八の話 痴人浄瑠璃(上)
鈴鳴堂怪奇譚 八の話 痴人浄瑠璃
序の幕 「浄瑠璃・祇園天女散花御衰」
口上文
さあさ皆様お立合い、無間の闇に潜みます、これは悲恋の物語
世には珍品数あれど、これほど奇異な品もなし
絶世の美女を象りて、金襴緞子を身に纏い、その様まさしく天女の如し
其方はいずくにおわします、その人形を「曼殊沙華」、また別の名を「傾城羅刹」
その腕には力なく、その足にさえ力なし
動くことなき、絡繰なれど、されど一国滅ぼせる
ああ恐るべきその魔性、その魔性こそ人形の、虚にぞ宿るものなるか
第一幕 昼休みの学食
「んー、これ、おいしっ」
長い黒髪を耳にかけ、笠原さんはそう言った。
「今日の日替わりパスタ、ウメとシソってどうなん? って思ったけど、アッサリしてて良いわ」
頼んだ品物が思いの外美味しかったようで、フォークが止まらなくなっている。
「こういう時のユイっちの勘は凄いよ」
新井さんは、胸を張ってえへんとわざと咳払いした。
「もっとほめたっていいんだよっ」
「いよっ、ユイ、さすが腹ペコ大臣っ」
「ちょっとォ、ミナちゃん! それ褒めてないよぅ!」
「でも、パスタが美味しいのはホントだよ? ねえ、モモ?」
塚本さんに振られた私は、付け合せで頼んでいたスープを飲んでいた所だった。
「けほっ、けほっ、んん、そうですよ、本当に美味しいです。ありがとう、新井さん」
「えーへーへー、モモちゃんは素直でかーいーねぇ」
褒められたことが嬉しいらしく、新井さんはニマニマと笑いながら自分のパスタをフォークでいじっている。
今日、私は寝覚めが酷く悪くて、珍しく遅刻して朝の修行に行き、そのまま学校に来てしまった。朝ごはんは、私のもう一人の先生である黒井麻由美先輩が簡単に用意してくれたものを食べさせてくれたが、お弁当は用意しきれなかった。
「なーんや、意地張ってけつねうろん頼んだウチがアホみたいやね」
ずるり、と大きな音を立てて先輩はうどんの麺を啜った。先輩のおうどんも、大きめのつゆの染みた油揚げが乗った、小口切りのネギが散らされたシンプルなきつねうどんで、おつゆから漂う出汁の香りが本当に美味しそうだ。
「先輩って、学食だといつもきつねうどんですよね。なんでです?」
「んー、安いから、かなぁ。あとウチ、単純におうどん好きやねん。しかも、この学食謎に関西出汁対応もしてるし」
先輩曰く、薄口醤油と昆布出汁をたっぷり使った関西風のお出汁でないと、真のきつねうどんは名乗ってはいけないのだそう。
「ほう言う意味では、この学食のけつねうろんは完全やね。ウチもたまに、むしょーに食いたくなるんや」
したり顔をしながら麺をすする先輩を見て、塚本さんたちは笑っている。先輩はいつの間にか三人の輪の中に入り込んで、居場所を作ってしまっている。この才能は私には真似出来ないものだ。
「まゆまゆ先輩、はい、あーん」
「んー、ミナちーおおきになぁ」
そんな、何気ない風景を見ながら、お昼休みが過ぎていこうとしていた。
「あ、みて、モモちゃん」
新井さんが私の袖を軽くつまんで何回か引っ張った。それに吊られて、私は新井さんが見ている方に視線を向けた。
視線の先には、男の子と女の子が混じった集団がいる。
「あの子たちのバッグ、ほら」
新井さんが指すものに視線を定めると、集団のみんながお揃いでバッグに小さいぬいぐるみのキーホルダーを付けているのが分かった。多分、着物を着た女の人をアニメ風にデフォルメした、最近よく見るキャラクターのキーホルダーだ。
「クラスでも見かけますよね、あのぬいぐるみ。人気なんですか?」
「えーっ、モモちゃん本気で言ってる?」
新井さんは頬を軽く膨らませて、自分のバッグを見せてきた。
「ほらぁ、ワタシも持ってるもん!」
「えー、いいな、ユイ。買えたんだ、「リコ」ぬい。うらやましー」
塚本さんは、新井さんのぬいぐるみの頬を軽く続きながら小さくため息をついた。余程羨ましいんだろうか?
