プロローグ
薄れていく視界の中で最後に見たのは、夕日に照らされ赤く染まった空。
そして、涙を溢れさせるあいつの顔。
消えていく聴覚が最後に拾ったのは、俺の名前を叫ぶあいつの声だった。救急車のサイレンだとか、悲鳴だとかは、全部雑音だった。
左脇腹が死ぬほど痛い。そりゃあ、致命傷だから当然か。
もう傷口を抑えるだけの力も残っていない。溢れた血の生暖かさも薄れ始めている。全身がだんだんとただの物質に変わりつつあるのがわかる。
ずっと昔、死んだ婆ちゃんの身体に触れた時の、あのぞっとするような冷たさ。たぶん、俺も間もなくそうなるだろう。ごめん、母さん。爺ちゃんも、ごめん。
でも、滅茶苦茶痛いし、悔いも山ほどあるけど、今はそんなに悪い気はしてないんだ。
だって、俺は……。
――風花
ちゃんと、あいつの名前を呼べたかな。あいつに、俺の声は届いたのだろうか?
分からないまま、俺の意識は深く暗い澱みの中へと沈んでいった。
◇◇◇
中学三年の春。試合で、相手の選手に強烈な小手を食らわされて、手首を折られた時。下手な奴ほど力任せで加減が利かないから、そういう大怪我をさせられることもある。
すぐに手術をするって話になって、麻酔を打たれて……今、あの時の感覚と、すごく良く似ている。
一つ違うのは、俺には二度と目覚める機会はやってこないってことだ。
俺という人間の輪郭が、少しずつ崩れていっているのが分かる。ついさっきまではっきりと思い出せた記憶が、煙草の煙みたいに崩れて消えていく。
手首を折った奴の顔も、あいつが何を持って見舞いに来たかも……そしてもう、そのあいつというのが誰だったかさえ曖昧になっている。
そしてこのまま、俺が宮戸惟吹という人間だったことまで、忘れていってしまうのだろう。それはさすがに寂しかった。
だが、意識がどろどろに溶け崩れる直前、俺は細く蒼い糸に絡め取られた。
一体、俺に残されたどの部分が、それを糸と感じ取ったのか分からない。どうして蒼いと判断したのかも分からない。ただ、それはそういう情報として、何の矛盾も無く俺の意識の中に刷り込まれた。
そして、その糸の一本々々が、琴の弦のように震え、音を発しているのを聞いた。
海底から一気に浮上する時のように、ずっと遠くに見えていた光の壁が、もの凄い勢いで迫ってくる。俺はただなされるがままに、その境界を突き破っていた。