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Cafe Shelly

Cafe Shelly そんなつもりはないのに

作者: 日向ひなた

 新しい年度がスタートする。そして、私がこの会社にいられるのもあと一年ほど。いよいよ定年退職が近づいてくる。

 今の世の中、終身雇用としてずっと同じ会社にいる人の方が珍しい。けれど、私たちが就職した頃は、それが当たり前の時代だった。大学を卒業してから三十七年間、ほどほどの大きさである地元の企業に勤め、今では部長という立場にまでなっている。

 これが取締役にまでなれば、役員として六十を過ぎてもこの会社にいられるのだが。同期の連中の中には出世頭として役員にまで上がったヤツもいるが、残念ながら私はその器ではなかった。だが後悔はない。むしろ、現場を見ることができる立場にいて、楽しく毎日を暮らすことができていた。

 が、ここ数年事情も変化してきた。

「部長のやり方って、なんだか古いんですよね」

 こういったことを平気で、しかも本人を目の前にして口にする若い連中が増えていた。確かに私は古い人間だ。今流行りのスマホなんていうのも使いこなすことができずに、いまだにガラケーを使っている。さらに、パソコンもお手上げである。

 だからといって、仕事の手を抜いているわけではない。むしろ、人を見るようにしてきたつもりなのだが。

「高橋、お前いつまでそんなアナログなやり方をやってるんだよ」

 同期入社であり、出世で私を追い抜いた飯山。今日は彼と久々に飲みに出かけた。

「俺みたいに、もうちょっとITをうまく活用していれば、高橋だって役員になれたと思うぞ」

「ほっとけ。私はこのやり方のほうが性に合っているんだよ。今更ITとか無理だし」

「まぁその通りだけどな。あと一年で定年か。そのあとはどうするんだ?嘱託で会社に残るのか?」

「いや、もう今の会社じゃ無理だよなぁ。せっかくそこそこの年収をもらっていたけど、嘱託社員になったら収入は三分の一くらいまで落ちるんだろ。しかも仕事は雑用ばかりだし。今まで部長と呼んでいたやつらから、コマのように使われるのはたまらん」

「確かにそうだけど。でも、どこかアテはあるのか?」

「そこなんだよ。何かいい仕事先を今のうちから探しておかないと」

 飲みながらも、気分は上がらない。やはり今話題にしている定年後の身の振り方がまだ決まっていないからだ。定年したからと言って家にずっといると、カミさんがストレスを溜めるだけだ。そこはずっと前からカミさんにキツく言われている。

「ところで、新人の方はどんな感じだ?」

「いや、これがちょっと困っていてね」

「ほう、どんなことに困っているんだよ?」

「頭のいいヤツで、仕事に対しての飲み込みは早いんだけどなぁ。なんというか、バリアを張っている感じだな」

「バリア?どういうことだよ?」

「あえて会社の中で友達を作らないようにしているとしか思えないんだよな。この前も昼飯を一緒にと思って誘ったら、『僕は休憩中は自分の時間を大切にしたいので』なんて言われて断られたよ。どう思う?」

「うぅん、これも時代なのかなぁ。確かに、今の若者ってズバッと自分の意見を言うようになったよなぁ」

「なんだろう、忖度ってのをしないのかな。こっちの思いをくみ取ることがないんだよなぁ」

 確かに、時代は変わった。若い人たちに対しての愚痴の内容が変わってきたことを改めて感じてしまった。

 そして翌日。新人の歓迎会をするということで、係長が幹事になって企画をしてきた。その案内のメールが回ってきて出欠をとることになった。

「来週の金曜日の夜か。ここは開けておかないとな」

 毎年恒例行事なので、私は当然のごとく予定を空けていた。が、向こうの方がなんだか騒がしくなっていた。どうやら例の新人と係長がもめているようだ。

「おい、なにかあったのか?」

「部長、聞いてくださいよ。進藤くん、自分の歓迎会なのに出席しないって言い出しているんですよ」

「えっ、どうしてなんだい?」

 これはびっくりだ。新人のための歓迎会に当の本人が参加しないなんて。初めての事態だ。私はあえて優しい口調でその理由を尋ねてみた。すると、新人の進藤くんは真面目な顔をしてこんな答えを返した。

