第三十話 宮戸惟吹 下
気が付くと俺は、仄暗い神殿のような場所に立っていた。
両側には、天井が見えないほど高い列柱が並んでいる。柱と柱の間隙には黒煙のように闇が充満していた。後ろを振り返っても、何も見通せない。どこまでも暗がりが続いている。
そして前方……ずっと遠くに、一筋の光芒が差し込んでいた。俺は誘蛾灯に寄せられた虫みたいに、ふらふらとその光に向かって歩き出した。
何かを望んで、というわけではない。何も考えられなかった。そういう能無しのような態度を意図的にとり続けたかったのだ。
だが、目の前に半透明の緞帳が現れると、その態度も全く意味を為さなくなってしまった。それはまるで、澄み切った水のように俺自身の顔と、その向こう側にある景色の両方とを映し出していた。
やめろ。
もうこれ以上見たくない。
そう思った時、ようやく分かった。分かってしまった。
俺はあいつの名前を忘れていたんじゃない。思い出せなかったんじゃない。
思い出したくなかったのだ。
思い出してしまったら、それは……それは、もう一度あいつを失うことになってしまうから。
でも、俺の足は逃げることも立ち止まることも出来ず、目の前の幕の中へと踏み入っていた。
◇◇◇
生まれた時からずっと一緒だった。そう聞いて育ったし、実際、一番古い記憶の中にも、あいつは当たり前のように顔をのぞかせる。
保育園の砂場や、カンカン照りの堤防。漫画や小説、ゲームで埋め尽くされた部屋。窓から漂ってくる梔子の匂い。道場まで持ってきてくれた、カチコチに凍ったスポーツドリンク。
夏場に稽古を頑張り過ぎて、吐いてるのを見られた時も。
同じ高校に行けるって分かった時も。
閉じられたままだった記憶の数々が、羽化した蝶の群れが一斉に羽ばたくように、とめどなく溢れた。
一つ一つ数えだしたらきりがない。目ではとても追い切れない。それでも俺の意識は、何もかもを一つも取りこぼさずに知覚した。真夜中に、部屋の明かりをつけたように、一切が明瞭になる感覚。
良いことも悪いことも。嬉しかったことも悲しかったことも。普通の人間ならばそうそう味わわないであろう体感。人は忘れることが当たり前の生き物だけど、当然だ。こんなことをしょっちゅう繰り返していたら、脳がショートしてしまう。
そして一つ、また一つと、掛け替えのない何かを思い出す度に、感情は時化の海のように強く激しく荒れ狂った。目があれば泣いていただろうし、口があれば叫んでいただろう。今の俺にはそのどちらもない。ただ、突きつけられる美しい過去と向き合うことしか許されない。
そして風景は、人であった頃の俺の、最期の瞬間へと落ちていった。
暮れ落ちていく夕日で赤く染められた、あの空の下へ。
◇◇◇
「風花は、進路希望出したのか?」
数歩先を歩く女の子に声を掛けた時、俺は内心、ひどく動揺していた。いつも以上に、努めて冷静な声で話しかけたつもりだったけど、それがかえって嘘くさくなりはしないかとビクついていた。風花との付き合いは長い。今までだって、あっさり嘘を見破られたことが何度もあった。
でも、この時の風花は、そこまで俺に意識を向けていなかった。道端の自販機で買ったアイスが融けて、棒から外れ落ちそうになっていた。「お、っとと……」大きなスクールバックを揺らしながら、何とか口元にアイスを持っていく。ぱくりとかぶりついてから、「ん?」と振り返った。
フレームが厚い、少し野暮ったい眼鏡の奥で、くりくりとした目がこっちを向いていた。赤いヘアピンで留めた前髪。子供っぽいと言いながら、何故か昔から変わらないボーイッシュな髪型。修学旅行の時に、クラスの男子内で「そういえばあいつもなかなか……」と言われる程度の顔立ち。
男の子の俺と、ずっと一緒に育ってきたせいか、風花はあまり女の子らしさに寄っていない奴だった。
もちろん男になりたがっているわけでもなければ、無頓着過ぎたわけでもない。高校二年も終わりかけの頃になって、風花は自分のキャラに合ったファッションをちゃんと会得していたように思う。スカートの丈にしても、密かに持ち込んでいた化粧品にしても、「ルール違反はしているけどバレはしない」ラインをいつも狙っていた。
