第五十五話 最後の夜
静かな夜の森に笛の音が踊っている。
風に流されて聞こえてくる音を頼りに彼は螺旋状の階段を上がった。
階段を上がった先は大樹の枝が分かれる場所に作られたバルコニーだ。
月の光に照らされたベンチの上に彼──あるいは彼女が座っていた。
「ここにいたか、レカーテ」
リグネが隣りに座ると、レカーテは笛の音を止めた。
プラチナブロンドの髪がさらさらと風に揺れる。
「なんだ、ボクを笑いに来たのか」
「いや、たまには旧友と二人で飲むのも悪くないと思ってな」
リグネの手にはレカーテ秘蔵の酒瓶がある。
ちゃぷりと揺らしたリグネは小さな杯を二つ置いた。
「まぁせっかくだ。付き合え。エリィは酒が飲めないのでな」
「ふん……ボクはあの王女の代わりか?」
「エリィも付き合わせたかったという意味だ」
レカーテは一拍の間を置き、杯を手に取った。
「……やめとけ。あいつは酒に弱そうだ。要らぬボロが出る」
「可愛いだろう」
「ノロケか」
「其方も気に入っていたではないか?」
「……」
レカーテは何も語らず、ぐい。と杯をの中身を空にした。
「あいつも、ボクと同じだったんだな」
「……ふむ?」
「分かってて連れて来たわけじゃないのか」
「何のことか分からぬが」
リグネは酒のおかわりを注ぎながら、
「エリィには不思議な力があってな。彼女は我らには見えていなかったものを暴き、たちまち後に変えてしまうのだ」
「……キミは本気で彼女がクーデターを見抜いていたと思うのか?」
「いや?」
さすがのリグネも、エリィにそんな力がないことはもう気付いている。
ディアナ・エリス・ジグラッドという人間はただのか弱い娘に過ぎない。
但し、人を見る目がある。
非力な自分と同じものを見つけて、何とかしてしまう力がある。
だから今回も、きっと無意識のうちに何かを感じていたのだとは思っていた。
そんな彼女に期待している自分だけは偽れない。
「空回りも行き過ぎれば立派な力だ。危ない時は我らが助ければよい」
「……なぜ空回りしているかは知ってるのか?」
「其方は知ってるのか?」
「あいつは……」
レカーテは口を開きかけ、閉じた。
おかわりを飲み干して立ち上がり、空を仰ぐ。
「もうすぐ嵐が来る」
「ほう。それは、森人族の予言か?」
「魂の繋がりを通じて見えた。あいつは、ボクと同じだ」
レカーテは踵を返した。
「……かつてない嵐だ。其方があいつを本当に大事に思うなら、手を離さぬことだな」
残った杯を飲み干して、リグネは喉を唸らせた。
「手を離すな……か。ふむ、なるほど」
リグネは立ち上がった。
「では、手を繋ぎに行くか」
◆◇◆◇
──ジグラッド王国王都、王宮。
「ディアナ姫、もう出発なさるのですか?」
旅支度を整えた本物のディアナ姫が準備をしているところへ声をかけてくる者がいた。
ディアナは振り向いた。背を丸めた白髪の男が立っている。
「ゼスタ・オーク大臣。えぇ、今から発つところですわ」
「そうですか、そうですか。王宮も寂しくなりますなぁ」
「あなたには世話をかけたわね」
ゼスタ・オークは人魔平和条約における穏健派の筆頭である。
平和の生贄として差し出されるディアナにとっては無視できない人物だ。
幼い頃から目をかけていたこともあり、ディアナの口調は柔らかい。
「いえいえ、姫様のお世話が出来てこの上ない幸せでございました」
「これで平和が無くなると良いのだけど」
「もちろん、姫の尽力を無駄にはさせません──姫、こちらを」
ゼスタが取り出したのは小さな水晶玉のようだった。
「お守りでございます。何かあった時に姫様を守ってくれる」
「まぁ。爺やも可愛らしいところがあるのね?」
「ふぉっふぉ。孫同然に可愛い姫様のためなれば、当然のことです」
「ありがとう。頂くわね」
「えぇ。魔王様にもどうぞ、よろしくお伝えください」
「もちろんよ」
それじゃあ、とディアナは背を向けた。
「そろそろ行くわね。待たせてる子がいるの」