「その歓迎会って、業務なんですか?業務なら仕事として参加しますけど。残業代は出るんですか?」

 この答えには驚いた。歓迎会が業務になると本気で思っているのだろうか。それとも、単に出たくないからそう言って避けようとしているだけなのだろうか。

「歓迎会はさすがに業務にはならないよ。そのくらいはわかるだろう。みんな君を歓迎したいから、集まって飲もうと言っているんだ。そのくらいはわかるだろう」

 さっきまでは優しい口調だった私も、ここにきて少しイライラが募ってきた。口調も少し厳しめになってきてしまった。

「その、みんなで飲もうっていう発想が古いんですよ。そもそも僕はお酒が飲めない体質なんです。だから学生時代から宴会というのは避けてきたんですよね」

 こういう言い訳も初めてだ。

「進藤くん、みんなと仲良くやっていくためにも、君を歓迎しようとしているんだから。これは命令だ。お酒が飲めなくても歓迎会には必ず出席しなさい!」

 ちょっと強い口調で言ってしまった。さすがに私も感情的にならざるを得なかった。すると、進藤くんは冷めた目線で私を睨んで、こんな一言を発した。

「部長、それはパワハラですよ」

 これがパワハラ!?いやいや、どっちがだよ。むしろパワハラという名を盾にとって私の方を攻撃しているのは君だろう。思わずそう言いそうになった。だが、私よりも先に係長の方がキレた。

「進藤、お前社会人としての常識がないのか!こういった付き合いも大切にしていかなきゃ、こういった世界ではやっていけないんだぞ。お前一人で仕事をしているつもりか!」

「はいはい、わかりましたよ。出りゃいいんでしょ、出りゃ。ただし、出るだけですから」

 そう言って進藤くんは自分のデスクへと戻っていった。まったく、なんて新人だ。だが、事態はこれだけでは治らなかった。

 翌日、私は役員から呼び出しを受けた。なんだろうと役員室に向かうと、そこには困った顔をした同期入社の役員、飯山がいた。

「おい、高橋、なんてことをやってくれたんだよ」

「おいおい、私が何をしたというんだい?」

「君のところの進藤くん、彼から告発がきたんだよ。部長と係長にパワハラをされたって」

「えっ、私がパワハラ?

「なんでも、飲み会参加を強制されたとか。自分は酒を飲めないのに、無理やり飲ませようとした。業務時間外のプライベートの時間に対してまで行動を強制された。ということだ」

 昨日のあのことか。

「いやいや、パワハラだなんてそんなつもりはないよ。むしろおかしいのは進藤くんの方だろう。自分の歓迎会なのに、お酒は飲めないので出席しませんだなんて。こういうことをされたのでは、チームの和を乱しかねない。むしろ、お酒は飲まなくていいから会には参加しなさいとは言ったけど」

 まったく、なんて新人だ。まさかパワハラで訴えるなんて。会社側もこういった言葉を真に受けるだなんて、どうにかしている。

「いや、高橋のことだからそんなに問題になることは起こさないと思っているけれど。でもなぁ、まずいんだよ。実はな、隠していたけれど、あの進藤ってヤツは、実は副社長の甥っ子なんだよ」

「えっ、灰原副社長の甥っ子!?」

「そう、この進藤くんの訴え、実は副社長から直々にオレのところにきたんだよなぁ」

 なるほど、それで合点がいった。副社長が後ろ盾しているからこそ、自分の思いを貫こうという態度を取れたんだ。あの進藤くんの堂々たる態度はそこからきていたのか。

「それこそ、これは私たちに対してのパワハラになるんじゃないのか?常識的に考えても、自分の歓迎会を欠席するなんてあり得ないだろう。これについては副社長は何か言っていなかったのか?」

 飯山は黙って首を横に振った。副社長、どうやら身内可愛さに常識を忘れているようだ。

「じゃぁ、私はどうなるんだ?」

「副社長曰く、懲罰委員会を開いて処分を検討するということだ。だから私からの忠告だ。とにかく進藤くんと仲直りをしてくれないか。彼からこの件に対して取り下げしてもらえれば、懲罰員会も開かれないと思うし、仮に開かれたとしても処分は軽くなると思うんだ。な、高橋、お前もあと一年で円満退社なんだから。ここで下手な騒ぎを起こさないようにしろよ」

 納得いかない。裁かれるのはむしろ進藤くんの方だと思うのに。けれど飯山の言い分も確かだ。ここで下手なことをしてしまうと、会社との関係が悪くなる。せっかくここまで築き上げてきたものが、全てパーになってしまう。

「わかったよ」

「わかったって、どうするつもりなんだよ?」

「今回の件は私から進藤くんに謝罪をすることにしよう。ただ、窪田係長はどう思うか。彼はまだ若い。進藤くんに対して不満を漏らし、下手をすると周りのみんなに声を掛けて進藤くんを邪魔者扱いしてしまうかもしれない」

「そうか、そういうこともあり得るか。全く、頭の痛い問題だよ。昔なら部下を一喝しても何も言われない。それが当たり前だったのになぁ。今の時代、パワハラという言葉で逆に俺たちが締め上げられてしまうんだからなぁ」

