第十二話 勇魚捕り 上
辺りは真っ暗闇。
横穴から漏れる排水やガスが視界を遮る。臭いはさっきまでいた場所の比ではない。
障害物があちこちにあって、おまけに追いかけている怪鯨は外見からは想像出来ないほどの速さで暗渠の中を走っている。普通に考えたら、到底追いつけない。
だが、俺の目には白いぬめぬめとした巨体がはっきりと映っていたし、高速で迫りくる障害物も止まって見えた。
もちろん、誰かに飛び方を教わったわけではないから、ほとんど『大鴉』に任せたきりだ。鋭敏になった感覚が障害を感知するたびに、最も効率的で安全なルートを選んでくれる。俺はと言うと、両手に持った剣を落とさないよう握っているくらいしか出来ない。まるでテーマパークのアトラクションに放り込まれたような気分だ。
敵も追いかけられていることを自覚しているのか、少しも速度を緩めない。さっき一瞬だけ姿を現した時には、通常個体を拡大しただけに見えた。でも、実際にはいくつもの変更点がある。
まず、通常個体が四足動物のような両手両足を持っていたのに対して、親玉は四肢が全てセイウチのようなヒレ状のものに変化していた。全身からは半透明の粘液が分泌されていて、それが消音効果とぬめりを生み出している。さっき奇襲に気付かなかったのも、あの液体で音が消されていたからだ。
(でも、デカいってだけなら……!)
……なんて、考えたのが甘かった。
奴の背中の一部が開いた。そこから、バレーボールくらいの胞子が大量にばら撒かれる。
何か、と思った時には、『大鴉』の黒い翼が、盾のように身体の前面を覆っていた。
暗渠の壁面に触れた胞子が、次々と爆発を起こす。
「爆雷かよ!!」
爆風と閃光が激しく身体を揺さぶるが、『大鴉』はそんなものお構いなしに突進を続ける。胞子爆雷そのものが翼に直撃しても、表面を覆った紫色の粒子が盾になってくれた。痛みも感じない。翼がもつ限りは無事ということなのだろう。
でも、こんな過激なアトラクション、とてもじゃないが願い下げだ!
「クッソぉ!!」
俺の焦りに応えるかのように、『大鴉』の翼が一層多くの粒子を放出させる。身体に掛かる荷重がぐんと増えた。
怪鯨との距離がぐんぐん縮まっていく。追いつかれると察したのか、敵は急に側面の壁を穿つと、その向こう側に飛び込んだ。
ぽっかりと開いた穴の前で急ブレーキをかける。大穴の向こうは暗闇。正直、どう考えても危険だ。
でも、そんなのはあいつを追いかけると決めた時から分かっていたことだ。
「……!」
穴の向こう側は、巨大な貯水槽のような空間だった。壁のあちこちから突き出た配管が、滝のように水を降らせている。
奴は、貯水槽の底の水溜まりに浮かんでいた。
こっちは直上。爆雷も使えない位置だ。
(獲れる!!)
両手の剣を腰だめに構え、急降下。そのまま水に突っ込む勢いで、怪鯨の胴を斬り抜ける!
