でも決して優しく扱われているものでも無い。まるで怪物のように描写されている。しかし、その力強さが信仰を集めている。必要な贄を捧げれば願いを確かに叶えるのだと』

さらに一歩。

『貴女は何に成るのです?』

術者の女は完全に先生の雰囲気に飲まれている。

眼前に見えているのは、真っ黒い死神。

彼女の心の闇の部分。

影が女を追い詰めた。

『あなたは、なにに、なるのです』

「私は、私は、っ、あと少しで、あと少しなのよぅ!」

女はソファから立ち上がり、先生に対して手をかざす。

その手を、光の矢が刺し貫く。

私が止めるよりも早く、先輩が動いていた。

「兄さん、無駄や、何してんの!」

先生は先輩の方を振り向かずに言う。

「掬おうとしている」

「なんやて?」

「この女も掬われるべきだ。それが分からんかね」

「…… 外道は外道や、兄さん。 外法の者は外法の下にて葬るべし、ウチはそうして来た」

「それは黒井の掟だ、マユミ」

「せやけども」

先輩は、麻由美さんは目一杯弓を引く。

「ウチはそれ以外、知らん!」

びぃぃぃぃぃぃぃっっっっん

一際甲高い弦の音が響くと、光の弓矢が術者の女を刺し貫いていた。そして女の体から、とめどなく瘴気が吹き出し始めた。

麻由美さんは泣いていた。

先生は瘴気の行先を見ていた。

瘴気は女の後ろにあったカーリーの神像に吸われていく。カーリーは、瘴気を吸って段々と膨れ、脈打ち始める。

「桃君」

先生は、私の名を呼んだ。

『聴こえるか』

言霊を載せた声が耳に響く。

私は全神経を右手の念珠に集中した。

念珠からとめどなく光が溢れていく。私の内側に潜るように、魂と自分がひとつのものであるように、私の中から力を汲み上げるように。

『聴かせて』

私の内側から声がする。

先生よりも巨大な霊威を持った言霊が、私の口をついて出る。

言霊はカーリー神像にぶつかる。神像は、大きく身震いしたように揺らぐ。瘴気がざわめき、揺れ動く。

『聴かせて、貴女の理を』

私の言霊に反応して、瘴気が一斉に私の下に雪崩込んでくる。私はその中で、眼を開き、耳を傾ける。


色々な人の思い出が混濁している。


これは。

誰かの記憶。

母との記憶。

父との記憶。

幼い子供の記憶。

少年の記憶。

少女の記憶。

年若い母の記憶。

老いた母の記憶。

ありとあらゆる「子と母」の記憶の雪崩の中で、私は術者の女の記憶を探す。気を緩めると、誰かの記憶と感情にすべてを持って行かれそうになる。濁流の中で、必死に目を凝らす。耳を澄ます。