 この問題、根本的に解決しなければ同じようなことは何度も起きるだろう。さて、どうしたものか。

 この日、係長を飲みに誘ってみた。だが、家庭の事情ということで断られてしまった。窪田係長のところは二人目が生まれたばかりで、上の子の世話をしなければいけないので夜出歩くのは控えているとのこと。こういった事情なら納得いくんだがなぁ。けれど、この件はちゃんと話しておかなければならない。

「係長、じゃぁこれから少し時間とれるかな?」

「えぇ、いいですよ」

「少し外に出ようか」

 こういった話は社内ではやりにくい。気分転換も兼ねて、外の喫茶店にでも行くことにするか。

 係長と二人で、会社近くの喫茶店に足を運ぶ。が、いつも行くところは満席。

「困ったなぁ。どうするかなぁ」

「部長、少し歩きますけど、行ってみたい喫茶店があるんです。いいですか?」

「ほう、どんなところなんだい?」

「うちの妻から聞いたんですけど、なんでも魔法のコーヒーっていうのを飲ませてくれるらしいんです」

「魔法のコーヒー?なんだい、それ」

「いやぁ、妻も人づてに聞いたのでよくわからないんですけど。でも、そこに行くと悩みが解決できるって噂ですよ」

 悩み解決か。今の私たちにはちょうどいいかもしれないな。

「よし、そこに行ってみるか」

 係長は奥さんに電話をして、その喫茶店の場所を詳しく聞いた。どうやらここから五分くらいのところのようだ。歩きしな、係長の口から出てくるのは新人の進藤くんに対しての愚痴ばかり。仕事はできるようなのだが、態度がどうしても気に入らないということ。さらに常識を知らないという言葉も出てくる。

「今の若いやつらはみんな同じなんですかね?」

「いやぁ、そうとも限らないよ。進藤くんの場合は特別かもしれない」

 特別である理由、それは進藤くんが副社長の甥っ子だからということなのは間違いないだろう。

 けれど、進藤くんが副社長の甥っ子であることはみんなには知らされていない。ここで迂闊に私が話してしまうと、進藤くんの立場はさらに悪くなってしまうだろう。このことは係長には言えない。

「あ、ここですね。カフェ・シェリー、早速いきましょう」

 係長の足取りは軽く、ビルの二階にあるカフェへスタスタと歩いていく。逆に私の足取りは重たい。さて、これからどうしていけばいいのだろうか。

カラン・コロン・カラン

 軽快なカウベルの音が鳴り響く。同時に聞こえる女性の「いらっしゃいませ」の声。少し遅れて男性の渋い声でも「いらっしゃいませ」の言葉を耳にする。

 ふぅん、なかなかいい雰囲気の喫茶店じゃないか。ジャズも流れているし、お店のつくりもシンプルだ。小さいけれど居心地のいい、隠れ家的な空間だな。ここなら落ち着いて話ができそうだ。

「お二人ですね。こちらのお席にどうぞ」

 通されたのは窓際の半円型のテーブル席。席は四つあるのだが、そのうちの半分、二つを私と係長が座る。私たちの席を一つ飛ばして、若い女性が。店の真ん中にある丸テーブルの席には、カップル。カウンターには常連さんと思われるお客さんが二人いて、マスターと会話をしている。

「あのぉ、ここには魔法のコーヒーがあるって聞いたんですけど」

 係長が早速女性の店員さんに尋ねる。

「はい。シェリー・ブレンドのことですね。これはぜひ味わっていただきたいコーヒーです」

 やっぱりあるんだ、魔法のコーヒー。一体どんな味がするんだろう。

「じゃぁ、それを二つお願いします」

「かしこまりました。マスター、シェリー・ブレンド、ツー」

 さて、コーヒーが来る前に本題に入ろう。

「さてと、進藤くんのことなんだが」

「その事に対して、僕も部長に言いたい事があるんです。先にいいですか?」

「どんな事なんだい?」

 ここは先に係長の話を聞いた方が良さそうだな。私は改めて係長の言葉に耳を傾ける事にした。

「進藤のやつ、いくら今時の若者とはいえ常識が無さすぎです。確かに仕事はできます。けれど、それは言われた範囲のことの話であって、自分から仕事を作りにいこうという気持ちが見えてこないんです。まだ入って間もないヤツに、そういうのを期待するのは行き過ぎかもしれませんが。どう見ても僕たちのことをナメているとしか思えません」

