五の話 逆鬼子母 (上)
このお話は、愛を確かめる話。兄弟愛、師弟愛、そして母の愛を確かめる話。
見ようによっては。母と女との揺らぎに惑う話。己の欲の為に母という名の鬼になった人のお話。
鈴鳴堂怪奇譚 五の話
『逆鬼子母』~乙女、新タナル師ト出逢ヒ、己ガ「真」ヲ知ル~
訶利底母、赤子を喰らう、化生とて
釈迦の功力に、神とならしも
序の幕 闇の中にて
「堪忍な」
闇の中。何処とも知れぬ。
声がする。
呻き声と、静かな語る声。
「アンタはもう、人の理から外れてしもたんや」
闇の中から、幾つも影が飛んで来る。よくよく見れば、それが鋭い針だと分かるが、光もない闇の中、それを只人が捉えられるはずも無い。
だけど。
声は静かに腕を振り下ろす。
しゃらり、ちゃらり
闇の中に合わぬ、華やかで軽やかな音。
一閃した空間が避け、闇が途切れる。
静かな声の少女の姿が浮かぶ。
飛んで来た針は少女の手前で溶けたように消えていく。
闇の中の唸り声は一際大きく空気を震わし、目の前の少女を喰らおうとにじり寄る。
しかし、少女は動じない。
右手を高く掲げると、どこからとも無く異形の大弓が現れる。
「やから」
びんっ
強く弦が弾かれ、しなる。
音が、闇の中に幾重にも響き、少女を喰らおうとした闇は、ゆっくりと掻き消えていった。
闇に静寂が訪れる。
「ほんまに、堪忍な……」
静かな声は、ため息をついて天を仰ぐ。
第一幕 マジナイ処 鈴鳴堂
「助手君、君の体質の根本的な原因を知りたいかね?」
夏の足音が近くなり、もうすぐ梅雨も開けようかという頃、先生は私にそう告げた。
四月の「友斬葬」事件以降、前にも増して仕事を受けなくなった先生は、日がな一日本の山の中に埋もれて過ごすことが増えていった。学校の授業に現れないことも増え、色々な噂が飛び交っていた。
実態は、本の山に埋もれて、たまにミルクコーヒーを飲み、うんうんと唸る。その繰り返しだった。私は仕方なく、先生に変わってある程度店を動かしていた。
先生に習ったおかげで簡単な占いや人生相談程度はこなせる様になっていた。どうしても私一人でまとまらない依頼だけは、先生に応答役を頼んだが、それも二件あったくらいか。
先生は、そんな私の姿を見て、いくつか自分の中で決めたことがあったらしい。ココ最近、私が見る度にスマートフォンや手紙を使って、方々と連絡を取りあっているようだった。私がこの店に入って初めて見る先生の姿だった。
そんな中で投げかけられた質問は、私の心を揺さぶった。
「根本的な、原因ですか。私のこの、超霊媒体質には原因があるんですか?」
「ああ。君ほどの霊的才能のある人間はそうそう生まれやしない。逆に君のような人間が生まれるなら、それなりに環境が整った、言わば「マジナイ専門の人間」が生まれなきゃならない状況があったという流れで考えるべきかと思ってね」
先生がそういう話をするのは、私と出会った直後以来本当になかったことだった。
「確証がないことを話す訳にもいかない為に、空いた時間を使って研究を続けていた。すると、興味深いことが幾つか分かってきた」
先生は、店のホワイトボードに幾つかの走り書きや文献のコピーの切り抜き、絵画や地図など、雑多なものを貼り付け始めた。
「時に助手君、君の出身地はどこだったか、再度確認させてくれんかね」
先生は地図を睨みながら言う。
「島根県の、奥出雲です」
「それは確か、君の育ての親が居たところだろう。僕が聞きたいのは生まれた場所、正確には君の父母が住んでいた場所なのだが」
私は眉根を寄せた。それが何に繋がるというのか。
「――松江市、だと聞いています。東出雲町の揖屋という場所だと」
「ふむ、安直な様だが間違いなかろう」
先生は地図を指さす。
「その場所に何が有るかは知っているかね?」
「いえ、特に知りたいと思ったことも、無いです」
「まあなぁ、君は今まで父や母に関することは知らされてもいないか、もしくは知ろうとしても来なかったのだろうしなあ。半分は境遇によるとして同情しても、だ。助手君、君はその地にまつわる血を引いている。己を知りたければ、この場所に何があるかは知っておくべきだ。それに君の、その苗字だがね。多分、忌み名として漢字を書き換えてあったんだろうね」
先生がコツコツと叩く場所を見る。
黄泉比良坂、と書いてある。
「こうせん、ひ、りょうさか?」
「おいおい、助手くぅん。君は一年何を学んできたのかね。それともボケたのかね?」
先生はメガネを半分ずらして私を見る。間違った答えや見当外れをした生徒を見る目だった。
一年経った、確かに色々と学んできたけれど、まだ分からないことは多い。特に専門用語が漢字で出されると、なんの事だか分からなくなることがある。
「よみ、のひらさか……あ、よもつひらさか、ですか」
「そう。記紀神話において、民草の住まう葦原中国と死人の住まう根の堅洲国との境にあるとされる坂の名だ。これは、現世でその坂と比定された場所にある訳だが。単に名前が同じ場所などとは思わないことだ。現世と幽世、この世とあの世、此岸と彼岸、この全てはどこかで繋がっている。そして、古来それら境は、良きものも悪しきものもやって来るこの世の関所としての機能を期待された」
先生は、石で作られた様々な像の写真や、藁で作られた大きな人形の写真を指さす。
「これらの場所を関所足らしめる存在が、ここに示す「久那斗神」や「塞の神」と呼ばれる者たちだ。自分たちの空間に異物が紛れ込まぬよう、また来るとしても良きことを招き、悪しきことを弾くように、彼等は境界線を守っている。そして、それらの神を祀り、外からの異なる神を鎮める役を持った一族がかつて居たという。彼等は、黄泉比良坂のほとりに長く住み、その鎮祓を生業としてきた巫覡だったと」
先生の淀んだ目が真っ直ぐに私を捕える。
「その末裔が、君だ」
指を真っ直ぐに突き付けて、宣言する。
先生はここ数ヶ月、それだけを探っていたのか。私は驚くよりも呆れが買ってしまって、しばらく何も言えなかった。
「何だね助手君、その惚けた顔は。僕の数カ月の成果に感心する様な殊勝な君ではあるまい。なんだ、頭が追いついていないか」
先生は皮肉げに微笑む。
「ええ、その、私の体質を調べるためだけに、数ヶ月使ったんですか?」
「そうせんと分からん程度には君にまつわる情報がなかった。言い換えると、誰かが意図的に君にまつわる情報を消して行ったかのように」
先生は笑みを消し、歯をむき出して唸った。
「それはそれは執拗に、丁寧に消されていたぞっ! 僕が君に聞き取りをしたきた様々な情報の断片をじっくりねっとり組み合わせてきた結果だっ、ここまで一年半も粘り強く研究した僕を褒めてやりたいくらいだよっ」
先生は、盛大にため息を着く。
「つまりだよ、助手君。君は自分では全く分からんかったのだろうけど、酷く用意周到に護られていたのだよ。ただこれは君の父と母だけではどうにもならんだろう、君のまだ知らぬ一族総出で君を生み出し、護り、育んできた。……こう言っていいのかは分からんが、君はだいぶ愛情、というか、一族の期待をだね、背負って生を受けたのだろう」
先生はホワイトボードの資料を貼り直し、整理し始めた。
「これが前提の話だ。次に、体質の話だが、これは君が父と母という荒御魂と長いこと良好な協力的関係性を築いていることから」
先生は自分の頭を軽く小突いた。言葉を幾つか選んでいるようだ。
「君には、術士としての才覚と言うよりも、霊媒、いや、それも最適な言葉では無い。霊的な存在の本質を捉え、霊的な存在と交流を持つ「神降ろしの巫女」の才覚を持つ、彼岸と此岸の橋渡しを役とする人間として生まれることを期待された節がある」
そこで、先生はううむ、とまた唸り始めた。
「神様、と、交流できる才能? 橋渡し、ですか」
にわかには信じ難い。
私に憑りついている父と母は、見かけこそ巨大な狼ではあるが、それでも私の父と母の霊に変わりがない、と私は思っている。だから、私に憑いていてくれるのだと。だけど、何故父と母がこの姿となってしまったのか、私を守ってくれていたとしても、何がキッカケで憑く事になったのか。何故と考えてみれば、謎ばかりが募っていく。
「それだけ巨大な霊威をもった存在が長年そばに居たのに、君の魂や気の巡りにはなんら影響がなかった。――まるで、最初から君の魂に父と母が組み込まれたかのように、あまりにも自然にそこにある。だが、あまりにも不自然なのだよ」
先生は私の念珠を見る。
「確かに、その念珠をつけたことで、父と母とのリンクは安定した。安定したのだが、それは君がそれだけの霊能を持っているのになんの修行も受けておらず、技能もなかったがゆえの事で、君が君の一族の作法で訓練されていさえすれば、それも必要なかったのかもしれんのだよ。これだけ短期間の様々な訓練で、ここまでこなせる様になったのは、正直驚きもしているのだよ」
「つまり、私は何者なんでしょう?」
私は先生に問う。でも先生は、顔をクシャクシャに歪めて見せた。
「わからないのだよっ!」
まるで癇癪を起こしたようだ。
「僕が研究してきたありとあらゆる系列に君のような才を持つ者はいなかったのだっ、ある意味マジナイ屋として嫉妬すら君の才には覚えるほどだよっ」
「だけど、私は、自分が何者かなんて……私は私です。それ以上は分かりません」
正直、昔のことは思い出したくはなかった。昔のことを思い出そうとすると、頭にモヤが掛かったようになって気持ちが悪くなってくる。思い出せる記憶は、辛いか苦しいか痛いか、そんなものしかない。
「だが、君を解く鍵は君が封じていたい記憶にこそある。そして、君の力の源が何かも、そこにあるのだろう」
先生はひとつ息をついて、ソファに身を埋めた。
「今後の授業は君の本当の才を伸ばすか、見極めていくことに費やすことにする。すでに基礎の段階は済んだ。そのため、サポート役を呼ぶことにした」
先生から開放され、キッチンに戻った私の耳に不穏なワードが聞こえた。サポート役を呼ぶ?
