第五話 我が身の周りの片づけられない者ども。
頭の中にパッと一つの風景が浮かび上がった。
抜けるような青空と容赦無く照りつける太陽。ガンガンと響き続ける蝉の鳴き声。
俺は古めかしい蔵の前に立っていた。
手足は短く、日に焼けて黒くなっている。短パンはまだいいとして、着ている黒いシャツには白字でデカデカと『新撰組』のプリント。爺ちゃんの遺品だ。
そして、蔵の中にも無数に詰め込まれている。思い出した、これは俺が十一歳の時の記憶だ。
「さぁ頑張るんだ少年よ」
ハッキリと憶えているが、俺は顔いっぱいに不満と怒りの色を浮かべて振り返った。
蔵と同じ、先祖伝来の日本家屋の縁側に、俺の母親がごろんと寝っ転がっていた。「あひー……」とか何とか言いながら、片腕で頭を支え、もう片方の腕でパタパタと団扇をあおいでいる。茶色く染めた髪が頭に張り付いていた。
あの時も思ったものだが、母よ。せめて『曽根崎心中』以外に着れるTシャツは無かったのか。
「母さん、これ、オレだけでやるの?」
「出来るだけでいいよー。もう、全部ポポイのポーイ、って感じで良いからー」
母さんはくわえていたアイスの棒を灰皿に置くと、入れ違いに煙草を口へと持っていった。
「暑いのに煙草吸う余裕はあるんだ」
「煙草は呼吸よ、呼吸」
「早死にするよ」
「吸わない方が死ぬー!」
信じられるか? これ、小学五年生と三十五歳児の会話なんだぞ。
でも、俺は溜息を呑み込んだ。夜勤明けの母には何を言っても無駄だ。
対して俺は夏休み。蔵の整理くらい、やってやっても良いかな、と思った。
ただ、だからといって、膝石穣の『オリエンタル・ウイング』を延々とリピートするだけの怠慢を「支援」と称するのはやめてほしい。
ところで、亡くなった爺ちゃん婆ちゃんは、俺の親父の両親である。母さんと血の繋がりは無い。
しかし、爺ちゃんも掃除が出来ない人だった。婆ちゃんが生きてる間は良かったけど、男やもめになってからは本当にひどかった。ただ蔵の中に物を詰め込むだけの行為を掃除と思っていた節さえある。
俺はもう少し警戒すべきだったのだ。
扉を開けると同時に、大量の荷物が雪崩をうって吐き出された。俺は小学生らしい敏捷さでそれを回避したが、曽場諒太郎の『飛ぶが如く』(愛蔵版)が本当に飛んできて頭を直撃するとまでは、さすがに想像出来なかった。
◇◇◇
気がつくと、中学時代の制服を着て、見慣れた坂の途中に立っていた。
相変わらず真っ青な空、やかましい蝉の鳴き声。
振り返ると、俺の生まれ育った港町が広がっている。小さな入り江と、それを取り囲むように点在する島々。大きくても百メートルくらいの船しかやってこない、静かな港だ。
高架の上を二両編成の電車が走り、風が吹くと家々の塀から顔を出した向日葵が揺れた。
俺の足は、自然と坂の上に向かった。町全体を見下ろす高台に、一軒の家が建っている。古びた木造家屋のうちとは違って、白い壁にオレンジ色の屋根を乗せた瀟洒な家だ。
小さいながら芝の敷かれた庭があって、木製の小さな丸テーブルと椅子が置かれている。夏になると毎年、雲のように白いクチナシの花が花壇を飾り、甘い匂いを放っていた。
確か、あいつのお父さんが庭造りに凝っていたんだっけか。
インターホンを押すと、すぐにあいつのお母さんが現れて、中に通してくれた。玄関で靴を脱いでいると、二階からバタバタと物をひっくり返すような音が聞こえてくる。「あらあらぁ」とおばさんが溜息をついた。
「 ! いーちゃんが来ちゃったわよー!」
あいつの名前だけが、切り取られたかのようにすっぱり抜け落ちている。
それをいくら思い出そうとしても、靄を掴むように手応えがない。「ちょっと待ってー!」という声まで聞こえているというのに、名前も、顔も……。
二階の物音は依然止みそうにない。俺はそっと階段の方を覗き込んだ。
直後、べらぼうに分厚い漫画雑誌が複数階段を転がり落ちてきて、またしても俺の頭を強打した。
◇◇◇
「……ブキ様。イブキ様」
気が付くと、フォルモンドの濁った空が視界いっぱいに広がっていた。それと、真上から俺を覗き込むドラヴェットさんの顔も。頭のブリムがずれて、曲がった小さな角が片方だけ見えていた。
「イブキ様、ご無事ですか?」
「え、ええ、何とか……」
上半身を起こすと、ついさっき自分に何が起こったのかすぐに把握出来た。
燈台小屋から溢れた不用品やゴミの数々が、桟橋を埋め尽くしている。ゲームセンターにおいてあるメダルゲームみたく、押し出されたものが雲海へと落下していく。一歩間違えれば、俺もドラヴェットさんも同じ目に遭っていたかもしれない。
「申し訳ございません。前の方に全てお任せしていたのですが、私の予想を超えておりました」
ドラヴェットさんが俺の頭に手を伸ばす。えい、と何かが引き抜かれたので見てみると、どうやらカジキマグロを小さくしたような魚の骨がぶっ刺さっていたらしい。
それ、生身だったら死んでたんじゃ……?
いや、もう死んでる身だから、四の五の言っても仕方無いか。
立ち上がったドラヴェットさんは、エプロンドレスを軽くはたいて埃を落とし、それからずれたブリムを元の位置に戻した。角に直接くくりつける仕様らしい。それから乱れた銀髪を手で梳いて調節。どうやら、あまり見られたくはないらしい。
「ドラヴェットさん」
「はい、何でしょう」
「俺、まだこの世界でやっていくかどうか、決めてないんです」
「熟考されればよろしいかと」
「そうですね。でもとりあえず、この建物の掃除だけはきっちりさせてください。何か俺、そのためにここに来たような気がしてるんで」
「お手伝いさせていただきます」
かくして俺は、この異世界にやってきてから初めて積極的に動き出したのである。