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鈴鳴堂怪奇譚  作者: 秋月大海
1年生編
2/12

一の話 新訳牡丹燈記

 このお話は、純粋な愛のお話。青少年の見る、麗しい夢のお話。

 観様によっては、奇妙に歪んだ愛のお話。

一の話 

新訳牡丹燈記

~乙女トマジナイ屋、生霊ニ行逢フ~


「およそこの世というものには、不思議だ怪奇だというものは無いんだよ」

先生はそう言って、ソファの横に山のように積まれた、和綴じの本を一冊手繰った

「民俗学を学ぶと、妖怪だの幽霊だの、色んな話と出くわすけどもね、実態は人間の生活の中で生じた色々な歪みを解決する方便として使われる」

私が聞いている訳でもないのに、誰かに語るように、しゃべり続ける

「でもねぇ、人間というのは厄介だ。実に厄介だよ、人間はあると信じたことは、「ある」と思い込むのだ。妖怪も幽霊も怪異も。本来あるべきでないものを、あるものにしてしまう。それが、この世に出てきた怪異と言う奴で」

先生の一人講義はそこで途切れた。

私が、先生の座っていた二人がけのソファの方を見ると、彼は眉間に皺を寄せ、伸びるままにした白髪の少し交じった髪をバリバリと音を立てて掻いていた。


「助手君」

不意に先生は顔を上げて私に聞いた。

「君は虫の知らせってやつを信じるかね」

「むしの……なんですか?」

「虫の知らせだ……もっとありふれた言葉を使うなら、予感とでも言うのかね」

「予感ですか。信じたくないです」

「ほう、信じてないじゃなくて信じたくないね」

「だって、先生の予感はいつも」

厄介なことの前触れじゃないですか

そう口にしようとした時、店のベルがかろん、となった。


第一幕 高校、午後の教室

「えぇ、つまり」

午後の授業中の気だるさの中で、多くの生徒が眠りにつく中、教師の妙に通る声が場を支配している。

「諸君らの見ている中国と言うやつは、実際一側面でしかない。真の中国とは、人間の混沌。ごった煮の中にある国である。特に清朝が顕著だ」

世界史の担当、黒井(くろい)(あきら)先生は、教室の半数が寝てようがお構い無しに講義を続けた。

「満洲族というのは、そもそも中国東北地方から発したというツングース系の人々であり、狩猟と交易を主な生業とする。理由は、平坂くん!」

私は、ぼうっと話を聞いていたところを急に刺されて慌てふためき、まともに喋れなくなった。

「え、えっと、あの……」

「せんせー! モモいじめないでよー!」

クラスの賑やかな女の子達が口々に囃すが、先生は気にしなかった。むしろ、茶化してきた子に標的を摩り替えて質問を続けた。

「ほう? では塚本君、答えてくれたまえ」

先生は、誰でも君付けで呼んだ。黒い丸縁メガネを半分下げるいつものポーズで塚本さんを見つめた。明るい茶髪の塚本さんは、ハッキリと「わっかんなーい」

と答えた。

「うむ、じゃあ考えてみたまえ」

先生のいつもの調子に合わせて、塚本さんは考え始めた。この人は、わからないを許さなかった。「自分で思考しないやつは馬鹿だ」とハッキリと最初の授業に言い放ったくらいだ。

「しゅりょーって狩りのこと?」

「うむ」

「こうえきは、あれでしょ、売ったり買ったり?」

「その通り」

「あ、じゃあわかった! 食べ物があんまり作れないから!」


先生は、色のあまり綺麗でない歯を見せながらニヤッと笑った。正解の合図だ。

この人は、自分の言葉で考えを述べさせることを大事にしていた。「言葉を操るのが人間の特権。それを操ってこそ人間。思考を表現出来なければサルだ」とのこと。


「塚本君の言う通り。この地域は土地が貧しく、冬の寒さも厳しい。主食はマントウという、日本の肉まんのようなもんだが、具は菜っ葉だ。しかも大して上手くもない。ダイエットを志す諸君は、まあ食べてみても良いが、栄養失調待ったなしであるな」

クラスの起きているみんなは声を殺して笑った。これが、先生のいつもの授業風景だった。


チャイムがなり、授業が終わり、先生はそそくさと教室を出ていった。

「今日はわりかしまともだったよな」

男子たちが、友達同士で話し出す。

「まーな、でもなあ、いつもの雑談ばっかの授業も面白くっていいけどよ。あ。俺寝ちまってたからよ、後でノート貸してくれよ」

「またかよ、お前まともに起きてる時ねーじゃんよ!」

「いいじゃねえかよぉ! 最近寝不足なんだよ俺」

教室の中はいくつもの仲良しグループで支配されるが、私はそのどこにも入っていない。

でも一人は慣れている。

むしろ一人じゃないと、動きにくい。


騒がしい教室から離れるように、私はトイレの方に向かおうとして、呼び止められた。

男の声だった。

「あの、平坂さんだよね?」

「はい……」

急なことで、声が出ない。

顔立ちの整った、私よりひと周り背の高い男子だった。胸の校章が黄色いから、二年生なんだろう。

よく見ると、肌が少し浅黒い。運動部にでも入ってるんだろうか。

「急にごめん。二年生の土屋っていうんだけどさ」

「あの、なんの用、ですか」

「いや、平坂さんて、そのさ。ちょっとやばい事の相談に乗ってくれるって言う噂があるんだけど……あれ、マジ?」


来た。

そう思った。

それが露骨に顔に出たみたいで、土屋先輩は顔をしかめた。

「あ、ウソ? 単なるウワサなら、俺帰るわ、ごめんな」

「あ」

よせばいいのに、私は呼び止めてしまった。

「そ、その、放課後」

「へ」

「放課後に、商店街外れの喫茶店に、来てください」

「え? 商店街外れの喫茶店て、あの廃墟?」

「……廃墟、じゃないです。あそこ、私のバイト先です……そこでなら、お話を聞けるし、解決してくれる人も、紹介できます」

「ホント! いや、サンキュー。どうにもほかの人には言っても信じて貰えないやつでさあ」

土屋先輩は、爽やかな笑顔を浮かべながら、手を挙げて帰って行った。

私は、また厄介事が来るんだ、くらいにしか思えなかった。


第二幕 マジナイ処 鈴鳴堂

放課後のチャイムがなってから、私は早々に教室を後にしてバイト先に向かった。

高校の正門から出て、長い坂道を下ったところに、古いアーケードのある商店街があり、その外れに今にも崩れそうにも見える煉瓦造りの喫茶店が立っていた。

そこが、私のバイト先だ。

入口の横には、朽ちかけた木の看板にかろうじて読める消えかけた字で、

「マジナイ処 鈴鳴堂」

と店名が記されている。


「お願いします」

いつも通り挨拶をして入ると、店の主は既に、店の中央にある、革の剥がれかけている二人がけのソファにどっかりと座っていた。

「やあ、助手君、早かったね」

店の主は、ボロボロの作務衣の上にほつれたドテラを羽織って、ソファの上に積み上げられた古い和紙の本を悠然と読んでいた。

「先生、また学校のお仕事サボったんですか」

「人聞きが悪いなあ、助手君。ぼかぁこっちが本業なんだよ。かったるい保護者対応やら生徒対応なんてえのは、ほかの先生方だってできる。それに僕は担任も部活も持ってない。今日の校務も片付けてきている。つまり、仕事は終わっているから帰っても問題ない」