『なんで!』


小さい雫が落ちた様な波紋。


『楽しみだなぁ』

『男の子かな、女の子かな』

『一緒にお散歩をして、ピクニックをして』

『あなたに似てるよ、きっと』


『どうして、なんで』

『返信してくれないの』

『……なんで?』


『はい、はい、すみません』

『大丈夫です、仕事入れます』

『しっかりしなきゃ、この子のために』


『大丈夫ですか! わかりますか!』

『しっかりしてください!』

『意識低下、混濁あります』


『なんで』

『なんで?』

『なんで、なんで』

『なんでっ!』


『どうですカ?』

『この商品なラ、アナタにも気二入って頂けるカト?』


『さあ、皆さん!』

『私たち女性は今こそ解放されるべきなのです』

『本当の自分を取り戻すのです、皆さんの内側をさらけ出すのです、皆さんは美しい、正しい、女性なのです!』

『崇高なる、母であり、同時に一人の人間なのです!』


『さあ。運んできたのね、偉いわ』

『ありがとう、ありがとう』

『みんなのおかげで、もうすぐだわ』

『嬉しい? みんなも嬉しい?』

『私も嬉しいわ』


『もうすぐ、逢えるね』


そこで、私は思い切り引き戻された。

私の眼は記憶の濁流を離れ、自分の体へと戻った。

目の前の状況はさらに悪化している。カーリー神像は瘴気を吸ってボコボコと音を立てながら膨れ上がり、実体を得て立ち上がろうとしているようだ。

『術式、六十九番、八十八番展開』

先輩の携帯電話から気の鎖が無数に打ち出され、カーリー神像をその場に霊的に縛り付けようとしている。金縛りの強力な術を二つ重ねがけをしている。

『おんまかきゃらやそわか、おんまかきゃらやそわか』

先生はインバネスの袖に隠して印を組み替えながら、術者達が唱えていた真言を唱えている。先生の真言も、カーリーを制御しようとしているようだった。

「助手君、聴こえたか」

先生は私に顔を向けずに問う。私は頷く。

「助手ちゃん、カーリーは何を叶えようとしてるん」

先輩も顔をカーリー神像から逸らさずに問う。

私は、カーリー神像を改めて見つめる。

よく観ると、瘴気が段々とお腹の辺りへと収縮し始めて、塊のようになり始めていた。

「聴こえたんです。あの術者の声。あの人は真剣に自分の願いを叶えようとしていました」

私は塊を二つ目の瞼を開けて観た。そこに父と母の眼が重なった。そこにキクリヒメの眼が重なった。

瘴気の様に見えていたものは、多くの人の感情の濁流でもあり、子供達から取られた血の流れでもあった。

「命の大素は、血の色だと言う人がいます。カーリーは、血を好むのですよね。それを、戦を好むと取る人もいますけれど、きっと」

カーリーに対して、私は両の手を広げて構える。

「カーリーが大地の母ならば、カーリーは命あるものが本当は愛おしいんじゃないでしょうか。そして、黒く豊かな大地の産土からは、強い稚児が産まれてくると言います」

「女たちに宿蜂蠱を仕込んだのは何故かね」

「あの人たちも、あの女の娘でした」

「娘? 支配してたんとちゃうの?」

「支配なんてしてませんでした。あの女は、女の人が、その人の望み通りに生きていられるようにしていたかっただけです」

「つまり、この女は本当にセラピーを行っていたと言うことかね、助手君」

「そうです」

先生と先輩が抑えようとしているカーリー神像をじっと見つめる。そのお腹に、贄の血が集まり、こごり、一つの形を作っていく。

「麻由美さん」

「え、なに?」

「誰かにとっての掬いは、皆を掬う事になるんでしょうか」

「……お母ちゃんたちを、女たちを救うことは、子供たちを救わなかった?」

「そうです。あの女は、自分と同じく苦しむ女は掬ったけれど、自分と違うことは掬わなかった。子供たちは無視したんです。母としての幸せと、その人の、その人らしい幸せは違うものだから」

「そして、あの女にとっての子供は、自分が掬った女たち、ということかね。宿蜂蠱は選ばれた者の証だと?」

「ええ、そして」

カーリーと眼が合う。爛々と光り輝くおぞましい程の生命力が視える。彼女の中にある、世界を揺るがしてしまうほどの、大きな地脈のような、マグマを称える大地のような生命力が。

「自分の幸せを縛る子供は、時にはカーリーへの、自分の豊かな人生を送るための贄になった」

「子供が、邪魔に……望んで宿してもろた命やないんか……なんで、そんな、勝手な……」

麻由美さんは大きく息を着く。

「物差しが狂ってしまったから。愛が狂ってしまったから。いつからか、子供を恨んでしまったから。そんな理由だろうよ」

先生は、カーリーの神像に札を投げつつ金縛りを強めている。

「助手君。君には何が観えている? キクリヒメは何を聴いた?」

私はもう一歩。カーリーの、黒い大きな母の前に歩み出る。

「子供達を贄にして、あの女は自分の子供を産もうとしていました……流産して、殺してしまった、自分の、赤ちゃんを。カーリーの力でもう一度、産み直そうとしたんです……」


ほぎゃぁぁぁぁぁぁっ

ほぎゃぁぁぁぁぁぁっ


カーリー神像の腹から、部屋その物を揺さぶるほどの赤ちゃんの鳴き声が響き始める。

術者の女が目を覚まし、その光景を蕩けた表情で見上げている。

「あ、ああ! あ、あたしの、あたしの」

彼女もまた、それを受け入れようと手を伸ばす。

「あたしの、あかちゃん!」

先生は、思い切り舌打ちをした。

「他人の子を喰らい、己が子を育てるだと? それじゃあ、この女は鬼子母神そのものじゃないかっ!」

先生は腰から不動の利剣を引き抜く。それが、カーリー諸共に女を祓ってしまおうとする動きと解る。

私の喉から、魂から零れ出た言霊が載り、放たれる。

『殺してはいけません』

鈴が無数になる様に、私の言霊が場を揺さぶる。カーリーまでもが私の言霊にすくんだ様に見えるほど。

『この女を掬うなら、この赤子も掬わなくてはなりません。黒い地母神の子。あの子にはまだ罪はありません。たとえ、それが理から外れてしまった女から生まれた歪な子なのだとしても』

