フィジカルセラパー竹林(たけばやし)
俺の名は竹林。理学療法士の仕事をしている。
聞いたことはあるだろう職業だが、具体的にどういう仕事なのか分からない人は結構多いはず。
簡単に言えば、交通事故や生活習慣病で病気を患い、動かしにくくなった手足を動かせるように運動療法で治療していく。それが理学療法士の仕事なのだ。
理学療法士の目的は、これだけじゃないのだが......
「はーい、じゃあシャンプーしましょうね~♪」
俺は、老人施設でリハビリをしているはずなのだが、何故かじいちゃんのツルテカハゲ頭をシャンプーしている。
なんでこんなことになったんだああああああああああああああああ
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時は1年前に遡る。
難関の理学療法国家試験を乗り越え、国家資格を取得した俺は、4月からとある老人施設で働かせてもらう事になった。
俺は、4月に備えて、施設見学をさせてもらうことにした。
「はい、これ私の名刺ね。とりあえず、一通り施設の案内をしたけど、何か質問ある?」
理事長が問いかけて来た。
はい出ました。質問しないといけないという圧力。
目に行く理事長のハゲ頭が気になりつつ、質問の圧力に一時混乱する俺だが、しっかり質問を用意しておいたのだ。
「はい!この施設の病床数はどのくらいあるのでしょうか?」
俺の質問に理事長は、驚愕する。
「今さっき言ったよね?一階と二階合わせて十五床だって?」
理事長は、ニコッと求めてもいない不気味な満面の笑みを浮かべた。
失敗した.......!!施設案内の時に理事長のハゲ頭が気になっていて話を聞いていなかった。
この施設は、二階建てで一階が仕事場、二階は高齢者住宅で通所介護の利用者が寝泊まりする病棟なのだ。
しかし、当たりを見渡せば歩行訓練を指導している理学療法士は数人いるのだが、介護士の仕事であるトイレ介助や食事介助も理学療法士が大体行っている。
理事長は「他職種の連携も必要だからね~♪」と言っていたけど、おそらく介護士の人手不足だろう。
俺も手伝わされるのかな......と不安になるも、とりあえず内定が決まったので安心していた。
しかし、これが地獄の入り口であった。
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そんなこんなで俺も、介護士の仕事を任されている。
連携連携って言うけど、連携なんかしてないっつーの。一日の利用者数三十名を受け持って、介護士はたったの二人。
俺は、利用者のハゲ頭をシャンプーしながらボンヤリと天井を眺め業務のことを考えていた。その時、腕から異常な感触が伝わる。
自分の腕に視線を逸らすと、利用者が俺の腕に噛みついてきた。
「いってええええええええええええええええ」
風呂場全体に悲鳴が鳴り響く。
利用者の行動に怒り狂い一瞬ぶんなぐりたくなったが、老人虐待は法に触れるので殴りそうな手を噛み跡のついた左手でなんとか抑える事が出来た。
なんとかおじいちゃんのお風呂を終え、クタクタになった俺に近くにいた女性が話しかけてきた。
「声が聞こえたけど大丈夫?」
なんとも優しい声だ。
その労いの言葉一つで俺は痛みが浄化された。風呂場の悲鳴に心配して、駆けつけてきたらしい。
声をかけてきた女性は、天城さん。
一人の介護福祉士であり、穏やかな性格である。容姿端麗、美肌で、愛嬌が良い。じじばばたちから人気投票ナンバーワンである。
「大丈夫だよ、ただちょっと噛まれただけ」
「そう?フォローできなくてごめんね。トイレ介助手伝ってたから手が離せなかったんだ。」
「忙しいから仕方ないよ。手が空いてるときは、二人で一緒に介助し合おうね。」
彼女は俺の言葉に励ましだととらえたのだが、実は遠回しにセクハラしたつもりだった。
こうでもしなきゃ、俺の理性は保てないくらい彼女は完璧で美しいのだ。
俺は天城さんと励まし合った後、壁に貼り付けてあるホワイトボードで今日のノルマを確認する。
今日の機能訓練を担当するのは六人とリハビリ体操六人......か。
一二人の利用者を訓練指導しなきゃならない。介護士の仕事だけじゃなく、主な仕事である機能訓練も行わないといけないのだ。
個別機能訓練とリハビリ体操に割り当てられた時間は十五分。一見短いように感じるが、拒否する利用者や問題児の利用者もいるため何が起こるか分からない。その上、介護士の仕事と書類がたくさんある。一日で簡単に終わるような業務ではないのだ。
とりあえず、この溜まった業務を終わらせるため個別機能訓練から潰す事にした。
