第三十七話 ニセモノの壁を越えて
「な、なぜ魔王……あいや、魔王様が……!」
リグネは紅色の眼差しをカーターに向けた。
敵意や悪意ですらない、塵芥を見るような冷え切った視線。
もはや生物としての格が違うことをうかがわせる絶対者の目だ。
「なぜだと? 我が王女を誘拐した貴様が宣うか。痴れ者め」
「ち、違う! その王女は影武者なんですよ!」
エリィはドキッとした。
「魔王様気付いていないだけで、こいつはニセモノなんです! 本人がそう言いました!」
カーターの言うことは苦し紛れの言い訳に過ぎない。
しかし、実際にエリィは影武者だ。
このことがエリィを疑っているアラガンの耳に入れば、エリィが偽物であることがバレてしまうのではないか。未だにアラガンの真意を知らないエリィの脳裏に『処刑』の二文字が過る。サァ、と顔を蒼褪めさせたエリィだが、
「貴様の言うことが事実だったとして」
リグネはカーターの言い訳を鼻で笑った。
「王女の影武者を攫う時点で貴様の人生は詰んでいる」
「ぁ……」
「まず、この子がニセモノだと? どこを見ている」
リグネはエリィに上着をかけて抱き上げる。
頼もしい手に包まれた瞬間、絶大な安心感がエリィを包み込んだ。
「リグネ様……」
呟くと、リグネは微笑んだ。
額と額をぶつけて彼は瞼を閉じる。
「我が花嫁はこのエリィだ。正真正銘、この子がディアナ・エリス・ジグラッドだ」
カーターはがたがたと震え、一目散に逃げ出した。
「うぶへぁ!?」彼の鼻先に開いた扉がぶつかる。
部屋に入って来たララは気絶したカーターを見ろして首を傾げた。
「邪魔だった?」
「ううん。ナイスタイミング……かな。ちょっと遅いけど」
「ん。今回は悪かった。ごめす」
「……ほんとだよ、もう」
(まぁ不用意に一人になったわたしも悪いんだけど……)
どうやらララは防護魔術の他にエリィの位置が分かるような術もかけていてくれたらしい。そのおかげで助かったのは事実だが、防御魔術が消えた時は本当に肝が冷えた。これからは絶対に一人にならないと誓う。
「こいつどうする? 殺す?」
「というか結局、この人はなんでわたくしを……」
リグネはため息を吐いた。
「先の騒動で魂に根付いたロクサーナの魅了が欲望と感応したのだろう。そいつが元に戻ることはないが、情状酌量の余地はある」
「なら」
「老齢のサキュバスに襲わせて一思いに絞り尽くしてやろう」
「えげつない」
「本人がやろうとしたことだ。当然だろう? エリィもそれでいいな?」
「は、はい。構いませんわ」
先ほどの恐怖がまだ身体に残っているエリィは迷いなく頷いた。
あんな思いは二度とごめんである。
今後真似しない人が出ないためにも徹底的にやって欲しい。
やらねばやられる。
それも貧民街で身に着けたエリィの価値観の一つだ。
「では帰るぞ。ララ、すぐにアラガンが来るから共に後処理をしておけ」
「りょ」
「あ、あの。リグネ様、この格好は恥ずかしいのですが」
今更お姫様だっこに気付いてエリィは赤面した。
「む? なら背中におぶろう」
(そういう問題じゃなくて距離が近いのだけど!?)
とはいえ、背中なら散々乗っているし、今更の話でもあった。
リグネにおぶさられたまま、エリィは天上都市を歩いていく。
「そういえばエリィ。其方に聞きたいことがあった」
「はい?」
「約束のことだ」
「約束……?」
「ロクサーナと『鬼ごっこ』とやらをする時のことだ。『我をあげる』とはどういう意味だ?」
「あ、あぁ~~……」
どういう意味も何も、そのままの意味なのだが。
さすがにそれを本人に言えるほど豪胆ではなく。
「あ、あれは、言葉の綾といいますか、なんというか……」
エリィが必死に言い訳を考えていると、
「……其方は、言葉の綾で我をあげると言ってしまうのか?」
「え」
リグネは立ち止まった。
往来のど真ん中で、彼は頭だけ動かし振り返る。
「其方は本当は、我のことが嫌いか?」
「き、嫌いなんじゃ!」
エリィは慌てて首を振った。
「……嫌いじゃ、ないです」
「ならば好きか」
「……」
「答えよ」
紅色の目は真剣で、安易な答えを許さない。
エリィは息を呑み、じっくり考えてから唇を湿らせた。
「…………正直、まだ分かりません」
「……そうか」
リグネの失望したような顔に、
「で、でも……リグネ様の背中は温かくて……優しくて、ホッとします」
「ふむ」
「一番に駆けつけてくれたのも……すごく……嬉しかったです」
リグネは一拍の間を置き、口元を緩めた。
「ならばよい」
そうして、彼は歩き出す。
「其方が安心出来るなら、男としてそれ以上の誉れはない」
エリィは目を見開いた。
自分を背負うリグネの手に力が入って、
「あまり、心配させるな」
「……っ」
心からのものだと分かる、真心のこもった言葉だった。
エリィが誘拐されたことに気付いて、真っ先に駆けつけてくれたリグネ。
彼と同じだけの愛情を返せなくても、それでいいと言ってくれる。
──あぁ、ダメだ。
「あの、リグネ様」
──こんなの、ダメなのに。
「もし、もしですよ? もしあの人が言ったみたいに……」
──ダメ、その先は、絶対に。
エリィの唇は勝手に動いていた。
ありあまる愛情が防波堤を乗り越え、胸の中に温かい波が押し寄せてくる。
それが心地よい反面、これ以上リグネの好意に罪悪感を感じたくなくて。
「わたしがニセモノの王女だとしたら……どうしますか?」
エリィは、禁忌を踏み越える。