私の口を借りて、キクリヒメが語る。

『理の中に、返しましょう』

私の腕が、体が動いていく。

私の意思ではなく、キクリヒメの意思に沿うかのように、全く違和感なく動いていく。私は自分の胸の前で手を構えていた。そして、唇がまた動く。

『懸けまくも畏き、黄泉比良坂の畔に在す意富加牟豆美命(おおかむずみのみこと)に畏み畏みも申す。宿したる神奈備の御力もて、この地に巣食います外国(そとつくに)の母神の怨み鎮め、祓い清め給え。その罪穢れあらむをば、神奈備の実の御力もて、根堅洲国に流し遣り給え』

私の体は、今やキクリヒメと完全に同調してしまった。私は今、言霊を打っているのが私なのか、キクリヒメなのか分からない。

しかも、私は、私の体の中からキクリヒメとは更に別の大きな存在が込み上げてくるのを感じていた。

私の構えた手の中に、いつの間にか花の着いた大ぶりの桃の木の枝が握られていた。

使い方が分かる。

私は、これを知っている。

私はカーリー神像に向けて一歩踏み込むと、思い切り袈裟懸けに桃の枝を振るった。

枝が空を切るのと同時に、無数の鈴が鳴り響いたような音が場に満ちていく。その音に呼応するように、私の手の枝から桃の花が散っていき、地に撒かれ、そこから無数の桃の木が生えていく。そして、一つ一つの木が急激に成長し、今にも立ち上がろうとしていたカーリー神像を巻き込んでいく。

巻き込んだ枝には無数の桃の実が育っていく。

ほぎゃぁぁぁぁぁぁっ

ほぎゃぁぁぁぁぁぁっ

赤子の声がまた響く。

私の体はもう一歩、神像に近づく。

『外つ国の母神よ、貴女がその腹に宿す子は何か』

キクリヒメが語り掛ける。

『…………この腹の子は、そこな女の望みし稚児(ややこ)なり』

カーリーが応えた。まるでマグマの煮え滾る地の底から響くような低い声だが、深い知性を感じさせる声だった。

『子を産み直すことをその女が望んだ。故に吾は贄を求め、この女は応え、贄を捧げた。故に願いを叶える』

『それが、他の者等の子を贄とし、糧とした人の理から外れた子だとしてもか』

『愚問なり。吾は吾を呼ぶ者に恩恵を与えたに過ぎぬ。その女は確かに贄を差し出した。吾は吾を呼び、贄を捧げた者の願いを叶える者』

カーリーは静かに語る。

カーリーそのものは、自分の意思から外れた行動は決して取っていない。カーリーはあくまでも願いを叶えただけだ。

『だとすれば、貴女の役目は終わった。外つ国の母神よ、貴女の伴侶の元へと還り給え』

脚が勝手に動く。ステップと共に血を踏みしめて音を奏で、その形が八角形を描いていく。

手に持った桃の枝が少しづつその形を変えて、細く長い両刃を持った剣となった。私はそれを両の手で構え直し、体の横に引いて大きく一閃した。

カーリーにまとわりついていた桃の枝と、瘴気と、それら丸ごと一気に斬り祓われていく。

実態化したカーリーは消え去って、祭壇には両断されたカーリー神像が転がっていた。そして、術者の女は両の手を天に掲げたまま固まっていた。

その手には、赤子の声を上げる肉塊が握られていた。その肉塊が蠢く度に、女の顔に血のようなドス黒い液体がかかるが、女は優しく微笑んでいるだけだ。

先生と先輩とは、女へと近づいていく。

私も手に剣を携えたままで、女の傍に行って跪く。

「あ、あ、ようやく、わたしの、わたしの、あかちゃん……」

女は愛おしそうに肉塊を自分の胸に抱き抱える。肉塊は、女の手の中で震えながら赤子の声を上げている。

先生も先輩も、この肉塊を癒す術は知らない。

もしも今まで通りに事件を解決するのなら、今この場で二人を殺してしまえば良いのだろうけれど。

私は、剣を納めて両の手のひらで女の腕の中にある肉塊に触れた。

『この乳飲み子に、吾菊理媛、吾が(ヒコ)意富加牟豆美命の名を以て、産湯遣わし言祝ぐなり。天津罪、国津罪、種種罪、許許太久(ココダク)の罪をば、祓え給え、清め給え』

私の手から、きらきらと光を帯びた清らかな水が溢れ出して、肉塊に染みていく。肉塊から血や膿が吹き出すように瘴気が噴出していく。キクリヒメと繋がった今の私には、その瘴気が様々な女たちが集めてきた記憶や感情と、子供たちの血から出来たものだと理解出来る。そんな穢れが祓われて、肉塊は段々と小さくなっていく。