「本当に手に入んないんだよ、このリコのぬい」
「行きつけのファンシーショップに入荷してたんだぁ。たまたま最後の一つを見つけたんだよぅ?」
ぬいぐるみをよく見てみる。ヒガンバナをあしらった着物風の服を着た、燃えるような赤の髪色をした女の子のぬいぐるみだ。顔立ちはアニメ風というか、デフォルメされていて、可愛らしく微笑んでいる。
「今人気のアーティストなんだよ、リコって。でも顔出しとかしてなくてね? MVとかはあるの。その歌も、めっちゃ綺麗な歌声ですっごいんだよぅ!」
新井さんは興奮気味に語ってくれた。その、リコという人がとても好きらしい。このぬいぐるみは、そのリコのビジュアルモデルを落とし込んで作ったもので、ファンの子は大体持っている、らしい。
「どんな人なんだろ、ホンモノのリコって。きっと、すごく優しい人だよぅ。だって、あんな綺麗な曲を歌えるんだもん!」
そんな、テンション高く話す新井さんを私は微笑ましく見ていたけれど、先輩の表情が少しずつ曇っていくのが視界の端に映っていた。
「助手ちゃん」
先輩は皆に分からないように私の腕をつつき、私が視線を合わせると首を横に振った。
「どうしたんですか」
「助手ちゃん、あかんよ」
「あかんって、何がです?」
「考えすぎならエエけど、なんか嫌な予感がしてるんや」
「え?」
先輩はじっとぬいぐるみを見つめている。その視線は警戒の色を徐々に強めている。
「墓花、狐花、火事花、捨子花、葬式花、剃刀花、地獄花」
「それ、ヒガンバナの事ですか?」
「せや。彼岸花。この花、この国では不吉な意味の異名ばかりある花なんや。今は単なる花ってだけなんやろうし、せやからファッションに使われたり、デザインの元になったりしとるんやろうけど」
先輩は、最後のうどんをすすり終えると、箸を丼において口を拭った。
「マジナイ屋はそのモノに込められた意味とか謂れを大切にしとるから、なんか引っかかってな」
私はもう一度ぬいぐるみを見る。特に、気持ち悪さや嫌な気配は感じない。念の為に、二つ目の瞼を開いて観てみたけれど、気が宿っている訳でもない。
塚本さんたちは、リコの話題で盛り上がっている。先輩の考えすぎとは思いたいけど、この人はあの先生の妹だ。こういう時の勘は、外れた試しがない。
第二幕 マジナイ処 鈴鳴堂
「うわっ、ちょっ、兄さん!」
店は、足の踏み場もないくらい大量の本や巻物などで埋め尽くされようとしていた。その紙の海の中心で、私たちの先生でありマジナイ屋、黒井晃先生は、いつの時代に出来たか分からないくらいボロボロの紙の本を読みながら唸っていた。
「客商売しとるってこと、いよいよ忘れてへん?」
私と先輩は開店前にこの山を片付けるのが日課になってきた。二階の部屋だと集中できないのか、最近は一階まで降りて来てわざわざ散らかすのだから質が悪い。正直、これなら二階へ引っ込んでて欲しい。
私は片付けながら、転がっている本のタイトルを読んでみた。
『形代の研究』、『人形と霊魂』、『ヒトガタと呪術』。人形とマジナイに関する本ばかりだった。
先輩は巻物を片付けようとしている。
「あれ、これ。『祇園天女散花御衰』やん。兄さん、浄瑠璃に興味なんてあったん?」
専門用語ばかりで先輩が何を言っているか分からないけれど、先生は「んがぁ?」と間抜けな声を出して先輩の方を振り返った。
「命の無い虚ろな傀儡に魂を宿す人形浄瑠璃は、マジナイ屋が行ってきた傀儡操り(くぐつぐり)を見世物として昇華したものだよ。関心は昔からあったさ」
「あの、すみません」
「なに、助手ちゃん?」
「お二人の話してる内容が一個も分からないんですけれど?」
「助手君、授業は受けてきたろうが」
「専門用語ばかり出されたら流石に分かりません。その、えっと、クグツ? を、じょ、じょ?」
先輩は笑いが堪えきれなかったようで、思い切り吹き出した。
「ぷくっ、あはははっ!」
「なっ、笑わなくてもいいでしょう!」
「いや、堪忍、かん、ぷくくっ」
先生も、口を大きくへの字に曲げて私を見ている。
「助手くぅん、それこそ、菊理媛の力でも使って言葉を解体してはどうかね?」
私は、自分でもわかるくらいにムキになっていた。菊理媛、私の中に宿っている神様? の力は、私の手の中に徐々に収まるようになってきている、けれど、彼女については分からないことだらけだ。それに、軽々しく先生は言ってくれるけれど、彼女の知らない言葉や概念はノイズみたいに聞こえるだけで、辞書や翻訳機の様に使える訳でもない。先生は、絶対にわかった上でからかっている。
「分かんないから聞いてるんですッ!」
「いやぁ、堪忍。ちゃんと教えるから、そんなにむくれんでよぉ」
先輩は私の近くに寄ってきて、頬をつつきながら笑った。
「兄さんがね、お人形のお芝居の元ネタになったお話を読んでるもんやから、気になってからかったんよ」
先輩は、巻物を脇に避けて置くと、その中の一つを手に取り直して、店にある唯一のガラステーブルの上を適当に片付けると、するすると巻物を説いて置いた。
巻物には、古い時代の絵が書いてある。上に言葉が書いてあるのは分かったけれど、筆文字の上でなんて書いてあるかは分からない。
「このお話をする前に少し説明な、傀儡は、日本に昔からある「操り人形」のことや。棒を使うたり、糸を垂らして操ったり、色々種類はあるねんけど。んー」
先輩が片手を隠して、私の前に改めて突き出した。そこには、モコモコした犬のぬいぐるみが嵌められている。
「コンナ風二手ヲ入レテ操ルぬいぐるみモ、傀儡ッテ言ウンダヨ!」
先輩が声色を変えて、ぬいぐるみをひょこひょこ動かして私に握手を求めて来た。先輩の謎な特技がまた一つ増えた。
「ほんでな、その最高峰が人形浄瑠璃。別に文楽とも言うんやで。三人で一つの人形を操って、まるで人間みたいに動きを付けてやる芸事があんねん。歌い手と楽器の演奏を付けて、しかもセリフまであるこった人形芝居なんよ。ウチらの実家のある関西では、昔から盛んなんよ」
先輩の右手の犬のぬいぐるみが、机の上の巻物の絵を指し示す。
「コノお話ハ、ソンナ浄瑠璃ノ中デモ超有名ナお話ナンダヨ」
私は、とりあえずお客様用ソファに腰かけて、先輩のお芝居に付き合うことにした。先輩は、ノリノリで一人芝居を始めた。
時は安土桃山の頃、京都は上七軒の遊郭に絶世の美女あり。かの遊女の名は「曼珠沙華」。御仏の住まう天界に咲き乱れると言う花の名を持つ、知性と美貌を備えた彼女は、その心までも高潔な、心身の美しさを伴った女傑であった。