一瞬、ドラヴェットさんの『舞曲王』が弾かれたのを思い出したけど、剣は拍子抜けするほどあっさりと化け物の表皮を斬り裂いた。
俺はそのまま水の中に突っ込み、狩りに成功した水鳥みたいにもう一度水面を抜けて飛翔する。怪物が耳障りな絶叫を上げ、傷口から噴き出した青い体液が貯水槽の水に混ざっていく。
「……やった?」
そう呟いた瞬間、傷口が「パチン!」と音を立てて閉じた。
「はっ!?」
呆気にとられ、一瞬、隙が生まれた。それを咎めるかのように、怪鯨の長い尾が、俺を真横からぶっ叩いた。
生身だったら確実に真っ二つになっていただろう。幸い、胴体は繋がったままだが、貯水槽の壁面にぶつけられた衝撃も加わって、明確に「痛い」と感じた。
身体は……ちゃんと動く。
『他愛ない』
その声は、首をもたげた怪鯨の額から聞こえてきた。
見ると、ナガスクジラみたいな頭部の先端から、ぼこりとゴム人形のようなものが姿を現している。怪鯨の肌そのままの純白の人形には、口と角らしきもの以外は何もついていない。表情も無い。
にも関わらず、その雰囲気や態度だけでも、尊大さや傲岸さが見て取れる。
『代替わりをしたばかりというのは本当だったようだな。歴代のグランギオルに比べて、あまりにも弱い』
「……あんたは、何だ?」
俺は煽りに引っ掛からなかったし、別に煽り返したつもりもないけど、ただの誰何が癪に障ったようだ。『無礼者!!』と頭ごなしに叱りつけられる。
『異物風情が、私と対等に話せるとでも思ったか!?』
「声を掛けてきたのはあんたの方だろ。滅茶苦茶言うなよ!」
ゴム人形が苛立たし気に指を強張らせた。
(まともに相手しても無駄だよ)
不意にルィンドの声が響いた。何か怒鳴り散らしているゴム人形にばれないよう、視線を巡らせると、さっき斬った部分から蒼い糸が一本伸びていた。それが、俺の指に結びつけられている。
(あれはキュレイン・メトネロフ。第四宗家の主だ)
「……あいつが?」
(まあ……色々複雑な事情があるのさ。それはともかく、こいつはいくら斬っても無駄だ。彼は若いが、ネビロスとしては間違いなく一級の能力を持っている。魔獣に回復能力を持たせるくらい簡単だろうさ)
「じゃあどうするんだよ。このままだとジリ貧だぞ」
(それは困る。すでに服を溶かされてスッポンポンなんだ)
そんな情報はいらん。
(いいかい? 強いネビロスや魔獣と戦う時は、ただ斬ったり突いたりするだけじゃダメなんだ。そこから魔力を流し込んで、内側から破壊するんだよ)
「……どうやれば良いんだ!?」
(それは君の身体が……)
『何をやっているッ!!』
「チッ!」
秘密通信はそれまでだった。流石に違和感を覚えたキュレイン……もとい怪鯨が尻尾を振るう。翼を翻してそれを避けるが、大きな水しぶきが立ち、怪鯨の姿を一瞬覆い隠す。
それが収まった時、目の前から敵の姿が消えていた。
同時に、肌が(というのも変だけど)粟立つような悪寒を感じた。分かっている。仕掛けてくるとしたら……!
「下ッ!?」
俺の予想を証明するかのように、水中で何かが発光した。咄嗟に『大鴉』を盾に使おうとするが、悪寒が消えない。
理性か、それともギーヴァの抱いた野性か。
どっちを当てにするかなんて、決まってる。
「……好きにしてくれ!」
合点承知とばかりに、『大鴉』が俺の身体を振り回す。野生動物の反射そのものの動きで、その場から飛び退った。
直後、貯水槽の水面をぶち抜いて、巨大な光線が俺のすぐ横を通り過ぎて行った。
光線は天井を穿ち、塔そのものを激しく振動させる。俺はというと、発射と同時に発生した水蒸気爆発のせいでばたばたと無様にもがいていた。
それでも、あの光の柱に呑み込まれるよりかはずっとマシだろう。まるでビーム砲だ。『大鴉』も、さすがにあの攻撃を受けきるだけの耐久力は無いらしい。
それが分かっていたからこそ、『大鴉』は動物的な直感で回避を選択した……。
「……そうか!」
眼下で怪鯨が口を開き、第二射を放とうとしている。俺はそこに向かって急降下を仕掛けた。
チャージの完了を待たずに、怪鯨が応射してくる。さっきの一撃のような威力は無いが、ショットガンみたいに光弾を撒き散らす。まさに対空砲火だ。
でも、その隙間が俺には、というより『大鴉』には分かる。
俺は何をどうしなきゃいけないか知っているけど、実際にそれを実行する力は無い。
逆にギーヴァには、動物的な本能はあっても、物事を考える知性や理性は無い。
だから、理性と野性の両方を、俺の方ですり合わせるんだ!
