第二話 ルィンド・ニゥ・クトーシュ
フォルモンド。それが、この異世界の名前だそうだ。
俺は胸の中で何度もその言葉を繰り返しながら、先導する女に従って「塔」へと降りた。
飛行機の発着場のような出っ張りに足の裏が着くと、ガシャリと重量感のある音が響いた。これが、本当に俺の身体なのか……ふとそう思ったが、それは一瞬のことだった。
塔を守って戦っていた兵士たちが、瞬く間に俺たちを取り囲んで歓声を上げた。「宗主万歳!」「グランギオルだっ!」「クトーシュ家の魂!!」こんな感じだ。
「諸君、ご苦労だった。今回も苦労をかけてすまない。
だが今は、異界からの客人を通してやってくれ」
兵士たちはすぐさま道を開けた。「さあ、ついてきてくれ」言われるままに、俺は女の後をついて歩き出した。
それでも、武器を持った人間に囲まれた中を進むのは、なかなか緊張する体験だった。しかも、みんなしてじろじろと俺の姿に視線を注いでいる。
だが、彼らを見ているうちに、俺自身もあることに気付いた。
例えば、ある兵士の頭には、そのまま犬の頭部が生えている。
それほど目立ちはしないけど、人間の頭に犬の耳がくっついてる奴もいる。
そんな風に、身体のどこかしらに犬の特徴を持った人種が一番多い、ように見える。
だが、それ以外にもカラスのような黒い翼を生やした者や、腕の一部を蛇に変形させている者もいる。
異形種……そんな単語が頭をよぎった。
そもそもが、目の前の女からして銀色の翼を生やしているのだ。今更と言えば、今更かもしれない。
「おぞましい、と思うか?」
ハッと顔を上げると、女が不敵な笑みを浮かべていた。
「図星だな。まあ、地球の人間の感性では、そう感じてしまうのも仕方あるまい」
「……あんたは、人間じゃないってことか?」
「当然だ。ここは異世界なのだぞ?
まあ、分からんことだらけだろう。今までの者たちもそうだった。とりあえず、おとなしくついてくると良い」
塔を登っていく過程で、それまでと同じくらいの困惑や驚きに襲われた。
内部の構造は広々としていて、アーチ状の梁が高い天井を支えている。何かの写真で見た、大聖堂の中のようだ。壁や床にも植物を模した紋様が彫られている。
そして、発着場にいた兵士たちと同じような異形の連中が、そこかしこから俺に視線を向けてきた。女に向かって深々と頭を下げる奴もいる。
「やぁやぁ、ご苦労だったね」
そんなことを言いながら、女はくだけた素振りで手を振った。
さっき戦っている時も思ったけど、やはり塔の中には戦えなさそうな者が多い。中学生か、下手したら小学生くらいに見える女の子たちが驚いたように立ち止まっては、ぱたぱたと逃げるように走っていった。その子たちの頭にも、犬を思わせる耳が生えていた。
彼女たちが俺を見る視線には、恐れが見て取れた。
ふと自分の着込んでいる鎧を見下ろすと、身体の半分に赤黒い血がこびりついたままだった……そりゃ、怖いに決まってる。
でも、こんな俺の姿を見て「怖い」と感じてくれていることに、少し安心を覚えた。そういう感性は、たぶん人間と変わらないのだろう。
廊下をひたすら進んでいくと、やがて巨大な空洞が目の前に広がってきた。直径三十メートルくらいの空洞を取り囲むように通路や階段が張り巡らされている。まるで高層マンション……いや、町一つをそのまま押し込めたかのようだ。
けど、考えてみれば今立っている場所もかなりの高度にあるはずだ。高層なんて言葉じゃ足りないくらいかもしれない。
そして、先ほど俺たちを囲んだ以上の人数が、通路や階段の上から歓声や拍手を投げかけている。飛んできた花束を掴むと、小さな子供たちが柵から身を乗り出してはしゃいでいた。
「さあ、行こうか」
女が振り返って手を差し出した。その腰から銀色の翼がふわりと広がり、銀色の粒子がローブをはためかせる。
言われるままに手を取ると、両足が廊下から浮かび上がった。人々の歓声が一際大きくなる。俺はただ、落ち着きなく視線を巡らせることしか出来なかった。
ぐん、と身体が持ち上げられる。ロケット花火のような勢いで、女は俺を塔の上層へと引っ張り上げた。「下は見ない方がいいぞ」そう言われてつい見てしまうと、真っ暗な闇がぽっかりと口を開いていた。
天井から、階段の踊り場だけが突き出ていた。何だか、教科書か何かで見たことのある絵……でたらめに配置された階段や通路、出口を足の生えた芋虫が歩き回っている……なんて人の絵だったろう。ともかく、あれに似ている。
そうだ。断片的に思い出せることはある。けど、虫食いみたいに記憶に穴が空いている。とても大事な事柄も、一緒に抜け落ちていそうで……。
「不安だろう?」
気が付くと、俺たちは踊り場の上に静かに降り立っていた。そこからはさらに階段が伸びていて、両開きの小さな扉へと続いている。
「大丈夫だ。今は混濁しているだけで、じきに多くのことを思い出せる。例えば名前とか……」
「イブキ」
その言葉は、俺の中のどこか深い場所から、ごく自然に浮かび上がってきた。どうして今まで忘れていたのか分からないってくらい、当たり前のように。
「イブキ、か。良い響きだな」
他人の口から自分の名前を聞くと、まるで浮いていたパズルのピースがぴっちりと嵌め込まれるように、すとんと胸に収まった。腑に落ちるっていうのは、こういうことだろう。
……きっと、こいつは悪い奴じゃないんだろう。心の底から俺のことを気遣ってくれているのが、表情から見て取れる。
でも、気が付いたらいきなり塔から突き落とされて、訳も分からないうちに化け物みたいな敵と戦わされた。第一、俺自身の身体だってどうなっているのか分からない。無条件に信じ切ることはさすがに出来ない。
階段を登り、扉を開くと、最初に目に入ったのは背丈ほどの高さの、花をつけた低木たちだった。木々の間には小さな水路が張り巡らされている。一見すると庭園のように見えるけど、壁には低木以上の高さの本棚が並び、中心には重厚な造りの机や椅子、ベッドといった家具が置かれている。
机の上は混沌としていて、実験器具のようなものや、何に使うのかよく分からない金属片、宝石が散らばっている。
だが何よりも驚かされたのは、壁に掛けられた、俺にも名前の分かる数々の絵画だった。『モナ・リザ』、『ヴィーナスの誕生』、『真珠の首飾りの乙女』……他にも何枚か。
「全て模写だよ。君以前にその身体に入っていた男が描いてくれたんだ」
女が、机越しの椅子にしゃなりと腰を下ろした。「座りたまえよ、君」悪いけどそんな気にはなれない。
「……この身体に、入っていた?」
女は懐かしむように椅子の手すりを撫でた。植物を模したデザインの、垢抜けたそれを。
「それは君自身の身体ではない。私の手によって作られた、このフォルモンドで最強の魔導傀儡……そう、その男が、魔導傀儡という呼びでは色気が無いと言ってな。
それ以来、私達は『グランギオル』と呼んでいる。
……申し遅れてすまない。私の名はルィンド。ルィンド・ニゥ・クトーシュ。
このフォルモンドを治める七つの宗家、その一柱を預かる者だ」