そもそも、強気なほど丈を短くしたり、濃いメイクで自分を奮い立たせたりする必要があるほど、抑圧されているような子じゃなかった。「女の子の世界は複雑」と言っていたけど、そう言うあいつが殊更に何かのキャラを演じている風には見えなかった。たとえ自然体に近くても、立ち回りさえ間違えなければ何とかなる……それを実行している時点で、案外強かで賢いのかもな、と感心したこともある。
勉強の好き嫌いが激しくて、数学だけは特にダメだった。やってやれないことはないけど、論理的に物事を積み上げていくという考え方が肌に合わないらしい。研究者だった親父さんが聞いたら泣きそうだ。
反対に、語学に妙に強くて、英語や古文はいつも負けっぱなしだった。ただ、単語の覚え方とかが完全に感覚頼みで、センスを当てにした勉強方法をしているから、教わろうにも何も分からない。
そうだ、足場が何だかふらふらしているような気がして、それなのにこっちの心配をよそに問題を乗り切って行ってしまう……一体何度、あいつを侮っていたと思わされたことだろう。
「進路希望? 出したよ」
進路の話を切り出したのは、まるでこっちがあいつの方を心配していると見せかけたいためだった。いつもそんな風に、口やかましくあれに気をつけろ、こっちが抜けてるぞ、と言い続けてきた。
でも本当は、将来のことなんて俺が心配しなくても全部ちゃんと出来る奴だって、分かっていた。
「……そうか」
高校を出たら、海上保安大に進むつもりだった。高卒で海保に入った親父より、現場に出るのは遅くなるけど、その分ゆっくり勉強が出来る。
学ぶこと自体は好きだし、何より諸経費が安く済むどころか給料まで出る。今のところ生活に不自由はないとはいえ、母子家庭であることに違いはない。俺のために休職を挟んでいた母さんの収入も、決して多いとは言えない。稼ぎながら学べる環境があるならそこを衝くべきだ。偏差値的には十分勝算があるし、これ以上の有名大となると……俺の地頭の問題より、「それ以外」の問題が出てくる。私大なんてとてもとても。
歴史の勉強だけを専攻するって道も、確かに魅力的ではあった。でも、それは趣味でも出来ることだ。
だから俺の中に、今の進路希望を選ぶことについてのわだかまりはほとんどない。
ただ、海上保安大学があるのは広島県。
「いーちゃんは前と同じ?」
「……ん。風花は?」
「神戸外大。うちも片親だし、公立以外は無理かなって。あ、あと、おばあちゃんちがあるから、入学金安くなるんだよ!」
神戸かぁ……と、頭の中で地図を広げてみる。
どう頑張っても、広島と兵庫の間から岡山県を消すことが出来ない。
寮生活になるから、気軽に遠出というわけにもいかない。仮に休日を使って出たとしても、移動費や時間だって馬鹿にならない。
お互いに将来のことを考えたら、こういう風に、当たり前みたいに同じ帰り道を歩くなんてことも出来なくなる。自分の人生だし、やりたいと思うことや、やるべきだと思っていることは沢山あるから、それを大事にするのは当然のことだ。
でも今になって……今更になって、そんな未来のことが、少し不安になり始めていた。ただ不安なだけじゃなく、日を追うごとに少しずつ大きくなっていく。雑念を振り払うために、ヤケクソ半分で竹刀を振ったりしていたけど、そもそもそれを雑念だと思いたくない自分もいる。みっともないほどに、俺は揺れていた。
だから、風花がどういう筋道を考えているのか知りたかったけど、案の定だ。「それでさ……」ともかく色んな言葉を覚えてみたいと言っていたし、興味があることにはとことん入れ込む奴だ。きっと言った通りにするのだろう。「いーちゃん、いーちゃん」関西、どんなところなんだろう。何かチャラチャラした奴ばっかりだったりしないのだろうか。神戸ってなんか洒落てるイメージもある。「おーい」変な虫がつかないか、なんて……。
