1.1 お母さん、魔法少女なの
妙に生ぬるい春風が凪いだ、黄昏と宵の口の境目。
家路を急いでいた少年は、不慮の事態に逢い、橋の上で無様に転がっていた。
「痛ってぇ……! なんだってんだよ畜生……!」
古式ゆかしい不良、あるいはチンピラに因縁をつけられた――というわけではない。そもそも、彼の背丈は平均的な大人よりも高く、広い肩幅に見合った厚い胸板をしている。吹っ飛ばすには難のありそうなガタイの持ち主に、喧嘩をふっかける物好きは少数派だろう。おとなしめのショートマッシュに整えられた黒髪、大人になりきれていない甘さが残る顔、真新しい紺のブレザーとグレーのスラックスがもたらしてくれるはずの初々しさも、一丁前の悪態と猛禽類めいた鋭さがにじむ目つきによって完全にかき消されている。総じてみると、この春に高校生になったばかりとはにわかに信じがたい。
少年――花泉蒼一が伏している理由は、別にある。
彼の視線の先に、一頭の犬がいる。自転車を飛ばして帰る途中に突如現れたそれを避けようとしたところ、ハンドル操作を誤って転倒した、というのが一連の真相である。幸いにも車の往来はなく、受け身をとれたから身体は無事だ。
それでも、彼は倒れ伏したまま、身動きを取れない。
動きを制しているのは、やはり例の犬。
より正確にいえば、犬に姿形が似ている生き物だ。針金を撚り合わせたような筋肉質の四肢、ピンと尖った耳と精悍なマズルはシェパードを思わせるが、問題は体格だ。そこらのSUVでは相手にならず、マイクロバスが相手でも軽く寄り切ると確信させるくらい大きい。むき出しの牙の隙間から漏れ出る唸り声は見かけに反して高いが、その勢いは高圧蒸気さながらだ。他に目を引くのは、犬らしからぬつややかな銀の鱗か。磨き抜かれた鏡に似たそれらは、鼻の頭から爪先に至るまでびっしりと巨体を覆っている。当然、ピンと立てられた尾もだ。
誰もが一端のアスリートと認める恵まれた体格の少年だが、この世のものと思えぬ異形と比べられてはかなわない。逃げなければと頭ではわかってはいるのだが、これまでに経験したどの試合でも味わったことのない緊張が、筋肉をその場に縛り付けていた。
――下手な動きを見せたら殺られる。
恐怖に圧された蒼一が無意識のうちに目を背けた瞬間、互いを隔てていたはずの十数メートルの距離が無きものにされる。
瞬きすら間に合わない速度で伸びた魔犬の尾が狙うのは、少年の眉間。眼前に刃を迎える段になっても、蒼一は身じろぎすらかなわない。 頭蓋ごと脳を刺し貫かれ、反射で醜く痙攣しながら事切れる未来は、すぐそこまで迫っていた。
結末は、薄紫色の風によって書き換えられる。
蒼一を襲う銀色の刃は、薫る風とともに、突如として姿を消した。
何が起こったかも把握しきれないまま、少年は音もなく降り立った何者かに目を奪われる。弾き飛ばされた魔犬の尾の行く末など気に留めていられなかった。
「間に合ってよかった」
蒼一を守るように立ったのは、緊張感に支配された場には似合わない、薄紫色のドレスに身を包んだ淑女だ。声はなぜかきき馴染みのあるもので、暖炉で穏やかに燃える火のような優しさが漂っている。
「お怪我はありませんか?」
気遣いを振りまきながら、淑女はゆっくりと、蒼一の方に振り向く。
濃紫がほのかに混じる艶黒をした、ゆるく波打つセミロングヘアが踊る。その向こうから、泣きぼくろを伴った少し垂れ気味の目尻、深紫色の瞳、形良い鼻梁から微笑みを載せた口元、小ぶりなあごが順序よく顕になり、二人の視線が交錯した瞬間、
「……え、お、オフクロ?」
「蒼くん?」
見上げる少年の顔に困惑が浮かび、振り向いた淑女の顔は驚きで塗りつぶされる。
「どうしてここに……って、帰り道だものね」
母――花泉紫音は冷静だ。息子に話しかけながらも、薄紫色の【鎖】を自在に操り魔犬の尾をいなす。
「オフクロこそ、なんでここにいんだよ……?」
日頃とは異なる装いで、非現実的な状況に平然と対処する母が、蒼一を戸惑わせる。
女性ながら息子と同等の高身長を誇る彼女がまとうのは、立派な花嫁衣装だ。大胆に開いた背に、肩もあらわなノースリーブ。細い首と豊かな胸元はホルターネックが覆い、柳腰から臀部を経ておみ足に至るメリハリの効いた曲線をマーメイドラインがまとめて引き立てる。レースやフリルといった装飾とは無縁でも、晴れの日の装いらしい華やかに溢れたそれは、母親としては童顔にすぎる紫音の面立ちも相まって、違和感がほとんどない。ただ、間断なく振り回される魔犬の尾を軽く弾き飛ばす人間が着るものとして場違いであるのは否めない。
「ちょっと事情がありまして」
「なんだよそれ」
「詳しい話はちゃんとするつもりだったんだけど……。状況が状況だし、かいつまんで説明するわね」
命の危機こそ脱したが、危機の火種が牙を向いて威嚇し続けていることに変わりはない。
そんなさなかに、紫音は世間話をするような穏やかさで、あっさりと隠し事からヴェールを取り払う。
「お母さん、魔法少女なの」
紫音の【鎖】が魔物のあごを跳ね上げる一部始終を、蒼一がきちんと認識できたかははなはだ怪しい。
一番星の輝く夜空へ解き放たれた秘密は、少年の思考を更地に変えてしまっていた。