世は、血で血を洗い、争いの絶えぬ戦乱の中、彼女はその知性と美貌を武器に天下人たちを虜にし、遊郭を戦乱から守り抜き、自分を慕う禿たちを守り抜き、激動の時代にあっても志を失わずに歩むその姿に、多くの人の心を動かしたという。
遊女という苦界の身にありながら、「花は盛り有っての花。花の命は短けれども、人の心に咲く花ならば消える命にゃなりませぬ」と言って、自らの苦しみすら笑って跳ね除けたと伝わる。
また、遊女は望まぬ病を受けて死ぬ者、貧しさに喘いで死ぬ者も多く居る中の事。彼女自身の命もまた激しくも短い灯を散らそうとしていた。その折、自らの死に際にこう言ったという。
「妾の死に姿を美しく飾るのはよしておくれ。有名な絵師を連れて来て、妾の死に姿を漏らさず書いて、九相図と為し、それを売った金で、小さくて良い。御堂を建てておくれ」
そう伝えて、野に自らの死体を置かせ、その腐って醜く変じる姿を書かせた九相図を、遊郭で大々的に売らせたという。この絵図で儲けた金で、遊郭はそのすぐ側に御堂を建てた。そこには、行き場なく命を散らした遊女達が安らかに眠れるようにと、曼珠沙華の姿を模した観音像が置かれ、遊女達の最後の地として尊ばれたと今に伝わる、という。
先輩の語り口は中々迫真のものがあり、思わず身を乗り出して聞いてしまった。
「なるほど、すごい方が居たんですね」
何となく、拍手をしながら言った。
先輩は、今更になって少し照れて顔を赤くし、頭を軽く掻いて恥ずかしがったが、すぐにいつもの調子に戻り、私の隣に座って、満足気に息をついた。
「その曼珠沙華の因縁譚は当時より民衆に人気があってね。歌舞伎や講談を始めとした多くの芸能で演じられてきた」
先生が、別の巻物を解きながら呟く。
「だがね、この話はそんな美談だけでは終わらない。この話の後日談が、僕の興味を引いた理由だよ」
先輩の広げた巻物の上に、別の巻物が広げられた。
そこには、豪華な着物に身を包んだ曼珠沙華が描かれていた。
「曼珠沙華は、美しい物も何れは朽ちるという世の道理を弁えていた様だが、彼女の「客」達は違った。彼女の死後、彼女をどうしても忘れられない「やんごとなきお方」が居たようでね」
先生が指さす絵では、男が一人、部屋の中で人間の手を木から削り出す様子が描かれている。
「その時代、その地域で最も腕が立つと知られた人形職人に頼み込み、曼珠沙華の姿を寸分違わず写し取った、「生き人形」を作らせた、と言うんだな」
「いきにんぎょう、って何ですか? 生きてる様に動くんですか?」
「君も無知だなァ、助手君。いいかね、生き人形と言うのは、「生きた人間と見間違える程に精巧に作られた人形」の事を言うのだよ。まぁ、そいつをな、作らせた様なんだ」
先生の指す次の絵は、完成した人形を披露する人形職人と、昔の貴族みたいな格好をしたオジサンの絵が並んでいる。なるほど、京都の周辺だから、いわゆる貴族がいてもおかしくないのか。
「ところが、この人形はすぐに「曰く付き」のものになる」
次の絵には、人形が幽霊のようなものに操られて、貴族みたいな人の首を絞めている絵が描かれている。
「この人形の最初の持ち主は、三ヶ月と持たずに死んだ」
先生は淡々と告げる。
「その後、この人形はその美貌に心奪われた、色んな大名や公家、大商人などの家を転々としていくのだが、どの持ち主も三ヶ月と持たずに死んでしまうのだよ。そのせいで、曼珠沙華の人形にはもう一つのあだ名が付けられた」
先生が指差したのは、魔物の様な気配を墨と筆の運びで表現された曼珠沙華の絵。そこには「傾城羅刹」と書いてあったが、漢字が読めない。
「けいせいらせつ、と読む。昔、絶世の美女は国一つを滅ぼすと呼ばれていてね。そんな美女を傾城と呼んだのさ。美女とは加虐的なモノの代名詞でもあった。中華帝国に名の伝わる妲己。当邦では玉藻前などがこれに当たろうかね。この、謎の怨念の宿った人形の曼珠沙華は、国を滅ぼす鬼のようと例えられて傾城羅刹の名を世の人々から頂いたのさ」
先輩は、眉根を寄せた渋い顔をして、私の二の腕をぷにぷにと突いた。
「助手ちゃんは、美女っていうか美少女やからドSとはちゃうよね?」
「なんですか? その質問?」
「何をくだらん事を言っとるんだ、マユミ。暑さで頭が沸いたかね?」
「兄さんじゃあるまいし、そんなことあらへんよ。傾城羅刹と化した曼珠沙華が、明治時代の士族の屋敷の蔵で目撃された可能性があるって事くらいまでは記憶もしっかりしてるけど?」
先輩は先生に向かって舌を突き出した。
先生はそれを憎らしげに眺めると、一つの文庫本を取り出した。
「ここに、江戸川乱歩という作家の書いた短編集があるのだがね、その中に「人でなしの恋」という、人形に恋する男の話が載っているんだが。となると、乱歩先生は曼珠沙華をどこかで見たのかもしらんね。しかしなぁ、その話の最後は、人形が燃やされている。となると、現物は失われてしまったのかねぇ」
先生はため息を着く。
「いいかね、助手君。今までの話は空想の話でも残酷なおとぎ話ではないのだよ。マジナイ屋の界隈では、よくある話の一つとも言えるのさ。古来のマジナイの中で重視されたものは何かね?」
不意に私に質問が飛んできた。とは言え、私もだいぶ慣れている。落ち着いて考えて、すぐに答えが出てきた。
「形とその意味です」
「そのとうり。剣は斬るという形に意味があり、鏡はその像を写すという意味に大きな咒的な作用を持っていた訳だ。では、人形……ここではヒトガタであるか。その意味とは何か?」
「人間の、代わり、ですか」
「そのとうりだ。冴えてるな助手君。文字通り、人形はヒトガタ。人の形を準えて作られ、人の代わりを儀式の中で務めていく。子を孕む女の人形は豊穣を司り、地に埋められた埴輪は墓の中の貴人に仕えた人々の写しだよ。そして、相手を呪う時に使う形代もまた、呪いたい当人の髪の毛など入れた藁束を、呪う人と見立てるわけだね。左甚五郎の様な優れた名人の作った人形や、安倍晴明が咒を込めた人形など、その超常的な作用に着目される逸話には事欠かんね」
一息で話し終えた先生は、大きく息をつき、背を思い切り伸ばした。
「まあ、僕自身は人形ほど気色悪いものはないのだが」
この発言には、私も先輩も思わず先生の方を見た。この人にも苦手なものはあるのか。しかも、こんなものが?