「いーちゃんっ!!」
パンッ、と目の前で猫だましを食らって、ようやく俺は我に返った。俺の顔を覗き込んでいた風花は、さっきまでくわえていたアイスの棒で「えい」と腹を突いた。
「うっ」
「ちゃんと聞いてよ。真面目な話しようとしてたんだからさあ」
「そ、そうなのか?」
聞き返すと、今度は風花はくるりと背中を向けて坂道を駆け上がった。「話ってなんだよ!」俺も後を追いかける。
いつも使っているバス停は、丘を登り切った先にある。来るのに難儀する場所だけど、見晴らしが良いからか図書館の分館が建てられていたり、小さな喫茶店があったりと、意外と人を集める要素がある。普段はもう少し人がいるけど、今日は俺達が一番乗りだった。
ベンチの背もたれに両手をついて、風花は荒くなった呼吸を整えていた。
「無理するなよ」
「大丈夫だって!」
まだ肩を大きく上下させながら、風花はばっと顔を上げた。乱れた前髪が汗を吸い、額に張り付いていた。それにも構わず、真剣な面持ちでじっと俺の顔を見ている。まるで、竹刀の切っ先を喉元に突きつけられているかのようだった。
気圧された俺は何も言えないまま。二人してしばらく睨み合っていた。やにわに風花が一歩踏み込み、ほとんど体当たりするような勢いで抱き着いてきた。
「へ?!」
口から変な声が出た。あいつが俺の胴に両手を回していたのはほんの一瞬。すぐに飛び退き、何故かボクサーみたいに拳を顔の前で構えた。
夕日のせいか、走っていたせいか、風花の顔は真っ赤だった。
いや、分かってる。それだけじゃない。
「いーちゃんッ!!」
「は、はいっ!!」
部活の時でも出さないような声が飛び出した。思わず背筋を伸ばしてしまう。
あいつもあいつで、俺の名前を呼んだきり、口をもごもごと動かすだけになってしまった。勢いが続かなかったらしい。代わりに、握りこぶしでごんごんと俺の胸を小突いた。
「……あの、風花、俺……」
風花は完全に黙り込んでいた。さっきと変わらないペースで俺を殴り続ける。声を出す度に、変なエコーがかかるみたいだった。
「進路を変える気は、無い」
「…………分かってる」
「……でも、っ……んん、何だ、その……」
ごんごんごんごん。
「――――…………」
音が消えた。風花は手を止めていた。でもそれだけじゃない。他の全部の音が、俺の聴覚から抜け落ちていた。
海から吹いてくる風の音も、遠くで聞こえた車のエンジン音も、図書館のチャイムも、何もかも。耳には届いていても、それがそうだと認識出来なかった。
当然だろう。
物心ついた時からずっと一緒で……こいつが好きだって気付いたのも、ごく自然な成り行きだった。
そんな相手から拒絶されたら。考えるだけで怖いことだった。
だから風花はわざわざ「そんなことはない」って、態度で示してくれたんだ。
それでも、返ってくるのが思った通りの言葉と違っていたら……不安が拭いきれない。自分の臆病さに嫌になっている余裕も無かった。
しどろもどろになってる俺を、風花は生意気な目でじっと見ていた。そして聞こえるかどうかという小さな声で「あたしもそうだよ」と言ってくれた。
◇◇◇
それからバスが来るまでの十五分間、ひたすらじれったり時間が続いた。
お互いに本心を見透かし合ってはいたものの、それを言葉に換えて、すぐに「はい恋人です」とはいかない。今までずっと、幼馴染でいる時間の方が長かったのだから。
俺はそわそわと落ち着きなく、ただ風花のとなりに突っ立っていることしか出来なかった。胸の内側がむず痒くて、でも掻き毟ったところでどうにもならない。ふと隣を見下ろすと、視線に気付いた風花が小首を傾げて、それから少しだけ俺の方に肩を寄せた。手と手が、お互いの体温を感じ取れるくらいに近づいた。
でも、バスが来る時間は、ちょうど図書分館の閉まるタイミングと重なっている。遊び場代わりにしている小学生や、子連れのお母さんなんかが、俺達の後ろに列を作っていた。そんな中でおもむろに風花の手を取るのは躊躇われた。こんな場面、母さんに見られでもしたら、どんな顔をされるか分かったもんじゃない。あるいは「何縮こまってんの!」と背中を押されるか。