「そうか、そう感じるか」

「部長はそう思わないですか?」

「まだ社会人としての意識が足りないとは思うが」

「しかも、ああ言った連中にガツンと言ってやると、すぐにパワハラだとか騒ぎ出すし。おかげでこっちは指導もできない。もううんざりですよ」

「確かに、パワハラという言葉ですぐに自己防衛に走るのは困るよなぁ」

 確かに困っている。おかげで私と係長は懲罰委員会にかけられようとしているのだから。そろそろその話を切り出さないと。

「係長、実は…」

 言いかけた時、さらにヒートアップした係長は声を荒げて言葉をかぶせてきた。

「そもそも、あのパワハラって言葉はなんなんですか。自分が不利に追い込まれたら、魔法の呪文みたいにそれはパワハラだって言い始めて。その言葉を盾に自分を守ろうとしているだけじゃないですか。自分が悪いという自覚がないんですよ。反省するべきところはちゃんと反省してもらわないと。ね、そうでしょ」

「確かに、その通りだと私も思うよ」

 係長も私と同じ考えである。しかし、現実に待っているのは私たち二人に対しての懲罰委員会。これはどうしようもない。それこそ、会社から私たちに対してのパワハラと訴えたいくらいだ。そろそろこのことを切り出さないと。

 そう思った時、同じテーブルに座っていた若い女性がこちらの方を向いた。

「あの、すいません。先ほどからパワハラについてお話をしているようですが。一言いいでしょうか」

 なんだ、この女性は。まだ若い、まさに進藤くんと同じくらいの歳じゃないかな。

「どうぞ」

 私がそう促すと、女性はこちら側に体を向けて、キリッとした表情で語り始めた。

「私、去年入社した職場でパワハラを受けて1ヶ月で会社を辞めました。原因は先ほどからお話の中で出ている歓迎会です。私、アルコールが飲めない体質なんです。飲むと蕁麻疹が出て、呼吸困難になってしまいます」

 そんな人もいるのか。女性の話は続く。

「そのことは上司にはきちんと伝えていました。その時、上司はそのことを承知した、メンバーには話しておくからと言ったんです。だから安心して私の歓迎会に出席しました。でも、やはり恐れていたことは起きました」

「恐れていたこと?」

 係長が興味深そうに尋ねる。女性はこう答えた。

「お局さん的な女性社員から、お酒を注がれたんです。そしてこう言われました。『私の酒が飲めないの』って。上司はそのことを咎めもせず、むしろこんな席なんだから少しくらいはいいだろうって言い出して」

「でも、蕁麻疹と呼吸困難になるんだろう?なんて上司だ」

「それだけじゃないんです。上司がそう言うものだから、周りのみんなも囃し立ててきて、私もさすがに頭にきて。それでコップ半分のビールをグイって飲んじゃったんです。そうしたら…」

「そうしたら?」

 女性の次の言葉が気になる。食い入るように女性を見ていると

「お待たせしました。シェリー・ブレンドです」

 ちょうどのタイミングで、店員さんがコーヒーを持ってきた。まるで続きはCMの後で、みたいな感じになってしまった。

「あはは、まずはこのお店のシェリー・ブレンドを味わってみて下さい」

 女性からそう言われて、係長と顔を見合わせる。そう言うならと、先に魔法のコーヒーを味わうことにした。

 カップを鼻に近づけると、とてもいい香りがする。さらにコーヒーを口に含むと、一瞬バラの香りがした。そう、バラの花束を抱えている感じ。これってバラの香りづけがされているのかな?

 この時、一瞬頭に浮かんだのは、私が定年退職をする姿。以前、同じように定年退職をした先輩社員が、最後にバラの花束をもらった光景と重なった。

「何これっ、チョコレートのような味がするぞ!」

 隣で係長がそう叫んだ。えっ、チョコレート?バラの香りとは違うのか?どういうことだ?

「あなたはチョコレートの味が感じられたのですね。何かチョコレートに関することって、最近起きませんでしたか?」

 女性の問いかけに、係長はこう答えた。

「実は赤ちゃんが生まれたばかりで、知り合いから出産祝いにチョコレートをもらったんですよ。結構高級なやつを。それをみんなで食べようねって大事に取っていたんですけど、妻が勝手にお客さんにそれを出しちゃって、オレ、食べ損なったんですよね。それが悔しくて。今、一生懸命二歳になる上の子の世話をしているのに、家庭の中でオレが大事にされていない感じがしちゃっ」