『貴様ッ!』
光弾の密度が増す。でも、その間隙を縫って『大鴉』は突撃を続ける。どうしても避けられない弾は翼で弾き飛ばすか、あるいは俺自身が剣で斬り払って進む。
ゴム人形の姿が、すぐ近くまで迫った。
「……!」
そして、通り抜ける。
『何だと!?』
狙うべきはここ、怪鯨の懐。使うべきギーヴァは……。
「出てこい!」
名前を知らないからそう言うしかなかったけど、そいつはしっかりと答えてくれた。
「GIGIGIGIGIGIGIGIGIGIGIGIGIGIGIGI ! ! ! !」
膝の装甲から生きたドリルが飛び出し、耳障りな咆哮を上げる。まるで、ようやく巡ってきた出番に歓喜しているかのように。
突きがトドメに結びつくと、ルィンドは言った。
現に俺は、このギーヴァの力を借りて、ネビロスを一人殺している。
だったら、このデカブツだってやれるはずだ!
「喰らえッ!!」
ドリル付きの膝蹴りが怪鯨の腹を穿つ。意識してみると、確かにドリルから、何かが敵の体内へと波及している感覚があった。
肉と体液、あるいは内臓らしきものが飛び散る。頭上で怪鯨が悲鳴を上げた。さっきとは違う、確かに効いてるという手応えがある!
(いける!!)
……どこかで高揚感があったのかもしれない。分不相応な力を手に入れて、それに慣れつつあるという現状に。グランギオルは絶対的な力を持っているが、それを操っている自分の未熟さを、この時確かに見失っていた。
何のことは無い、突かれているなら振り回すだけだ。
怪鯨が大きく身を捩った。ドリルには刺し貫く力はあっても、食らいつく力は無い。あっさりと傷口から抜け出てしまう。
我に返った時にはすでに遅く、またしても俺は、怪鯨の回転薙ぎを食らってしまった。反射的に動いてくれた『大鴉』が防いでくれるが、身体は貯水槽の壁に叩きつけられる。防御に回っていたため、飛び立つまでに一拍の間があった。
すでに怪鯨は、光線砲の充填を終えていた。
『死ねェ!!!!』
…………死ぬ?
死ぬのか、俺は? もう一度?
(でも、ここで生きてたって、何も)
◇◇◇
「でもさ、楽しまないと損だよ?」
ゲームのBGMが流れている。
あいつが得意だった、シュールなリズムゲームの曲。カチカチとタイミング良くボタンを押す音。外からはセミの声。麦茶の中に浮かんだ氷が溶けて、涼やかに鳴った。
「それで赤点ギリになってたら世話無いだろ。お前はもっと危機感持てよ」
ため息をつく俺は、数学の問題を覗き込んでシャーペンを滑らせていた。寝っ転がった の足が、リズムに合わせて動くのが、視界の端に見えていた。
「いーちゃんはマジメ過ぎるんだってば。せっかくの夏休みなのに、部活部活、また部活でしょ? ようやく幼馴染の部屋に来たと思ったら、全然構ってくれないし!」
「構ってやってるだろ。おらさっさと中断しろ。微積分が を待ってるぞ」
「うー……あっ! あーぁー……いーちゃんのせいでミスした」
「その程度で乱れる集中力ってことだ。ほら、もう諦めついただろ?」
「ダメ。もう一回やる」
「もう一回って言って、それで本当に終わった試しが無いだろ」
「いーちゃん、小姑みたいだよ」
「ほっとけ」
……俺はついぞ顔を上げなかった。だから、あいつの顔も見えないままだった。
だけど、そんな取り留めのないことが、俺にとっては大切なものだったのだと……今になって思い出した。
そして、フォルモンドに はいない。
でも。