ボサボサ髪に、黒縁メガネをかけた黒井先生は、ニヤリと笑った。

「それに、ぼかぁ最近新しい研究に忙しいんだよ。見てご覧、この本。こりゃ全て新しい研究の材料だ」

ソファの傍らに積まれた本を軽く叩きながら、再び視線を手元の本に戻す。


黒井晃。くろいあきら。マジナイ屋としての名前を黎明……レイメイと、名乗った。この朽ちかけた店の店主で、高校の世界史の教員で、今の私の保護者でもある。

私は普段、面倒くさいので先生と括って呼んだ。悲しいことに、年頃の少女である私が、今の生活で唯一対等に、怯えることも無く話せる人でもある……。

「先生、今日これからお客が来ると思います」

「デートかね」

「違います! お客です! 私なんかに彼氏が出来ないのは先生が一番わかってるでしょっ!?」

「君ねぇ、自分が男ホイホイって自覚を持ちなさいよ。今日もあれだろ、これから来るのは男の客じゃないかい。君はほら、女に嫌われるタイプの女だから」

「余計なお世話です!」

先生はケタケタ笑って、右手を上げた。このやり合いは終わりにして、本題に入ろうという合図だ。

「で? 不運にもこの店を訪れるお客さんは……あぁ、来たね」

かろんかろん、と店のドアベルが鳴った。

店の入口に、土屋先輩ともう一人の男子が立って、こちらの方を見ている。

「いらっしゃいませ、どうぞ、そちらのソファにお掛けください。今メニューをお持ちします」

定型文を言って、お客様を案内して、あとはソファに座っている先生に任せることにした。

「え? クロイ先生、なんで」

土屋先輩は、この店に来た人みんながする反応をした。

「そりゃ愚問だ、スポーツ科二年一組の土屋君。ここは僕の家だ。僕の家に僕がいて何が悪いのかね?」

土屋先輩は、話してもいない情報を言われて口をつぐんだ。

「で、土屋君、君は僕には相談することなんてないね」

先生は静かに視線だけを横に滑らせて、先輩の横に座った男子を見た。私もそちらに視線を移す。

線の細い、遠目からなら女の子と間違うかもしれないような綺麗な顔立ちの男子だった。テレビで見たアイドルかモデルのような、女の子受けする、儚い顔立ちだった。

体の前で両手をモジモジと組み合わせて、所在なさげに俯いている。

「相談者は君なんだろ? 特別進学科二年十四組の萩原君」

萩原と呼ばれた男子は肩を大きく跳ねさせた。顔が赤くなっているのが、カウンター越しでもわかった。

「ちょ、待ってください先生」

「どうしてそれがわかったか聞くのは時間の無駄だよ土屋君、それでも知りたいなら話すがね」

先生は土屋先輩を睨んだ。

「ぼかぁ教員だ、腐っても教員だよ。学校の中の噂やら生徒の評判程度は頭の中に入っているさ。土屋君、君なんてのはサッカー部のエース格として活躍してて順風満帆。お友達も多い口だ。彼女とも上手くいってるようじゃないか、うん? しかし、そのペアリングは校則違反だから校内では外しときたまえ。没収されてもぼかぁ知らんよ? とまあ、そんな風に人生勝ち組な男がね、僕みたいなインチキなマジナイ屋なんて頼るわけがない。じゃあ、なんでマジナイ屋を探したのか? 多分友達のためだろうとは推測が立つね。で、その友達が自分じゃあ情報を探れない口か、もしくは」

先生は私と萩原先輩を交互に見た。

「その友人がだ、女と話すのに慣れていないか、だ」

それだけ話して、先生は読んでいた本を閉じて山の上に置き、私を手招きした。

「助手君、メニューを。ぼかぁ彼らのツケでミルクコーヒーを」

「はぁ!? おい先生あんた」

「こんな店に来るくらいだ、どうせ他の人間には大方どうにもできない話なんだろ? 悪いけどこの店の各種サービスは有料なんだよ。相談は時間制だ。料金は三十分で千円。以降十分ごとに百円追加だ。ついでにワンドリンク制だ。そこまで高くないし、助手君の作るドリンクは美味いぞ。ぜひ飲みたまえ」

土屋先輩は、呆れたのか疲れたのか、ソファに深く腰かけて大きくため息をついた。

「……じゃあ、俺はミルクティで。おい、コウ、お前どうすんだ」

「え、え、あ、じゃ、じゃあ、同じもの」

私は手早く注文をメモして、カウンターの奥に入って飲み物を作り始めた。

先生は、身を少し乗り出して、萩原先輩の方に姿勢を合わせた。

「さて、勤勉で有名な萩原君が、こんな寂れたマジナイ屋に一体なんの用事なのかね」

「あ、あの、その、こ、こんなこと、話しても信じてもらえるか、分からなくて」

「信じる信じないはこっちの勝手で君が決めるこっちゃないよ」

先生は萩原先輩の予防線を打ち壊し始めた。

「いいかい? 君が真に相談をしたいならだ、今君に起きている事実だけ教えたまえ」

「あ! は、はい。あの」

萩原先輩は、つっかえながらではあるけども、自分に起きたことを語り出した。


話をまとめると、こうなる。

今年の四月、新学期のクラス分けの日。

新しいクラスの中で上手くやって行けるか不安だった先輩は、小学校からの友達である土屋先輩に相談した。部活の付き合いから顔も広かった土屋先輩は、新クラスの中の何人かと遊びに行く企画をサッカー部仲間と計画し、実行した。

スポーツ一組から何人か、特進十四組から何人かのグループになって、ボウリングやゲーセン、ファミレスやカラオケに行き、親睦を深めるために沢山話しをしたらしい。


そんな中で、萩原先輩は同じクラスの女の子と親しくなった。

「彼女の名前は、露里(つゆり)灯里(あかり)さんと言いました。僕の席の隣の子で、物静かだけどすごく可愛らしく笑う子で、その、正直一目惚れだったんです」

そして、最後に行ったカラオケの最後、ごっこ遊びで隣の席になった時に、実は両思いだったということがわかったという。

「人生で彼女なんかできたことなくって、でも、すごく嬉しくて!」


ここまで聞いて、私は聞く気をなくした。人の惚気話なんて聞いても面白いことなんか何も無い。込み上げてきそうな暗い気持ちを散らすように、左手の念珠を擦りながら、自分の気持ちを落ち着けた。

しかし、先生はぴしゃりと言う。

「そんな人間がこの店に来る理由はないが、来たということは理由ができてしまったわけだ。恋愛相談なんてちゃちなもんじゃないんだろうね? え? なんだい、浮気でもして振られたかね」

萩原先輩の顔が、真っ赤になり、歪んだ。

「僕はそんな事していない!」

「でも、その顔だ。取り返しのつかないことが起きた人間が自分の行動を恥じる顔だぞ、それは。例えばそう……露里と言う名は聞き覚えがあるが、僕が先を言うかね、自分で語るかね?」

「僕は、彼女の気持ちに寄り添えなかったんです! 勉強や模試が忙しいから、塾が忙しいから、委員会が忙しくて、何かにつけて理由があって、あの子もそれは同じで! だから恋人みたいなことは全然出来てないっ! それが、それが、彼女をあんなに、追い詰めて」


露里さんは、現在不登校だ。

正しくは、意識不明のまま市立病院の一室で治療を受けている。

六月が過ぎた頃、露里さんは萩原先輩と話したのだそう。このままでは嫌だ、私はあなたが本当に好き。このままでは、私は死んじゃうかもしれない、おかしくなりそう、と。

萩原先輩は、その時の露里さんの表情が怖くって、返事も何も出来なかった。

その日の夜、露里さんは自殺未遂を起こした。

そこから、露里さんの意識はもう半年戻っていないという。

「でも、この一ヶ月、不思議な夢を見るようになったんです……それが、僕の相談したいことで……」

「これには、俺も噛んでるんで、コウが説明した後にちょっと言わしてください」

「構わんよ、続けてくれたまえ」

皆さんの前にそれぞれ注文された飲み物を置いて回った。

萩原先輩はちびちびと飲み、土屋先輩は一気に飲み干した。先生は、自分専用の砂糖壺から角砂糖をふたつ入れて、よくかき混ぜている。

萩原先輩は、飲み物の温かさのためか、胸にたまった空気を吐き出して、また喋り始めた。


始まりは、ひと月前の深夜。

萩原先輩は寝付けず、ベッドで何度も寝返りを打っていたという。その時に、耳元でハッキリと露里さんの声を聞いたそうだ。

「幻聴のはずなのに、でもハッキリと、「これでずっと一緒」って」

その晩から、深夜の一時きっかりに、窓越しにぼうっとした光が見え、澄んだ鈴のような音が聞こえたかと思うと、急激に眠くなる、ということが続くようになった。

「その光と音を聞いた後の夢は、露里さんと幸せに過ごす夢なんです。一緒に色んな場所にデートに行ったり、その、キスしたり、愛してると言い合ったり」

「セックスはしたのかね」

先生はデリカシーに配慮もなくド直球に聞いた。男子二人は気まずそうに顔を赤らめていた。ああ、したのか。

「ふうむ、ああ、続けたまえ」

「でも、毎日、毎日、その夢が続くので、なにか怖くなって。しかも、その夢を見るようになってから、変に体がだるくなってきて」

「で、俺の話っす。そういう相談受けて、俺心配になったんで、休みの時にこいつの家に張り付いて見てたんすよ」


先週の土曜日。深夜一時。萩原先輩の家は、閑静な住宅街にある二階建ての家だった。深夜になると、本当に物音ひとつ聞こえないのだそう。その家の二階に先輩の部屋があって、土屋先輩はそれを電柱の影から監視するとい古典的な手に打って出たそう。

