第三四話 抱擁
ルィンドの部屋を辞してから、俺は家替わりの燈台がある港湾区に向かった。
意識が戻ってからも、しばらくは寝たきりの生活を余儀なくされていた。グランギオルの極技であるダインスレイヴは、術者の魂魄そのものはもちろん、義体である魔導傀儡にも多大な負荷をかける。実際、何度か空中分解しかけたし、無理に無理を重ねた大鴉は取り外して修繕しなきゃいけない有様だった。
それさえ無事なら、文字通りひとっ飛びだったけど、残念ながら徒歩で帰るしかない。
塔内に張り巡らされた虫車を乗り継ぎ、時には断線しているから遠回りして、いつも以上に時間をかけて港へ戻った。
毎朝ランニングをしていたおかげか、迷子になることはなかった。顔なじみになったネビロスも何人かいる。どこの店に何が売っているか、虫車の駅にはどんな人が待っているか、そんな些細な情報がいくつも俺の中に積み重なっている。
でも、初めて港湾区を訪れた時に覚えた故郷との同一性は、今は完全に失われている。
この場所を見て「懐かしい」と感じたことは覚えている。だけど、何がその懐かしさの対象であったのか、もう思い出せない。
思い出せない、を思うたびに、胸のどこかを隙間風が通り抜けていく。坂を下りながら、顔見知りの人達に挨拶しながらも、空白が埋まることはない。そしてそんな自分の女々しさを自覚するたびに、「これは俺自身が決めたことだ」と繰り返す。
言葉だけでは、決して満たしきれないと知りながら。
ただ、俺がダインスレイヴの使用を躊躇っていたなら、この人達もこの塔の景色も、残ってはいなかっただろう。有り得たかもしれない未来を想像し、それを回避したのだと思うと、少し慰められた。
係留されたスニーサ号の前を通り過ぎて燈台へ向かう。
その途中、倉庫と倉庫の間に作られたバスケットコートに、見慣れたメイドさんの姿を見つけた。
「ドラヴェットさん!」
思わず、名前を呼びながら駆け寄っていた。戦闘中にラウーさんに託したきりになっていて、それきり会えずじまいだったのだ。命に別状はないとは聞かされていたけど、やっぱり本人の姿を見ると安心した。
ただ、あまり元気そうな出で立ちでえはなかった。左脇には松葉杖を抱え、足を軽く浮かせている。「イブキ様」と振り返った表情にも、いつもの張りは無かった。
それでも、あの戦いを生き延びてくれた。無茶をし過ぎだと怒りたくなった気持ちも、とうに消え失せている。
「あの……えっと……」
いざ近くまで歩み寄ると、かえって言葉が出なくなった。「御無事で何よりです」と言うにはボロボロだし、かといって単に「こんにちは」とも言えない。
言い澱む俺に、彼女はくすりと微笑を向けてくれた。そして怪我をした方の足をかばいながら、器用に右手でスカートの端をつまみ、優雅に一礼した。
「先の戦いにおきましては、命を救っていただいたこと、心より御礼申し上げます。私の勝手な振る舞いで、イブキ様に余計なご負担をお掛けしたこと、どうか御赦しください」
あまりにかっちりとした感謝と謝罪の言葉をぶつけられて、かえって戸惑ってしまった。わたわたしながら、すぐに「顔を上げてください!」と言ったものの、ドラヴェットさんは全くポーズを崩さない。よくよく見てみると、彼女の耳の端がほのかに赤くなっているのがわかった。
普段は冷静で落ち着いているこの人が、あんなに感情的な戦いをしたのが今でも信じられない。
でも、住んでいた世界も、そこの常識もまるで異なってはいたけど、俺もこの人も生きてきた年月にそう大きな差はない。
俺の精神が……外から見られるほど大人びていないのと同じように、この人にもそういう部分があった。それだけのことではないか。
「……どういう事情があったか分かりませんけど。でも、俺、本当に怒ったりしてませんよ」
つい苦笑が漏れた。どうしたのか、とドラヴェットさんが顔をあげる。
「感情に流されるってだけなら、俺も人の事は言えません。人から感謝されるような謂われなんて何も無い。頭の中を覗かれたりしたら、恥ずかしくて……」
間抜けだと思う。自分で言って、ハッとなってしまった。
もし自分の頭を、正確には記憶を覗き込むことが出来るとするなら、今の俺はどうなっているのだろう? 何万匹もの虫が這いまわったかのように、穴だらけになっているのだろうか。現に、思い出せる記憶は極めて少なくなっている。
歯を噛み砕いてしまったような顔をしていたのだろう。ドラヴェットさんに名前を呼ばれて、我に返った。
でも、動揺を顔から消しきることは出来なかった。兵器の身体だというのに、こういう所の再現度合いにはいつも感心させられる。
「イブキ様?」
「……」
何でも無いです、と言おうとしたけど、無駄だろうな、とも思った。到底信じてもらえるような表情じゃないはずだ。
「御無理をなさっているのではありませんか?」
気を遣って欲しくなかった。自分のために、他人に心を砕かせるのが嫌だった。同情なんかのために人に労力を強いたくない。心配そうな顔をされたくない。