「なんだね? 二人して奇妙な顔をしおって! 僕にだって嫌いなものはあるさ。特に人形はダメだ。あの、虚ろの中に何が宿っているのか分からん気色悪さがダメなのだよ」
「あー、結局克服できてないんや?」
先輩はケタケタ笑った。
「むかーしから、兄さん人形はダメなんよ。得に和人形が大の苦手なんよな。理由は知らんけど」
この人にも、そういう一面があったのか。見てみたい様な、知りたくもない様な。
「とは言え、人形繰りと言うのは神聖な見世物として中世期から存在している。傀儡師と言うのが全国を渡り歩き、彼らの持っていた唄や舞が、後の猿楽や歌舞伎の原型の一つになったと言われているのだからね。魂無き木偶を生きているが如く操る。そして、そのヒトガタ自体のもつ怪しき魅力。人間は古来、それにやられてきたのだろうな」
軽いため息をついて、先生は二階へと引き上げて行った。
「なーんなんやろ、兄さんは」
「研究成果を誰かに聞いて欲しかったんじゃないですか?」
私達は口々に先生への文句を並べながら、残った資料を片付け直していく。
「そういえば、先輩」
「なぁに、助手ちゃん」
「さっき、先生が最後に何か言い淀んでいた様に見えたんですが、分かりましたか?」
「んぅ? あんまり気づかんかったけど」
「そう、ですか」
それでも少し気になった。聞いていた先生の言霊に揺らぎと言うか、ノイズというか、そういうものが感じられたのだ。
「それにしても、なんで今? 人形の事で気になることでもあるんかな? あ」
先輩はなにか思い出したように息を漏らした。
「助手ちゃん、昼のリコの事覚えとる?」
「ああ、着物の柄が彼岸花でしたよね」
「曼珠沙華の絵、もう一度よう見てみ」
先生が机の上に広げっぱなしにしていた巻物の、曼珠沙華の絵をもう一度見てみる。そこには、黒字に白と赤の彼岸花の柄が染め抜かれた着物を纏った曼珠沙華が見える。
「え? これ、偶然ですよね?」
先輩は目を細めて口を曲げ、とても渋い顔をしている。
「いやぁ、兄さんが何もなく調べ事をするなんて有り得んよ。何か兄さんも勘が働いとんのか、それか」
「誰かに依頼を受けている?」
「その可能性が大やね」
私は改めて曼珠沙華の絵に目を落とす。単なる絵に過ぎないはずの曼珠沙華から、得体の知れない恐ろしさを感じて私は身震いしてしまった。
第三幕 三条市民センター
三条市は芸術と文化の街だ。
そういう実感があると言う訳じゃない。学校の掲示板には、至る所に三条市で行われるコンサートやライブの告知が張り出されているし、駅や商店街にも色々なイベントのポスターが貼られている。街中でのストリートミュージシャンや、パフォーマーの活動も支援されているらしく、休みの日にはそういう人たちの路上ライブやパフォーマンスで賑わっている。その中心的な施設が、三条市民センターだった。
「音楽の課外授業で来たなぁ」
今日の塚本さんは私服姿。薄水色のフリル多めの上下揃いの洋服で、ふわっとしたスカートがオシャレだった。
「ここの大ホールってすごいんだよ、モモ。オーケストラも入っちゃうの。なんかねー、作った人がこだわったんだってー」
センターの中を歩きながら、塚本さんは私を案内してくれた。
私は、と言えば。前に先輩が作ってくれた黒基調の礼装用のワンピースを来てきた。これ以外にオシャレな服なんて持ち合わせがなかったからだ。
今日は、塚本さんに誘われて、三条市民センターで行われる高校生のライブイベントを見に来ていた。高校生のバンド活動をしている子だったら出場可能で、塚本さんの知り合いの男の子たちが出場していて、その応援に来た、らしい。
今日は笠原さんと新井さんは用事があって来れないらしく、先輩は遊之助さんが休みを取れたとの事で、一日遊之助さんの工房で修行中。
珍しく、塚本さんと二人きりだった。
「あ、でも、モモって人が沢山いる場所今でも大変なんだっけ? ライブなんて聞いて大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ。先輩から貰ったこのイヤーカフがあれば、今では一時間くらいなら余計な音を聴かないように調整できるようになりました」
「んー、だったらいいんだけどさぁ。無理しちゃだめだぞ?」
「本当に大丈夫ですよ」
「おっけー。じゃ、そろそろ会場入っちゃおうか」
塚本さんは私の手を取って歩き出した。私は塚本さんに導かれるままに、大ホールへと入った。
中は賑やかで、多くの制服姿の高校生やその友達、保護者。私服姿の大学生や、社会人にしか見えない人など、ざっと見ただけでも色んな人達が揃っている。大ホールの中をほとんど満員にするぐらいの人が居ることに、まず驚いた。入口で渡されたパンフレットに目を通してみると、人がこれだけ集まっている理由が分かった。特別ゲストとして、リコが名前を連ねている。
「リコのパフォーマンスがタダ同然で見られるからって、観覧応募が殺到したみたいだけど、このイベントって元々、参加者が招待した人間しか入れない仕組みなんだよね」
塚本さんが自分の手に青色のチケット二枚をもってヒラヒラと揺らす。
「出演者一人につき、招待チケットが一枚。美少女二人で応援に行くからって言ったら、飛び上がって喜びながらチケットくれたよ?」
思わず私も渋い顔になる。塚本さんのこういうところは真似出来ない。
「それにしても、モモ、ありがとね。付き合ってくれて。あんまりリコの事知らないって言ってたのに来てくれて」
「ん」
私は少し言葉を選ぼうとした。私がこの場にいるのは、リコを推したいからじゃない。リコを何で先生が調べているのか知りたかったからだ。普通に聞いたところで教えてもくれないだろうから、自分たちでもある程度調べてみないといけない。私がここに居るのは、そのためだ。
「理由はなんだっていいんだ」
塚本さんは屈託なく笑う。
「モモが来てくれて嬉しい」
あまりにも真っ直ぐな言葉に、私は自分の頬が熱くなるのすら感じた。
「あ、ほら、ステージそろそろ始まるよ。ワタシの友達のバンドは三番目」