「刑事ドラマとかに俺憧れてて」

「アンパンと牛乳用意してたかい」

「もちろんっす」

「あ、そ。うん、続けたまえ」

その時、通りの向こう側から、オレンジ色のぼんやりした光が、音もなく萩原先輩の家へと近づいていった。土屋先輩はその光景から目を離せなくなったし、体も目を除いて動かせなくなったのだそう。

「りーん、りーんて、ベルみてぇな音が聞こえて、光がすって近づいてきたんすよ。そしたら、それが」

オレンジ色の光を放つ、中華風のランタン? をもった、露里先輩その人だったという。

「うちの学校の制服着てて、顔も姿もはっきり見えて、もちろん、足もあったんすよ! 小さかったけど足音も聞こえたんで、あれは幽霊じゃないっす! ……でも……」

その後の光景を話そうとして、土屋先輩は言い淀み、体を少しふるわせてから続けた。

「露里が、ふわあって浮き上がって、そいで、コウの部屋の窓に吸い込まれたんすよ……で、しばらくすると、部屋の窓をすり抜けて、コウと露里が出てきたんす。露里の姿はハッキリしてたけど、コウの姿は、なんか、こう、ぼやぁっとしてて、幽霊みてえで……そん時に、恥ずかしい話っすけど、俺怖くなって逃げちまったんすよ」


話はそこで途切れた。

先生は、少し冷めたであろうミルクコーヒーを啜りながら二人の顔を交互に見つめていたが、顔をしかめてボサボサした髪を掻きだした。

「ふうむ? あ、助手君、おかわり」

「はい」

先生の手元のカップに、鍋から直接ミルクコーヒーを注いだ。

「二、三、聞きたいことがある。どちらが答えてくれても構わない」

先生は男子二人を交互に見た。

「君たち、露里さんの入院先には行ったことあるかね」

「あ、僕があります……」

「萩原君、その時になにか貰ったか」

「え? あ、その、彼女のお母さんから、娘が大切にしてたもので、娘があなたにあげたいと言っていたものがある、って」

「そりゃ、なんだい」

「コンパクトミラー、です。ちょっと中華っぽいデザインの」

「お見舞いに行ったのは、一か月前じゃないか?」

「え!? あ、はい、確か、そうです。それまで、罪悪感ばっかり先にたって、しかも、怖くて、お見舞いにも行けなくって、それで」

「よろしい」


先生は、黒メガネをしっかりとかけ直して、縁を左手の指でなぜながら、ぼそぼそと口の中で何かを呟いた。

「うん、ああ、なるほど。これは酷いなあ」

男子二人はきょとんとして、先生の方を見つめている。先生の視線は、もう萩原先輩から離れない。

「助手君、こっちへ来たまえ」

何か見た。

そう思った。

案の定、先生は私に促した。

「もうひとつの瞼を開けて、萩原君を見てみなさい。君の感想が聞きたい」

私は、正直嫌だった。

厄介事が始まる。でも、逃げられない。

私は契約で、先生に縛られている。

「わかりました」

深呼吸して、一度目を閉じる。

ゆっくりと、瞼を開けながら、その奥にもう一つある瞼をさらに持ち上げるイメージで、目を開いた。


萩原先輩の、顔に、手に、そして、服に隠されているはずの腕に、胸に、脚に。

無数の、手の後。舌で舐めたような跡、そして、首筋に、はっきりと、歯型が浮かんでいた。


私は思わず、口に手を当てた。

気持ちが悪い。

見た傷口が、意思のあるように蠢いて見える。ものすごく強いなにかの意志の残り香か、もっと言えば。

「萩原先輩は、マーキングされてます」

「ふむ。僕には単なる傷のようにしか見えないが、君は何が見えた?」

「手の跡。爪で引っ掻いた跡、舌で舐められたような跡も、見えます。後は、首筋に、はっきりと、歯型が……」

「よろしい。ありがとう」


萩原先輩は、私が傷の種類を言う度に自分の体を押えていった。その手振りには迷いがない。覚えているんだ、どこに、なんの傷があるのか。何をされたのか。

でも、そんな傷は傍目には見えない。


「無駄だ、萩原君。外から確認できる類の傷じゃあない。しかし厄介極まりないものを引き寄せたね、君は」

「え?」

萩原先輩の血の気が引いていく。

「質問なんだがね、萩原君。「正直に」答えてくれていいよ」

萩原先輩は息を飲んで言葉を待った。

「君、自分が惚れた女が死んでくれと言ったらば、一緒に死ねるかね?」


第三幕 市立病院

「見てみない限りは分からないが」

冬の休日。普通の高校生は、来るクリスマスにでも思いを馳せて、友達とgrapeのアドレスでも交換しながら、誰かに告白する計画でも立てているのか。もしくはデートの予定でも立てるのだろうか。


私は、地味なベージュのコートの下に飾り気の無い服を選んで着て、目許まで隠れるブカブカのキャスケット帽を被って歩く。

私の前には、黒いソフト帽に黒いインバネスコートを羽織り、その下に黒い紬の着物を来て、雪駄ばきの中年男が歩いている。先生の外出着は、冬だといつもこれだった。

少なくとも、これは普通な光景じゃないだろう。


嫌気がさした私の感傷を無視して、話し続ける。

「厄介なネタを拾ったと思うよ今回は。その代わりに成功報酬は踏んだくれると思えばこそ、仕事にやりがいをもたせ、人生にはハリが出るというものだよ。覚えておきたまえ助手君」


私たちが向かっているのは、市立病院だ。この街で最も大きな病院の、しかも上層階の個室に露里さんはいる。

「今回の件は、もう怪異なんですね」

私は機械的に聞いた。

「飲み込みが早くて助かるよ、助手君」

先生の声は弾んでいた。

「まあ、尋常の方法ではまず解決しないだろうねぇ。あの相談の感じ、集団幻覚なんて有り得ん状況だし、睡眠薬と催眠療法で医者にかかっても原因が当人の外にあるから効果なんてありゃしない。更に大事なのは、君も僕も萩原君につけられた「霊障」による傷を見ていること。単なる通り過ぎるような「モノノシラセ」なんて可愛らしいもんじゃあない。今回の相手は、人に触りなす「鬼」となりつつあるモノだ」

「なんでそんな大事になったんでしょう? だってこれ、カップルの痴話喧嘩みたいなもんでしょう先生」

「おやおや、思春期の少女とは思えない冷え切った感想だな助手君」

「そういうの、最近はセクハラって問題になるんですよ先生」

「……何でもかんでも蓋してりゃあいいってもんでもないと思うがねえ。いやいや、違う。いいかい助手君。人間の想念と言う奴は兎にも角にも面倒なものなのだよ。それは、君が一番知っているはずだ」

私は、左手の念珠を強く掴んだ。

「よろしい。君は、源氏物語に出てくる六条の御息所という女性は知ってるかね」

私は首を振った。

「では、道成寺縁起絵巻……いやいや、安珍清姫という昔話は知っているかい」

また首を振る。

「ふむふむ、他にも、能の鉄輪もそうだし、ああ、宇治の橋姫の話もこれに関係していたなあ。源平盛衰記の剣の巻にある話ではこの二つを関連づけていたか」

先生は一人で納得してから、スタスタと早足で歩き出した。

私は必死でついていく。

「これらの話はどれもこれも、「女が鬼に変ずる話」だよ。古来日本では、女性だけが持つ強い力と感情を畏れ、それを鬼という形に託してきたのさ。今回のヤツもそれに近いんだが、問題は鬼化を引き起こしてる存在が何か? ということと、それがどこまで進行しているのか? という二点だよ」


市立病院の受付で相当怪しまれたが、先生が学校の身分証と校長の書名入りの紹介状を見せると、渋々であるが病室に案内された。

「なんであんなものを持ってるんです?」

「紹介状かね? あぁ、あれは校長にちょいとお願いして、正式に依頼として僕に委託された証明書として貰ったのさ。特進の、しかも保護者会の役員まで務めてる家の娘さんがずっと昏睡状態じゃあ外聞が悪いからさ、とっとと解決するように、だとさ」

