第十六話 クスェルの使者 下
会談の場所はルィンドのバルコニーと決められていた。数日前からドラヴェットさん麾下のメイドさん達が準備に準備を重ねて、クスェル家の王女を迎える体勢を築き上げていた。
ところがどっこい、肝心のVIPはと言うと、長テーブルに突っ伏してさめざめと泣いている。時々口から「NINJAがいないなんて」とか「BAKUHUが負けた」とかいうセリフが漏れ出ていた。
泣かせたのは俺。
黒船来航から五稜郭陥落に至るまでの流れをかいつまんで説明したら、キラキラ輝いていたエディルフ王女の顔に段々と暗雲が垂れ込めて、仕舞いには「ヒジカターッ!!」と叫びああなってしまった。
この人、本当に異世界人なのだろうか。面白外国人と言われた方がいっそしっくりくる。
「イーブーキー……話が前に進まなくて困るんだけど?」
「ごめん」
ルィンドが紅茶を啜りながら、カップ越しにジト目で俺を睨み付けてくる。正直、色んな意味で悪いことをしたと思う。でもあのまま変態扱いされたままでいるわけにはいかなかったのだ。日本男児として。
それもこれも、以前にグランギオルに宿っていたエドワード何某とかいう外人のせいだ。よくハリウッド映画とかで描写される「間違った日本」観そのままに、有ること無いこと吹聴してくれていたようだ。どうやら他にも誤解を受けている事柄は多々あるのだろう。
「……さて、エディ。いい加減復活してくれないかな? 君だってまさか、うちの絶品の紅茶を塩辛くするために来たわけじゃないだろ?」
突っ伏しているのを見て初めて気付いたけど、エディルフ王女の頭にも犬を思わせる小さな耳が微かに先端を飛び出させている。それがぴくりと動き、次いで上体を起こした時には、さっきまで泣いていたのが嘘のようにケロリとした顔をしていた。
「無論です、ルィンド様。我がクスェル家が盟約を違えることは有り得ません。此度の戦の調停は、どうかお任せください。
ですが……」
「ああ、承知しているともさ。ドラヴェット?」
後ろに控えていたドラヴェットさんが、重厚なトランクを持って前に進み出た。留め具を外して開くと、赤地のクッションの上に三冊の本が納められていた。
「右から順に、改良型の生体循環膜の育成方法と運用論。土壌改善のための善菌の運用結果のレポート。そして瘴気に対抗するための心肺機能に関する新型ギーヴァの開発レポート。これでいかがかな?」
……ルィンドの研究を詳しく知っているわけではないけど、これはとてつもない大盤振る舞いじゃないのか?
地球でもそうだったけど、技術開発や研究なんてそう簡単に行えるものじゃない。ましてや、成果物を開発したうえで運用方法まで提供するのは、金の生る樹を丸ごと渡すような行為に思える。
逆に言えば、ルィンドがそれだけクスェル家との関係を重視しているということだ。クトーシュ家は日常生活面においてある程度の豊かさを維持しているけど、そのために軍事力を犠牲にしている部分がある……グランギオルがそう言うのは変かもしれないけど。
「全然足りませんな」
だからこそ、そんなエディルフ王女の発言で、会談の場が瞬時に凍り付いた。クトーシュ家のネビロスだけじゃない。クスェル側の従者や軍人達も、一様に驚いた様子だった。
平然としているのは、張本人とルィンドの二人だけだった。
「他に、まだ欲しいものがあるって?」
浅葱色のカップの縁を指でなぞりながら、ルィンドは悠然と微笑んで見せた。「はい」と、同じようにエディルフ王女も顔を綻ばせながら言う。
「ルィンド・ニゥ・クトーシュ……ネビロス史上最高の天才魔導技師。そんな貴女が、まさかこんな小手先の技術しか提供出来ないはずがない。
我々は、そう……貴女の持つ万能のギーヴァ、ロマ。そしてそのロマが織り成す四つの秘奥義について知りたい」
その瞬間、確かに空気の質が変わったのを感じた。比喩なんかじゃない。目に見えない力が働いて、両陣営のネビロス達を一瞬で圧倒した。背後で誰かが崩れ落ちる気配がする。トランクを持っているドラヴェットさんでさえ、顔色が普段に輪をかけて白くなったのが分かった。
クスェル側もそうだ。流石に親衛隊だけあって倒れることは無かったけど、歯を食いしばっている者が何人か見て取れる。
そして俺……グランギオルの全身に仕込まれた様々なギーヴァ達が戦慄するのを感じた。
全てはエディルフ・クスェルの放った魔力の波動のせいだ。
(これがクスェル家の……第一宗家のネビロスの力、か)