「あの、誰か来るってことですか?」
「おお、そうだよ助手君。僕だけが君の授業をするのに限界があるし、そろそろ君も君のためだけに作られた咒具を幾らか仕入れるべきだよ。だから、信頼出来る教師兼咒具職人を僕の実家から呼び寄せた」
「ご実家、ですか」
そりゃ、この人も人間だ。実家だってあるだろうけれど、この人が信頼している人間で、ろくな人がいなさそうと思うのは勝手な妄想ではないだろう。しかも、実家。この人を産んだ家、か。
「なぁんだい、助手くぅん。その顔はァ。ひどく不服そうじゃあないかぁ?」
考えていたことは透けていたようだ。
私はあえて何も言わず、キッチン仕事に戻った。
第二幕 屋上 ~ 午後の教室
今日も風が吹いている。
私の特等席と化してしまった屋上は、先生の許可を得て鍵を秘密に貰ってあり、私は出入り自由となっている。
去年には、屋上の周りにフェンスが作られ、多少の安全は保証されることとなった。それ以降、私が気持ちが沈んだ時や考え事をしたくなった時のスペースとして利用させてもらっている。たまに、塚本さんや笠原さん、新井さんがやって来る場所にもなった。
私は屋上の入口の更にその上にある、かつて先生の特等席だった場所に座って、ここに吹く風を浴びていた。
今日は、先生の助っ人? が来ることになっている。そのせいか、何となく落ち着かず、久しぶりにひとりで風を浴びている。
「友斬葬」事件から二ヶ月、クラスの雰囲気は少しづつあの事を忘れてきている。宮内さんのことも、鷺坂さんのこともみんな忘れ始めている。それが、私はどうしても信じられなかった。
でも、クラスの子たちはあの二人が何をしていたのかも知らない。本当はもうこの世に居ないことも。塚本さんたちにも、全部は言えていない。皆はそれで多少は察してくれているが、胸のしこりは消えない。
そんな風にぐるぐると頭の中で無為なことを考えていると、扉が開く音が聞こえた。
誰か来てしまったのだろうか?
この場所自体はさほど秘密でもないけれど、あんまり多くの人が来てしまうと私にとっては都合が良くない。どうしたものかと考えていると、その人影はフェンスまでゆっくり歩いてきて、そのまま立ち止まった。
少し外に跳ねた茶色がかった短めの髪が、風に揺れている。うちの学校の制服とは違う制服を着た生徒の様だった。
紺色のセーラー服に、同系統の色のスカート。それが風を受けてはためく。
背は私より頭ひとつ高い。制服から見える手足の色は、褐色じみて健康に日に焼けているように見える。多分、スタイルのいい女の子、なんだろう。
私はつい、その人に視線をずっと合わせてしまった。それに気づいたのか、その女の子は私の方に躊躇いなく顔を上げた。
目が隠れる程の前髪が、風になびいている。そばかすが目立つ小ぶりな、可愛らしい顔に、澄んだ琥珀色の瞳の、少し垂れた優しげな大きい目。
その目が私を捉えて、ふわっと微笑んだ。
「こんにちは」
ちょっと低めの、耳障りのいい声だった。発音が私たちと少し違う、関西の方の訛りのようだった。
「こ、こんにちは?」
私は急に声をかけられたので、体をすくませてしまった。
その子は、足を二、三回軽く打ち付けると、思い切りジャンプして私の隣にやってきた。
人間離れした動きに私が驚いていると、私の顔をじいっと覗き込んできた。
この、ペースの持っていき方。動きは全然違うけど、似ている……先生と。
「可愛ええ顔してんなぁ」
女の子はそう言ってまた笑った。
「あの、誰です?」
「へ? あぁ、堪忍なぁ。このガッコえらい広いやん? 途中で迷って疲れてしもてな、休憩ついでに見たくなってん、こんなとこまで登ってきてしもたんよ」
マイペースなその子は、からから笑ったと思ったら、また私の顔を覗き込んだ。
「誰って、もう分かってんのとちゃう?」
いたずらっぽく、綺麗な八重歯を見せながら笑うその仕草。
「その、ウチの先生が助っ人を呼んだそうで」
「ふんふん、それでぇ?」
「私のコーチなんだそうで」
「へええ」
「あなたの仕草が、先生に凄くよく似てるんです、と言うより、こんな時間に、こんな所に来る転校生風の人なんて、それ以外考えられないんですけど」
「えへへ、せいかーい」
その子はまたニコッと笑って、私からちょっと距離を取った。
「センセにちゃーんと師事してるみたいやね。その観察、お見事や」
女の子はその場で手を差し出した。
「ウチは黒井麻由美(黎真弓)。今日からアナタのもう一人の先生になります。よろしゅうな」
出された手を軽く握り返した。その動作になんの裏も見えなかったし、嘘をついている雰囲気もない。何かを仕込んでいる気配もなかった。
「私は、平坂桃。先生の助手で、多分、弟子です」
「そっかぁ、じゃあ、ウチの方がオネーサンやな」
「は?」
「なんや聞いとらんの? ウチは、あの黒井晃(黎明)の妹で、最初の弟子になるんやけど?」
「……へぇっ?」
あんまりにも信じられないことばかり聞いたせいで、私の頭はそこで完全に固まってしまった。
「聞いた、モモ! なんかね、三年生に転校生が来たんだって!」
塚本さんが休み時間に話しかけてくれた。
「ああ」
私はさっきのショックから立ち直りきっていなかった。
「凄いよ、関西の大和学園洛西高校から来たんだって。女の子なんだって!」
「ええ」
「モモっち、ダイジョブ? なんか魂抜けてね?」
「はい」
「モモちゃん! しっかり! なにがあったの!」
笠原さんと新井さんがゆさゆさと私を揺さぶる。でも、さっきの衝撃はそれはそれは酷いものがあった。
「モモぉ、何かあったんでしょ、また事件?」
「……はぁぁ。違います」
三人に詰め寄られるのは正直嫌だったので、正直に白状することにした。
「会ったんですよ、その転校生って方と、その、まあ、色々お聞きしまして」
「色々って何さ、モモっち」
「あの、驚かないでください?」
「モモちゃんがそんな感じなのすごく珍しくて興味そそられちゃう、なになに?」
「その、転校してきた、先輩? ですよね? その、人は、ウチの先生の――妹さんだそうでして」
三人がピタッと動きを停めた。
次の瞬間。
「えええええええええええっ!」
クラス中が震えるほどの声が出た。
「え、ねえ、どういうこと、ねえ!」
「言った通りです」
私は耳を塞ぎながら答える。
「転校生さんは、何でも黒井先生の妹さんで、先生が実家の方に連絡をしていらっしゃったとの事で」
「そー、そんで、ここにいるモモちーのセンセ役を一緒にしろ言う話やで」
「へー、そうなんだ……」
私たちのいる机。四人で囲んでいる机にいつの間にかもう一人。机に頬杖を着いて、麻由美さんがニコニコ笑っていた。
「やぷー」
妙に気の抜ける挨拶をした。
「うひやぁっ!?」
三人は三人とも驚いて、コケたり転んだりしている。それを見て、麻由美さんはカラカラ笑った。
「みんなおもろい子達やねぇ、モモちー」
「あの、呼び方それで固定ですか?」
「ええやん、モモちー。かあいくて」
「嫌なんですけど」
「んー、じゃあ、モモの助とモモの字とモモちーだったらどおれ?」
「普通にモモとかって選択肢ないんですか」
「ないなぁ」
「ちょい、ちょいちょいモモっち! 何フツーに会話してんの?」
「そ、その人急に出てきたよっ! オバケみたいに!」