先生は吐き捨てるようにそう言うと、看護師さんの後を無言でついていった。私はその後に、やはり無言でついて言った。


病院という場所は、嫌いだ。

学校もそうだけど、こういう場所は人間の負の感情が貯まりやすい。だから、ヨクナイモノも湧きやすい。先生もそれを知っているのか、必要以上のことを喋らなかった。私も、左手の念珠を、ずっと握りしめていた。


真っ白な病室。

しかも、かなり広い個室だった。

部屋の真ん中に、人が二人は寝れるような医療用ベッドがあり、その真ん中に、長い黒髪の女の子が、病院用のガウンを着て、点滴と栄養剤のチューブ、呼吸用のチューブなどに繋がれて、寝かされていた。

その傍らには、女の子をそのまま成長させたような女性が、じっと女の子を見つめたまま座っていた。

看護師がその女性に何かを告げると、その人はこちらを見上げた。

表情のない、能面のような、なんの感情も感じられない顔だった。

「どうも、大和学園三条高校の教員の黒井です。こちらは私の助手君です」

「……助手です」

「本日は、学校の教員を代表する形ではありますが、露里さんのお見舞いにこさせて頂きました」

女の人は、表情を何も変えずに私たちを見て

「はあ」

とだけ言って、また視線を落とした。

看護師がこちらに来る。

「学校の先生ということでお話を聞いているとは思いますが、お母様は彼女が自殺未遂をして倒れられた日から、今日まで休まずに看病を続けられてまして、その、大分心労が」

「なるほど、こりゃあ……いや、どうも。何かあれば、お呼びしますんで」

先生はだいぶ歯切れ悪く返事をしたが、理由はわかった。じっと、露里さんのお母さんを見て、何かを調べていたからだ。

看護師が部屋から辞した後、先生に促されて私はもう一つの瞼を上げて、お母さんを見つめた。

「これは……重症どころの騒ぎじゃない」

先生の声から普段の余裕や茶化すような雰囲気が失せていた。

「分かるかね、僕に分かるほどだ、君には手に取るように分かるんじゃあないか?」

「は、い」

言葉がなかった。

この部屋には、「人間の抜け殻」しか無かった。


人間というものには、魂がある。この世の生きているものには、それを動かす霊的な力があって、それを魂とマジナイ屋は呼ぶんだと、先生は前に言っていた。

普通の人間は、二つ目の瞼を開けるとその魂のあり方が見える。私の目には、その人の体から、色んな色のモヤが流れ出しているように見える。感情が高ぶったり、下がったりするほどに、色が変わって見える。


でも、この部屋にいる人間には、それがなかった。

露里さんも、お母さんも、魂が無い。

体にない。

「本来、人間には魂と魄がある。霊的な肉体のコンと、物理的肉体のハク。それが揃わないと、生き物としては異常だ……だが、それが無い」

「これ、先生、生きてるんですか」

私は疑問を口にした。

「生きてはいる、見なさい、心電計はちゃんと動いているだろうに」

病室にある、露里さんに繋がっている心電計はたしかに動いている。良く耳をすませば、お母さんと露里さんの呼吸の音も聞こえる。

「物理的には生きている状態だがな」

先生は懐から、陶器の小さな器を取り出して、そこに指を添えた。

「本当は香を焚きたいが、緊急措置をとる。魂の行く先を突き止める」

先生は、香炉を病室の机の上に静かに置くと、着流しの袖から小さな紙包みを取り出して、その中に流し入れた。

「助手君、しんどいだろうがこの部屋の気の流れを見てくれ。どの方向に流れているかだけ分かれば良い。分かったら教えたまえ」

私は、二つ目の瞼を開けたままにして、二人をじっと見つめた。

先生の声が部屋にひびき出す。

『おんあぎゃなえいそわか、おんあぎゃなえいそわか、おんあぎゃなえいそわか……』

香炉に独りでに火がともり、流し入れた香木を燃やす。だけど、煙も何も出ていない。灯っているのは本当の火じゃなく、魂の火、燻り出したのは香木の霊的な部分……木気だった。

『かさなりつむげあさのいと こよりこよれやさらさらに はんごんこうのくりきにや とりてもどせや みたまのを』

ゆらゆらと漂い始めた鈍色の光が、部屋の中を蛇のように舐め尽くす。

『とりてもどせやみたまのを とりてもどせやみたまのを …… おんあぎゃなえいそわか、おんあぎゃなえいそわか、おんあぎゃなえいそわか、おんあぎゃなえいそわか』

段々と鈍色のモヤのような光が太くなり、一筋に纏まって流れていく。それは病院の中じゃなくて

「先生、窓です、窓から抜けてます」

先生は右手に香炉を乗せた。

「助手君、本当にその筋しか見えないか?」

「え? 待ってください……」

神経を目に集中させる。

よく見ると、窓に抜けた筋とは別の細い筋が、部屋に備えられた引き出しの中に流れ込んでいる。

「あそこの、あの、引き出し」

そこまで言ったところで、吐き気が来た。

「助手君、もういい。瞼を閉じなさい」

私は急いで目を閉じて、深呼吸した。

先生はすべるように引き出しに近づくと、一切の迷いなく開け、そして、目当てのものを見つけ出した。

「瞼を開けずに、これを見たまえ、助手君。何かわかるかい」

私は、必死で吐き気をこらえ、薄目を開けてそちらに近づき、先生の左手の中のものを見た。


中華風の細工がなされた、コンパクトミラー。

「こいつは、呪具だ。とてつもなくタチの悪い、蠱物(まじもの)だよ、助手君」

先生はそう言うと、静かにコンパクトを元あった場所に戻した。

「今は、まだ動かす訳にも壊す訳にもいかない。しかし、ハッキリした」

先生は私をしっかりと立たせて、私の背に左手を置きながら歩き出した。その右手には、まだ香炉がしっかりと握られていた。


第四幕 萩原先輩宅

市立病院を出た私たちは、病院から少し離れて人がいないのを確認してから、魂の探索のための準備を改めて始めた。

先生は、右手の香炉にマッチを使って火入れをし、香木から煙を立たせた。その煙は、ゆらゆらと蛇のようにのたうった後、ものすごい速度でひとつの方向に流れ出した。

「捉えた」

先生は呟くと、一切迷いの無い動作でその煙を追う。私もその後に続く。

もう、私にも行き着く先は分かっていた。

先生は体の軸を動かさずに、早足で進む。

「君はもう、「アクガル」という現象は知っているね」

「今回も含め、何回か見ましたからね。「脱魂症」ですね」

「その通り」

話している中でも煙はどんどん先へと進む。先生は淀みのない動きで煙を追う。

「おやおや、ビンゴ」

先生は急に立ちどまり、私はその背中につんのめった。

「急に止まるな!」

「いやでもねぇ、助手君。煙は目的の場所に着いたよ。ぴったしカンカンてやつさ、ほら見てご覧」

鼻頭を押さえながら、その家の表札に駆け寄って確認する。

「ああ、ビンゴですね」

表札には「萩原」の文字。


呼び鈴を押すと、先輩はちょうど家に居て、珍妙な私たちを招き入れてくれた。

ご両親は仕事で居らず、家には一人でいることも多いのだとか。その割には掃除が行き届いているのは、家政婦さんがたまにくるから、だそうだ。

「萩原君、調査結果が出た」

先輩は、強ばった表情を浮かべて、先生の方を見た。

「で、君の答えが必要だ、萩原君。君、自分が惚れた女が死んでくれと言ったらば、一緒に死ねるかね?」

先輩は、俯いて、聞こえないぐらいの声で。

「無理……です」

と答えた。

「よろしい」

先輩の答えを聞き、先生は満足そうに、でも、どこか悲しそうに頷いた。


先輩の家のリビングで、私と、先生と、先輩が向き合う形でテーブルを挟んで腰掛けた。

「調査結果を話して、君がどうしたいかによって今後の対策を立てることにしたいんだがね。君は、いくら惚れた女に死ねと言われても、死にたくないってことでいいね?」

「だって、それは! そんなことまでは、いくら、自分のせいで自殺未遂して、意識不明でも、そんな……」

「責めちゃいないさ、少年。それが普通の反応だ。死にたくないなら死にたくないなりの対応をとる。全員に後腐れのない解決は、出来ないと明言できるがね」

「……わかり、ました」

萩原先輩は力なく項垂れた。


「整理しよう」

テーブルに両肘を置き、両手を組んでその上に顎を置く独特な姿勢で、先生は呟いた。

メガネが鈍い光を放ち、その奥の目は真っ直ぐに萩原先輩を捉えている。

「まず、君の「症状」だが、「生霊憑(いきりょうつき)」だ。だがそろそろ、「鬼憑(おにつき)」になろうとしている。そして、君の彼女である露里君の「症状」は……「脱魂(たまぬけ)」だ」