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「はい、それでは一周歩いてみましょう」
個別機能訓練の時間。今年で百十一歳という長寿のばあちゃんの歩行訓練指導をしていた。
「はぁーーーーーー?なんてぇええええ?」
どうやら俺の声が聞こえないらしい。
俺は、空気を思いっきり吸って、あばあちゃんの耳元で一階に聞こえるぐらいの声量で説明した。
「はぁあああああああああ?なんてえええええええ?アンタちゃんと大きな声で喋りなさい」
聞こえなかったらしい。
それから、一人目二人目と機能訓練を進めようとするも、指示が通らなくて円滑に進まなかった。
リハビリ体操も行ったが、体操を始める寸前にトイレに行き始める利用者などが居て、時間オーバーした。
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そんなこんなで、なんとか業務を終え終礼時間になった。
職員らが輪になって、今日あった出来事や連絡事項を話す。
「えーと、それでは終礼始めます。連絡ある人は挙手してください」
理事長がいつものように仕切り始めた。理事長の頭には、天井にある蛍光灯が映し出されていた。
いつもよりヌルヌルテカテカ。おそらく、育毛剤を塗ってあるのだろう。
そんなどうでもいい事を考えていると、俺の隣にいた天城さんが今にも泣きそうな目で挙手した。
「以前、心筋梗塞で搬送された茂宮さんの件ですが、今日の午後一五時十五分お亡くなりになられました......」
彼女はそう言って、目尻から大量の涙が溢れ出ていた。
何気ないいつもの雰囲気とは一変に、場の空気は静まりうつむいて泣いている職員も数人いた。
隣で泣いている彼女にかける言葉など何一つなかった。なんて言ったらいいのかわからなかった。
泣いている彼女を抱きしめてあげたいみたいなドラマチックな想像もしたが、そんなことは場違いな気もした。
そして、暗い雰囲気の中一日の業務が幕を閉じた。
帰宅途中、仕事の疲れが突然現れていた。電車の中で、この仕事を何で続けているのか考える。
書類は多いし、介護士の仕事もやらされるし、機能訓練の勉強なんてしてる暇もないぐらい忙しい。利用者から殴られることや罵られることもあるし、終礼では気持ちが暗くなるような報告聞かされるし......
そうこう考えているうちに、急な睡魔に襲われ、寝落ちした。
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次の日、俺はいつものようにだるそうにタイムカードを押して出勤する。
今日も一日忙しい業務をしなければならない。少し憂鬱な気分だった。
今日もホワイトボードを覗いて、ノルマを確認する。すると、確認している横から平行棒で誰かが歩行訓練の指導をしていた。
「お、頑張れ!もう少しですよ!!」
そこには、まだ利用者が来る時間ではないはずなのに、理事長が利用者の歩行訓練を指導していた。
「理事長!何やってるんですか!?まだ歩行訓練の時間じゃ......」
「あぁ、どうも(利用者が)体を動かしたいみたいでね。部屋の中では落ち着かないから私に、歩行させてくれって頼んできたんだよ。断ったんだけど、部屋中暴れまわるから連れてきちゃった☆」
介護業の仕事の大変さが改めて分かる。利用者のわがままに付き合わないといけないことだってあるのだ。
「いいかい?見ててごらん」
俺と理事長で利用者の歩行訓練の様子を観察した。
俺はある事に気付いた。歩行訓練をしているのは佐藤さん。パーキンソンという病気を患っていて、車椅子の人だ。
佐藤さんは、小刻みにも一生懸命足を動かして目的地にたどり着こうとしている。少し体勢を崩しそうになるも、右手で必死に手すりを掴んで、動かしにくい足を一歩一歩と全身させる。
俺はその姿を見て驚いた。一年以上訓練しても歩くことの出来なかったあの佐藤さんが、今ここで歩いている。
一歩一歩と佐藤さんはあきらめずに歩行を続け、片道約五メートの平行棒の中を自力で一週することが出来たのだ。
これはとても大きな成長だ。
理事長は、佐藤さんの成長ぶりに嬉しさを抑えきれずに抱き着いた。
佐藤さんは確かに成長したが、理事長の髪の毛は成長することはなかった。
「すごい!すごいですよ!佐藤さん!歩けましたね!!」
佐藤さんも喜んで理事長を抱く。
その二人の光景を見て、俺は思い出した。
昨日、風呂場で噛みついたおじいちゃんが最後に言った一言。それが「ありがとう」だった。
どんなに心身が完璧じゃなくとも、成長する姿や、笑って感謝するじじばばの顔を見ているとこの仕事のやりがいを感じられるのだ。
利用者が満足して日常生活を送り届ける。これが理学療法士の一番大事な役割なんだと思った。