第十七話 「そうしたら、また……」
エディルフ・クスェルの訪問から十日が経った。俺は今、飛空船の甲板の上で、フォルモンドの濁った空をぼんやり眺めている。
「船旅も長く続くと、飽きられますか?」
声のした方を向くと、分厚いコートに身を包んだドラヴェットさんが、飲み物の入ったカップを手にして立っていた。首回りに巻いた長いスカーフが風に揺られている。「いかがですか?」と差し出されたカップからは、白い湯気とともに甘く焦がしたような香りが立ち上っていた。
「いただきます」
受け取ったそれを口に運ぶと、とろりとした甘い液体が流れ込んできた。ススマという名前の飲み物で、カラメルに生姜やシナモンを加えてお湯で割ったような味がする。
現在、俺達を乗せた飛空船『スニーサ』号は、クトーシュ家の首塔から南東に一五〇〇キロほど離れた場所を航行している。高度は港を出た時からかわっていないから、ずっと雲ばかりの風景が続いている。
「……あんまり飽きないですね」
「そうですか?」
「育った町が海辺でしたから。船を見たり、乗ったりするのも好きだったのかも」
「海?」
ドラヴェットさんは小さく首を傾げた。
「そうか、フォルモンドだと見えないんですね」
「はい。私も直に目にしたことはございません。もう憶えているのは宗主おひとりかと……」
「そっか……うん、毎日眺めてたから、強く憶えてたみたいで。はじめてドラヴェットさんに塔の中を案内してもらった時も、故郷のことを思い出していました」
「左様でしたか」
「坂道ばっかりの住みにくいところでした。そう、最近ちょっと思い出したんですよ。家の間取りとか、縁側から見える風景とか……縁側って、なんて言えばいいのかな。部屋から張り出した廊下みたいな感じの……仕事終わりに布団までたどり着けなかった母さんが、そこでぶっ倒れてたりしてて……」
そうやってつらつらと、家の話や家族のことを話した。合間合間に啜っていたススマは、嵩が低くなるたびに冷えて氷みたいになっていった。最後は甘さと苦さだけが残った。
ドラヴェットさんは凍り付いたような表情のまま、それでも丁寧に相槌をうってくれた。本当にこの人は、人柄と表情が釣りあってないと思う。
「やはり、イブキ様も懐かしく思われますか?」
「どうなんだろう。まだ、懐かしいと思うほど、ここでの生活が長くないから」
「それもそうですね」
内心、俺はドラヴェットさんの問い掛けに対して、軽く動揺していた。まだこの異世界に呼び寄せられて時間が経っていないだけで、いつかはホームシックみたいになったりするのだろうかと。
そこでいくら懐かしがったところで、もう俺には帰る術は無い。
どうしようもない現実と、どうにかしたい願いがせめぎ合った時に、俺は一体どう立ち回れるだろう?
「……ドラヴェットさんは、今までにこの身体を使った人に、どれくらい会ったんですか?」
ふと湧いて出た疑問から、俺はドラヴェットさんにそうたずねていた。
ずっと知りたかったことでもある。今までにフォルモンドを訪れた地球人たちが、どんな風に振舞っていたのか。文化も風習も環境も、果ては種族さえ違う異世界人たちの間で、何を考えてこの身体を受け継いできたのか。
ドラヴェットさんは、それを訪ねるに足るだけの誠実な人だと思っていた。俺がこの世界に来て、一番信頼している人かもしれない。
「イブキ様で二人目です」
「そうなんですか?」
「私自身、まだまだ若輩です。きっと元の世界のイブキ様と、そう年齢は変わりませんよ。だから、代替わりも今回が初めてです」
「そっか……じゃあ」
先代ってどんな人だったんですか? と聞こうとした矢先、まるでそれを遮るかのようにドラヴェットさんが自分のカップをあおった。普段は楚々とした振る舞いに徹している彼女らしからぬ、やや大雑把な飲み方だった。
「その方も、よく海の話をしてくださいました」
返答らしい返答はそれだけだった。そして「もうじき投錨予定空域に着きます。先立って宗主からお話があるかと」と事務的な台詞を無表情で言い残し踵を返した。
……もし、俺の身体が魔導傀儡でなかったなら、彼女が無意識のうちに呟いた言葉を聞き逃していたかもしれない。
「…………私も、もし……そうしたら、また……」