怯む新井さんを素早く捕まえて、麻由美さんはフニフニし始めた。
「オバケはフニフニなんて出来んやろぉ?」
「ふやぁ、そうでしゅぅ」
新井さんはすっかり骨抜きにされている。よほどフニり慣れてるのだろうか。
「ミナにアイカ、やったな。動いたらアカンで。動くとユイをもっとフニるで。ウチのフニりは堅物女子さえ骨抜きにするんや」
二人はジリジリと私に近づいてくる。
「あの、皆さん?」
「だったらコッチはモモをフニるよ!」
「なんでそうなりますか!?」
「アッハハっ! ノリのいい子らや」
麻由美さんはパッと手を離して新井さんを解放した。
「改めて、やぷー。黒井麻由美。このガッコのアキラセンセの一番弟子やらして貰ってます、以後よろしゅう」
みんなに軽く頭を下げて、トドメににっこりと笑った。
先生のやり方とは違うけれど、いつの間にか人の輪の中に入り込んでしまうこの技術、間違いなくあの人の縁者だ。
「でも、妹さんいたんだ、クロ先生」
塚本さんは麻由美さんと握手しながら呟く。
「せやろ、似てへんやろ~。兄さんとは似ずに美人に育ってん」
「本当に妹なのっ?」
新井さんがしげしげと眺めながら聞く。
確かに、外見的な印象は真反対な二人である。雰囲気の近さから縁者だと判断しているが、それ以外に証明は無い。
「せやなぁ、兄さんに聞いてみたら?」
真由美さんはヒラヒラと手を振って、悠然とクラスを出ていった。
「……あの場を引っ掻き回す感じは、どう見ても先生の縁者だと思うんですが」
「んん、クロ先生っぽいなぁ」
塚本さんと私はお互いの顔を見て苦笑した。
「……つまり、ローマ時代というものは複雑怪奇に権力体が絡み合っている。平民会、元老院、そして後の時代の元首の登場に至るまで。その時代を俯瞰することが……」
午後最後の授業は、ウチの先生の世界史だった。ローマ時代? の訳の分からない政治の話は催眠術よりも良く効く。
クラスの子たちが朦朧とし始めた中、唐突に新井さんが手を挙げた。
「先生っ、質問!」
「なんだね、新井君」
「三年生に転校生が来たの、知ってる?」
「なんだ、授業のことでは無いのか」
軽く諌めるような口調だったが、先生は教室を見回した。
「まあ良かろう、皆「白河夜船」だ。少し逸れたところで誰も咎めんだろ」
呆れた様にため息をついて、新井さんに向き直った。
「で、転校生か、知っているが」
「その人、クロせんせーの妹なの?」
その瞬間、教室中の眠気に屈そうとしていた皆が飛び起きた。先生はその様子を心底呆れた様に肩を落として見ていた。
「そうだが?」
教室中がどよめいた。
口々に皆がどういう事だとかあの人に家族はいたのかとか何処から攫って来たとか、まあまあ失礼なことで盛り上がりだした。
「諸君らは僕をなんだと思っとるのか」
先生は教卓を持っていた鉄扇でゴチゴチと叩いて場を鎮めた。
「確かに、新しく来た転校生は僕のイモウトだよ。正真正銘な」
私は先生が妙にイモウトと強調して言ったのに違和感を覚えた。塚本さんもそこが気になったのか、手を上げる。
「なんだね、塚本君?」
「クロ先生、そのイモウトって漢字で書いてくんない?」
先生は色の黄ばんだ、八重歯の目立つ歯をむき出しにしてニヤリと笑った。
「そろそろ僕の微細な言い分けに気付く生徒が出てきて、嬉しく思うぞ」
先生は黒板に、漢字二文字を書いた。
義妹、と。
「まあ、親族ではあるんだ。とは言え彼女の側にも少々混み行った事情があり、身寄りがなかった彼女を僕の実家が引き取ったのさ。そこから、一応は義妹という事になっている。諸君らとは然程絡むことも無いのだろうが、一つ仲良くしてやってくれると有難い」
その授業後、皆はありとあらゆる手を尽くして、麻由美さんのクラスを探し出して姿を見に行こうとしたが、麻由美さんの姿は何処に行ったのか全く分からなくなっていたという。
第三幕 マジナイ処 鈴鳴堂
「やぷー、兄さん」
「お前は常に唐突だな、マユミ」
「呼んだのは兄さんやろ?」
「来るとしても後一週間はかかるものと踏んでたんだがね」
「遊之助師匠も早く来てもええて」
「アイツは適当すぎるんだ!」
店に入ると、先生と麻由美さんが言い争いをしていた。
私は足早に更衣室に逃げ込んで、素早く汚れてもいい地味な服と厚くて丈夫なエプロンを着て、カウンターの中へと入ろうとした。そしたら、麻由美さんに絡みつかれた。
「兄さんだって隅におけんやん? こーんなかわちー弟子をいつの間にかとってさ、イチャイチャしてたんとちゃうの?」
私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「おい、冗談じゃないぞマユミ。助手君は助手君だ。内弟子という形なのは彼女が身寄りが無いからだ。それに彼女と僕の歳の開きを考えたまえよ」
「愛には年齢は関係ないんよ? 兄さんも独り身で寂しくて、遂に生徒さんに……ウチというもんが有りながら……」
「話をややこしくするな!」
珍しく先生がツッコミ役に回っている。と言うより私からしたら、先生が二人に増えたようにしか見えない。いや、実際先生が二人にはなったんだけども。
「おぉ、助手君の顔が面白い様に曇っていく」
「誰のせいです、誰の」
私は絡みつく麻由美さんを引き剥がそうとしたが、ダメだった。力が強い訳でもないのに、どう動いても振り払えない。
「逃がさへんで? モモちー。この話はモモちーの今後にも関わってくる話やねんで?」
「どう聴いても、お兄さんと妹さんの兄弟喧嘩でしょう? なんで私が関係あるんです」
「あちゃぁ、ノリ悪いなぁ」
ようやく麻由美さんは私を解放した。
改めて、麻由美さんを観察してみる。
顔立ちは、正直女の私が見ても可愛いと思う。私のようなちんちくりんでもないし、むしろ健康的に引き締まっていて、出るとこが出てる。女っぽい人だと思う。でも、中身は先生と瓜二つというか、先生より馴れ馴れしい。
「なーんか、失礼なこと考えてへん?」
「助手君のそれはいつもの事だ。彼女は可愛らしいように見えて腹は黒いし愛想は悪い」
「師匠の悪いとこが似たんやねえ」
麻由美さんはケタケタ笑って、先生は渋い顔をした。
「助手君、改めて紹介しよう。この跳ねっ返りのひねくれじゃじゃ馬娘が僕の義妹、黒井麻由美だ。京都の実家から呼び寄せた君の新たな授業の相手、先生役になる」
麻由美さんはウィンクして見せた。全体的にノリの軽ーい人だ。ついていける自信は、ない。
「まあ、信じられんかもしれんが、教師としての適性は僕より高い」
「せやで~。それに弟子としても、兄さんの最初の弟子なんはホンマやで」
先生は私と麻由美さんをソファに座るように促した。
「マユミも正直な話をすれば、術士としての才能はない。僕と同じだ。僕は言霊しか使えん。マユミは、常人よりも気の総量が少ない特異な体質で、幼少期は病がちだった。そのせいで、術者であった実の両親にも見放されていてね」
麻由美さんは、私の腕に軽く絡みつく。
「そー。それで兄さんが内弟子として黒井の家に入れてくれたわけやね。そっから、相当扱かれて今に至ります」
「はぁ、それでそんな風に」
「そうそう、いつの間にかテンションと距離感がバグってなぁ……ってちゃうわ!」
軽快なノリツッコミ。関西の人ってこうなのか?
