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第十三話 胎動

「……チッ」


 舌打ちと共に、キュレイン・メトネロフは目を開いた。すでに怪鯨との精神感応は途絶している。あの薄汚い貯水槽は見えなくなり、端正な執務室が目の前に広がっている。


 彼が目を覚ましたのを確認した側近たちが、侍従に飲み物を持ってくるよう指示する。彼らは主の表情から、あまり好ましからざる結果に終わったのだと察していた。


 しかし、キュレインとしては、表情ほどに悪い気分ではない。こうして魔獣の精神を乗っ取って意のままに操るのは、存外気晴らしになる。元々が嫌がらせのようなもので、あの怪鯨にしてもただの余り物に過ぎない。文字通り使い潰したわけだ。


 もちろん、あの異界人の無礼な物言いには腹が立ったが、同時に「あの程度か」という感想も抱いていた。代替わりしたばかりで扱いに慣れていないのもあるだろうが、言動に隠し切れない若さが滲み出ていた。


「子供、か」


 キュレインは独り言ちた。側近の一人が意を伺おうとするが、宗主の「黙っていろ」と言わんばかりの視線を受けて後ずさる。


中身(・・)が子供であってもあれほどの戦力となる……流石に、フォルモンド随一の賢者と称されるだけのことはあるか)


 ルィンドという女は憎らしいが、彼女の魔導士としての実力に対して、キュレインは素直に畏敬の念を抱いている。


 むしろ、彼女が優れたネビロスであればあるほど、彼の中の嫌悪感も膨らむのだが、そうした複雑な心情については深く考える気にならなかった。


 侍従の少女が捧げたグラスを、キュレインは鷹揚な手つきで受け取った。中に入っているのは水で、少しだけ香料が混ぜられている。


「……フン」


 宗主であるキュレインは当然のように飲むことの出来るものだが、自領の下層に住んでいる者はこうはいかない。浄水施設が機能不全を起こして早二百年。当初は軽微な障害にとどまっていたそうだが、今では煮沸無しに飲み水を得ることも出来ない。


 水から完全に毒素を抜き取る技術は確立されているが、それを全体に行き渡らせることは出来ない。上からの圧力と、下からの突き上げを同時にうける第四宗家は、常に武力に最大限のリソースを割くことを強いられているのだ。


 守るべき領土と威信は大きいが、肝心の余力そのものが追い付いていない。第四宗家、つまり七つある宗家のちょうど中間にあたる家格だが、その苦しい実態を誰よりも理解しているのはキュレインだった。


 それ故、市街地には汚染水が出回り、分解されなかった微量の毒が、少しずつ領民の身体に溜まっていく。消化器や肝臓、腎臓に由来する病気が死亡率を上昇させ、ひいては経済活動に無視出来ない負荷をかけている。


 余力のある者は、汚れ切った臓器をギーヴァで代替出来るが、老人はそうはいかない。それこそ、自分の父である先代宗主も、最後はギーヴァにすら見放されて死んでいったのだ。


 共生生物たるネビロスにとって、ギーヴァに見捨てられることは存在そのものの否定に等しい……と、キュレインは思う。魔力不全を起こした父など、彼にとっては最早、死体と大して変わらなかった。


(私も、いずれは)


 それがネビロスの死に様だと知ってはいるが、まだまだ受け入れ難い。


 ネビロスとて、老いることは恐ろしい。老化が究極の喪失体験であることに、人も異世界人も大して違いは無いのである。むしろ一部の力あるネビロスにとっては、喪失の落差が大きいだけにより致命的な鬱を引き起こす。


 だからこそ、千年を越えてなお瑞々しい命を保っているルィンドが、キュレインには憎くて仕方なかった。恐らく、他の宗家の者も同じような思いを抱いていることだろう。


(なって堪るかよ)


 慇懃な家臣達は、誰一人として信用出来ない。腹のうちで何を考えているか分からないからだ。宗主の顔色を伺う一方で、上位三家に情報を横流ししている者がいるかもしれない。事実、父の代にも幾度となく繰り返されたことだ。


 そうして上位の家格とコネを作れば、万一の時に助かるかもしれない。あわよくば、自分が上位の家格に上がれるかもしれない……などと考えているのだろう。愚かなことだ、そんなことはありえない。キュレインはそう断じていた。メトネロフ家など、良くて便利屋程度にしか思われていない。


 そうして上下間の圧力に常に晒されていれば、宗主の寿命も自ずと短くなる。


 しかし、ただすり潰されるだけの人生など、まだ若いキュレインにとってはまっぴらだった。


 その感情が出てしまったか、キュレインはいささか力を込めて杯を盆に戻した。だが、若い宗主の前で委縮しきっていた少女は、それを受け止め損ねてしまった。


「あっ」


 少女が声を漏らすと同時に、グラスが床に触れ砕け散った。


 執務室の空気が瞬時に凍り付いた。側近連中が息を呑み、顔面を蒼白にした少女は床の上に身体を投げ出した。


「……フン」


 だが、キュレインは軽く鼻を鳴らし「気をつけろ」とだけ言って席を立った。


 呆然とした側近達を残して部屋を出た彼は、無言のまま、足早に塔の中央を目指した。


 その道中には、クトーシュ家がそうであるように、いくつもの施設や家々が内壁から生え出ている。中央に空洞が設けられているという作りも同様だ。


 しかし、メトネロフ家の縦穴はクトーシュより深く広い。


 そして住まう人々の姿は、ほとんどがみすぼらしい。錆びた配管や腐った建材がそこかしこに見え隠れしており、それを直そうとする者の格好も悪い。作業用のギーヴァが移植できず、止む無く道具に頼っている者までいる始末だ。


 そんな彼らは、若き宗主の姿を視界にとらえると、仕事とともに五体を投げ出す。権力と縁遠い者ならばむずがゆくて仕方ないかもしれないが、キュレインにとっては極めて自然なことだった。


(……私はメトネロフの宗主……)


巨大な縦穴を下り、その芯にあたる箇所へと降り立つ。


 そこは代々の宗主達、すなわちフォルモンドでも指折りの魔導士達が技術と研鑽を積んできた場所だ。宗主の一族以外に立ち入って良いのは、忠誠心と能力に優れたほんの僅かな者だけである。


 巨大な試験管のようなものが神殿の列柱のように並び、研究文書が山と積まれている。代々魔獣の研究に力を入れてきたメトネロフ家は、そのノウハウを持ってフォルモンド第四宗家の地位を保ってきた。ここはその精髄と言えよう。


 未成熟の個体に配慮して、照明は最低限に納められている。その仄暗い光の中に、一際大きな試験管が聳え立っていた。聖堂壁画を描く画家のように、試験管の周りに配された足場を魔導士達が行き来している。宗主が入ってきてもしばらくは気付かないほどの没頭ぶりだ。そんな連中だからこそキュレインもここに入ることを許している。


 試験管の中には、巨大な臓器のような物が浮かんでいた。表面には青黒い血管が走り、太鼓のような力強さで脈打っている。その音に、キュレインは音楽を聴くような陶然とした表情を浮かべた。


「良い子だ……じきに、お前にも出番を与えてやろう」


 キュレインは右手を広げた。その手の平の中に、蒼い糸くずのようなものが、微かな光を放っていた。

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