「あ、あああ」

術者の女はそれを見て取り乱し、泣き喚く。

「やめてえええ! やめてよおおお! わたしの、わたしのあかちゃんがあああ!」

しかし、体には力が入らないらしく、ただ必死に肉塊を抱きしめるくらいしか出来ていない。

『だとしたら』

私は、私の言葉で女に語りかけた。

『だとしたら、悲しいですよ』

「なにがっ!」

『だって、この子は、貴女に愛されて、周りの人にだって愛されて生まれてきたいでしょうに』

女は、泣くのも、喚くのもやめて、惚けた顔で私をじっと見つめた。

「いま、このこは、わたしはこのこをあいして」

『そうですね。貴女はこの子を愛していたから、もう一度この子に生命をあげたんですものね。もう一度、逢いたかったんですよね』

肉塊は今は汚く澱んだ肉を捨て、膿も血も瘴気も全て吐き出して、片手に乗るほどの小ささになっていた。それでも必死に鳴き声を上げて、母を求めて泣いていた。

「あ、あ、わたしの、わたしの」

『そうです、貴女の赤ちゃんですよ。だけれども、この子は本当に望まれてこの世に産まれられるのでしょうか』

「へ」

『貴女は自分の愛しい子供を産み落とすために沢山の子供達を犠牲にしてきたんです。貴女のように、愛して産んだ子達を、貴女の為に捧げてきた人達が沢山いることに、貴女は気付いていますか』

「わたし、は」

『憎しみ会い、時に恨み、怒りをぶつけあう。それは確かに苦しいし、逃げたいでしょう。でも逃げられない。それが、親子なのでしょう。だから、皆解放を望んで貴女にすがり、貴女の子供となっていった。守られている感覚というのは、とても素敵な事ですから』

私は思う。この術者の女は確かに、他の女達を救っていたのだと。それが一方的で一時凌ぎな、独り善がりな救済だったとしても。誰にとっても受け入れられる様なものでなくっても。確かに、母も女たちも救われていたのだ。

『でも、それは上辺だけの救いになってしまった。その人達を苦しみから掬い上げたんじゃないんです。この子は、その人達の苦しみと後悔から産まれてしまった子です。貴女は、それを全く忘れて、思い返すことも無く、本当に心の底からこの子を愛することが出来ますか』

ほぎゃぁぁぁぁぁぁっ

ほぎゃぁぁぁぁぁぁっ

肉塊は、今や余計なものをすべて振るい落とされて、人間の赤子の形になっていた。

女は自分の腕に抱かれた赤子を見る。

母を求めて哭く赤子。彼女は、愛おしそうに赤子を見つめていた。

「このこは、わたしがのぞんでさずけてもらったこです」

女は真っ直ぐに私の目を見つめる。

「どんなこでも、わたしはあいします」

『わかりました』

桃の枝から変化した剣を赤子にかざす。

『祓え給え、清め給え。随神(かむながら) 守り給え、幸い給え……天津御剣、桃の実の功力にや、此乳飲み子と母の下に、幸いあれや』

剣の先から、金色に輝く一つの雫が赤子に落ちる。赤子は、薄ぼんやりした光の帯へと変じ、段々と女の口へ集まり呑み込まれていく。

女は、優しい表情でそれを受け入れる。


「非情な鬼神たる訶利底母が、真の慈母となったか」


先生は、静かに呟いた。


終幕 マジナイ処 鈴鳴堂

先生は、いつもの位置で寝そべっている。

逆側のソファには、私と先輩。

私はなんでか、先輩に膝枕され、頭を撫でられていた。

「あの、先輩? 麻由美さん? やめて欲しいんですけど」

「や」

「いや、やっ、て」

「いーやーや。こうしてんのも意味があんねんで? ウチが触れて、観て、モモちーの調整を手伝わんとすぐ力が漏れだしてまうやんけ」

「ぐうっ」


あの日。


あの後、体から一気に力が抜けて私は気絶してしまった。どうやら先輩が抱えて帰ってくれたらしく、それから先輩は前にも増して私にべったりになった。当人は調整のためだと言い張っているけど、半分は嘘だろう。


先生はあれから、店の中にある史料をかき集めて私の中のカミサマの正体を調べ直していた。それによると、私はキクリヒメと、もう一つのカミであるオオカムヅミを宿していると分かった。記紀神話を調べ直すと、私の名前と同じ、黄泉比良坂に続く場所に生えている桃の木のカミで、この世とあの世の境界線を守る存在の一つとされているらしい。でも、キクリヒメと同じく神話がかなり少なくて、魔を避ける強力な神様という部分以外に分かったことはあまり無かった。