椅子から身を乗り出して、歓声を上げながら色々なバンドの演奏を楽しむ塚本さん。私も、こういう場所に来たのが初めてで、会場全体が一つの熱さで結ばれていくなんとも言えない感覚に浮かされているような、そんな風に感じていた。
最後のバンドの演奏が終わって、舞台が一気に暗くなった。大きな機械が低く唸るような音を上げている。目を凝らしてみると、大型のスクリーンが降りてきているのが見えた。
そのスクリーンが一気に明るくなり、私もよく見慣れたLIVE2Dの動きのあるイラストが表示された。
燃えるような赤い髪を長く伸ばし、つり目気味の目、金色の様に見える瞳。小さめの鼻に、微笑みを称えた口元。タンクトップを纏ったスレンダーな体を、黒字に赤と白の彼岸花のシルエットの柄の羽織で際立たせた姿。
『みんなー! 楽しんでるぅーっ?』
リコの声が発せられた瞬間、会場中が震えるほどの歓声が巻き起こった。そのあまりの音と雰囲気の圧力に私は思わず耳を塞ぐ。人気だ、とは聞いていたけれど、この謎のVシンガーの声はこれほどまでに人を熱狂させるのか。
『三条ヤングバンドフェス、盛り上がってますかーっ! アナタに癒しの一輪挿し。バーチャルシンガーの、リコでーすっ!』
彼女の自己紹介で、また会場が盛り上がる。塚本さんも口を抑えながら興奮している。
そんな中、私は急に強烈な立ち眩みになったような感覚に襲われて、動けなくなった。視界がぼやけてしまい、頭にモヤがかかったようになって思考がまとまらない。原因が分からない謎の気持ち悪さに当てられて、私は静かに蹲った。
体の奥底から、菊理媛が急に起き上がり、私の耳を塞いだ。体に力が一気に駆け巡り、引き千切れそうな痛みが走る。
(聴いては駄目)
菊理媛の声が耳の奥で木霊する。
(この声は、駄目。誘っているわ)
私は、唇をかみ締めて、左手の念珠に手を掛けて一心に体の中を駆け巡る力の流れを知覚し、自分がコントロールしているんだと強く自覚する。段々と痛みが体から引いて、意識がハッキリと目の前に起きている事を捉えていく。
沸き返る会場、あまりにも異様な興奮状態の観客。人の声が一気に聞こえたから、言霊を拾いすぎたから意識を持っていかれたのか? それは違う。こんな場所に来る用心として、イヤーカフ型咒具にありったけの気を込めて遮断を最大にして挑んでいた。リコの声と熱狂は、それを易々と貫通したことになる。
(あの声は、人の声じゃないの。絡繰の音か、まるで樂だわ)
菊理媛は私に告げる。人の声じゃない? 私はもう一度、イヤーカフが壊れる寸前まで気を注ぎ込んだ上で、リコの声に集中する。
『それじゃあ、一曲目、いっくぞー!』
違和感のない少女のような声、だけど、菊理媛の耳を重ねて聴くと、人間の声にはない揺らぎや途切れ、不自然な抑揚が耳に着く。これに近いモノを、私は良く知っている。
推しがカバーしている曲の原曲を聞いた時。
「そんな、これ、合成音声……でも、こんなに自然に聞こえるものなんて……しかも、この声」
(そう。声に言霊が間違いなく宿ってるの)
菊理媛も警戒をあらわにする。
(もうずっと前に、この国にもこういう声の持ち主がいたわ。人々を誘い、惑わす声の持ち主が。あの子はなんて言ったかしら……ヒメミコ……ヒノミコ……)
リコの歌唱が始まる。バンドの生演奏が霞むくらいの美しくも力強い歌声。人の耳を通り、心そのものを揺さぶってくる強い言霊の宿った歌声が響き渡る。
「ぐうっ!?」
また目眩が襲ってくる。
この声は聴いてはいけない。私の体が、心が全力で拒否反応を示すけれど、抗い切れない。私は、両耳を塞いで息をゆっくりと吐く。有り余っている気の流れを、すぐ側に居る筈の父と母に流し込み、私の間際に寄せるように心から念じてみた。
『汝が耳を閉じ給え。汝の耳は我の耳。この禍言より、護り給え、護り給え』
口から咄嗟に出た言霊が、父と母に伝わり、私の耳は霊的に閉じられ、リコの言霊はある程度遮断された。
『さむばら、さむばらっ』
私は、塚本さんの耳を塞ぎながら短く弾除けの咒を唱えた。体の中の気が半ば暴走していたせいか、礼装のワンピースを纏っていたせいか、いつも以上に威力が出たようで、一瞬私と塚本さんの周りの音が消えた様に錯覚したほどだった。
これまでの熱狂から、塚本さんは急に引き抜かれて呆けてしまっていた。私は塚本さんの手を引いて、人の波を掻き分けて会場の外へと急いだ。
「っへぁ?」
会場外のベンチに座らせた塚本さんの方を強く揺さぶると、ようやく正気に戻った彼女は私に視線を合わせて困惑した。
「あれ? モモ? ワタシ、あれ、確かリコのライブ聞いてて。あれ? ワタシ何してたんだっけ、リコが出てきて、うん?」
術が効きすぎて、記憶が曖昧にぼやけてしまっている。
「あ、すいません。あの、私が会場の中でやっぱり気持ちが悪くなってしまって。さっきまで塚本さんが介抱しててくれたんですよ」
「んん? あれ、そうだっけ?」
「ごめんなさい、折角のリコのライブだったのに。途中で出てくることになっちゃって」
私は、嘘をついたことと、楽しみにしていたことを台無しにしてしまったことに頭を深く下げて謝った。
でも、塚本さんは特に気にしていないようだった。軽く伸びをしながら立ち上がると、私の手を取って出入口の方へと進み出した。
「別にいいって。だってモモ、人混みすごく苦手じゃん? 誘っちゃったのはワタシだしさ。美味しいケーキでも食べて帰ろっ、ねっ?」
「……はい」
そうして、会場を出ようかとした時に、私は一気に総毛立った。私と繋がっている父と母が、異様な気配の昂りに勘づいて、低く唸りを上げながら臨戦態勢に入る。
「モモ? どうしたの?」
「父と母が怖がっているんです」
気配を、二つ目の瞼を開けて辿る。さっき出てきた大ホールから漏れ出た気配に反応している。
「塚本さん、ここに居てください。絶対に動かないで」
「モモ……?」
「いいですね?」
私は強引に塚本さんを納得させて、大ホールへと戻った。
扉を開こうとすると、分厚い防音材を入れた扉が内側からガタガタと動いているのに気づく。中で何が起きている?