先輩は、次の言葉を待っていた。

「まずは露里君の症状から話そう。彼女も君と同じく特進の生徒で多忙な日々。その中で、君と一分一秒でも長くいたいと望む彼女の心が、彼女の魂に作用して、肉体から抜け出るようになった。そして、夜な夜な君のところに来るようになった。これが、露里さんの脱魂症の正体だ」

「でも、そんな」

「君の体に起きている変化が、そもそも非科学的だろうに。今更信じられんということもあるまい。それにだ、君は「憧れ」という言葉を知ってるだろう。あれの語源は「アクガル」……魂が体から抜けて、愛しい人の元へと通う状況を言うのだ」

先生の言葉は、どんどん場に染みていく。そして、先生だけの空間を作っていく。

「そして、六月の自殺未遂が決定打になった。彼女の魂はその時に完全に肉体から抜けて、彷徨う事になってしまった。彼女はその時に、自分は死んだとでも勘違いしたのかもしれんが、細かいことは知らん。彼女が昏睡して目覚めないのは、彼女の魂が抜け出ているからだ」

「そんな」

「非科学でもないぞ。医療の進化によって彼女の肉体だけは完璧に生かされているのだから、その点君は感謝すべきじゃないか?」

「……信じられないかもしれませんが、本当のことです。私の目でも確認しました。露里さんの魂は、肉体にはありません。今は、この家、というよりも貴方に紐付けされています」

「じゃあ、僕が全部悪かった、ということですか」

「まあそうだな、色男君。君がきっちり責任を取らなかったのが、彼女を追い込むことに繋がったのは事実だが、この状況を作ったのはまた別の人間だ」

先生はそこで話を切って、先輩を見る。

「時に、萩原君。君が貰ったコンパクトを見せて欲しいんだが?」

「あ、わかりました」

彼は、自分の服の胸ポケットからコンパクトを取り出し、先生に渡した。

「これを君に渡した人物が、君を呪って、露里君の願いを歪んだ形で叶えようとしている。「ずっと一緒にいたい」という願いをね」

もう分かっただろう? と、先生は無言で問いかける。

「露里さんの……おかあ、さん」

「当たり前だろうね。実の娘を殺した男だ、恨んでないわけがないだろう。とはいえだ、その母親も、露里君共々鬼になりかけているのだから、救いのない話だがね」

先生はコンパクトを仔細に観察すると、それを机の上に置いた。

「こいつは、単なるコンパクトじゃない。我々マジナイ屋が用いる「呪具」だ。しかも、とびきり強力な呪いが込められている」

私もじっくりと、二つ目の瞼を開けずに観察する。

金メッキが施された、灯篭のカメオが着いたコンパクトミラーだった。でも、二つ目の瞼を開けずに見ても、これから盛れだしてくる気持ち悪い感覚が肌を指す。人の強い負の感情を煮詰めて固めたような気配がずっと溢れている。

「この呪具が、露里君の魂を君に紐付けている。そしてこのまま、夜の逢瀬が続けば、君の魂は露里君の魂に食われてしまうだろうよ」

「それが、先生の言っていた、「惚れた女のためなら死ねるか」の答えなんですね」

「そうだ」

先生はコンパクトに手を置いて、低い声で呪文を唱える。

『しょよおんてきかいしつざいめつ』

コンパクトがまるで生きているかのように独りでに震えた。そして、おうおうと歳経た女の声を上げて、啼く。

「このコンパクトには、彼女の母親の呪いが込められている。娘を惚れた男と添わせたいというね。しかし、その想いが歪んだ形で実現しようとしている……いや、本当の願いは違うのか」

コンパクトの声は、おうおうという鳴き声から、意味のある言の葉へと変わって行く。

『ああ、ああ、にくい、わたしからあなたをうばったおとこが……にくい、にくい、わたしからはなれていくあなたが……にくい、にくい、わたしのことをしらんふりするおっとが、にくい、にくい、このこになにもしてくれないがっこうが……でもせめて、あなたのねがいはかなえてあげる……あのおとこと、そわせて……かあさんを、ゆるして……』

ありとあらゆる恨みの念が込められていたのだ。だから、見ただけで、気配を探るだけでも、あれだけ気持ちが悪くなったのか。

「このコンパクトに魂が紐づけられているのだから、今壊してしまうと、露里君の魂も、母親の魂も消えてなくなる。本当の死が待っている。しかし、座して待てば、君が殺されてしまう。そして、露里君は極楽にも地獄にも行かれず、君の魂と一緒に延々とこの世を彷徨う、鬼に変わる」

「鬼になる……と、普通に死ぬのとは、違うの、ですか」

先輩の顔からは生気が失せていた。無理もない。遅かれ早かれお前は死ぬと言われたのだ。そして、死ぬよりもっと酷い目にも会うと、宣言されたのだから。

「肉体的には死ぬ。だが魂は、この世に留まり続けて、無関係な人間に災厄をもたらし続ける存在に変わる。それは居るだけで周囲に霊障を、瘴気を撒き散らし、場合によっては死に至らしめる。こういう、どうにも対処の難しい霊的な存在を、我々は「鬼」と呼んでいる。こうなった魂は、専門の咒式か祓いを用いて穢れを落として鎮めない限り、永遠の苦しみの中を「生き続ける」ことになる。その魂が擦り切れて、人間たちに忘れ去られ、消え去るその時まで……君は、露里君をそんな存在にしたいかね。そんな彼女の怨みを喰いながら、一緒の時を延々と過したいかね」

先輩は、絶句した後、ゆっくりと頭を振った。

「最初に言ったように、方法がない訳では無い。だが、最善として君が死なないようにする。次に、露里君の魂をあるべき場所に帰し、母親がかけた呪いを斬る。それでいいな、萩原君」

先生は、萩原先輩から同意を引き出すと、家を後にした。

私は、先生が、とても悲しげな顔をして家を去るのを見逃せなかった。

もしかしたら、幕切れは最悪の形になるのかもしれない。でも、私にはそれを見届けることしか出来ない。

もし出来ることがあるなら、全力を尽くそう、とだけ、思った。


第五幕 深夜の住宅街 牡丹灯籠

深夜十二時半。萩原先輩の私室。

私は先生に言われた通りに、私室にコンパクトを置いたままにした。そして、萩原先輩にはリビングに降りてもらった。

「ここから動かないでください。私が、あなたの護衛を務めます」

先輩にはそう伝えた。

先輩のご両親は出張と旅行とで家を開けていたため、今日が好都合だった。

窓という窓に、先生が作った霊符を貼り付け、玄関にも魔除の八卦鏡を置く。リビングの四隅には、仏法の守護者である四天王の力を移した札を張りつけ、簡単な結界を作り出す。

この中にいる限り、先輩の魂への干渉は最小限に留められる。

「後は、あなたの精神力次第です。先輩」

私は最低限のことだけ、簡潔に伝えた。

「露里さんと、生きてまたお話がしたい、ですよね。だったら、ここから絶対に動かないでください」

先輩は力なく頷いた。

『禁、禁、禁、禁』

外からは先生の呪文が聞こえている。

人祓いをし、露里さんの霊と母親の呪霊のみを迎え撃つつもりらしい。


『東海の神、名は阿明。西海の神、名は祝良。南海の神、名は巨乗。北海の神、名は愚強。四海の大神、百鬼を退け、凶災を祓う。急急如律令』

家の中の守りは助手君が固めた。

僕は、通りに神経を集中する。

時刻は、深夜一時。街は寝静まり、遠くで犬のほえ声だけが聞こえている。

憐、憐、憐、憐

通りの向こうに、ぼうと鬼火が点る。

ゆっくりと、確実に、露里君の霊体が近づいてくる。

僕には、霊を見抜く「見鬼」の才は無い。メガネに込めた咒式を通して、無理やりに視覚的な捉え方をしているだけだ。しかし、この肌を焼くような冷たい気配は、実態を見ずとも伝わってくる。

もう、人から鬼になりかけている。死霊などという生易しいものでなく、一種の災害。人間の負の感情のみに支配された「荒御魂」がそこにある。このまま、萩原君を憑り殺してしまえば、彼女はもう人には戻れない。鬼に堕ちてしまう。


