庇護
お久しぶりです。
「まず児童相談所に通報する。すると48時間以内に朽無やお姉さんの安全確認が始まる。その次に保護者への尋問をして、虐待と認定されたら二人は施設で一時保護される。そこには敵がいないハズだよ」
「児童虐待」という単語を聞いた時から、頭の中で様々な知識が津波の様に押し寄せていた。それを思いきって声に出すと、彼女はぽかんとした顔でこう言った。
「……オマエ、現実で警察でもやってたのか?」
「分からない。ここに来た時に、記憶を消されたみたいだから」
ただ、診断書によると16歳らしい。学生を職業に入れるなら「学生をやっていた」と言えそうだが、学生をしていない可能性もある。あまり学問に関する知識がないからだ。
不登校か、受験に失敗して引きこもっていたか。そのどちらかだろう、多分。
「オレ達が消されたのはここに来る直前の記憶だけじゃねーのか?」
「私に聞いても答えは出ない。知りたいなら、病理の外に出て確かめるしかないよ」
いい口実になるかと思ったけど、この言葉は私の期待通りの反応を引き出せなかった。「外」という言葉に恐怖の色を示されたからだ。実際は怒った顔なのだが。
「だから……」
「花菅さんから全部聞いた。その上で、ここから連れ出そうとしてる」
しばらく朽無の言葉を待つ。彼女は右腕で顔を覆いながら、ぶるぶる震えていた。……注視していたのが良くなかったのだろうか。
視野を広げる。何故か頭上にも視界が及んでいた。どうやら頭にも目が生えたらしい。
「なるほど……これは困った」
冷や汗が一筋、背中に流れた。
大小様々な黒が空間に滲み、私達を囲んでいる。……「廃人」が現れる合図だ。
「オレが戦えば……」
「それはさせないよ」
今にも暴れ出しそうな朽無を手早く抱きかかえ、私は医者屋の方向へ駆けた。
「い……っ」
しかし陣から抜け出す前に、一人の形成が終わってしまう。二の腕の上を鋭い爪が走り、音もなく赤い線が引かれた。血が流れるハズの傷口から、何故か新しい眼球が生まれる。
こんな所にあっても邪魔だ。後で隠しておこう。
「おいっ、どーすんだよっ……このままじゃ勝ち目がねーだろ、戦わせろっ!! でなきゃ死ぬぞ!!」
「勝つ気は元からない。ここで死ぬ気もあまりないし、朽無を戦わせる気なんて更々ない。……逃げるよ!」
退廃的な空間に、死者の声が次々と響き出す。「廃人」達は頭を折ったり腹を破ったりして、ゴキブリやアリ、バッタに姿を変えた。変態前の要素を残しているのが気持ち悪い。
おかげで走る速度が上がった。何なら息も上がりそうだったが、そこは気合いで何とかした。根性論という奴だ。
……けれども、病理は現実と同じぐらい世知辛い。オレンジの灯りまであと少し、という所で、またも私達を阻む「廃人」が湧いてきた。
「……ナ……ナナ……」
「……イモムシは、そんなサイズに……ならないっ……」
息も絶え絶えに、私は苦情を訴える。
それは巨大なイモムシの「廃人」だった。廊下を隙間なく埋められる程度には長く、縦の幅も2メートルは超えている。身体の側面には規則的に白い斑点が並べられていて、私達を威嚇する様に点滅していた。先に行こうものなら殺す、という思惑が見て取れた。
こいつを飛び超えるのはまず無理だろう。図体が大き過ぎる。……あと、この身体でどれだけ飛距離を稼げるかが分からないので不安だ。
隙間を通り抜けられるならいいのだが、そんなスペースを取ってくれるほどの優しさをイモムシが持ち合わせているとは思えない。
状況はどこまでも絶望的だ。こうなったら、朽無を向こうに飛ばして逃げてもらうしかないだろう。
とりあえず、彼女が死ななければいい。私の死や大怪我で、病理からの脱出を決意するかもしれないからだ。
両腕に抱えていた命を下ろす。まるで自分の体温が消えていく様で、少し名残惜しかった。
「飛んで。私がカタパルトになるから」
「何言ってるのか全然分かんねーよ……」
「私がここで死ぬから、朽無は生きて。そういう事」
「……は?」
ここまで「理解できない」という顔をされると少し傷つく。一拍置いて、今度は物理的に傷ついた。黒い塊……バッタ型の「廃人」が跳んできたからだ。
私達の背後ではアリとゴキブリ、その他有象無象の「廃人」達がもみくちゃになって争っていた。現実でもあまり見たくない光景だな、と思う。
同じ気持ちなのか、バッタも私達を襲う様子はなかった。むしろあのイモムシ型の「廃人」を飛び越えるために、ぐっと力を溜めている。
「ふざけんなよ、そんな事言われて「はいそーですか」ってなると思ったのか!?」
「ならないなら、無理やりにでも」
朽無をバッタの頭に乗せ、尻を蹴った。バネの様に飛び上がった「廃人」は、イモムシの巨体も余裕で越えられそうだった。
必死にしがみつきながら、朽無が何かを口走る。内容は理解できなかった。
あまり心配させたくないので、とりあえず笑ってみた。
挨拶はどうしようか。あまり長いと聞こえなくなるだろうし、シンプルで短いモノにしておこう。
「じゃあね。元気で」
病理で笑ったのは、これが初めてだ。
そして、これが最後である。
イモムシがこちらに向かってきた。私の脳がおかしいのか、やけに遅い。目も鼻も口もないのっぺりとした顔なのに、敵意だけがはっきりと伝わってくる。
「物分かりがいいね。貴方の相手は私だよ」
私は無感動でそれを受け入れた。