ネビロスという異種族と共に生活していると、時折彼らの個体差に驚かされることがある。よくこれだけバラバラな特色を持っていながら、社会を構成出来ているものだと感心させられる。
だけど、こうして世界の頂点に近い存在を目の当たりにすると、秩序が保たれている理由が否応なしに思い知らされた。これほど大きな力の差の前では、五十歩百歩の力量差でいがみ合うことに意味など無い。
だからこそ、この状況下で平然と茶を啜っていられるルィンドもまた、並みのネビロスではないのだと改めて実感させられた。
カップを口元から離して「それは困ったな」と事も無げに言ってのける。
「一体、奥義だの何だの、誰が言い出したんだろうね? ずいぶん高く買ってもらっているようだけど、残念ながら過大評価だよ」
「しかし現に貴女はロマを使役している。グランギオルは幻想ではありますまい」
「もちろん。だけど、そう……このギーヴァをどう作り出せば良いかは、君たちには教えられない。教えることなんて出来ないんだ。私にとっても偶然みたいなものだったからね」
言い逃れとしてはあまりに苦しい理由に思えるし、実際にエディルフ王女は信じていない様子だった。
でも、机に肩肘をついて、指と指の間に蒼い糸を巡らせているルィンドの姿には、嘘が感じられなかった。
「この力を他のネビロス達も持つことが出来たなら……どうかな。どうなるだろう。いっそ君にも持たせてやりたいくらいだよ。
なあ、エディルフ・クスェル。君は知らないだろうが、昔のフォルモンドには季節ってものがあったんだ。
四季には折々の美しさがあって、巡るたびに過ぎ去っていったそれらを愛おしく感じたものさ。
だけど、四季の美しさというものは、決してその場に留め置けるものではなかった。夏の暑い日に足をつけた小川のことや、冬の日に温かい部屋から窓越しに眺めた粉雪のことや……それらは、切り抜いてしまったら意味を失うものばかりだった。
世界は流転し、循環するのが正しいんだ。ロマはそれに逆らう。私以外の者に持たせようとは、到底思えないね」
それきりルィンドは口を閉ざし、カップの中のお茶をちびちびと啜り始めた。
エディルフ王女は何も言わなかった。申し出を完全に断られたにも関わらず、そこには苛立ちの色は見つけられない。いつしか、彼女が放っていたプレッシャーも消えて無くなっていた。
エディルフ・クスェルは「やれやれ」とでも言うかのように、大仰に肩をすくめた。
「……そう仰ると思っておりました」
「へぇ?」
「ルィンド様、そのお話の仕方、私の祖父を諭した時と全く同じではありませんか?」
「君のお爺さんのお爺さんにも、同じことを言ったよ」
ハッハッハッハッハッ。
と、感情の籠っていない白々しい笑い声が、フォルモンドの濁った空に響き渡った。
とは言え緊張のピークは過ぎ去ったらしい。両陣営から安堵の溜息が漏れた。
「まあ、頂けるものは頂きます。ロマの秘密を頂戴出来なかったのは残念ですが」
エディルフ王女は直々にトランクを受け取り、中身のノートをぱらぱらとめくった。
「そう言うな。はっきり言って、今回渡した研究成果はどれも有益なものばかりだ」
「……どうやら、そのようで」
「クスェル家の財力があれば、君のところの領民に対する福祉をより充実させられる。何となれば、放浪している部族を保護することも……」
ルィンドが言い終わらない内に、王女がパタンとノートを閉じた。
「技術は有難く頂きますが、それをどの程度下々の者に行き渡らせるかは我々が決めます。クスェル家は、貴女の理想実現のための装置ではない」
「手厳しいね」
「確かに我らは第一宗家。このフォルモンドを統治する使命を帯びている。しかし、力の無い者を無制限に抱え込むことが必要だとは思えない。むしろ生物種としてのネビロスを弱体化させる行為でないかと考えます」
エディルフ王女の燃えるような瞳がクトーシュ家の人々を睥睨した。彼女の言う「力の無い者」が何を指しているか分からない者など、この場には恐らくいないだろう。
地球人類の言葉で言うなら、エディルフ王女の言うことはまさに優生思想そのものだ。それがどういうものかぐらい、俺だって学校で習っている。人間の個人間の能力差なんて所詮五十歩百歩で、だから極端なエリート主義なんて成り立たないし、弱者を淘汰したところで社会が純化されるわけでもない。むしろ考え方や制度を硬直させてしまうだけだ。