萩原君は殺させない。

露里君を鬼にはさせない。

そのために、持てる手管は全て晒す。

憐、憐、憐、憐

いよいよ、鬼になりかけた露里君が姿を見せた。

メガネで捉えずとも、普通の人間の目にすらはっきり分かるほどの霊の気配。

輪郭にぼやけもなく、生きている人間と寸分たがわぬ姿。その手にはしっかりと、中華風の、ボタンの花をあしらった灯篭が握られている。そこから、無数の鬼火が漏れいでて、彼女を包み込んでいる。

眼には、青白い妄執の火が灯る。

今の彼女には、萩原君と沿う以外の感情は残されていない。それで、彼が死ぬとも知らずに……。


『こんばんは。露里君。はじめましてでは無いだろう?』

言の葉に霊威を載せる。そうすれば、この世ならざるものにも言葉は届く。

「……誰?」

『君の学校の教師さ。クロイだよ。まさか、この面層覚えていない訳でもないだろう』

語りかけながら、インバネスの裾に隠れた両手で印を組む。

「私は、コウ君のところへ行くんです。邪魔を、しないで!」

彼女から放たれた殺気が、鬼火の奔流となって僕に押し寄せる。

「やれやれ『爆流、薙ぎ払え』」

僕の言葉に応じて、僕の周囲に水の奔流が現れる。その中には、巨大な鮫の姿をした霊体が潜む。僕の「式神」である「爆流」が、その名に込められた咒によって鬼火を飲み込む。

『お嬢さん、僕にはそういう手は通じない。そもそも、君は普通の人間だったはずだ。少し思い込みの激しいだけの、少女である。違うかね?』

「うるさい!」

彼女の怒気に呼応し、鬼火が次々に押し寄せるが、その全てを「爆流」が流しやる。

『可哀想に。なぜ急に彼と通じたかも分からないのか。君のお母さんが取り計らってくれたのだよ? 自分の魂を呪いの餌にしてまでね。君はいつから彼と会えるようになったのだね? それに、君の手に握られてる、その灯篭……中の火は、誰の魂の火であるかな?』

僕は、揺さぶり続ける。鬼火の奔流は完全に無効化された。まだ、彼女は人間なのだ。

『このまま彼と真夜中のデートを重ねてご覧。君は彼を殺す。一緒にいるとはそういう事さ。彼を殺して、死ねない彼と一緒に、永劫の時を彷徨うのさ。そうですね、お母さん』

僕は、この場にいる姿を変えたもう一人にも揺さぶりを掛ける。灯篭の中の火が、言葉に反応を示すようにぶるりと震えたのがわかった。

『この一件は、別にお母さんのせいでは無い。思春期にありがちな、娘さんの自己陶酔の結果です。それを自責の念に押しつぶされて、貴女は貴女の娘を、人ならざるものにしようとしているのですよ、それが分からんのですか?』

灯篭が、ガチガチと音を立てて震える。

灯篭から、これまでと比べ物にならない量の鬼火と、恨みの念とが放たれる。ドス黒い炎の渦が、一直線にやってくる。

「やはり、こっちが呪いの本体か。『遮れ、獣王』」

丹田に力を込めて叫ぶ。

目の前に土砂の壁が噴出し、呪いの炎を阻んで掻き消す。その脇から「爆流」の水の鞭が伸び、周りの鬼火を食らっていく。

灯篭は火の勢いを増し、辺り一体を焼き尽くすほどの炎を撒き散らす。このまま火勢が強まれば、霊障だけでなく本物の火災すら引き起こしかねない。

「私は、コウ君と一緒になる……添い遂げる…あの人が私を好いてくれた、あの人がいないと、コウ君が私を見てくれていないと、私、わたし、ワタシ、気が狂って死にそうなのよぉぉおおおお!」

火勢が更に強まる。露里君の体そのものが大きな炎の塊のように変じて行く。

灯篭の火もそれを煽るかのように大きく揺らぐ。

『もう一度聞くが、それをやれば彼は死ぬ。そして、君も人間でなくなるぞ』

僕は懐から、八卦の刻み込まれた鏡を取りだし、彼女の方に突きつける。この鏡は「照魔鏡」という呪具。霊的なもの、怪異と化したもの、その全てを見顕す鏡だ。

『見たまえ、露里君! この姿が今の君だ! これが人の姿か?』

鏡は真っ直ぐに彼女の瞳を捉え、彼女に己の姿を見せつける。

「ワタシ、ワタシは、ワタシ……。これが、わた、し?」

炎の塊に包まれた己の姿を直視し、露里君は硬直した。

「ワタシ? 私? わたし? 」

自分の手足から炎が噴出する。顔からも、目からも。ありとあらゆる所から炎を吹き出す怪物の姿。

『今の君の姿は、それだ。鬼になりかけた魂。呪いの核に成り下がりそうな憐れな魂。それが、君だ、露里君。その姿で萩原君に逢えば、萩原君を燃やし尽くし、食いつくし、そして、本当に情念の炎だけで動く化け物に生まれ変わるぞ。君の望みは、本当にそれかね?』

「いや、いや、いやああああああ!」

声にならない声が鬼火の奔流となって盛れだした。

露里君は膝をつき。自分の体を抱え込んで動かなくなった。手から投げ出された灯篭は、転がって燃え上がる。その炎が、徐々に人とも炎の流れともつかぬ姿に変じて行く。

「憎い、憎い、憎い、憎い」

炎は人の形を取りながら、轟轟と燃え盛りながら、輪郭から炎を吹き出しながら、その「鬼」は、僕の方へとゆっくりと体を向け直した。

ここからが正念場だ。

インバネスの中に仕組んでいた印を素早く組み合わせ、声に気を含ませながら外へと放ち出す。

『あんたりをん そくめつそく びらりやびらり そくめつめい ざんざんきめい ざんきせい ざんだりひをん しかんしきじん あたらうん をんぜぞ ざんざんびらり あうん ぜつめい そくぜつ うん ざんざんだり ざんだりはん』

腹の中の空気と体内の気を一気に吐き出しながら、相手の姿に己の手を重ね、剣印に組んだ手を開き、思い切り柏手を打った。

ばあん!

と、空気が振動し、気が収縮され、一気に鬼を押し潰す。

古流の呪法、「遠当て」。手を触れられない霊体を黙らせるには、この手が一番に効くのだ。

鬼の炎はひしゃげて散り散りになり、鬼のいた場所には小さな人魂が浮いている。

「憎い、憎い、憎い、憎い……あの子を奪う男が憎い……あの子に何もしない学校が憎い……あの子を見捨てた夫が憎い……私から離れるあの子が憎い!」

怨怨と音を立てながら、鬼火となった人魂は火の勢いを強めようとする。

『おんからからしばりそわか』

山岳信仰の山伏に伝わる金縛り法。

鬼火は火の勢いを散らしてその場に釘付けとなる。

『お母さん、貴女は、大いに苦しんだでしょう。しかし、幕引きがこれでは娘さんが報われない、見なさい、己の娘を。人ひとりを殺して、死ぬに死ねずにこの世を彷徨う鬼になろうとしている娘を! 貴女の望みは本当にこれか、娘を鬼にして、あんたが憎んだ男と同じ道を辿らせることが望みだというのかっ!』

鬼火は一層火を強める。

「煩い、五月蝿い、うるさい! 私に指図をするな、私はいつだってこの子のことを考えて、第一にこの子のために、私の人生はこの子のために、それを、それをぉ! 殺してやる、この子が無理ならば、私の手でぇぇぇぇ!」

火が、ふっと消えた。

「いかん、助手君!」

僕は、萩原君の家に目をやった。


「おおおおおおおおおおおおおおおお」

突然、家中に女の絶叫が響き渡る。

「に、二階から聞こえるよ……」

「この場を動かないで」

私は感情もない声で伝える。

「先生がし損じた。あの呪具は魂と魂の行き来をさせるもの、だとするなら」

二階から、ドス黒い炎の奔流が、私たちのいるリビングに目掛けてやってきた。

「うわあああああああああっ」

萩原先輩は腰を抜かして絶叫する。

「こ、来ないで、殺さないで!」

「落ち着いて、この部屋の結界の中には入っては来れない。だから、逃げずに見てください、先輩。あれがあなたの、罪です」

「ぼ、ぼくの、つみ」

「そうです、あの炎は、あなたが産んだ鬼だと、先生は言いました。あれが貴方の後悔で、あなたの背負わなくては行けないもの」

ごうごうと燃える炎の中に、露里さんのお母さんの顔が浮かぶ。

「お前のせいでぇぇぇぇ! お前のせいであの子は死んだんだァ! それが全部、お前のせいなのに、お前のせいなのに、すべて、全部、私のせいにされたんだあああ! 死ねぇ、燃え死ねぇ! 私たちと一緒に、死ねぇ!」

