第十四話 千年夢話 上
――約千年前
塔の最上層に設けられたバルコニーで、ルィンドは雲海を染めていく乳白色の暁光を見つめていた。高高度特有の強風と冷たさは、だが、適応している彼女にとってそよ風同然のものだ。
地球で言えば約七千メートルの高度。いかにネビロスといえど、この過酷な環境に適応出来たのは、種の中のほんの一部のみだ。移住完了から百年近く経ったが、完全に適応するにはさらに長い時間が必要となるだろう。
だが、全身を人工物で構成された魔導傀儡にとっては、高度などさしたる問題にならない。
傍らには質素なチュニックとズボンを身にまとった大男が立っている。剣を地面に突き立て、彼女と同じ方向を眺めていた。
「この世界に来て良かったことは、雲の上から朝焼けを見られたことだな」
雲海の果て、星の曲線をなぞるように光が満たしていく。男はスンと鼻を鳴らし、わずかに姿勢を正した。
「おや、他には無いのかな?」
ルィンドは肩を竦めた。「散々振り回したお前に言えた義理か?」と返される。
揶揄するような言葉遣いだが、口調は気安く、穏やかだった。ルィンドは苦笑しながら「悪かったよ」と謝った。
「王の下で戦いに次ぐ戦いを経て、ようやく虹の橋を渡れると思っていたらこの有様だ。流石に荒れるぜ」
「塔を一本圧し折るくらいにね」
幸い建造中の塔であったため死者は出なかったが、予定の高さまで成長するには、さらなる時間が必要だろう。
「その分の仕事はしただろ? 感謝しろよ」
「してるさ。いつだって」
ルィンドの率直な言葉に、男は鼻を鳴らした。頑固で粗野な男だが、冷酷さとは全く縁の無い性格だ。
最初はヴァルハラ行きを邪魔されたと怒り狂ったが、彼女の必死の説得によって何とか落ち着きを取り戻し、味方となって戦ってくれた。そんな彼に対する感謝の念は、常にルィンドの中に宿り続けている。
「……しかし、変わらなかったな」
男がぽつりと呟く。ルィンドも無言で頷いた。
朝日に染められた雲海は美しいが、雲の形はゆっくりと変化するのみだ。クトーシュ家の塔に取り付けられた巨大な風車も、動かなくなって久しい。高高度の風は確かに強いが、嵐のような激しさをもって吹き付けることは無い。この程度ではあの風車を動かすことは出来ない。
それが分かっていながら、ルィンドは何故か取り外そうという気にはなれなかった。
もう少し日が昇れば、雲海はまたいつものように気の滅入るような黒色に変わる。その下には毒の嵐が吹き荒れ、朽ち果てた旧文明の遺跡や、異形と化した生物達が闊歩する奈落が広がっている。
今の世代のネビロス達は、花咲く丘や生い茂った木々、翡翠のような海を見ずに育ってきた。そしてさらに世代を重ねるごとに、彼らにとって今のこの在り方が当たり前となっていくのだろう。
だが、永遠に生きなければならないかもしれないルィンドは、その記憶を決して忘れられない。
「……仕方が無いさ。でも、いつか皆分かってくれる……」
「そんな時が来ると良いな」
「ああ」
なべて生きとし生けるものは、大地と共に在らねばならない……そんな風に考える資格は、自分には無いかもしれない。
だが、大地の記憶を持たずに生まれ育ち死んでいく同族たちを、ルィンドは哀れだと思わずにはいられなかった。彼らのために、そして自分自身のためにも、あの黒々とした雲を吹き払って大地を取り戻さなければならない。
そのためにも、魔導傀儡の力は絶対に必要だ。しかしその中身に関しては、永遠不変というわけにはいかない。
「君も今度こそ、虹の橋とやらを渡れるかな?」
男は大いに笑った。
「これだけ戦ってもまだ行けないとあらば、最初から戦士の国なんぞ存在しないってことだろうさ!」
「良いのかい? そんなことを言ってたら、戦乙女にも見放されてしまうよ?」
地平線に昇りゆく太陽に、男は目を細めた。万感の表情とはこういうのを言うのだろうな、とルィンドは思った。生き続け、走り続け、この世に望むものなど何も無くなった者の顔。全ての終わりを前にして、「これで良い」と言い切れる者の顔。
そんな完璧な表情を浮かべられる日が、果たして自分に来るのだろうか? そうルィンドは自問した。
「もう剣は振り飽きた」
臆病や疲弊ではなく、深い満足感を滲ませながら男は言う。一人の戦士として、数えきれないほどの武功を挙げたのだ。あの世に行ってなお戦ったならば、他の戦士が活躍する場を奪うことになってしまう。
「だが……」
そんな彼の顔に、一瞬後悔の色が宿った。ふとルィンドを見下ろして言う。
「戦士の国よりも……お前に見せてやりたかったな」
「何を?」
塔に当たった風がうねりをあげた。光が一際強くなり、ルィンドは思わず目を閉じた。
「俺達の海を。灰色の空を、波を」
光に打たれ、視界が白く染まる。その時ルィンドの脳裏には、想像にしか過ぎないが、確かに男の生きた世界が浮かび上がっていた。
「ああ、ぜひ見てみたいな」
目じりに浮かんだ涙を拭って、ルィンドは男の方を向いた。
そこには最早、人は立っておらず、ただ魂の抜けた黒い鎧だけが立ち竦んでいた。
「……行ったのか、ヴィダル」
ルィンドは空を見上げた。夜明けは過ぎ去り、紫水晶のような月は光を失った。空は再び混沌とした色に覆われる。その先に、共に戦ってくれた者が行ってしまったのかどうか、ルィンドには分からない。
(私はあと、何度繰り返せば良い?)
天から応えが返ってくることはない。分かっているのに、何故か空を見上げて問いかけてしまう。
だが、他の誰にも聞くことは出来ない。これを繰り返すことが出来る者など、フォルモンドにはいないのだから。