「なるほど、チョコレートは家族から大事にされたいという思いの象徴なのかもしれませんね」

 側でこの話を聞いていた女性店員さんがそう口にした。

「そちらの部長さんはどんな味がしたのですか?」

「私?私はバラの香りを感じたんだけど。この時に、一瞬退職をする時の自分の姿が頭に横切ったよ」

「失礼ですけど、もうじき退職されるのですか?」

 女性の問いかけに、私は素直に答えた。

「来年定年でね。だから後一年は何事もなく、平穏無事に過ごしたいと思っていたんだけど。さっき話した通り、新入社員の問題が起きてしまってね。どうしたものか」

「ということは、バラの香り、そして退職をするときの光景が浮かんだというのは、円満に定年を迎えたいという願望の現れですね」

 これも女性店員が口にした。

「確かに今はそれを望んでいます。でも、どうしてそんなことがわかるのですか?」

「これがシェリー・ブレンドの魔法なんです。シェリー・ブレンドは飲んだ人が今欲しいと思っているものの味がします。人によって感じる味が異なるんです。だから、そちらの方はチョコレート。これは家族から大事にしてもらいたいという願望。そしてこちらの方はバラの香り。これは円満に定年を迎えたいという願望の現れということがわかったんです」

 そういうことか。飲む人によって味が変わるなんて、まさに魔法のコーヒーだな。

「私はここのコーヒーのおかげで、パワハラを受けた会社を辞めて新しいことに取り組むことができたんです」

「そうそう、さっきの話の続きを聞かせてよ。歓迎会でビールを飲んだ後、どうなったんだい?」

 係長が食い入るように女性に問いかけた。

「はい。そのとき、一瞬にして蕁麻疹が出て顔が真っ赤に膨れてしまいました。さらに呼吸困難を起こしてしまい、救急車を呼ぶ騒ぎになってしまったんです」

「救急車!?それで、どうなったんですか?」

「そんな騒ぎを起こしてしまったので、会社の中でも問題になってしまって。でも、私にお酒を無理強いしたお局様と上司は何のお咎めもなし。私だけが社長や役員の前で叱られてしまったんです」

「それっておかしくないですか?あなたが叱られる意味はありませんよね?」

「それが、どこでどう話がねじ曲げられたのかわかりませんが、そもそも私が最初に歓迎会を拒んだのがいけない。社会人としてこういう付き合いには快く参加するものだ、なんて言われて。さらに、お酒を飲んだのは私の不注意にさせられたんです」

 これは明らかに組織ぐるみのパワハラだ。責任を本人に転嫁することで、自分たちの責任を逃れようとしている。

「その時にこのカフェシェリーに出会って、シェリー・ブレンドの魔法のおかげで自分のやりたいことを見つけることができたんです。だから私は今ではそちらの仕事に就くための勉強をしています」

「どんなことを見つけたんですか?」

「はい、これです」

 そう言ってその女性が見せたのは、なんと司法試験のテキスト。

「私みたいな労働条件で困っている人を助ける仕事がしたくて。弁護士を目指しているんです」

 弁護士とは恐れ入った。女性は続けてこんなことも言い出した

「でも、守るのは労働側の人だけではありません。逆に雇用側にも守るべき理由がある場合もあるんです。ほら、よく話題になっているバイトテロってあるじゃないですか。不適切な動画をSNSに流してしまったおかげで、お店を潰さざるを得なくなるようなケース。こういう場合は、雇用側を守ることも必要だなって思うんです

「確かに、パワハラだけじゃなく、こういうバイトテロみたいなのもある意味ハラスメントだよなぁ」

 係長の言う通りだ。じゃぁ、今回の我が社のケースはどう扱えばいいんだろうか。

「今回の我が社で起きていること。これをもう少し詳しく話をさせてもらってもいいですか?」

 思い切って女性に切り出してみた。

「まだ資格を持った人間でないので、ちゃんとした相談を受ける立場ではありませんが。あくまでも私の私的な意見としてならいいですよ」

「ありがとうございます。実は…」

 女性に一通りの経緯を話してみた。側では女性店員も聞いてくれている。途中、係長が自分の考えを挟もうとしたが、あえてそれを止めて起きたことの事実だけを話してみた。そしてこの時にこのことも切り出した。

「実はそのせいで、私と係長は会社の懲罰委員会にかけられようとしています。これこそ、私たちから見れば会社側、いや新入社員側からのパワハラに当たるんじゃないでしょうか」

「えっ、部長、俺たちって懲罰委員会にかけられるんですか!?」

 係長、さすがに驚いたようだ。

「確かに、私の目から見てもいき過ぎたことだと感じました。私みたいにお酒を強要されたという事実があるのならまだわかりますが。何でもかんでもパワハラという言葉で自分の思いのままにしようとしているように感じますね」

