6.2 嘘つき
蒼一が熱でまどろんでいるさなか、グロリアが平然としていられたかというと――当然、そんなことはなかった。
休み時間だろうが授業中だろうが、今日の彼女は窓の向こうを見つめてばかりいる。注意されれば一旦姿勢を正すけれど、すぐに頬杖をついて上の空だ。夏休み前の授業態度が真面目だっただけに、落差はより際立つ。時折こぼれる、高校生にしては色気を含みすぎたため息が、クラスメイト、特に男子生徒諸君のあらぬ想像をかきたててやまない。
――グロリアちゃん、どうかしたんかな?
――あんな顔するってことは相当だぞ?
――花泉がきてねーからか? でもそれだけであんなことになるか?
――夏休みの間に花泉とひと悶着あったな。知らんけど。
――あの野郎、次会ったら、お話きかせてもらわなきゃいけねーな……?
……などなど、外野では芯を外した憶測だけが膨らんでゆくばかりだ。グロリアの憂いが蒼一絡みという点では正解だが、それは親心から湧き出ている。
私に隠れて無理するところは、あの子、昔と変わってないから――
照れくさいのか余計な心配をさせまいとしているのか、蒼一は母に対して、不調を過少申告する悪癖がある。紫音に怪我のことを黙ったまま野球を続け、取り返しのつかない結果を招いたのはその典型だ。あれから二年経つけれど、彼の本質が大きく変わったようには思えない。
――変な我慢、してないといいけど……。
息子を信じて家を出たはいいが、グロリアの不安は離れた分だけ余計に募る。耳から入った話は滞りなく抜け出て頭に残らない。今の彼女にとっては、三コマの補講すら長過ぎた。
それでも、我慢していれば時は流れ、チャイムが初日の幕を引いてくれる。
空気が緩むのを待たずに、グロリアは教室を後にした。なるべく早く帰って蒼一を安心させたい一心に駆られた彼女は、長い足に物をいわせるように数段飛ばしで階段を下り、勢いを殺さぬまま校舎を後にする。いつもなら仮の住まい――統括機構借り上げのマンスリーマンション――に寄って在るべき姿に戻るところなのだが、今日ばかりはいち早く買い物を済ませて直帰する以外、頭になかった。
――日頃から鍛えている蒼くんでも、熱じゃ苦しいだろうし、表に出さないだけで寂しい思いもしてるだろうし……。
日差しはいつしか雲に遮られていた。不快な嫌な湿り気を帯びはじめた空気を割くように、グロリアが往く。
誰もがグロリアに注目していた影で、もう一人、落ち着きを失った女子生徒がいた。クラスメイトの注目がことごとく留学生に集まるせいで、彼女の視線が主のいない席となかなか進まない時計の間を行ったり来たりしているのに誰も気づけなかった。静かな焦りは秘されたまま、ただ、ジリジリと時間が過ぎてゆく。
彼女もグロリア同様、補講が終わるとすぐに帰り支度をはじめたのだが、思惑は担任にくじかれた。回収した課題を職員室まで持っていくよう頼まれて断れず、結果としてライバルの後塵を拝すことになる。いつも通り嫌な顔一つせず引き受けたつもりでも、実際のところは頬はこわばり、眉尻も釣り上がっていた。どれも担任はもちろん、本人すら自覚のないレベルだったが。
優等生らしい責任感で苛立ちを押し隠した委員長は、忌々しい仕事を片付けると、グロリアに負けない勢いで学舎を後にする。絡みつくような夏の空気をけとばすように向かった先は、神社と逆の方向だった。
帰宅したグロリアは、本人の想像以上に、焦りを募らせていた。
買い物袋で手がふさがっているとはいえ、学生カバンから玄関の鍵を引っ張り出すのにすら手間取る。親心は逆に手元を狂わせ、鍵の狙いがいつものように定まらない。
「……グロリアさん?」
ようやく鍵がささったのと、訝しげな少女の声が響いたのは、ほぼ同時だった。
焦りと苛立ちに、折からの蒸し暑さが重なったせいで、ついには感覚まで鈍ったか。庭先に現れた来訪者の気配に、グロリアは今の今まで気づけなかった。弾かれるように振り向いた先から、いるはずのない、いてほしくない同級生が睨みつけてくる。
迂闊すぎた――!
優等生らしくない乱暴な手付きで、少女は門扉を開く。
野に咲く一輪の花のような微笑みも、蒼一にだけ見せる強い意志溢れるまなざしも、そこにはない。祭りの夜に身につけていた雑面より人間味に乏しい瞳に映るのは、想い人の家の合鍵と買い物袋を手にした恋敵。聡い少女が事情を推し測り、間違った結論を導き出す材料は、十分すぎるほど揃っている。調子の狂いつつあった歯車は、ついに最悪の形で噛み合ってしまった。
「どうしてここにいるんですか?」
少女――藤乃井紗夜から立ち上る圧力に、グロリアは身を固くする。重い玄関ドアを背にしている以上、退くことは許されない。アプローチを辿る紗夜を前に、この場をどう切り抜けるか正解を探すので必死だ。
「答えられませんか? それとも、質問の意図がわからないんですか?」
あれほど元気に鳴いていたはずのセミが一斉に押し黙り、かわりに風の音が唸り始めていたが、二人ともそんなことにかかずってなどいられなかった。
「では、単刀直入に申し上げます。グロリアさん、蒼一くんとはどういうご関係ですか?」
ヴェールがすっかり取り払われた質問は、グロリアから仮初めの笑みすらも奪ってゆく。
真実をまるごと明かしても、到底信じてはもらえまい。「花泉蒼一の母でございます」といったところで、今の彼女の風体はグロリア・ヴァイオレットだ。ましてや、自分が魔法少女で今の姿も魔力の作用だなんて説明しようものなら、静かな怒りに油をぶちまけるだけに終わるだろう。
「私たちは、紗夜ちゃんが思ってるような関係じゃないよ」
「嘘つき」
口の端に上った弁明は、短くも強い言葉で切り捨てられる。
「その袋の中身、なんのおつもりですか?」
グロリアの視線は、静かな糾弾に押し流されるように、互いの手元へ向けられる。
紗夜が提げているのは、街のいたるところにあるドラッグストアの袋だ。中身はスポーツドリンクに、ゼリー状の栄養補助食品、レトルトのお粥など、なるべく手をかけずに弱った体でも食べられるものばかり。クラスメイトの見舞いとしては所帯じみすぎている感があるけれど、想いの強さがなせる業とみなせる範囲にはどうにか収まっている。
一方、グロリアが手にしている大手スーパーのレジ袋の中身は、何ということはない普通の生鮮食品だ。主婦が持っている限りは、違和感は限りなくゼロ。だが、短期留学生が、友人の見舞いに携えてゆくものかというと――間違いなく、否だ。
「ネギに卵、豆腐、おうどん……同級生のお宅に持ってくものですかね、それ? 仮に蒼一くんのご家族に買い物を頼まれてたとしても、それって普通の関係じゃないですよね?」
おとなしく穏やかで、仲間内でも一歩引き、我を通すことの少ない大和撫子。
グロリアだけでなく、他のクラスメイトの大多数が、藤乃井紗夜をそう評するに違いない。そんな彼女が、証拠が揃っていてなお、グロリアから真実を引き出すことに執着する。嫉妬か、羨望か、劣等感か。紗夜から抜け落ちていたはずの感情は、いつの間にか戻ってきていた。