バスに乗ってからでも良いかなと、ちらっと考えたりもした。でも、風花が待ってくれているのは、俺みたいな朴念仁でも簡単に感じ取れた。
もう気持ちは伝えたんだし、そこから一歩、いや半歩進むくらいなんてことはない……はずだ。だというのに、さっきと同じような動悸が再びぶり返してきて、喉が詰まりそうになる。
「いーちゃん……?」
今まで何気なく聞き流してきたあだ名でさえ、気恥ずかしく思えた。
夕日が強く照り付けて、道路の上に長い影を落としていた。二人分の影が融けて、一つになっている。俺は、その影の中に生身の手を隠すつもりで、風花の指先に触れようとした。
瞬間、悲鳴が上がった。
俺のものでも、ましてや風花のものでもない。でも、二人揃ってびくりと後ろを振り返った。
最初は何が起きているのか分からなかった。コンクリートが赤く染まっているのも、夕日のせいだと思った。でも、その生々しい色合いが血液だと気付くのに、大して時間はかからなかった。そして、片腕を抑えて蹲っている女の人と、それを見下ろしている者の姿、血に染まったナイフが、次々と視界に飛び込んできた。
男だった、という他には、特徴らしい特徴が無かった。影そのもののように真っ黒な服を着ている。姿勢が悪い。最初の凶行に動揺したのか、得物を持った手はぶるぶると震えていた。もし、図書館帰りの男の子が泣き声を上げなければ、あるいは勝手にその場から逃げ去っていたかもしれない。だが、わんわんと響く声が神経を刺激したのか、男は足をもつれさせながらもナイフを振り上げて、立ち竦んでいた他の人達に襲い掛かった。
情けない話、俺も最初は動けなかった。事態のあまりの変わりように頭が追い付かない。もう一人刺された時点で、ようやく「逃げろ!」と声が出せた……そう、最初にそう言えたのが本当に良かった。それで何人かは我に返って走り出せた。俺だって駆け出す準備は出来ていた。
だが、風花は未だにショックから抜け出ていなかった。慌てて引っ張ったあいつの身体には少しも力が入っていなかったし、顔色も蒼白。もしかしたら親父さんのことがフラッシュバックしたのかもしれない。
そして奴は風花に狙いを定めた。何でなのかは分からない。立ち竦んでいる人は他にもいる。小柄だけど小学生ほどじゃない。少なくとも、隣にいた俺のことは目に入っていなかっただろう。その隙が見えた途端、俺の身体は勝手に動き出していた。
丸腰で、武器を持った相手に向かって行ってはならない。武道を習った者にとっては常識中の常識だ。でも理屈じゃなかった。その後の態勢だとか危険だとか、何も考えられないままに、俺は全身で通り魔に体当たりしていた。
尋常な精神状態じゃない。相手をぶっ飛ばして、その後どうすればベストかなんて分からない。兎にも角にも危険物を風花から遠ざけることしか頭になかった。だから相手の右腕を全力で押さえつけようとした。
だが、まともじゃないのは相手も同じだ。悲鳴なのか怒声なのかよく分からない声を上げながら、ナイフを滅茶苦茶に振り回す。俺の身体のどこかが鋭い熱を発したが、痛みであるとは知覚しなかった。地面を無様に転がりながら、何とか暴れる相手の腕を止めようとする。逞しいどころか、むしろ非力な印象さえある腕だったけど、後先考えなくなった人間の力は半端ではない。
赤い光の中で、刃がぎらぎらと光った。一体、何度それが顔をかすめていっただろう。きっと実際に組み合っていた時間はそう長くない。でも、その時の俺には、これがずっと昔から続いているように思えた。
何度も振りほどかれ、立ち上がられそうになるなるたびに引きずり倒し、服なり肌なりを所かまわず掴みながら腕を押さえようとする。背中がちりちりと痛んだ。もう何本も切り傷が出来ていることだろう。変な体勢から振っているから大して力は籠っていないけど。
だが、何度も繰り返されると、一度くらいは「当たり」が出る。