そのまま中に入るのは、ダメだ。
左手の念珠を握りしめ、呼吸を整えて父と母との同調を可能な限り高める。
『汝が目は我が目、汝が耳は我の耳。隔たるモノの、姿を探れ』
入口から三歩ほど離れ、父を私の傍に置き、母を会場の中に滑り込ませた。
「ああああああああああああっ」
「ははははははははははははは」
「きひひひひひひひひひひひひ」
「おおおおおおおおおおおおお」
人が叫ぶ。喚く。泣く。
正体を亡くした観客たちが、それぞれに声を上げながら暴れ回っていた。
大人も子供も関係なく、暴力に走る人、ひたすら走り回る人、椅子の角に頭を何度もぶつける人、放心する人。
とにかくぐちゃぐちゃな状況になっていた。リコの演奏はとうに終わり、ステージはもぬけの殻になっていて、そこにも入り込んだ観客が暴れ回って物を壊している。
「きゃあっ!」
「いひひひひひひっ!」
「たすけてええええ!」
「やめてえええ!」
「いやぁぁぁっ!」
何人かの女の子が、大人に乱暴に扱われて泣いている。助けを求めている。
私は、耐え切れなくなっていた。
『汝が喉は我の喉』
母と私の喉を強く結び付ける。そこに、右手の念珠を軽く降り、ちりちりと鈴の音を立てる。私の中の菊理媛の喉と、私の喉と、母の喉。三つが同じものだと強く意識する。
『あんたりをん そくめつそく びらりやびらり そくめつめい ざんざんきめい ざんきせい ざんだりひをん しかんしきじん あたらうん をんぜぞ ざんざんびらり あうん ぜつめい そくぜつ うん ざんざんだり ざんだりはんっ』
先生が使っていた「遠当て」。練り上げた気を相手にぶつけて気絶させる術を思い出しながら、菊理媛の力を重ねながら。
『喝ァァァァッ!』
声が場を震わせる。びりびりと体に伝わる振動となって、自分にすら跳ね返ってきた。
私の放った言霊は、自分でも制御が出来ていない。
勢い任せの術は、会場のみならず、建物全体を思い切り震わせるほどの術になってしまった。
会場の中にいた人たちは、次々にバタバタと倒れていく。
確かに、混乱は収まったけれど。
女の子たちは、助かったけれど。
それ以上の多くの人たちを、巻き込んでしまう結果になった。
塚本さんのところに急いで駆け寄ったが、塚本さんも気絶してしまっていた。
私は、改めて、自分の力が怖くなった。
第四幕 三条警察署
「なるほど」
私の目の前には、茶色がかったスーツを着た、がっしりとした体格の男の人が座っている。
私たちとは顔馴染みの刑事さんである、周藤さんだ。
「会場の中の防犯カメラを確認しました。平坂さんの証言にある通り、確かに異様な状況でした。そして、その後に起きた集団失神もちゃんと録画されていました」
周藤さんの声には、咎めるような雰囲気は無く、事実を確認してくれているだけと言うのが伝わってきた。
それでも私は、自分自身がしでかしたことを受け止めきれずに居た。
あの後、私の術の威力は尋常じゃない程に強くなっていた事がすぐに分かった。
センター内にいた私以外の全ての人が、失神していた事がわかったからだ。会場の中だけに放とうとした術は、センター全てを覆い尽くす威力となって、無関係な人にまで襲いかかっていた。
会場の中で非常ベルを鳴らしていた人がいて、十分もしない内に警察が駆け付けて、この異常事態を目の当たりにした。そして、そこでただ一人意識のあった私は、事情聴取と操作の一環として警察署に連れてこられたのだった。
「あくまでも、平坂さんの行った事は場を収めようとした結果だからね」
周藤さんも、困惑しながらも丁寧に対応してくれている。だけど。
「それでも……多くの人を巻き込んでしまって、迷惑を、かけたのは事実、です」
私は、塚本さんにまで。
左手の念珠を痛いくらいに握り締める。呼吸が荒くなる。視界がぼやける。気の周りがおかしくなっていて、自分でコントロールできない。どうしたら。どうすれば。
「おい、助手君。しっかりしたまえ!」
私は肩を掴んで揺さぶられ、目の焦点がハッキリしてきた。
「この馬鹿弟子めっ、大それた事をやってくれたもんだっ!」
先生が、いた。
「周藤刑事から連絡を貰い、来てみれば、なんだねその体たらくは」
「先生、あ、私」
「言い訳なんぞ聴きたくないぞ、助手君っ! 君のやらかした事の後始末がどれだけ大変なことになるか、君は知るまいっ!」
先生は、肩をいからせて、淀んだ目でしっかりと私を見据えていた。
「あの場合、君は真っ先になにをすべきだったか分かるかね!」
「それ、は、場を、収め、て」
「違うッ! 君は自分の感情に任せて術を放っただけだっ! リコが使った術の正体はなんだ? そもそも本当にリコは術を使ったのか? 狂気の理由は別にないのか? あの場で君がすべきは、術者の特定と拘束であるっ、会場付近のことはセンターの警備の方々の仕事だ。傷害であれば警察の仕事だっ。少なくとも、塚本君の安全を確保した以上、軽はずみに術を使うべきではなかったのだっ。あの場で君は、僕かマユミに即刻連絡すべきだった、なぜ自分だけで解決しようとしたっ、それは慢心だっ!」
先生は、そう断言した。
「いいか、軽率に君は術を打つべきではない。君に宿る神の力の底は誰にも分からん。そんなもの、使い方の分からない核弾頭の様なものだぞ。今回の騒動で、君の存在は多方面のマジナイ屋に認知されることになるだろう。その火消しはできないっ。君は、誰かを救うどころか、自分の身を危険に晒す行為に及んだのだっ!」
周藤さんは余りの迫力に動けなくなっている。私も、ここまで真っ直ぐに先生に叱られたのは初めてで、びっくりして、自分が情けなくて、勝手に涙が出てきた。
先生は、周藤さんに深く頭を下げた。