つまり、私の体にはカミサマが二人も入っているということで。自分でも体の分からなさ加減に頭痛がしてくる。


「助手君は、巫覡として覚醒した」

先生は力無く寝そべったままで呟く。

「だが、あまりにも不安定が過ぎる。キクリヒメの力もオオカムヅミの力も助手君の制御下にない上に、彼らのご都合に合わせて勝手に出てきては暴れまくるんじゃあ、なあ」

そう言って、大きなため息をついた。


先生も先輩も、私に対する心配は同じことだった。


カミサマ達の力は、父と母の力の比ではないもので、あの日から先輩とも何度も授業を重ねているが、まともに制御できるものでもなかった。キクリヒメの力を下手に使おうとすると周り全ての声も音も思念も拾って頭が割れそうになるし、正気を保っていられなくなる。普段は使わない方が良いと先生も先輩も、私も実感として分かっていた。

だけれども偶に、私の気持ちが昂ったりすると勝手に力が働いて、暴走したようになってしまう。もっと言うと、オオカムヅミの力はどうやったら使えるのかすら分からず終いで、全くのお手上げだった。

そもそも、なんでこのカミサマ達が私に取り憑いているのかも分からないのだから、手の打ちようも無いのは確かだった。


「さて、助手君。マユミ。周藤刑事からの報告だが、あの女は警察の保護観察下に入ったらしい。あの女自身が子供たちに手を下した訳ではなく、式神を使って洗脳をした上で傷害や殺人に及ばせていた訳だから、実際には各種犯罪の教唆という罪に問われるそうだ。一方で母子共に健康状態には問題がないそうだよ。多くの母親と子供たちは報われなかったかもしれんが、僅かばかりの掬いはあったんだろうかな」

先生は、大きなため息と共に言う。

私がとった方法は、今までの先生や先輩のやり方とは違う形になったのは事実だ。

今回の術者は、なんとか人を掬おうとした。

それが間違った方法だったとしても。

それが彼女のエゴに過ぎなかったとしても。

それで掬われた人達が本当にいた。

彼女に施術された人達の中から、警察に助けて欲しいと嘆願に行った人も居たのだという。

その逆で、あんな詐欺師は早く刑に処して欲しいという人たちもまた居たという。

「ウチらの方法とは違ったけど、あの女の人は掬われたんかな」

先輩は呟く。私を撫でる手から、先輩の悲しみが伝わってくる。黒井の掟に従って、外法の者を始末してきた悲しみが。例えどんな人でどんな理由があっても、闇から闇へと葬らなきゃならなかった先輩。そして、その先輩をなんとか掬おうとしている先生。

「私は、まだ私の力の使い道は分かりません。というか、使えるかどうかすら、扱えるかどうかすら分からないけれど」

先輩の空いている手を私は握る。

先生は、目線だけ私に向けている。

「この力が、本当に誰かを一人でも掬えるというのなら。私は、そうしたい、と思います」

先輩は、私を抱え直して抱きしめ、先生は鼻からふはっと大きく息を漏らした。

「そのためにはまず、君が何者かを知らねばならんよ助手君。平坂桃。君は一体何者なんだね」

                                                     了

 さて、本作はお楽しみいただけたでしょうか。このお話が皆さんの暇な時間を少しでも埋められましたら幸いです。


 今回のテーマとしては、母子の愛、というかなり難しいものに挑戦しています。僕の職場でも、信じられないような親子の関係をよく耳にし、自分自身葛藤を多く抱えたことから、このお話は生まれていきました。子どもたちは本当ならば、みな望まれてこの世に生まれ出でた、はずではないか。なのに、なぜ虐待は起きるのか。なぜ、ネグレクトが起きるのか。なぜ。お互いに愛情はあるはずなのに……。


 もう一つは、大人はいつから大人なのか、親はいつから親になるのか、ということです。

 親って、なんなんでしょうね。僕は、経験から親となることを拒否し、子供も伴侶も居りません。

 自分の経験からでもあるんでしょうが、考えてしまうんです。親って、多分急にこの世に生まれるものなんじゃなくって、子供と一緒に親になるんじゃないかって。その過程で、「うまく親に成れない人」だって、出てくるんじゃないかって。勝手な物言いとは分かったうえで、その何とも言えないモヤモヤ、そして、僕の中にある「親」がもつ情念のようなものをこの作品に映し出してみました。


 僕にとっての親は……。その答えも、まだ出ていません。いつか、答えが出るのでしょうか?

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