「助手君、これにはその内に慣れる」
「慣れるんですか?」
「慣れるな」
「そうですか」
私は諦めることにした。
「因みにマユミは術者では無い。マジナイ屋に属する人間のひとりで、正確には「咒具師」、先に言った咒具を作成、調整する職人の見習いだな」
私は隣に座った麻由美さんを見る。麻由美さんは、自分の手を私の顔の前にかざした。よく見ると、中指に指輪が嵌っていて、その表面には「咒避」の文様が刻まれていた。
「例えば、兄さんの使う札用の紙とか、あと眼鏡とか。今見せてる指輪とか。そういうマジナイに使う道具を専門に作るのが仕事なんよ。今後は、モモちーに必要な道具はウチが間近で調整しながら作ることになるし、ついでに今以上に咒具を使いこなせるように訓練させてもらいます」
麻由美さんは、改まった様子で深々と頭を下げた。私もそれにつられて頭を下げる。
「助手君、マユミを呼び寄せたのは君の今後に有益だと踏んだ事もあるが、同時にマユミ自身のためでもあるのでね」
先生は、思案顔で腕を組んで言う。
「お互いの足りない部分を補う良い関係であるとは思うのだよ、君とマユミは。当面、助手君はマユミにコーチングしてもらいながら、まず父と母との気の疎通について修練を重ねてくれ」
先生はそう言って、二階へと足早に引っ込んでしまった。私はマユミさんと取り残される。
「本当に、あの人は……説明が足りない」
私は思わずボヤいた。麻由美さんが私の今後にとって大事な人なのは分かったけれど、だからこの状況で何からすればいいのか。検討がつかない。
「まあ、兄さんのアレはほんとに癖やね。一を語れば皆わかると思い込んでんの。モモちーもだいぶ苦労したみたいやねぇ」
麻由美さんは、四肢を思い切り伸ばしてひょいと立ち上がった。そして私の顔を覗き込む。
「んー、なるほどなぁ。モモちーは兄さんの指導のお陰で知識と術の運用は上手なってるみたいやけど、基礎体力がないみたいやな。それやと術つこうても直ぐにバテてまうで。まず教えられるんは気の総量に見合った体づくりかなあ」
そう言うと、私の腕を掴んだ。
「なあ、モモちー。ウチの事全力で振り払ってみ?」
「は?」
「ええから、何やったら式神に手伝うてもろてもええから」
麻由美さんはそう言って、私を掴む腕に力を込め始めた。その細い腕のどこにそんな力があるんだと言うぐらい、思い切り力を込められて、心底痛い。
「ぐぅっ!」
私は全身で振り払おうとするけれど、払えない。しかも痛みが酷くて集中出来ず、父も母も呼べない。
麻由美さんはそんな私を見て、ふむと呟いて手を放した。腕を見てみると、掴まれたところが真っ赤に腫れ上がっている。
『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』
なんとか薬師如来の真言を振り絞って傷を手当したものの、なかなか痛みが引かない。麻由美さんは、こういった荒事にも慣れているのだと一瞬で理解出来た。
「これから、兄さんが助けてくれない瞬間も増えるし、その時に父と母を出せるとも限らんから、一通りの体づくりはした方が得や。明日のバイトの時間から、ちょっとメニュー入れてこな」
麻由美さんは改めて、と言った空気で私に手を差し出した。
私は、おっかなびっくりそれを掴む。特に強く握ったりせず、麻由美さんは軽く握ってくるだけだった。
「よろしく、モモちー」
「よろしくお願いします……麻由美さん」
彼女は優しげな笑みを浮かべた。
第三幕 昼休みの教室
「あててててて」
体の節々が、痛い。
元々運動なんて大嫌いだった私は、今までろくに体なんて鍛えてこなかった。だけれども、ここ数日の麻由美さんとの新メニュー、というか授業で痛いほど実感した。先生の言う理屈だけでなく、体の中をどうやって気が巡っていくか理解をすれば、それだけで術の精度も高くなるのだと。
それにしたって、こう筋肉痛が酷いとは。
「あつつつ」
「モモっち、ダイジョブなん?」
「いえ、その、あつつ!」
笠原さんの方を向こうとしただけで、首筋が変な音を立てた。
「モモちゃん、筋肉痛なの?」
「ええ、その、日頃の運動不足が、ですね、いてっ」
「こんなモモ、初めて見たなあ」
「私もあんなに体を動かしたのは初めてです……」
お昼ご飯を一緒に食べていた塚本さん、笠原さん、新井さんは口々に心配してくれるのだけど、こればかりはどうにもならない。
「麻由美さんの、朝のトレーニングにお付き合いを、して、あと、その、バイト合間にちょっと、運動をして、いてて、それで、慣れなくて」
体中が筋肉痛になってしまったのだ。麻由美さんはだいぶ私に合わせてメニューを加減はしてくれているけど、体を動かすことそのものが自殺行為みたいなものだった私にとっては、とてもハードなことに変わりはなかった。
「ええ、クロ先生の妹さんて割とスポーツマンなの? 意外だなぁ」
「毎朝、五キロメートルのジョギングをした後、軽く、ないけども、筋トレ、して、しかもその後、あの、カンフーの、なんと言えばいいか」
「カンフー? あ、もしかして、型ってやつじゃないモモっち」
「それです、笠原さん。それを一通り、その、三十分くらいかけてやってらっしゃるんです。とても……ついてけない」
私は机に突っ伏した。
麻由美さんは毎朝四時半には起きて、ジョギングと筋トレと型の練習をしていた。それに付き合うことが私の新しい先生との授業だった。
「うええ、すごっ。でも、モモちゃん体育って」
「はい……大嫌いです……」
体育がある日は学校なんて滅びればいいくらいに思っている人間が、急にアクティブに動けと言われてしまっているので、どうすればいいのか分からない。
実際は、ジョギングは呼吸を意識しながらのウォーキングを三十分くらいしている。今まで、咒を使う時くらいしか呼吸を意識しなかったけど、呼吸は日常から鍛えておけるから、と授業に組み込まれた。そして、筋トレも。体づくりを徹底的にやっていく、と麻由美さんは言っていた。カンフー? の型も、少しづつ覚えていくことになっている。
「兄さんが動くの嫌いな上に、気を使った咒の運用をしないんやもの、そりゃ、教え方も偏るわ」
口をへの字に曲げて、麻由美さんは腕組みして呟いた。
「ぎゃあっ!?」
「やぷー」
また、麻由美さんが唐突に現れ喋ったせいで、新井さんと塚本さんが椅子から転げ落ちてしまった。
「いい? モモちー。普段から気の巡りを意識して動くと、こんな風にどこにでも入り込めるんやで?」
「あの、それを言いたくて隠形を?」
「いやぁ、ミナちーたちの反応がおもろくて、つい」
麻由美さんはカラカラ笑った。
ショックから回復した塚本さんは、麻由美さんに詰め寄った。
「ちょっと、なんで毎回唐突に現れるの?!」
「そりゃ、みんなのリアクションがおもろくて? 新喜劇狙えんで?」
「嬉しくない! じゃなくて!」
「ちゃーんと、クラスの扉から入ってんで? 断りもして」
麻由美さんはマトモに取り合う気はないようだ。私の腕をつんつんして、私が痛みを堪えるのを意地悪く見ている。
「こりゃ重症やねぇ、あんだけ軽ーくしてたけど、着いてこれてへんし、これだけ体傷んでもうてるんじゃなぁ? もう少しメニューは見直さんとなぁ」
額に指をぴとぴと当てて麻由美さんは言う。
塚本さんも、なにか突っ込むのが馬鹿らしくなってしまったのか、椅子に座り治して新井さんと麻由美さんを見つめた。
「あの、マユミパイセン?」
笠原さんが身を乗り出す。
「なぁに、アイちー?」
「あの、モモっちとトレーニングって、何のためにしてるんすか?」
「健康と美容のためやで?」
割と真面目な顔とトーンで麻由美さんは告げる。しかし、笠原さんも負けていない。
「いや、いやいやいやいや! 健康と美容のために五キロ走った後筋トレカンフーはおかしいっしょ? まるでなんか、少年漫画の主人公みたいっすよ?」
「やっぱ誤魔化されん?」
麻由美さんは困ったように肩を竦めた。
「なんか、アスリートってよりも、まるで」
「兵隊みたいやろ?」
笠原さんの問に、麻由美さんはさらりと答えた。むしろ笠原さんの方がペースに飲まれてしまっている。
「みんなも、モモちーの仕事は知ってんな?」
三人は顔を見合せた後、こくりと頷く。
「ウチの仕事も同じなんよ。兄さんもね。でも、うーん、担当が違てんねん」
「担当って?」
「せやなぁ」
麻由美さんは、少しほっそりした指をとんとんと頭にうちつけながら言う。こういうちょっとした癖が先生によく似ている。もしかしたら、意図的に似せているのかもしれない。
「兄さんは、実は調査と後始末が担当なんや。要は、探偵の役割やね。自分から悪さしとる人を捕まえたりはせんの。大体、事件のいちばん最後の部分で出てきて、事件を終わらせる役の人やね」
この説明にはとても納得出来た。
「で、ウチは狩人の役割なんや。本当の仕事はマジナイに使う道具を作る道具屋さんなんやけど、この業界も人手が足りてへんの。せやから、チビの時から狩人としても仕込まれたんやね」
麻由美さんは立ち上がって、机から少し離れると、ふうっと息を強く吐いたかと思うと、朝行っている型を取り始めた。
クラスの空間に合わせて、披露できそうな小さな動きの型を組み合わせている。