左肩に深々とナイフの切っ先が埋め込まれた。流石に誤魔化しきれる痛みじゃなかった。力が抜ける。相手も相手で、ナイフで刺す感覚に麻痺していたのだろう。次は左脇腹、これが致命傷だった。
やられた瞬間、頭の中で「死んだな」という冷たい声を聞いた。俺自身の声だった。身体は今の一撃を受けて、すでに戦いを放棄しようとしていた。
だが、耳朶を貫いた風花の声が、止まりそうになっていた俺をもう一度だけ突き動かした。きっとあいつは、こんなことをして欲しいとは思っちゃいないだろう。分かってる。でも、止まろうにももうどうしようもなかったのだ。
それまで、どうして殴るという選択肢が出てこないのか不思議だった。だが、一度思い浮かんでみると、あっさり実行出来た。
刺されたとはいえ、まだ真上をとっている。もう刺された、死ぬしかない、だから守りを考える必要もない。開き直りも込めて、俺は全力で通り魔の顔を殴りつけた。揺れた後頭部が、コンクリートにゴンと音を立ててぶつかった。カっとなったのか、もう一度腹を刺そうとしたようだったが、それよりも先にもう一発殴りつける。それで、血塗れになったナイフはあっさりと手から零れ落ちた。
三度目、四度目で、俺も限界を迎えた。その頃には、駆け付けた大人が通り魔を押さえつけ、俺から引き離していた。
殴っている時、頭の中は妙にクリアだった。馬鹿げた話かもしれないが、俺は相手の頭を殴るという行為に罪悪感を覚えていたのだ。単純に、悪いことをしている、と思った。武器を失った途端、通り魔はあっという間に貧弱で平凡な成人男性へと変わっていた。自分の力で相手を制圧したことに対する征服感なんてものは一切無かった……死にかけてる状態でそんな感想を抱く奴がいたら、そいつは馬鹿だ。
地面に転がった俺に、駆け寄ってきた大人達も、何も出来なかった。実際、手の施しようのない状態だっただろうから、恨む気持ちは少しも無い。救急車が来ても到底助からないだろうと思っていた。
今から死ぬっていうのに、俺はあの通り魔のことを考えていた。一体、何があの人をこんな行為に走らせたのだろう。
一体、どれだけ人から愛されなかったら、こんなことを思いついて、そしてやってしまうのだろう。
そう考えた瞬間、あいつが風花を狙った理由が何となく分かってしまった。もしかしたら最初からターゲットにしていたのかもしれない。幸せそうにしている、弱そうな人間を滅茶苦茶にしたい。幸福な人間は、誰かからちゃんと愛されてきたから幸福なのだ。そしてそれを知らない人間は、奪うことしか考えられず、人から好かれたり受け容れられたりするために、何をすれば良いのか分からない。誰かに縋り、聞くことも出来ない。
(貧しい人だったんだな……)
直感的に抱いた想像は、全て正しいように思えた。
(俺は……)
大人達も遠巻きに見守ることしか出来ないなか、俺を中心とした血だまりに膝をついた風花が、ハンカチで必死に傷口を押さえつけようとしていた。
◇◇◇
…………薄れていく視界の中で最後に見たのは、夕日に照らされ赤く染まった空。
そして、涙を溢れさせるあいつの顔。
消えていく聴覚が最後に拾ったのは、俺の名前を叫ぶあいつの声だった。救急車のサイレンだとか、悲鳴だとかは、全部雑音だった。
左脇腹が死ぬほど痛い。そりゃあ、致命傷だから当然か。
もう傷口を抑えるだけの力も残っていない。溢れた血の生暖かさも薄れ始めている。全身がだんだんとただの物質に変わりつつあるのがわかる。
ずっと昔、死んだ婆ちゃんの身体に触れた時の、あのぞっとするような冷たさ。たぶん、俺も間もなくそうなるだろう。ごめん、母さん。爺ちゃんも、ごめん。
でも、滅茶苦茶痛いし、悔いも山ほどあるけど、今はそんなに悪い気はしてないんだ。
だって、俺は……。
――――風花
ちゃんと、あいつの名前を呼べたかな。あいつに、俺の声は届いたのだろうか?
分からないまま、俺の意識は深く暗い澱みの中へと沈んでいった。
…………。
ああ、やっと思い出した。どうして忘れていたんだろう。
これが、俺だ……。