炎の奔流は勢いを上げて、本当に部屋を焼き尽くす勢いで迫ってくる。

部屋に貼ってある四天王の霊符が、ジリジリと音を立てて燃えていく。結界が、切れる。

「ほんとに、しぬんだ、あはは、ぼくは、あはは、へへへへ」

萩原先輩は、もう正気じゃない。呪いの気に充てられてしまった。

このままでは、危ない。

私自身の身も、危ない。

私は、喉にひりつく炎の気を感じながら深呼吸をした。

『……きませ、きませや、おおくちまかみ ……きませ、きませや、おおくちまかみ……』

左手の念珠を右手でしっかりとつかみ、全神経を集中する。

『あめかぜをぐしてまいれ つちをまき かさねてきたれ ししをはみ かんをすい わするることなかれ』

はっきりと言葉をつむぎながら、私の中にある、「父」と「母」に語り掛ける。

『つつしんでここにまをす おおくちのまかみ もろもろのしし ぬさ こう みず ささげ ここにきねんし かんじんたてまつる』

肺の中の空気を、体の中の気を乗せて、一心に願う。

『きませい!』

「ぐおおおおおおおおおう」

「ぐあああああああああう」

私の背中より少し後ろから、空を切り裂いて、大きな、あまりにも大きな、白い獣の前足が伸びて、炎をかき消す。

「ぎゃあっ!?」

炎の中の露里さんのお母さんは、恐怖にまみれた顔でこちらを見る。

私の左右には、私の身長を大きく超える、真っ白い二匹のオオカミが現れた。

もちろん、実体などではない。私に宿っている、「おおくちまかみ」……オオカミの姿に身を変えた、私の父と母の「荒御魂」だ。

『われは、こいねがう。くい、さけ!』

真っ直ぐに、二つ目の瞼を開けて鬼を見据え、憎悪に焼かれそうになりながら、吐き気を抑え、短く、荒御魂に告げる。

「ぐおう」「ぐあう」

二匹のオオカミは、炎の鬼に踊りかかり、炎を爪で引き裂き、牙で食いちぎる。

その度に、お母さんの悲鳴が聞こえた。

でも、その悲鳴は人間のそれでは、もう無かった。

そして、私の父と母は、先生のように揺り戻しは出来ない。ひたすらに、殺す以外のことが出来ない。こうなっては、先輩と私の身の安全が先だ。

「ぎゃあっ! ひいぃ、ひぃぃぃ」

炎はどんどん小さくなり、それでもオオカミたちは攻撃の手を緩めない。私が敵とみなしたものに、容赦なく襲いかかるのが、私の父と母の、今の姿なのだ。

あと一撃で、炎は全て食い尽くされる。

その時、どこからか、聞き覚えのあるよく通る声が聞こえた。


『あめかぜをぐしてまいれ つちをまき かさねてきたれ せきじつに ひょうひょうと すすきののなく かのときを おもえい なれよ ときのながれは とどまること あたわずと しりて なお』

私の父と母は、ぴたりと動きを止めて、その場に縛り付けられる。

『たかまがはらに かみとどまります かみのまなこの このおおがみ ききとめて はらえたまえ きよめたまう』

私の左手の念珠から、光の鎖が伸びて、二人を縛る。

『にょいぜんほうべん いじおうしこ てんおうこうらん さだいしょうねん みょうほうれんげきょう しんいつしょうご ぜにんいしょうじょう みょうりむえじょく あんじゅうじつちちゅう ごしんあんじょかい よくりょうしゅじょう がいぶつちけん しとくしょうじょう しつげんおぜ …… なむみょうほうれんげきょう なむみょうほうれんげきょう なむみょうほうれんげきょう……』

しゅるしゅると姿が解け、二人の姿が消えていく。私の中に二人が戻り、落ち着いていく気配が伝わってくる。

私は、胸の中にたまった空気を全て吐き出した。

後には、本当に弱々しい光を放つ鬼火がひとつ、残されただけだった。

「間に合ったか、助手君」

先生が、息を切らして部屋の入口にたっていた。肩で息をしている。

「一歩、遅いですよ……危うく私が殺人者になるところ、でしたよ」

私も、ふらつく体を無理やり抑えて立っている。

萩原先輩は、もう正気など失せて、へらへら笑い続けている。罪の重さにも耐えきれなかったし、瘴気にも耐えきれなかったのだろう。

先生は、鬼火に近づくと、はっきりと気のこもった声で言の葉を紡ぎ始めた。

『気は済んだかね、お母さん。貴女の苦しみは、誰にもわからぬ苦しみはあったのだろうが、貴女は自分の娘を鬼にして、己まで鬼になって……もう、いいだろう。貴女は鬼ではなく、人だ。この罪は、ずっと貴女が、そしてこの萩原少年が償うことだ。さあ、娘さんと共に、あるべき所へと、戻りなさい』

そうやって呟くと、いつ持ってきたのか分からない、例のコンパクトを取り出して、それを床にたたきつけて、割った。


鬼火は消え、静寂が訪れた。

「終わったん、でしょうか?」

「そうだなぁ……終わった。今日のところはね。そしてこれから、始まる訳だ」

先生はそう言って、萩原先輩に近づき、何かを唱えて顔を軽く撫ぜた。

先輩は、ガックリと頭を垂れて、動かなくなった。

「今回はぎりぎり、全員を殺さずに人には戻せたが……これからどうなるかは、分からない。ともかく、桃君。よくやった」

先生は、普段呼びもしない私の名前を急に呼んで、うっすらと微笑んだあと、私の手を引いて萩原先輩の家を後にした。


第六幕 後の始末

「まったく、あのハゲダヌキめ……」

先生は店のソファに、いつものドテラと作務衣姿で横たわりながら、新聞記事を眺めていた。

先生の読んでいた大衆向けの新聞には、「幸福は仮面か、自殺未遂の女子高生の母、行方不明」の文字が一面に踊っている。

「依頼はきっちり果たしてやったと言うのに、母親が行方不明になったから報酬は三分のニしか出さんだとぉ!? まったく、僕のしごたぁ警察とは違うんだよ、祓った後のことまで面倒見るのはゴメンだねっ」

捨て台詞を履いて新聞を投げ捨て、不貞腐れたように昼寝を始めてしまった。


あの後。

数日後、露里さんの意識が戻った、という知らせが届いた。萩原先輩は、その知らせを聞き、直ぐに病室に駆けつけて、これまでのことを全て露里さんに詫びたらしい。露里さんも、己の罪の記憶はあくまでも朧な、夢の中のことではあったかもしれないが、先輩の謝罪を受け入れて、これから二人でやっていくことになったらしい。

