深淵なる場所
不安な時は真理をつきつけられているようだ
不愉快な明るさを感じた。それは、大衆にとっては、日の始まりなのである。
しかし、私の中では日の始まりではなく、漆黒の闇へと続く入口なのだ。今日も、暗闇が広がる世界に、私は自分の身を差し出すのだ。時にそれは、私を、形作る場でもあることが悲しい。現代では、病める者以外は、この暗闇に身を捧げることを怠ると、生の価値を認めてもらえないのである。
私は重たい身体に鞭をうち、錆びきった自動車を無理やり動かすように、私の身体を動かす。私は浅い眠りから覚め、薄暗い外へと私を連れて行くのであった。時に人は、希望がもてない絶望の中にあると、そこに不釣り合いな心の明るさを持つものである。私もその一人であることは否定しない。しかし、その明るさはたちまち黒い霧に覆われるのである。霧がやってくる前に、生命活動において重要な事柄を行う必要がある。私は今、労働に向かうのである。労働とは私には拷問または罰である。
周りの人間、同じく労働者をみて私は同志だとは思えない。苦肉を経験しているのはまるで私だけだと言う考えが頭から離れないのである。この被害妄想ともとれる考えは、幼き頃から私を犯し続けているのだ。そのため私は人より不幸な世界に自ら住んでいるのである。
その世界の住人になってから31年。光を見たこともあるが大抵は闇の中に住んでいる。