「先生、そんなっ、平坂さんのおかげであれ以上の惨事にならなかった事は事実なんです、どうか頭を上げてください」
「いいえ、周藤刑事。この度はお手を煩わせてしまい、また無関係の方々に多大なご迷惑をかけてしまい、本当に申し訳ありません」
先生は、とても真剣に謝っていた。
私も、先生に習って頭を下げる。
でも、涙は止まらなくて、どうしようもなくて、ただ頭を下げてその場を先生と離れるしか出来なかった。
「モモちー!」
警察署の入口の待合スペースまで来ると、先輩が私に駆け寄ってきて思い切り抱き締められた。
「モモちー、本当に無茶して!」
「ごめんなさい……」
「何ともないねんな、体は大丈夫そう、気の流れも……本当に、良かった」
「でも、他の、私が術をかけた人たち、あ、うっ、あぅっ」
しゃくりあげてしまって、まともに返事もできない。先輩から伝わる体温が、痛い。これを感じる資格なんて、私には無い。離れたい、でも、体が勝手に先輩に縋り付く。
「あまり助手君を甘やかすな。マユミ、今は助手君にきっちりと反省をさせるべき時だ」
「兄さん、せやかて」
「彼女も知識と力のあるマジナイ屋の一員だ」
先生の言葉が、私の耳から心に落ちていく。マジナイ屋の、一員?
「いいかね、助手君。僕らは自らの力が他者にどれだけ影響を与えるのか、どれ程の被害を与えうるのか、それを自覚し、使いこなさねばならない。僕らは只人の驚異になってはならんのだ。只人の中で生きて行くためにも、そう、君が塚本君や笠原君、新井君たちの傍で君が生きて行くために必要なのだよ。分かるかね、桃君」
先生は私の名前を呼んだ。
「君は今まで以上に、自分の力をどう扱うかを知らねばならない。なぜ自分に力が与えられたかは、いつでも見出すことが出来る。だがね、君の中にある力の使い方はちゃんと知らねばならない。そして使いこなさねばならない。それが、君の周囲を守る事に、君自身の人としての生を全うする事にも繋がるのだ。出来るか出来ないか、君で在るか否かの問題じゃあない。やるんだ。助手君」
先生は、先輩に抱かれた私の顔を上げさせて、じっと私の目を見ながら言う。
先生はいつになく真剣で、私の事だけを見て、私だけに話しているのが伝わった。
なんで、この人はそこまでするのか。この人達は何でここまでしてくれるのか。
前に、先輩は、先生や先輩と私は似ていると教えてくれた。先生は、自分と同じ様な生き方をしなければならない子を助けていないと居られない人なんだと。
でも私は、誰かに助けられた記憶がほとんど無い。だけど、先生と出会ってから、ずっと。先生は助けてくれた。先輩も助けてくれた。だから。
「う、あっ、う、あぁっ」
声にならない音が口から漏れ出る。
「あっ、うっ、せんせえ、せんせえと、せんぱいの、やくに、たちたくてぇ……つかもと、さんを、まもりたくてぇ、だれかを、たすけてって、いうひとを、ひっく、うっ、まもって、うっ、あぁ、あ」
気持ちがもう、抑えられない。
「うっあっ、あああああっ、あああああっ、あああああっ!」
声にならない声が次々に口から溢れて、気持ちがぐちゃぐちゃになって、ひたすら叫びたくて。
先生は、もう何も言わなかったけれど、傍に居てくれた。先輩は、泣き喚く私をずっと抱き締めてくれていた。
私は、生きてきてはじめて、誰かに思い切り縋り付いて、目一杯泣き叫んだ。
「モモ?」
泣き喚いている私の傍に、いつの間にか塚本さんが立っていた。
「モモ、なんで泣いてるの?」
「ん、んー。疲れちゃったんかな。今はそっとしといてあげてえな」
私はただ、しゃくりあげて泣くだけで、何も言えなくなっていて、代わりに先輩が説明してくれている。私は、ただ、もう泣きたくて、叫びたくて、ただ先輩に縋っていた。
「モモ、大丈夫だよ、モモが助けてくれたんだよね、ありがとう、モモ」
塚本さんが、先輩の後ろから抱き締めてくれた。
でも、涙は止まらなくて、叫ぶのも止められなくて。
壊れてしまった心のダムから、とめどなく気持ちが溢れて止められなくて。
そこからのことは、もうあまり覚えていない。
第五幕 桃のアパート
「ん、んぅ」
物凄く重たい。体が、心が。
冷たい海の中をずっと泳いでいた様に。
意識が、その冷たい海から引き揚げられて、最初に見たのは、私を覗き込んでいる先輩の顔だった。
先輩は、私の頭に手を置いて、撫でていた。
「起きた? モモちー、大丈夫?」
「んぅ、ぁっ」
言葉が出てこない。声がかすれて、喉が震えて。でも、先輩の手から温もりだけが伝わってくる。なんとか瞼を開けた目で、先輩の目を覗き込む。
「ん? ここ、モモちーの部屋やで。あの後、モモちーずっと泣いとったから、ウチとミナちーで家まで連れてきたんよ」
目をゆっくりと動かす。確かに、ここは私のアパートの部屋で、私のベッドだ。先輩は、ベッドにもたれ掛かりながら、私の頭をゆっくり、優しく撫でていた。
「ミナちー、お家の人が心配したらあかんから先に帰してもうたよ。最後まで、モモちー起きるまで居るって言ってくれてたけど」
先輩は、私の額に自分の額を静かに当てた。
「熱は無いな。お腹は減った?」
「んぅ」
首を小さく横に振る。
「そっか。じゃ、ココアでも入れたげる。起きられる?」
先輩は、慣れた手つきで私の体に手を回し、ベッドの上に私の上半身を起こさせた。いつの間にか、服もパジャマに変わっているし、礼装のワンピースはハンガーに掛かっている。
「んぅ……? ぁあ?」
段々靄がかった頭がはっきりしてきて、私は顔がみるみる真っ赤に、熱くなるのを感じていた。自分の耳の先まで、沸騰したみたいに熱い。
警察署で大泣した後の記憶は本当に朧気にしか無いけれど、先輩に縋り付いていた事だけは覚えている。そこに、塚本さんもいてくれて?