三人は、初めて見る型と唐突に型を披露した麻由美さんに呆気にとられている様だけど、私は少し違う感想をもった。
改めて麻由美さんの動き方や、気の動かし方を見ると、確かに先生とは違ってとても効率的で、体の動きに合わせて体の中の気が巡っているのがよく分かる。
麻由美さんが今まで、先生とは別のマジナイ屋としてのあり方をしていたことが朧気に分かってきた。
麻由美さんの型が終わって、ふぅ、と息を吐いた。
「あ、せや。この型がシェイプアップに効くのはホントやで。興味あったら教えたげるから」
カラカラ笑いながら、麻由美さんはクラスから去っていく。
「……一体、何しに来たの、あの人」
「……わかりませんね」
私と塚本さんは、苦笑いしながら机の後片付けを始めた。五時間目は、太田先生の数学だ。
第四幕 朝の街角
「やぷー、モモちー」
青いスポーツウェアに身を包んだ麻由美さんは、早朝にも関わらずいつも通りのテンションと体の動きだった。二つ目の瞼を開けて観察してみると、彼女の体を巡る気の状態も、いつも通り。
私は、寄れたジャージを着て、眠たい頭と体を引きずりながら来ているというのに。それでも、最初の何日かよりは確実に慣れてきている気がしている。
「ほんじゃ、行こか?」
麻由美さんは私のペースに合わせて歩き始める。私と合流するまでに、既に五キロ走っている、と言っていた。
「歩くだけじゃなくて、呼吸を意識してな。普段から気を練る様に、深くな」
私は教わった呼吸法を実践しながら、ペースを乱さないように歩く。先生からは言霊を打つ時の気のこめ方や呼吸の仕方は重点的に習っていたけれど、体を動かすことにここまで気の巡りが関わっていることには気付けなかった。
「そら、兄さんは言霊しか使えんから。人は自分の使えへん技術は教えられんやろ」
麻由美さん自身も呼吸を整えながら歩いている。自然体には見えるけど、かなり緻密に気を練っている。
「本来の術士は、かなり気の動かし方を重視する。咒の基本も気を込めて、気を解き放つ事やし。兄やんは、本当は気を使わなきゃいけない咒を無理やり言霊で起動してんねん。せやから、教えられる咒は言葉を起点にして成るものにどうしたって限定されてくんねん」
私の前に出て、軽く腰を曲げて私に視線を合わせてくる。
「今日はな、今までモモちーがどうやって咒を起こしてたか教えたげる。その上で、ウチが教えようとしてる事をちゃんと伝えるな」
麻由美さんは唄うように告げる。
「考えてみたら、兄さんの授業は咒を特殊に捉えて実践してるんやから、要はハードが違う訳やし。咒側の一般論は知らんくて当然や。その代わり、兄さんの指導で基礎の部分だけはしっかり学んでるようやし、だからこそ、ウチを呼んだ筈やし」
麻由美さんは軽く私の手を握った。その握り方があんまりに優しくて、私は戸惑って振りほどけなくなった。
「こっち行こ。店の裏庭で今日は授業をしよか?」
私は麻由美さんに連れられて、初めて店の裏庭に入った。
店のある場所は、アーケード商店街から少し外れているから、周りにお店がない。裏庭も、雑草が伸びては来ているけど、適当に広い空間があって、朝の光がよく当たっている。
麻由美さんは、まず私を対面に立たせた。そして、自分の手に咒符を一枚握ると額に当てて集中を始めたようだった。
「ええか、モモちー。札をしっかりと二つ目の瞼を開けて観ておくんやで」
私は素直に従った。咒符に注目すると、麻由美さんの手から流れ出した気が染み込んでいくのが観えた。札全体が気で満たされると、麻由美さんは素早く手首をスナップさせて真上に札を投げた。札は、ひとりでに折り畳まれて、蝶の形になるとひらひらと私たちの周りを飛び始めた。
「今のが、本来の咒の術の使い方な」
麻由美さんは、蝶を自分の手に止まらせながら言う。
「本来は、気を体内で練る、咒で起こる結果を頭の中で想起する、気をその形へと整える、体に空いている気孔って穴から体の外へ流して、術を発動させるって作業が必要でな。咒符や咒具ってのは、その術式の発動を手助けするものなんや。なんも形がないより、なんか形がある方が起こる事の結果は想像しやすいやろ?」
麻由美さんは、蝶のいる手を私の方に掲げて、よく見えるようにした。
「次に、兄さんとモモちーの咒のかけ方な」
麻由美さんをもう一度観る。口の方に気が集中していき、口が開くと同時に薄い靄のようなものが漏れているのが観えた。
『おんあぎゃなえいそわか』
麻由美さんが口に出した、火天の真言に呼応するように、靄が急に形を得て炎に転じた様に観えた。その霊的な炎が蝶を包み込み、瞬く間に燃え上がる。すると、咒符に込められていた気が焼き消えて、蝶がひとりでに解けて元の紙に戻った。
「これが、言霊を使った咒のかけ方な。言霊、言葉に気を込めて変質させて、それで式を発動させるんやけど、そもそも言葉を使えん状態やと咒の発動すら出来んくなるし、あくまでも発動の仕方の一つでしかないんや。せやけど」
麻由美さんは肩をすくめて呆れ顔になる。
「兄さんは、体内で気を練るのとか、咒具に気を込めるのとかが壊滅的にド下手糞やねん。できなくは、ないみたいやけど、えらい時間がかかるみたいやね。しかも言霊の出力が阿呆みたいに高いから、それを極めて誤魔化してんねんな」
確かに、先生の使う咒は、大体が言霊を起点にしている。私の父と母の制御も言霊を中心にして行っていたけど、それが普通だと思っていた。
「それに付いていったモモちーも正直規格外やと思うけどなあ。普通のマジナイ屋なんて、言霊をちょっと連発するだけで気が尽きて引っ繰り返ってしまうもんなんやけどなあ」
麻由美さんはそう言いながら、傾きかけた木のテーブルを裏庭の真ん中に置いて、その上に綺麗なガラス玉をふたつ取り出した。
「せやから、実際の咒で主流になる「気を込める」方法の、初歩的な練習をしてみよや」
麻由美さんはテーブルから一つガラス玉をつまむと、手のひらで転がした。
「モモちー、その玉一個持って、手の中に入れて、そう。胸の前に持ってな」
私は麻由美さんの動作を真似してみた。
「観ててな?」
麻由美さんはゆっくりと、気を練るための深い呼吸を分かりやすく行った。麻由美さんの体の内から、手の中に気が集中していく。気はビー玉に注ぎ込まれ、段々と形を変えていった。
麻由美さんがゆっくりと手を開くと、そこには四角錐になった結晶があった。
「この玉は、気を集中する練習に使う咒具や。成長の具合で、その子が持っている気の量が分かるし、気を込めるのが上手いか下手かも分かるんやで」
麻由美さんはイタズラっぽく笑いながら言う。
「ちなみに、うちも兄さんも、これ、すっごく下手なんや。どんだけやっても上手く大きくなれへんの」
くすくすと笑う麻由美さんに吊られ、私も笑ってしまった。
「次はモモちーの番。手の中に自分の体の中の気を注ぎ込むようにして。今のモモちーなら出来るから」
私は、手の中のガラス玉を改めて胸の前で握りしめる。体の中にある気の流れを呼吸しながら意識する。掌にある気孔から流れてきた気が溢れて、それが玉に吸われていく様を強く念じた。
ぴし、びしっ、ばき、ばきばきべきぃ!
私が急に聞こえた音にびっくりして手を離すと、私の手から離れた結晶は地面に落ちた瞬間に爆発するように急速に成長して、私の背も麻由美さんの背も超えるような、そして二人で抱えようとしても余るぐらいの大きく太い結晶の柱になってしまった。落ちた周辺の草は結晶から漏れた気を受けて、水晶のように変質してしまっている。
私は、自分で引き起こしたことが全く信じられずに呆然とし、麻由美さんもここまでの事はどうやら予想外だったようで、ほー、という声を漏らして固まっていた。
「こ、れは、マジモンの規格外や」
軽く右手で結晶を小突きながら麻由美さんは言う。
「硬度も高いし、しかも不純物は成長してないから透明度も高い。色彩は、なるほど、五色のどれにもハマらない。どこか光の加減で金にも銀にも見えるような不思議な色や」
麻由美さんは私の体をぺたぺた触りながら聞く。
「変に疲れた?」
「いいえ」
「熱っぽさがある?」
「ないです」
「体に痛みは?」
「ありません」
「信じられへん、まだ余裕があるんや」
麻由美さんのクリクリした目が大きく見開かれた。琥珀色の目に気の光が見える。麻由美さんが二つ目の瞼を開いている証拠だ。
「モモちーの気は、有り得んくらい量が多いんや。しかも、すごく濃いし、偏りがない」
「かたより、ですか」
「んん、兄さんもウチもそこは変やからな、参考にならんけど、気には普通、木・火・土・金・水っていう五つの要素に偏る性質があるんや。結晶化した時に青赤黄白黒の五色が現れて、偏りが分かるんやけどね。あと、その人の気の質が良くないと、玉に仕込んであるゴミも一緒に大きくして、結晶が濁るように出来てんねや」
どうやら、それを見て得意な咒の方向を決める、ということらしい。例えば、青色の結晶を作る人であれば、木気に近しいから、薬草を操る咒を覚えたりする、というように。
「モモちーの気は、どれにも当てはまらんの。でも。ここまでだと兄さんからの報告通り、モモちーの一族が、モモちーに何かを期待してた線は濃厚やわ」
「その、こういう事ってあるんですか?」