 女性は私の言葉に共感してくれたようだ。だがここで、女性店員がこんなことを言い出した。

「一ついいですか?その新入社員と、このことについてしっかりと話をしましたか?」

「えっ、話、ですか?いえ、まだですが」

「では、私から提案です。お互いの考え方や思い、価値観を知るためにも、しっかりと話をされてはいかがでしょうか。この時には決して感情的にならずに、お互いの思いを伝え合うこと。これを心がけてみてください」

「感情的にならずに、か。そういえば昨日は私も思わず感情的になって進藤くんを叱ってしまったからなぁ」

 ここは大きな反省点である。失敗だったな。

「でも、相手がこちらの話を聞いてくれるでしょうか?進藤を指導していると、あいつはいつも『そのくらいわかってる』って態度をとるんですよね」

 進藤くんの一番身近にいる係長がそう言うのだから、進藤くんにも問題がありそうだ。だが女性店員がさらにこう言ってきた。

「そのくらいわかっている、ですか。もしかしたら、『このくらいもわからないのか?』なんて言葉を使っていませんでしたか?」

「あっ!?」

 係長、思い当たることがあるようだ。

「確かに使ってたな。でも、今時の若い奴らは常識を知らないんですよ」

「そこなんですよ、私が反論したいのは。じゃぁ、みなさんはスマホの活用方法とか知っていますか?」

 若い女性が反論してきた。

「私が一番苦手とするところだな。ITというのがさっぱりわからなくて。いまだにガラケーを使っているからなぁ」

「お互いに常識と思っている範囲が違うんです。そもそも私たち、常識を知らないのではなく皆さんが言う常識というものを習っていないんです。教えられていないことを知らないのは当然じゃないでしょうか。特に社会人としての常識は、会社に入ってから学ぶものだと私は思うんですよね」

 そう言われて言葉が出てこない。

「わかりました。まずは私が進藤くんときちんと向き合って話をしてみよう。係長、それでいいかな?」

「はい、俺もちょっと感情的になりすぎたかもしれませんね。自分の常識を進藤に押し付けていたかもしれない。部長、よろしくお願いします」

「じゃぁ、その進藤さんに対しての思いを、残ったシェリー・ブレンドにきいてみましょう」

 そう言われて、少し冷めたコーヒーを改めて口にしてみる。すると、さっきはバラの香りがしたのに。今度は全く違う。とても濃いコーヒーの味がした。しかしそれは苦味などではない。深みがあってまろやかで、そして爽やかにも感じる。

 そうか、私は進藤くんに対してもっと深みのある、爽やかな社員に育って欲しい。そう願っているのか。

「係長、どんな味がしたかな?」

「はい。さっぱりとした、それでいてとても味の濃い感じです」

「私も似たような感じだ。深みがあって、それでいて爽やか。そんな人に育って欲しいと願っているよ」

「お二人の思いは同じのようですね。ぜひその進藤さんときちんと向き合って、彼の思いを聴いてあげてください。その上でこちらの思いを伝えてみると、きっとわかってくれますよ」

「そうしてみます。ありがとう」

 お店の人たちにお礼を言って、私と係長は会社に戻ることにした。帰りしな、係長がこんなことを言ってくれた。

「そういえば思い出しましたよ。まだ俺が新人だった頃、当時の部長にこっぴどく叱られたことがあったんです。その時、まだ部長が課長で、後から俺の話を聴いてくれたことがありました」

「そんなことがあったっけなぁ」

 私の記憶からは残念ながらそんなことは消えていたようだ。だが、係長はよく覚えているらしい。

「あの時、この人は神様だって思えたくらいです。俺の言い訳に対して、反論もせずにしっかりと聴いてくれて。最後に一言『大丈夫、君ならこの先なんでもこなしていけるさ』と勇気付けてくれました。おかげで今があるようなものです。部長、改めてあの時はありがとうございました」

「いやいや、上司として当然のことをしたまでだよ。確かにあの時の部長はちょっと堪え性のない人だったもんなぁ」

「それと比較すると、部長は仏様みたいな人ですよ」

「おいおい、仏様だったら私はあの世の人になっちゃってるじゃないか」

 笑いながら会社に到着。さて、仏様の顔で進藤くんと向き合ってみるか。早速進藤くんに声をかけてみる。さて、進藤くんの真意はいかに?