自分の心はそういう風に意思決定をしようとする。
だけど、自分の中のどんな記憶が、そんな俺自身の心の働きを決定づけたのか、もう思い出せない。
それが……あまりに辛くて……俺は甘えてしまった。
「消えてないんです」
ドラヴェットさんの表情は平静だった。さっき見せていた恥の色も消して、凪いだ水面のように穏やかな顔で、小首を傾げてじっと俺を見つめていた。
「名前が……」
「名前?」
「地球で……好きだった子の名前です」
あの戦いで、俺は自分の中の何もかもをダインスレイヴに差し出したはずだった。それを対価としてグランギオルの最大出力を引き出し、キュレイン・メトネロフ諸共相打ちになる覚悟だった。
だというのに、俺は拒んでしまった。最後の最後、あいつの……風花の名前を消すことだけは出来ない、と。
「分かりません。俺が自分の意志で拒んだのか、あるいはその前にグランギオルが限界を迎えたのか……ともかく、風花って名前だけが残ってて……でも、そいつと一緒に過ごした色んな記憶は穴だらけで……」
「大事な子でした。ずっと一緒にいたかった。そんな約束も……してたと思う」
「本当に……大事だったってことだけはちゃんと覚えてて……でも、何を言ってくれたかとか、何を言ったかとか、そういうことが抜け落ちてて……!」
「全部覚悟してたはずなんです! 後悔なんてしないって決めてたはずです! それが俺だからって……!!」
知らず知らずのうちに、自分の胸を強く握り締めていた。そこを掴んでいたら、失った何かをもう一度抜き取ることが出来るかのように。でも、それは全部、指の間を零れ落ちていってしまった。
つくづくみっともない。こういうことは黙っておくものだ。黙っておかないと全部台無しだ。
そう強く思っても、一度堰を切ってしまうと、もう収まりがつかなかった。だらだらと愚痴とも後悔ともつかない言葉が流れ続ける。俺の気持ちを汲み取ったグランギオルが、わざわざ涙まで浮かべさせてくる。やめろと言いたくても、それを口にする余裕も無い。
そんなどっちつかずの俺を、ドラヴェットさんは何も言わず、最初と寸分違わない穏やかな表情で見つめ続けていた。
「っ、すみませんっ! 自分のことばかりダラダラと……!」
ぐいと腕で目頭を拭った瞬間、胸の辺りが不意に暖かくなった。
目を開けると、銀色の髪の毛と、ネビロス特有の小さな角が目に入った。ドラヴェットさんが、俺の身体に両腕を回していた。
それまでの羞恥心が一瞬で吹っ飛んでしまった。いや、別の種類の恥ずかしさに置き換わってしまった。顔を拭いたままの腕が宙ぶらりんになる。どう動かしたら良いのか分からない。
戦っただの失っただのと口走っていた俺から、等身大の自分へと無理やり引きずり降ろされたような気がした。
「泣いて良いのですよ、イブキ様」
「ドラヴェット……さん……?」
俺の困惑を読み取ったのか、ドラヴェットさんは抱擁を解いて一歩下がり、右手を俺の頭に乗せた。無表情だけど、やっぱり耳の端っこが少しだけ赤くなっていた。
「柔らかく……柔らかくですよ、イブキ様。そうすれば……」
次の言葉が聞こえてくるまで、少しだけ間があった。ドラヴェットさんは考えていたのではない、何かに気付いてハッとしていたのだ。そして、それを言葉に出した時、彼女の目じりにも少しだけ涙が浮かんでいた。
「そうすれば、どんな時でも、どこにいても、貴方は貴方でいられるはずです」
高い高い空の上から、すとんと地面に両足がついたような、そんな気がした。ドラヴェットさんの言葉は、俺にとってそういう風に聞こえた。
ああ、そうか。何だか腑に落ちた。
俺はこの身体に……グランギオルになって、空の上を飛び続けていた。それで良かったのだ。魂の入れ物となってくれるこの身体が無かったら、とっくに雲の上まで浮かんで蒸発していただろう。鎧も兼ねたこの身体は良い重石だ。
そうして天と地の間を彷徨い続けて、そのどっちに引っ張られても良いまま、記憶と……記憶が創り上げてくれた自分自身について問い続けてきた。
でも、やっぱり俺は人間だ。地上で生きる生き物なのだ。
「……ドラヴェットさん、少し失礼なお願いをしても良いですか?」
「はい、なんなりと」
「少しだけ抱かせて下さい」
ドラヴェットさんは何も言わず、こくりと頷き、一歩踏み込んで俺の身体に両腕を回した。そんな彼女の身体を俺も抱き寄せ、髪に顔をうずめた。
本当に失礼なお願いだ。彼女も承知の上だろう。分かった上で受け容れてくれている。
俺はしばらくの間、腕の中に女性がいるという感覚を思い出していた。朧気に思い出すことの出来る夕日と、そこで一緒に立っていた女の子のことを……風花のことを。
ふと、梔子の匂いがかすめたような気がした。
◇◇◇
横たわる少年の身体から、少女はゆっくりと身を起こした。病室に吹き込んだ風がカーテンを揺らし、シーツの上に延びた日の光が躍った。
「また会いにくるからね、いーちゃん」
そう耳元に囁きかけて、少女は病室を後にした。




