2.9 お気持ちはありがたいけれど
「……大変だったみたいだな」
グロリアを引き連れて戻ってきた紗夜は小さい肩をさらに落とし、わかりやすく疲労困憊していた。その様子を不憫に思われたか、よしよし、と日奈に労われる。
「紗夜ちゃん、とっても頑張ってたのよ。詰め寄ってくる先輩をちぎっては投げちぎっては投げ」
「グロリアさん、お願いです、話盛らないで……」
二人が多くを語らずとも、何があったのかはだいたい想像はつく。留学生に惹かれてフラフラと集まってきた男子生徒たちを、小柄で細身の紗夜が押し止めたのだろう。鼻息荒く突き進もうとする連中を制する苦労は察して余りある。
「ガイド&ボディーガード、ごくろうさまでした! ハナマルをあげましょう!」
「わぷ」
そんな委員長へグロリアが示した感謝の念は、海外育ち――という表向きの設定――らしいフランクさに満ちていた。
真正面からハグをしかけられた紗夜には、抵抗の術も暇も与えられなかった。圧倒的質量の二つの膨らみが顔に押し付けられても、左右にブンブン振り回されても、体格差のせいで振りほどくこと能わず。タップして開放を要求しても、グロリアは彼女を手放す気がないらしい。見て見ぬ振りをするばかりだ。
「いいなー……」
少女二人が仲睦まじく戯れるその脇、荒城がポツリとつぶやくのを、蒼一も日奈も聞き逃さなかった。
強すぎる欲望の気配をみれば、紗夜が顔を埋める先にご執心であるのは明らか。委員長そこ替われ、と渇望する心の声が丸聞こえだ。日奈が蹴っ飛ばしていなかったら、握りしめた拳の隙間や両の眼から血を流していたと思わせるほど、言外の圧が強い。
そんな爛れた想いに気づいているのかは定かでないけれど、グロリアは荒城にも、温かみあふれる微笑みを投げかけてみせる。
「……おい、荒城?」
「なんだい、蒼一クン?」
ふと不安にかられた蒼一たちが見た荒城は、それまでみたことがないほど蕩けた顔をしていた。目尻はだらしなく下がり、締まりに乏しい口元からは情欲混じりのよだれを垂らしそうだ。
極端から極端へ振れる友人の情動に、蒼一はさすがにもうついていけそうにない。日奈に至っては最初から理解そのものを放棄している。変わらないのはグロリアと紗夜ばかりだが、後者はそもそも留学生の豊かすぎる胸に顔を埋めたままで状況が見えていない。それどころかぐったりしつつあるようにも見えた。
「グロリア、そろそろ、紗夜を離してやってよ」
「え? あら、ごめんなさい」
名残惜しそうなグロリアの腕から解き放たれた紗夜は、砂漠のど真ん中でオアシスに出会った旅人もかくやとばかりに、酸素を胸いっぱいに吸い込んでひと心地つく。
「藤乃井、だいじょうぶか?」
「ええ、なんとか………」
「で、感触はどうだった?」
「なんかもう、すごく、すごかったです……。ぽよぽよでふわふわで」
柔らかいものに頭をうずめていたはずなのに、よほど大きな衝撃を受けたか、紗夜の語彙は恐ろしく拙くなっていた。はたと我に返ると、頬から耳に至るまで真っ赤に染めて黙ってしまう。望んでいた答えをお預けされ、荒城はただ歯噛みするばかりだ。
「ところで、さっき叫んでたのはどなた?」
「お……僕です!」
「あなた、たしか……オモシロ君?」
「そうでぃす!」
「違うだろ」
元気いっぱいの返事とともにしゃちほこばった荒城は、伸び切った背筋をさらに伸ばそうとする。動きは油を差し忘れたブリキのロボットのようにぎこちなさだし、イントネーションは留学生よりも不自然だ。自分の好みが凝縮された美人を前に緊張する気持ちは蒼一にもわかるけれど、いささか度が過ぎている。
「戻ってきたときにちらっときいちゃったんだけど……何をしたいの?」
後ろ暗いところなどまったくない、いかにも好奇心に駆られてといった風情を装いつつ、グロリアはすべてを見通したような笑みと無垢な質問を投げかける。
まさかそこを蒸し返すとは夢にも思っていないから、蒼一も、日奈も、不運にも場に居合わせた他の面々も動きが取れない。
ようやく普段どおりの顔色を取り戻しつつある紗夜は、はじめから勘定に入っていない。彼女に話題を軟着陸させろというのはそれこそ酷である。
「………グロリアさん」
一転して情熱に引き締まった荒城の顔を見て、場にいた一同に緊張が走る。
何をする気だ、何を言う気だ、何をしでかす気だ――?
盛大にやらかすのではないかという不安と、何も起こらないでくれという不毛な祈り、こいつならあっと驚く何かを成してくれるという一抹の期待が入り混じり、教室の空気を波立たせる。
その中心で、荒城は一歩、また一歩と前に征く。妙な胸騒ぎに迫られた蒼一が伸ばしかけた手を、訝しげに様子をうかがう日奈の視線を、変化についていけない紗夜の戸惑いも意に介さない。
一方、待つ立場のグロリアは堂々としたものだ。荒野に一輪咲く花のような立ち姿からは、どんな言葉も衝撃も受けとめる気構えを感じる。
「僕と!」
自身より上背のあるグロリアの顔を神妙な面持ちで見つめていた荒城が、突如として片膝をつく。うやうやしく手を差し伸べるそのさまは、まるでどこぞの騎士崩れだ。
「結婚! してください!」
普段の言動からはかけ離れた振る舞いから繰り出されたのは、あろうことか求婚の文句。
教室の空気が、たちどころに凍った。
日奈は信じられないものを見る目で、紗夜は両手で口を覆ったまま、それぞれ呼吸すら忘れたように動かない。ほかのクラスメイトも多かれ少なかれ似たようなものだ。
もちろん、蒼一も例外ではない。友人を止め損ねた手を下ろせぬまま、しなくてもいい想像をして心を乱す。
万が一、グロリアが首を縦に振るなんてことになったら――。
亡き夫に対する紫音の愛情は本物だし、身持ちも固い。少なくとも、紫音の近辺で男の影がちらついていた記憶は、蒼一には皆無だ。でも、荒城が持つ暴力的なひたむきさに絆され、一時の気の迷いが生まれない保証もない。さりとて、魔法少女の秘密を秘すべき以上、手を出すんじゃねぇ、と友を制することも不可能だ。
そんな蒼一の葛藤などつゆ知らず、荒城はグロリアの正面で頭を垂れたまま、じっと沙汰が下るのを待っている。場の空気を半ば力づくで自分のものにし、本来踏むべきステップをすべてすっ飛ばした彼は、どこまでも本気だ。想い人の手をとらんと伸ばされた右腕は、よく見ると小刻みに震えていた。
「お気持ちはありがたいけれど」
初対面の相手から重すぎる愛情を叩きつけられたグロリアは、茶化したりふざけたりする素振りはない。
たとえ歪んでいたとしても、誠意は十分伝わったとばかりに、春の日差しに似た柔らかい声で凍てついた空気を溶かし、
「ごめんなさい、お断りします」
大上段から力強く踏み込むと、かすかな希望を優しく、しかし容赦なく断ち切った。