「進藤くん、少し時間とれるかな?」

「今やっている仕事を後伸ばしにしていいのなら大丈夫ですが?」

「急ぎの仕事かね?」

「定時までに仕上げてくれと課長から言われたので。でも少しくらいなら大丈夫です」

 相変わらず理屈っぽいところがあるな。でもそこは仕事熱心な証拠でもある。

「じゃぁ、会議室に行こう」

 会議室へ移動するときに、自動販売機の前に立つ。

「飲み物、どれがいいかな?」

「えっ、いいんですか?じゃぁ、このエナジードリンクをお願いします」

 エナジードリンクとは。この販売機の中で一番高いやつじゃないか。普通は遠慮して、コーヒーとかにしておくものだが。まぁこんな感じで自己主張できるのも、今の若い世代だからこそできることなのかもしれないな。

「エナジードリンクか。そういえば私は飲んだことがないな。これって効くのかね?」

「そうですね、眠たい時なんか目が覚めますよ。もうひと頑張りしないといけない時とかも。昨日の夜、ちょっと寝るのが遅かったもので」

「なるほど。じゃぁ私もこれにしてみるか」

 今は進藤くんに話を合わせることに意識を向けてみる。にしても、エナジードリンクなんてホント初めて飲むな。どんな味がするのだろう。

「さて、進藤くん、今回時間を取ってもらったのは…」

 会議室の椅子に座って早々、私が語り始めると、進藤くんは私の言葉を遮ってこう言いだした。

「わかってますよ、例の件ですよね。部長はボクが副社長の親戚だということはすでにご存知でしょう?」

 なんとなく圧力的な感じを受ける。が、それに対してあえてニコリと笑って応える。

「そのことは先日、飯山役員から聞いたよ」

「ボクはそのおかげで、とても窮屈な思いをしているんです。みんなの目線が怖くて」

 意外な言葉だった。うつむき加減で、肩を震わせながらそう言い出す。

「何が怖いんだい?」

「だってそうでしょう。副社長のコネで入社して、何もできなくても出世コースを歩むなんていう目線で見られて。だからボクは必要以上に頑張らないとみんなから認めてもらえない。そんな環境の中で、落ち着いて仕事ができると思いますか?」

 進藤くんの声がだんだんと大きくなる。さらに話は続く。

「係長もそんな目線だから、ボクのことを冷たくあしらうんだ。他のみんなだってそう。ボクはボクのままでいたいのに、妙な目線でボクを見ている」

 進藤くんはそんな思いを持っていたのか。ここで思わず「違うよ」と言いそうになった。

「まずは話を聴いてあげてください」

 喫茶店で耳にしたこの言葉が、頭の中をよぎった。まずは進藤くんの話をしっかりと聴いてあげなければ。

「そうか、そんな思いをしていたんだね」

 否定ではなく、共感の言葉を口にしてみた。すると進藤くん、堰を切ったようにさらに話し始めた。

「そもそもボクは、この会社に入るつもりはなかったんです。失礼な言い方なのを承知で言わせていただきます。ボクはデザイナーになりたかった。でも、ボクの才能じゃ残念ながら社会では通用しなかった。そんな時に叔父から、自分のところなら面倒みてやるからと言われて。父もそれならと半分押し込められるようにして入社したんです。今回のことだって、たまたまウチに来た叔父に、会社はどうだと言われて、つい歓迎会の話をしてしまったんです。そうしたら叔父の方が勝手に『これはパワハラだ』とか言い始めて。大学生時代にお酒を飲めないのに強要されて、ひどい目にあったことを叔父も知っているので、その時のことを思い出したんでしょう」

 そうだったのか。コネで入社したことで、こんなにも苦しい思いをしていただなんて。進藤くんは彼なりに苦労しているんだ。これは同情してしまうな。

「進藤くん、すまなかった。君がそんな思いをしていたとは知らなかったよ」

 私は彼に深々と頭を下げて詫びを入れた。すると、進藤くんは驚いた顔をしている。

「どうして部長が謝るんですか?」

「どうしたもこうしたも、部下の思いをくみ取ってあげることができない管理職は、管理職失格だよ」

「そんなことはありません。むしろ、他の人がボクのことを偏見の目で見ているから…」

「進藤くん、それは誤解だよ。君が副社長の親戚だということは誰も知らない。私ですら先日初めて耳にしたくらいだからね」

「そ、そうなんですか?じゃぁ、どうしてみんなボクを見る目線が冷たいんですか?」

「うぅん、これは正直に言っていいかな?」

「正直にって、どんなことでしょうか?」

「どうやらみんなと進藤くんの間にはジェネレーションギャップがあるみたいなんだ。みんなの常識と進藤くんの世代の常識が大きく異なっているようでね」

「例えばどんなことですか?」

「これが歓迎会問題だよ。自分の歓迎会を、お酒が飲めないからといって断るというのは、私たち世代からみると信じられないことにとられられてね」

「そうなんですか。学生時代は行きたくない宴会は断るのが当たり前でしたから」

 私はここで、先程カフェ・シェリーで出会った女性の言葉を思い出した。

「さっきね、係長と二人で外の喫茶店に行ったんだ。その時に出会った進藤くんくらいの女性に言われた言葉があるんだよ。お互いの常識の範囲が違う。そもそも私たちが常識と思っていることを、進藤くん世代は誰からも習っていない、と。確かにその通りだ。そもそも常識と呼ばれているものなんて、時代とともに変化していくものだからね。私なんて今の常識であるスマホなんて全く使えないし」