でも、この話の裏で。

露里さんのお母さんは、あの後すぐ行方がわからなくなってしまった。警察が捜索を続けているらしいが、一向に見つかっていない。

学校の、心無い人々の噂では、どこかの崖の上か、ビルの上かで遺書が見つかったとか。遺体が出たとか。細かいことは分からず、学校にも知らせも入っていないという。

私はそんな下らない噂話を聞くのも嫌で、この話から耳を背け、目を背けた。

噂はいつか消える。

でも、起きたことは消えない。


それから一週間がたった頃、店に萩原先輩たちがやってきた。

「あの時は……ありがとう、ございました」

生身の肉体を取り戻した露里さんは、歩行補助用の杖をつきながら、萩原先輩に伴われてやってきた。

先生は二人の姿を、面白くもなさそうに見つめた後、鼻からふんっ、と息を吐いた。

「萩原君、悪いが報酬は上乗せにしてもらうぞっ! 思った以上に大変な仕事だった、必要経費から何から、悪いが大いに足りないっ!」

「はい」

息巻く先生とは逆に、先輩は静かだった。

「ふんっ、露里君と一緒ということは、罪を受けいれたとでも言いに来たのかね」

つまらなそうな態度を崩さず、ソファに寝た姿勢のままで先生は吠えた。

「そう、ですね。まだ、全部は受け止めきれないけど……灯里と一緒に、もう一度受け止めようと、思います」

「私も、コウ君とよく話し合って、今後のことを決めました。だから、先生、私の依頼を受けてはくれませんか?」

「嫌だっ」

先生は寝た姿勢のまま二人に背を向けた。

「今回の仕事は終わった! 僕のやることは済んだっ。君の母親を探せなんて言わんだろうなっ? それはケイサツに頼みたまえ。マジナイ屋の仕事ではないっ!」

「……先生、拗ねてないで話を聞いてあげてください」

見てられなくなった私は、口を挟むことにした。

「まだ、ろくに動けない体を引き摺って露里さんは来てくださったんです。余程のことと思いませんか。それでも嫌ですか。それでも大人ですか? 教師ですか?」

「うるさいぞ、助手君、僕の今回の件での仕事は終わったぞ、追加依頼のタダ働きなんて御免蒙る」

露里さんは、何を言うことも無く、机に何かを置いた。

それを見た瞬間、私は吐き気を感じた、気がした。

先生も気配を察して飛び起きたが、それは「残り香」のようなもので、本当にただの、少し古いコンパクトミラーに成り下がった呪具が、そこにあった。

「先生、これの出処だけでも教えて貰えませんか」

露里さんは、真っ直ぐな目で先生を見た。先生も、居住まいを正して彼女を見つめた。

「母は、私のワガママと思い込みで壊れてしまった……母の失踪は、きっと私の罪です。コウ君がコウ君の罪と向き合うなら、私も、自分の罪と向き合います」

先生は、黒縁メガネの向こうから二人を睨みつけた。そんなことが本当にできるのか? と、問うている様に感じた。

数分、その状態が続いたが、先生は天を仰いでふうとため息を吐いた。そしてコンパクトを手に取ると、しげしげと眺めた後に、口を開いた。

「この呪具は、二つで一つ。呪いの元凶も消え、対となるコンパクトも破壊した今、単なるコンパクトに成り下がっている。これは、呪う者がいて初めて成り立つ代物だ」

萩原先輩と露里さんは、じっと話に聞き入っていた。

じっとコンパクトを眺めていた先生は、裏面を見て思い切り顔をしかめた。

私が、初めて見たかもしれない、先生の憎悪の顔だった。

「助手君、君もこちらに来て見ておきたまえ。この裏の紋様を」

先生に促され、私はカウンターから出て先生の隣に立ち、コンパクトの裏の紋様を眺めた。

三匹の蛇が重なり合い、巴のようなマークを形作っている。

「なんです、これは」

「僕らの宿敵のマークさ」

先生はコンパクトを机に置き、露里さんをじっと見つめて話し出した。

「このマークを使う集団を、よく知っている。こいつらの名前は『行商人』」

「行商人?」

「そうだ。それが奴らの名前だよ。何人もの行商人がいるそうだが、全部で何人いて、何を目的に動いているかも分からない。だが」

露里さんから視線を外さずに告げる。

「奴らは人間の心の弱さにつけ込み、呪具を作成し、呪いをばらまく……それを商売にしている。マジナイ屋は、奴らの根絶を目指して動いているが、どれだけ奴らを潰そうとしても、潰せない。露里君、君のお母さんのしたことは、マジナイ屋の世界でも許されることではないし、倫理的にも許されたことではない。だが、彼女も被害者だ。誰しも持っている心の闇を揺さぶられて、それを肥え太らされ、そして……鬼にさせられた」

先生は、大きな溜息をつき、体をソファにまた横たえた。

「その罪の重さに耐えられる人間は、そういない。もしかしたら、君のお母さんは行商人たちが連れて行ったのかもしれない。呪具は非常に高額だし、それに、呪いを弾き返された人間は、相応の責め苦も受けるものなんだ」

ゆっくりと寝返りを打つように、先生は二人に背を向けた。

「話せることはもうない、僕にできることも、もうない。もう帰ってくれたまえ。僕は、寝る」

それ以降、先生は何も言わずに、本当に寝てしまった。

私は、二人に詫びたが、二人は微笑んで、今回の礼をもう一度言い、封筒に包まれた多すぎるくらいの報酬を置いて帰って行った。

「先生」

私は、先生を責めるために文句を言おうとしたが、辞めた。先生の肩が、小刻みに震えていたからだ。

この人は、強いように見えて、弱い。

私のように、善意なんて信じない人間と違う。中途半端に善意を信じて、いつも葛藤している、おかしな人だ。

私は、カウンターに戻って、コップを洗い始めた。

今回の厄介事は、これで終わった。


幕間 路地裏

「困りますねぇ、露里様」

影の中に、奇妙な人影。編み笠を目深にかぶり、足まで隠すような鈍色のマントに身を包んだ人物が、場違いなほど陽気な声で目の前の女性に告げる。

「呪いに失敗は許されませんよォ、もちろん? その半分ただれた顔は二度と戻りませんよォ。呪いの代償、鬼となった証、貴女が人外になってしまった証明ですよォ」

露里と呼ばれた女性は、顔をスカーフで包み隠し、泣いていた。

「どうにかならないのですか! 私は、私は娘を、実の娘を、なんてことを、なんて」

「そんな嘘っぽく善意にすがるみたいに泣かれても困りますよォ? ワタクシ共は必要な商品を提供しただけですんでェ。貴女が望んで購入しましたよえねェ? ワタクシ共はちゃんと説明しましたからね? つ・ま・り。自業自得なんですねェ」

影は、すがって泣く女性を、感情を感じさせない機械的な動きで足蹴にした。

「ではサヨウナラ。貴女が死ぬまで、二度と会うことは無いでしょう。貴女は呪いに身を焼かれながら、呪いと共に生きるのですヨ」

「いやぁ、助けて、助けてよおおお」

影は、消えた。

路地裏には、咽び泣く女の声だけ響いていたが、それも消えた。

鈍い、何かを突き刺す音が聞こえたのを最後に、その路地の音はふつりと途絶えた。       



 僕がこの話を書き上げたのは、2022年の正月のことでした。当時、仕事のストレスをぶつける先もなく悶々としていた僕は、大学時代に空想した「生霊噺」のネタを小説にして仕上げてみようという衝動にかられ、スマートフォンのメモ帳に布団の中で文字を打ち込み始めました。そして、わずか5日のうちにこの話を書き切ってしまったのです。自分でも、自分の筆の異様な速さに驚愕しつつ、以降、僕のライフワーク兼密やかなる趣味として、「鈴鳴堂怪奇譚」の執筆が始まりました。

 僕は、せっかく書くのだから、かわいい女の子を活躍させたいと思い、平坂桃を生み出しました。でも、同時に立ち枯れたようなオッサンも活躍させたいと思い、偏屈で変人、でもどこか割り切れずやり切れないという中途半端なマジナイ屋、黒井晃を生み出しました。このコンビは、僕の想像以上にお話の中を暴れまわり、お話を盛り上げてくれました。

 以降、現在に至るまで、誰に気にするでもなく執筆は続けられ、時折仲間内に見せては細々と満足していたのですが、出来たらより多くの方の目に留まり、多くの方の人生の退屈を一時でも忘れていただけたら、と思い、このサイトに掲載することを決めました。


 これら各話には、裏テーマとも言うべき僕のストレスの種を埋めてあります。

 今回の種は「愛情」です。特に思春期のすれ違いの多い愛情を取り上げています。

 古今東西の例を見ましても、愛に狂うと人間はおかしくなるようです。僕自身も経験がありますが、誰かに恋焦がれておりますと、行動や精神性がだんだん奇妙になっていき、平常の自分とは全く違う自分を生み出していくのです。これで留まるならまだ良いですが、作中でも登場した様に、特に中世期から近世期の日本の怪談や因縁譚を見てみますと、恋に狂って物の怪となった人々の話が散見されるのです。先人たちは、恋の狂いをそのものずばり、物の怪の在り様まで昇華して様々な芸術作品に残したり、民話として語り継いだわけですね。

 死んでも一緒にいたい。言葉としては美しいものですが、実際に貴方がそれを言われ、実行しなくてはいけない立場になった時、どう判断をなさるのでしょうか。この話はフィクションではありますが、僕の経験をベースにしているものです。誰かの特別になる、誰かだけを愛する、その愛の形は、貴方と、貴方の思い人の間で同じなのでしょうか?

 長々と硬いことを申しましたが、本編はお楽しみいただけましたか。わずかに娯楽を提供する三文小説であればよいな、と心から願うばかりであります。

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