「結構あるなぁ。例えばモモちー、ウチの結晶見てみ?」
麻由美さんは自分の結晶を陽の光に透かしてみせる。私が覗き込むと、光がまるで七色に見える。はっきりと色が分かるわけでないけど、ゆらゆらと色が揺れ動いている。
「ウチの中の気は、どの気にも偏らんし、どの気にもハマらへん。これは気そのものが弱すぎるんやて。せやから、得意も不得意も普通に見たら訳の分からんことになる。せやけど、結晶の形を好きなように変えるってことだけは得意なんや。まあ、規格外の不良品、やな」
麻由美さんの表情に影が差す。
「兄さんもそうや。兄さんは結晶は育たんけど、ビー玉の中にたくさんの色が見えるようになる。ほれ」
麻由美さんは何処からか出したビー玉を私の目に見えるようにした。万華鏡の様に、光の加減でいろんな色が玉の中で弾けて回っている。麻由美さんはその玉を愛おしそうにしまった。
「ウチらの家も、モモちーみたいな「特別な子」を産もうとしてた時期があって、その世代の最初の子が兄さん。ウチは少しあとの子。一族の中でたくさんの子が産まれて」
麻由美さんの影がいっそう深くなる。
「ほとんどの子は生き続けられんで、兄さんとウチは、ある意味出来損ないだから生き残れてしもた」
私は麻由美さんにかける言葉がない。先生は自分の昔話なんてほぼしない人だ。麻由美さんは、私が初めて会った「昔から先生をよく知っている人」だ。先生も、麻由美さんも、私とはまた違う形で過去に沢山の傷があるんだろう。
「兄さんがウチをモモちーと引き合わせたんは、意味があると信じてる」
「意味、ですか」
「なあ、モモちー。学校って楽しいなぁ」
私は唐突な話題の転換に着いていけなかった。麻由美さんは私の顔を覗き込む。イタズラっぽく笑いながら、でも、私と真っ直ぐに目を合わせて。
「私は……とても苦手、でした」
「最近はどう?」
私は自分と、麻由美さんの琥珀色の目の中に移る自分に問いかける。たくさんの暗い日々と、今の日々を思い出す。
「……先生と逢ってから、変わり始めた気がします」
「そっか。ウチは楽しいで」
麻由美さんは、私の目をじっと見て、微笑んだ。優しい微笑みだったけど、とても悲しい笑顔で。
「ウチなぁ、まともに学校に通ったことないん。ウチにとっての先生は、兄さんやってん。せやからな、今がすごく楽しい」
麻由美さんは私を軽く抱きしめた。
私は、逃げる気が起きなかった。
麻由美さんの中に、嘘では無い、私とはまた違うけれど、暗い日々を見た気がしたからだ。
いつも仏頂面の先生と、ニコニコしている麻由美さん。真逆の様で、よく似ている二人だった。
「改めてよろしく、お願いします、麻由美さん」
私は、この人にも師事してみようとこの時ようやく思えた。麻由美さんの目に、私がどう映っているのか、私のこの先と麻由美さんのこの先がどう繋がるのか、それがとても知りたくなった。
因みに、庭にできた結晶は父と母に砕いてもらった。麻由美さんは原料を大量入手したと喜んでいたが、庭に出てきた先生に無茶がバレて、私も麻由美さんもこっぴどく説教を受けた。
第五幕 マジナイ処 鈴鳴堂
「どうぞ、抹茶ラテです。甘くしてありますから、ゆっくり飲んでくださいね」
その日。店には久しぶりにお客が来ていた。
一人は塚本さんで、私が作った蜂蜜たっぷりのカフェラテを美味しそうに飲んでいる。もう一人は、何回か学校ですれ違ったことがある女の子だった。所在なげに店の中を見回して、飲み物を抱えてちびちびと飲んでいる。進学二年三組の谷戸小晴さん。綺麗な白い肌に、つぶらな瞳。小さめの鼻と口。女の私が見てもドキッとするような美人さんだ。
「はーい、新メニューのパストラミサンドでーす。今日は試食やから、お代はええでー」
私と同じ服、エプロンに身を包んでいる麻由美さんが二人に微笑む。
なんだろう、同じ服を着ているはずなのにこの際立つ差は。なんでか胸がモヤモヤする。
最近は、麻由美さんも店に出る様になった。私よりも器用で、特に料理の腕は正直別格だった。先生も、これで研究に専念できるとか言いながらニ階に引きこもることが増え、店はほぼほぼ私と麻由美さんで経営していた。
「えー、マユマユ先輩エプロンも似合うっ、料理もうまっ! ずるっ、なんかずるっ」
「おおきに、ミナちー。褒めても何も出えへんで」
塚本さんと麻由美さんは、いつの間にか打ち解けている。あとなんか先輩と呼ばれると麻由美さんがでへでへしている。そう呼ばれるのが嬉しいんだろうか。
「あー、モモ、嫉妬してるぅ?」
「へ? しっと? 私が、ですか?」
「だーって、アタシとマユマユ先輩のことすっごい顔で見てたよォ。心配しなくても、アタシはモモ一筋なのに」
「……アリガタウゴザイマス」
「モモちー、いくら友達でもお客さんやで、愛想良くせな、な?」
満面の営業スマイルを浮かべた麻由美さんと、ニヤニヤ笑いの塚本さん。それに挟まれて困惑の色を濃くする谷戸さん。
「あの、谷戸さん。すみません。はじめてなのに、困惑しますよね? この二人のことはさほど気にしないでください」
「あ、うん」
谷戸さんは全体的に反応が薄いというか、表情が乏しいというか。とても会話の糸口を掴みづらい人だった。
「コハルは、アタシの友達の友達なの。えっと、製菓研の部員さんでね? そこに中学からの知り合いの子が一人いてさ。モモのこと話してたら、コハルのことをお願いされたの」
「ふーん、モモちーは有名人なんか」
「そうですよぉ、普段は可愛いのにいざと言う時はキメるスピリチュアル探偵!」
「いや、どんなイメージですか、私」
谷戸さんは、やり取りをじーっと見ていた。にこりともしない。
「あの、ご不快、ですか?」
「え、ううん。大丈夫」
「あ、はい。その」
私の周りの人が放っといても喋るので、喋らない人への話しかけ方が分からない。
「んー、コハちーの相談したいことは何?」
気負わずに麻由美さんが聞く。
「え、あの、わたしのお母さんのこと」
「お母さん、ですか」
「うん、あの、お母さんが最近、優しくて」
「え?」
「えっと、元々は、お母さんはとても厳しくて」
谷戸さんの話し方は断片的で分かりにくかったが、話をまとめるとこうなる。
谷戸さんは三人兄弟の二番目で、上にお兄さん、下に弟さんがいる。お兄さんはもう成人済みの人で働きに出ているけどお家にいて、弟さんはまだ中学生らしい。
お父さんとお母さんは離婚していて、今はお母さんが三人を引き取って育ててくれているが、お母さんと谷戸さんの相性が宜しくなくて、お母さんの谷戸さんへの当たりがとても厳しかったらしい。
「あの。機嫌が悪い時は、ごはん、出してくれなくて。口も聞いてくれなくて」
「ご飯抜きはアタシのママもあるなあ」
塚本さんは何かを思い出したのか、自分を抱えて身震いした。
「前のひと月は、お昼のお金もなくてずっと食べてなくて」
「待って、コハちー。お昼ひと月食べてなかったん?」
「え。あの、うん。でも、うちでは良くある事だから。ひどい時は、叩かれたり、蹴られたりもあるし」
「それは」
私は口から出かけた言葉を一度飲み込んだ。言葉は咒だ。下手にあるべきことに名前を与え、形を与えるべきじゃないと先生がよく言っていた。
「コハちー? 今まで誰かに相談したん?」
「え、してない。迷惑かけるから」
谷戸さんは迷うことなく言う。
「迷惑て」
「だって、言っても変わらないし、他の人に迷惑はかけちゃダメって、お母さんから教わったから」
「んー、せやけどな? ひと月もご飯が食べれへんのは、少しやり過ぎやと思うけどなぁ」
「うん、でもね、あたしも良くなかったから、それはいいの」
「ううん、そっか、なぁ」
麻由美さんも、口をへの字にしてうーん、と、唸ってしまった。
「でも、最近はすごく優しい」
聞くと、ご飯は出してくれるし、言葉で攻められることも無くなったし、体調を崩しがちな谷戸さんのことを気遣ってくれるようになったと言う。
「でも、怖い」
「こわい? 優しなったならええんちゃう?」
「あんなの、お母さんじゃない」
「えー、ママが優しくなったら嬉しくない?」
「ん、そうだけど、違うの。お母さんの、そう、中身が違うの。顔も体も声も同じだけど」
「中身、ですか」
「うん、中身が違うの。だからどんなに優しくても、違う。怖い。わたしのお母さんじゃ、ない」
私と麻由美さんは顔を見合わせる。麻由美さんの頭の中にも私と同じように、今まで起きた事件や先生に聞いた事件などが思い出されているんだろう。その中から、似たような事件がないか思い出そうとするが、上手く行かない。
先生のようなへんてこな頭の持ち主でない限り、すぐに答えは出てこないはず。麻由美さんも、見当がつかないようだった。
まだ材料が足りない。
「谷戸さん、お母さんが優しくなる少し前くらいに、何か変わったことはありませんでしたか?」
「変わった、こと」
「そうや、夜中に出かけてるとか、変な人が家に来たとか、御札を買い始めたとか」
「あ」
谷戸さんは、薄い唇を僅かに開けて息を漏らした。
「セミナー、行ったの」
「セミナーって、どんな?」
「えっと、うちのお母さん、シングルマザーだから、その、助け合い? グループの、だったと思う」
「そのセミナーのチラシか何か、明日でもいいので貰っていいですか?」