 しばらく黙り込む進藤くん。そしておもむろにパッと顔を上げて、こんなことを言い出した。

「部長、ボクに皆さんが持っている常識っていうのを教えてくれませんか?ボクだって非常識な人間だって思われたくありません。ただそれがわからないだけなんです。よろしくお願いします」

「うん、わかった。もちろん協力するよ。とりあえず、迷ったり周りの反応がどうしてなのかわからない時は、遠慮なく私に聞きにくるといい」

「でも、部長がいないときはどうすればいいんですか?部長に気軽に連絡することができるといいんですけど」

「うぅん、そういうこともあるか。何かいい手はないかね?」

「せめてLINEが使えれば」

「そのLINEというのは、そんなに便利なものかね?みんな使っているみたいだし、うちの妻も子どもと使っているみたいだし」

「はい、メールよりも手軽だし。相手が読んだかどうかもわかるし。それにスタンプといって、今の気持ちや挨拶なんかもユニークなイラストで送ることができるし。部長はガラケーでしたよね。そろそろスマホデビューされてはいかがですか?」

「でも、スマホって利用料が高いんじゃないのか?」

「それほどでもありませんよ」

「でも、使い方って難しいんじゃないか?」

「何事も慣れですよ。ボクが社会人としての常識を知らないのと同じで、知ってしまえば当たり前になりますよ。あ、そうだ。じゃぁこうしませんか?部長はボクに社会人としての常識を教えてくれる。ボクは部長にスマホの使い方を教える。それでいきましょうよ」

 進藤くん、なんだか急に生き生きとしてきたな。ここで意固地になるのもなんだし。この際、私もスマホデビューしてみるとするか。

「よし、わかった。じゃぁそうしよう」

「はい。それでは早速、部長に合う機種と料金プランを調べておきますね」

「進藤くん、それはありがたいが、私のこととはいえ業務中にやる仕事ではないからな」

 ここは軽く、冗談交じりにそう言ってみた。けれど進藤くんは、真面目に私の言葉を受け止めたみたいだ。

「そ、そうなんですか。部長命令だから、仕事の時間内にやっていいものかと思いまして」

 なるほど、お互いに認識の違いというのはこういった些細なところにあるものなんだな。

「ははは、進藤くん、まずは相手の表情や口調から、今のが命令なのか、それとも冗談なのかを読み取ることも覚えないといけないな。まぁ、プライベートに関わることは仕事以外の時間か、休憩時間に行うというのが一般的なルールだよ」

 こういうことから教えないといけないのか。一瞬、今の若い奴らはと思いそうになったが、それは違う。若い連中が悪いのではない、教えてこなかった私たちが悪いのだから。こういったことからしっかりと教育をしていく、それが今の私に課せられたことなんだな。

 それと同じように、若い世代も私たちに対して同じようなことを思っているに違いない。どうしてスマホくらい使えないのか、パソコン操作を覚えないのか、などなど。お互いに分かり合えるためには、お互いが勉強をしていく必要があるんだな。

 こうして進藤くんと新しい付き合いが始まることとなった。

 私と係長の懲罰委員会の件は、進藤くんがすぐに副社長に取り消しを訴えたため、なんとか回避することができた。

 ここでも思ったことがある。私たちと経営層、ここにもそれぞれの常識があり、お互いにその範囲内で考えているだけのことが多いんだな。このことを同期で役員の飯山に話してみた。

「それは俺も思ったよ。役員室に入って知ったことだが、世界が大きく変わったって気がしたもんなぁ。高橋、どうすればこの壁を取り払うことができるかな?」

「そうだな、やっぱりきちんと会話をすることじゃないかな。私と進藤くんがきちんと話をしたことで、お互いの常識というのが理解し合えたからな。そういう会話の場をつくるっていうのはどうだろう?」

「そうだな、そういうのを役員室に提案してみるか」

 なんかいい感じで物事が進んできたな。私の務める最後の年に、この会社がいい方向に向かうことができるとありがたい。そういったことに少しでも貢献できたことが嬉しい。

 ちなみに、進藤くんとはライン友という形で、私は若い人たちの考え方を、進藤くんは私たち世代の考え方を伝え合っている。おかげで最近

「部長、若いっすね」

なんて言われるようになった。ありがたいことだ。


<そんなつもりはないのに 完>

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