でも、それはどこまでも人間の常識だ。ネビロス達には、彼らなりの目線がある。そしてその目線は、生まれ持った資質によっていくらでも見る高さが変わってしまうのだろう。
きっと、エディルフ・クスェルはこれまでに、自分より上の存在を見上げるということをほとんど知らなかったに違いない。そしてこの世界では、それは悪ではないのだ。
「現にフォルモンドは過酷な世界となりつつあるのです。この世界では、自らを助け生き延びる努力を払う者だけが存在を許される。それは、一生物としてこの上なく美しい姿だと……そうお思いにはなりませんか? インヘル殿」
唐突に向けられた矛先に、驚かなかったと言えば嘘になる。エディルフ王女の眼は絶対に逃げることを許さない。彼女に何かを問われたら、どんなに無様であっても答えを返さなければならない。そう思わせるプレッシャーがあった。
難しい問い掛けだった。単純な肯定や反論だけでは済ませられない。何か理由を説かなければ、恐らくエディルフ王女はイエスもノーも認めてくれないだろう。
そして、そう思っているにも関わらず、俺の中からは至極簡単に答えが出てきた。
当たり前と言えば当たり前だけど、地球人としての答えが。
「思いません」
案の定、「どうして?」と促された。
「俺は……武道を学んでいた記憶があります。祖父から教わっていました。剣を習うことは身心を磨くことに繋がると。誰かを傷つけることを目的とせず、剣と向き合うこと自体を目的にしろと。そうして、己を高めていけ、と……」
「それはまさに、私が言ったことと重なるのではありませんか?」
「いえ、大事なのはここからです。祖父はこうも言っていました。心技体を鍛え、もってより良い人間へと人格を陶冶していくことは……畢竟、人のためであると。大勢の人が寄り集まって出来る世界の中に、鍛えた自分を伴って踏み入っていくのだと」
「己が頂点に立つためではなく?」
「どんなに強くなっても、人が一人で出来ることには限りがあります。だからこそ、俺達は互いに助け合わなきゃいけない。自分が困った時に助けてもらえるように……逆に誰かに助けを求められた時、ようやく鍛えていたことが活きてくるかもしれない。多少なりとも役立つ人間になれているかもしれない……そのためです」
王女は椅子に肩肘をついて、ジッと俺の顔を見た。不興を買ったのかもしれないけれど、表情だけでは何も読み取れない。
だが、やがてぽつりと「難儀な種族だね」と呟いた。
「我々には……少なくとも、クスェル家にとっては相いれない考え方だ。しかし……それが人間というものなのだろうな」
◇◇◇
「エディルフ王女は、どう思ったんだろう……?」
再び雷音を轟かせて去っていく『シス・ラ・クスェル』を見送りながら、俺はぽつりと呟いていた。
「気を悪くしたかな……もしそうだったら」
「大丈夫だよ。エディは約束を守る。クスェル家の家名に掛けて不義理は犯さないさ」
そう言って、ルィンドは大きく伸びをして、首をコキコキと鳴らした。「んんん、肩凝ったァ……」年寄り臭い仕草だと思ったけど、俺だってルィンドと同程度には緊張していたらしい。心なし肩が軽くなったような気がしている。
「なあ、イブキ。私は、君の答えに結構好感を持ったんだよ?」
「そうなのか?」
「ああ。なまじ力を持ったネビロスは孤独だよ。同じ種族でありながら、同種の者達と相いれない性質を持っている……お陰で畏怖の対象になったりするけど、いつまで経っても大きな輪の中には入っていけない。いつもぽつんと離れたところにいる」
まあそういう連中は絶対に孤独を認めやしないけどね、とルィンドは言い添えた。
だけど、聞き返すまでもない。これはルィンド自身にも当てはまることだ。他のネビロスと同じ生涯を共有出来ない、不死者故の孤独。
お前はそれを認めているのか? とは、さすがに踏み込み過ぎていると思って、聞けなかった。
「……人間って種族は面白いね。興味が尽きない。君達を呼び寄せるたびに、いつもそう思わされるよ」
「そんなに良いことばかりじゃないと思うけど」
「もちろん。だけど、少なくとも君達は、まっとうに歴史を積み重ねている。決して停滞していない。そんな種族としての在り方が、私にはとても羨ましく思えるのさ」
ルィンドは、そう言うなり軽く床を蹴って、バルコニーの手すりに飛び乗った。
「さて。これで後顧の憂いも消えた。以前言っていた通り、ようやく遠出が出来るね」
「遠出?」
「ああ。ついでに、地球人である君に見てもらうにもちょうど良い機会だ。我々ネビロスの歴史……その残滓ってやつをね」