「あ、うん」
谷戸さんはスマホを取りだして、私たちに差し出した。画面を見ると、謎の果物? 野菜? が書かれたサイトトップが写っている。
サイトの名前は「セラピーストア ラクシュミー」と書いてある。女の人の様々な悩みに答える、というコンセプトのお店らしい。
「ここの、店長さんが、有名なインフルエンサーで、その、お母さんも、動画、よく見てた」
私も自分のスマホで調べてみたけど、サイトの中には確かに女の人向けのセミナーのお知らせが書いてある。対象年齢は二十歳以上。大人の女の人に向けたお悩み相談という感じなんだろうか。
「これだけだとなんのこっちゃって感じやけど、モモちー、ここ分かる?」
麻由美さんは私のすぐ隣に、何故か腕に自分の腕を絡めながら座った。
「あの、近いんですが」
「こうせんとモモちーの画面見えんもん」
「ウソだ」
「やって、モモちーふにふにして気持ちいいんやもん」
割と素直に開き直った麻由美さんは、それでも離れない。私も諦めることにした。
「で、どれです?」
「ここの果物。これザクロやな」
「この絵がフルーツであることが大切なんですか?」
「もちろん、割と大事やで。フルーツやなくて、ザクロってとこが。それにこの、画面のフレームの中。小さくて見にくいけど、これ梵字やろ」
そう言われて、改めて見てみると確かにサイトの縁取りに使われているのはどうやら真言のようだった。ただ梵字の読み取りはかなり苦手だ。今まで習った文字とも言葉とも違いすぎて、手に負えない。
「んんと、この綴りやと吉祥天呪だと思うんやけど、自信ないなあ」
私は見えている文字を自分のメモ帳に移しておくことにした。
「麻由美さん、なんで吉祥天呪だと思うんです?」
「んん? そりゃ、このお店の名前のラクシュミーって、ヒンドゥー教の女神さんやけど、日本の名前が吉祥天女。多分、このサイト作った人が信じとるのがラクシュミーなんやと思うけど」
「先生がここにいれば勝手にベラベラ喋り出すんですけど、肝心な時に居ないんですからね」
二階を見上げる私を、麻由美さんは苦笑しながら小突いた。
「ダメやで、モモちー。センセイ離れせんと。甘えんぼちゃんは大きくなれへんで」
そう言って私に軽くデコピンした。
痛くはないが、正直嫌だった。頬を膨らませて抵抗すると、その頬をつつかれた。
「また後でここら辺は調べてみよ? コハちー、またなんか分かったら連絡するから、今日はそれ食べたら帰って大丈夫やからね」
「あ、うん」
谷戸さんはゆっくりとサンドイッチを食べていた。私はその様子を見ていた。彼女はとてもゆっくり、味わうように食べている。まるで小動物みたいだ。
塚本さんもその様子を微笑ましく眺めている。それに恐縮したのか、谷戸さんはどんどん縮こまっていく。
なんだろう、傍から見た私もこんな感じなのだろうか。塚本さんの表情は私に向けるのと似た表情だ。
谷戸さんと塚本さんがお店を去った後、麻由美さんは何故か私を抱え込みながらソファに座って、お店にある辞典を開いていた。色とりどりの不思議な神様たちが書いてある辞典で項目の名前は南から中央アジア、とある。
「あの」
「なに、モモちー」
「洗い物があるんで離してください」
「や」
それまでよりちょっと強い力で私を抱く。ちょっとおいでという言葉にまんまと騙された。
麻由美さんはどうもスキンシップが好きらしい。隙があるとくっつきたがる。くっつきたがりは塚本さんたちより余程上で、ニ人きりでいる時はほぼくっつかれるようになった。
「あの、ずっと言いたかった事が」
「なぁに、モモちー」
「私、人に触られるのが嫌なんです」
「そっか」
「だからですね」
「や」
「いや、や、って」
「やぁだ」
麻由美さんはくっついている時、妙に子供っぽくなる。
「ガッコでも、店でも、モモちーは独り占めできないやん、やなの」
「どんな理屈ですか」
引き剥がそうとするとたくみに力加減を変えて逃がさないようにするし、そうなると私は太刀打ちできない。そのうちに飽きると離すことはこの一ヶ月の間で何となく分かってきた。
私が不承不承麻由美さんに体重を預けると、麻由美さんは嬉しそうに私を優しく拘束する。夕方過ぎの「お勉強」の時は大概この状態にされてしまうのだった。
「あの、麻由美さん。今日のラクシュミーって結局どんな神様なんです」
「インドの神様やで。正確にはヒンドゥー教のシャクティやな」
「シャクティ、ですか」
「んー、ウチにとってのモモちーやな」
麻由美さんの声が艶っぽく蕩けている気がする。
申し訳ないけど、気持ち悪い。
「モモちー、失礼なこと考えてるやろ」
「ソンナコトナイデスヨォ」
「顔がキショって言うてるもん」
「マタマタソンナァ」
「……いつか絶対モモちーのことオトしてみせるから」
「えぇ」
この隙に抜け出そうとしたがダメだった。どうしたって私を抱えていたいらしい。
「シャクティの意味分かる?」
「いえ、不勉強ですみません」
「ヒンドゥー教の神様は、男神と女神が居るもんなんよ。陰と陽の溶け合いである太極もそうやけど、この世はふたつの要素で出来ている、と昔の人は考えたんやね。男と女も、裏と表、ふたつ揃ってはじめて世界を作るって。せやから、ヒンドゥー教のえらーい神様である宇宙真理の梵天には弁財天が。破壊と創造の摩醯首羅天には烏摩妃が。そして、維持と秩序の伊舎那天には吉祥天女が。世界の真理は男性原理と女性原理が重なり、混じり合うことで形作られるという、ことなんやて」
麻由美さんは私を抱きながらスラスラと答える。語り口調は、本当に先生によく似ている、というか、先生によっぽど仕込まれたんだろう。
「まるで先生みたい」
口からそんな言葉が漏れた。
ぴくり、と麻由美さんが身震いした。
私の背中に顔を埋めて、動かない。
「あの、麻由美さん?」
「兄さんみたい、やった?」
「え? ええ、その、とても理屈っぽい、ところが?」
私は全く遠慮なく言ってしまったが、麻由美さんは怒った素振りはみせなかった。むしろ、私を抱く力がちょっと強まった。もしかして、喜んでいるのだろうか。あんな理屈っぽい人と似てると言われて、それが嬉しいことなんだろうか?
背中に顔を埋めたまま、麻由美さんは言う。
「シャクティの中でも、ラクシュミーは理想の女性の姿を現してるんやて。でも、今の理想の女の人やのうて、インドの、昔の理想の人。よく子供を産んで、育てて、そして、美しく、強く。せやから、今でも人気のある神さんなんやて」
理想の女性を掲げるセラピーの店。
私は、心の中に妙な引っかかりを感じた。
「ラクシュミーは誰から見た理想の女性だったんでしょうか」
「んー、それがヒントかもしれんなぁ」
麻由美さんは力をゆっくりと緩めて、私を放した。私は体を軽くひるがえして距離をとる。追っかけては来ないし、飛びかかっても来ない。でも、名残惜しそうに私を見ている。
「明日からは、コハちーの依頼をもっと考えてみよか。必要なら兄さんにも声かけんと」
そう言いながら、麻由美さんは両手を前に軽く出す。
「依頼はそれでいいんですけど、その手はなんですか」
「? モモちーから抱っこしてくれへんの?」
「え、なんで?」
私は素の声でそう答えてしまった。麻由美さんは不服そうにほっぺたを膨らませて、琥珀色の目を潤ませて私を見る。そんな目で見られても困る。
「ぷー、モモちーのケチんぼ」
「なんでそういう時子供みたいにするんですか」
「まだこどもやもん。未成年やし」
「私の先生になるんでしょう? 先生が生徒に甘えていいんですか?」
「兄さんだってモモちーに甘えてんねやろ?」
「それは、その、店のアルバイトと雇い主でもあるので、多少は」
「兄さんばっかずるいっ、ウチもモモちー独り占めしたいっ」
今日の麻由美さんは一段と甘えてくる。こういう時、どうしたらいいか私には分からない。今までそばに居たことがないタイプの人だ。この麻由美さんの感情が好意なのかそうでないのかも、分からない。
麻由美さんは手を下ろして、くすくすと小さく声を立てて笑った。
「ほんまにカワええなあ、モモちーは」
「っ! からかわないで下さい!」
「からかってへんよ。モモちーは反応がいちいち可愛ええんやもん」
塚本さんたちがふざけてカワイイと私にじゃれつくことが去年からあった。でも、麻由美さんの言うカワイイというのは、何かみんなの言葉と違う気がした。
「兄さんは弟子は褒めない方針やけど、ウチはちゃうよ。ダメなとこは叱るし、褒めるところは褒めるよ。やからね、モモちー、可愛ええね」
私は何も言えなくなってしまい、キッチンに立て篭もって仕事をすることにした。その後、麻由美さんはずっと機嫌が良く、私はなんとも言えない居心地の悪さを味わった。
第六幕 屋上
風が吹いている。
ゆっくりと、夏の気配がする風が吹いている。
空は少し雲があるくらいで、よく晴れている。
屋上には、影ができるところが少ない。
だから、風はあるけど思ったよりも暑い。
私は、どうしても一人になりたくて、屋上の入口上の、元々先生の場所だったところで瞑想をしていた。
最近、麻由美さんの授業は「内なるものとの対話」という掴みどころのない話題へと移ってきた。そこに、先生も加わった。