「…………っ!?」
私は掛かっていた毛布をたくし上げて、キッチンへと向かう先輩を睨みつけた。
「なーにぃ、モモちー? いまさら恥ずかしくなっちゃったん?」
先輩は私に気付くと、ニマニマとした笑みを浮かべて、鼻歌を歌いながらご機嫌な様子でココアを作っている。私は頭が沸騰して、考えることも出来ず、グルグルと頭の中で色んな思いがごっちゃになって浮かんだり消えたりを繰り返すだけだった。
「あんだけ泣いて、あんだけ甘えてくれたしなぁ。今でも思い出すとニヤケてまうわ。あーんなかわちーモモちー、そうそう見れへんもんな」
先輩はそう言いながら、私にココアを手渡した。
私は、気まずいやら恥ずかしいやら悔しいやらで、マグカップを奪うようにして飲み始めたが、温度は程よくぬるく、しかもとびきり甘い。私好みの味だった。
飲み進めると、体の底から温かさが染みてきて、勝手に息が漏れて、体から力が抜けていった。
「ほんの少しだけ、沸かしたお湯にブランデーを混ぜるのがコツなんよ。後は温度かなぁ。モモちーが熱がらずに飲める温度の見極めがプロの技やで」
そう言いながら、いたずらっぽく歯を見せて笑った。
とりあえず、私は出されたココアを全部飲み干した。
先輩は、私に何をするでもなくここに居るだけで、何を聞いてくるでも、何を責めるでも無かった。
多分、私が泣き疲れて眠ってしまって、そこから私が起きるまでずっと、そばに居てくれたのかもしれない。もしかしたら、塚本さんも。
菊理媛が私の中にいると分かってから、私は色んな声が耳に届くようになってしまい、人間が驚くほど嘘つきだと分かるようになった。どんな人でも、多かれ少なかれ嘘をついて生きている。
だけど、先輩や塚本さん、笠原さん、新井さん達は、私と一緒にいて、私に向けてくれる感情に嘘が無いんだということも分かってきた。
だから。私の中のこの力は、私を振り回して苦しいことも多いけれど、私を助けてくれてもいるのだと、何となく分かってきた。
そんな塚本さんを、先輩を、そして、そんな場所をくれた先生を助けたいと思ってしまった。術を使おうとした時、真っ先に考えていたのは、それだった。
「あ、せん……麻由美さん」
「んー?」
「えっと、あの」
言葉が出ない。
先輩からは、嫌な気持ちは何も伝わってこない。私を心配している気持ち以外、何も伝わってこない。
こんな時に、なんと言えばいいんだろう? 今まで、何にも経験してない。分からない。
「あの、えっと、ごめんなさい」
何度繰り返したか分からない、泣いた後の言葉。
「んー」
先輩は、私の手を軽く握った。いつもみたいに強引に握るのではなくて、私が逃げないように、探りながら。
「ごめんて、なにが?」
「え、あ、その」
「モモちー、謝る様なことした?」
「あの、術、考えないで使っちゃったから」
「それは、ウチに謝ることちゃうなぁ」
「でも」
「そっか、モモちー分からんねや」
先輩は、握った手を軽く閉じたり、開いたりして、私の手と指を絡めた。むず痒くて、不思議な感覚がした。
「モモちー、こういう時は「ありがとう」でええんやで。モモちーの言葉で聞きたいな?」
「ありがとう?」
「そう。最近、モモちー言えるようになってきてるけど。そもそも、自分の気持ちを思い切り誰かにさらけ出したこと、あんまり無いんとちゃう? 」
私は、頷く。
「えへへ。ウチはな、教えてくれてありがとうって思うし。モモちーがウチらの役に立ちたいって思ってくれて、ありがとうなって思ったで? せやけど、失敗した事、良くなかった事、独りで解決しようとした事は、ダメやでって言うけどな。それとこれとをゴチャゴチャにしたらあかんよ? モモちーが甘えてくれて、ウチ、嬉しかったんよ? いつまでも、モモちーは遠慮しいやったし。これでも、ウチ、先輩で先生なんやで? もっと甘えてくれてもいいのになーって、思ってたんよ?」
そう言われても、私は。
「そうする資格なんて、私には」
「あるよ」
じっと私の目を見ながら、優しい声で先輩は言う。
「誰がなんと言おうと、モモちーはウチらに甘えてええの。それだけ、モモちーは頑張ってきたんやから。その分、ウチも、兄さんも甘えさして貰うけどな?」
そう言って、先輩は微笑んだ。
「ぅ、あ、ありがと……ぅ、麻由美さ」
なんでか分からないけど、また涙が流れてきて、止まらなくなった。そのまま、先輩に縋り付いて、泣いた。
先輩は、嫌がりもせず、私が泣き止むまでそのままでいた。
もしかしたら、塚本さんも……。
そう思うと、涙が止まらなくて、心の中の気持ちも止まらなくて。
私は、ずっと泣いていた。