先生曰く、私の様々な霊や怪異、それにまつわる人々を引き付けすぎる体質は、私の生まれ持った体質の他に、私の中にある「何か」が作用しているらしい。
麻由美さんとの「結晶柱生成事件」の後から、先生は再度私の体質について調ベを進めてくれていた。何回か麻由美さんと話しているのも聞いた。その時の二人の顔は、何時になく真剣だったし、正直怖くもあった。私には分からないような咒術的な話も沢山出てきていた。
「お前が助手君をシャクティと例えたらしいが、図らずもあっているのかもしれんぞ」
「はぁ? モモちーが女性原理の現れやっていうの?」
「と言うより、神降ろしの巫女、神待ちの巫女、つまりは」
「シャクティは男性的な神と対になる、訳やから、ねぇ、兄さん、モモちーはカミのヨメなん?」
「あるいは、だがな。ただ、お前との実験で出た気の総量は明らかに個人が持つ量を遥かに越えていた。それにあの結晶の色味。あれに関してはお前でないと発想できなかったろうよ。そのおかげで分かったものもある訳だ」
「モモちーは、カミヤドシってこと?」
「ああ、大神憑きなどという生易しいものじゃない事だけは確かになってきた。僕の授業とお前の授業のおかげで、助手君の中身がだいぶ整理されてきたんだろう。彼女の中身が見え始めている」
そのため、時間がある時や気が向いた時などに瞑想をする、というか、「自分の中に目線を向ける」課題を付けられた。
麻由美さん曰く、
「息のリズムを整えて、体を巡る気を意識する。これで自分の体を支配できるようになる。これができるとな、次は自分の中を見られるようになるで」
らしい。
すぅーっ、はぁーっ。
すぅーっ、はぁーっ。
調息を習った。自分の息のリズムを支配して、自分の体を支配する。意識しないでいた自分を意識する。
これは、何となくできるようになった。
先生曰く、
「普通、術者は自分の体の丹田や、心の臓など感覚的な場所は違えど気を汲み取る場所を意識する。僕にもそれはある。これを意図的に、より強く意識する必要がある。助手君が今まで何となくで行ってきたものを、はっきりと、明確な形を持たせた動きに変え、君の力の源泉を見てみたまえ。周囲にざわつくものは、君の父と母が蹴散らしてくれるだろうよ」
だそうだ。
私も、色々なものを見て、聞いて、考えて、感じてきた。そして、今は自分を知りたい。ようやくそう思える。
風の音に蝉の声が混じる。
強い日差しに焼かれた草の匂いがする。
ゆっくり吐息を整えていると、自分と周りとの境目が無くなって、蕩けていくような感じになる。そのまま息を続けると、自分の形が無くなって、何かと繋がるような、何かを見つめているような感覚が湧いてくる。
暗い中に、ぼんやりとした光が見える。
光は、大きな人の形、女の人が自分の体を縮めて抱きしめているような、大きな赤ちゃんのような格好の、綺麗な、淡い白い光を放つ女の人。
女の人の周りを、大きな根っこが取り巻いている。段々とその根っこが育ってきて、いつの間にか女の人の姿を覆い隠してしまう。
そこで、ハッとして目が覚める。
最近、瞑想をしていると必ずこのイメージに行き当たり、そして現実に戻される瞬間もいつも同じだ。
「あの人は、誰なんだろう」
顔もぼんやりして分からない。でも、長く光を宿す髪、胸の膨らみや腰のくびれ、あの光の形はどう見ても「女の人」にしか見えなかった。でも、顔も何も分からない。出来るだけ自分の頭の中の記憶を辿ろうとするけれど、誰の顔にも似ていない。
分からなくなって、どうにもならなくて、大きくため息を吐いて、パタッと後ろ向きに倒れようとした。
ふにっ。
「やんっ」
「っ!?」
妙に柔らかい感触にびっくりして体が硬直した隙に、日焼けした褐色の腕が私の体に回される。
「つーかまーえたっ」
そのまま、ストンと下に落とされる。視界には、麻由美さんの顔が逆さに映っていた。強制的に膝枕に寝かされる形になっている。
「麻由美さん、離して下さい」
「や」
「離して」
「いーやーや」
麻由美さんは、厄介な事に隠形という気配を消して動く術を何故か高いレベルで身につけている。それを全力で活用してイタズラを仕掛けてくる。本当にレベルの高い隠形なので、すぐ近くでイタズラされるまでは全く分からない。
そして、大体のイタズラは、スキンシップの大嫌いな私をどうにかして抱っこしたり、今のように膝枕してみたり。
先生曰く「マユミがチビの頃から、このひっつき癖だけは治らない」と言っていた。昔は先生が、信じられないけどひっつきの対象だったらしい。
「その歳にもなって男である僕に引っ付くのはよせと言い続けてきたが、ひっつきの対象が助手君になって助かった」
と、全く嬉しくないことを言われた。
「ちゃんと課題をやってるか、見張りに来てたんよ。でも、モモちーは真面目やから、サボる心配なんかなかったなぁ」
頭をゆっくりと撫でてくる。
くすぐったくてたまらない。逃げ出したいけど、抵抗するとさらに長引く。
「むう」
私は渋々、この状況に任せることにした。多少塚本さんたちに慣らされたとは言え、人に触れているのは、触れられているのは酷く落ち着かない。人のぬくもりや感触は、私にとっては居心地のいいものでは無かった。
どうにも撫でられたり、触れられている場所がむずむずと違和感が生まれて辛い。
その度に体を動かすが、麻由美さんに上手く力をいなされて膝枕に戻される。麻由美さんは私とは逆に、私にくっついていると満たされてくるらしい。
ただ、麻由美さんのこの癖について、先生から違う話も聞いていた。
「助手君にはマユミがどう見える? 明るいだけの少女に見えるかね。君のことだ。既に彼女の影を嗅ぎ取っているのでは無いか? 彼女の心の中の影に、君が効くかもしれんのだ。あれでマユミも脆い。今回マユミを呼び寄せたのは、治療を兼ねてもいるからだ。これに関しては僕の仮説に過ぎないんだがね」
先生はそれだけ言っていたけど、麻由美さんが私にくっついていると確かに不思議と寂しい匂いや悲しい匂いが薄くなるし、表情も柔らかくなるのは感じていた。だから、嫌ではあったが邪険にも扱えなかった。
彼女の満足気な顔を通して、空が見えている。
やっぱり、空が青い。
「ねぇ、モモちー。ひとついい」
「……なんです?」
「モモちーを兄さんが助手君って言う理由、知ってる?」
「いえ、考えたこともないですが」
「言霊の事や、マジナイの鍵の事は知っている?」
「……習いました」
「マジナイを使うものが近くにいる時、相手に名前がわかってしまったら?」
「マジナイをかけられる……あ」
「兄さんは、わざとモモちーを助手君と、モモちーが先生と呼ぶように仕向けているの。名前を誰かに握られないように、出来るだけ名前を削いで呼ぶんや」
「なるほど」
「だからね、モモちー。ウチ、モモちーのこと、モモちーて呼ぶの好き。モモちーに麻由美さんって呼んでもらうのも好き。でも、これからお仕事をする中で危ないこともあるから、な」
「……なんて呼べば?」
「せやな。ウチは先輩って呼んで。ししょーとかセンセより、そう呼ばれると凄い嬉しい」
「分かりました」
「モモちーはどう呼ぼうかなあ。前はウチが決めたから、今度はモモちーが決めてええよ」
「え?」
「自分で決めた名前でええよ。その方が愛着が湧いてええし。モモちーにはニコニコしてて欲しいしな」
「……助手君で」
「それでええの?」
「はい」
「でもその名前は」
「いいんです。この名前が、私を変えてくれたから」
「そっか、じゃあ、これからよろしく、助手「ちゃん」?」
「……っ、よろしく、先輩」
下に続く
今回のお話は元々全編を一つの状態で掲載していましたが、加筆を加えた結果文字数をオーバーしてしまい、導入編と解決編の二編に分けることと致しました。
導入編あとがきとしては、新キャラである「黒井麻由美」について触れたいと思います。
彼女は言ってしまえば、僕の癖をぶち込んで生まれた子です。
褐色肌、スポーティ、関西弁少女。いいですよね。いいですよね!?
異論は認めます。
これまでの、例えば桃や先生とはキャラの作り方がだいぶ違います。例えば、桃は読者目線の役割を、先生は、解決者やデウスエクスマキナ(物語の幕引き役)の役割を持たせていますが、彼女に限って言えば桃の「お姉ちゃん」であり「コーチ」であり「悪友」のような役割を後から与えています。物語を一つ次へ進めるために、師弟ではなくすぐ傍にいる「相棒」としてのキャラが欲しくなった、のも麻由美が生まれたきっかけです。
あとは、女の子がイチャイチャしてるシーンを書くと個人的にモチベーションが上がるからです。
野郎を書く必要があるときは書きますけど、先生と周藤刑事の絡みとかね? そりゃ書いてて楽しいけども、女の子同士のイチャイチャに比べるとテンション減は否めないわけですよ。
この小説は皆様の目にも晒させていただいていますが、実際はまず第一に作者が面白がってるかどうかが最優先な小説なので、読んでいただく際には、目をつぶっていただきたく思います。
合わないなあ、と思いましたら、そっと閉じていただいて構いませんので……。
でも、もしも、もう少し読んでみたいなあと思われましたら、もう少しお付き合いをいただければ、と思います。