廃人
事前に得ておいた知識は、真実に直面した時のダメージを幾ばくか軽減してくれるらしい。実際、眼球だらけの身体も「多眼症」なる病の事も、私はすんなりと受け入れられる様になっていた。
知識は真実の備えとなる、と「親友」は言いたかったのだろうか。そうでなくても、私がこの言葉を肝に命じておく事に変わりないのだが。
テーブルの上に置かれたモノを一つにまとめて、入院着のポケットに入れる。どれも小さいサイズとはいえ、全て収まるとそれなりの重さとなった。
さぁ、この病理を探索し、脱出するための手がかりを探さなければ。
部屋には窓がない。ただ明かりが見えたので、その方向に歩くと扉があった。一部が磨りガラスになっていて、そこから淀んだ緑色の光が射している。引き戸の近くには、メモが二つ貼ってあった。
『気をつけるべき存在について教えておく。
診断書が真っ黒に塗り潰された人は「廃人」だ。
「廃人」は治療薬を飲まなかった、あるいは足りなかった患者の成れの果てで、自分の病室がない。
彼らは時にキミや他の人を殺そうとする。もし見つかって追いかけられたら、まともなネームプレートが掛かっている病室に避難させてもらった方がいい』
『廊下に出たら、まずは治療薬や点滴を売っている所を探して。
他の人と出会えたら、場所を聞いてみるのもひとつの手だよ』
助言をノートに挟んでから、私はゆっくりと引き戸に手を掛けた。
あまりにも狭過ぎる世界が、今まさに拡張されようとしているのだ。
期待と不安、好奇心と恐怖が揺れ動く。
深呼吸。
そして、
拡張。
「明るい……」
始めに出たのは、そんな声だった。
天井では緑色の蛍光灯がどこまでも続いている。まともに点灯しているのは一部だけで、他はチカチカと明滅を繰り返していた。私のいる所は立地が良かったのだな、と思う。
向かいにある病室は、ネームプレートが白紙だった。住人が「廃人」になったのか、そもそも人がいないだけかは分からないが、頼りにできないのは確かだ。
廊下はどちらに行ってもしばらくは曲がり角が無さそうなので、右に進む。ネームプレートが掛かっている部屋はまばらで、真っ黒に塗り潰されているモノもいくつか見つけた。
白紙とは何が違うのだろうか。気になるので、書き留めておこう。
『ネームプレート
白紙と黒塗りがある』
ノートから顔を上げようとした時、滲む様に何かが現れるのを見た。
子供の姿をした真っ黒な「それ」は、私の後方で四つん這いになって動いている。
「ナイ……ナイ……」
生気のない声が、静かな空間にしんしんと響いた。
間違いない、あれが「廃人」だろう。
「ナイ……」
私は恐怖心に身を任せ、すかさず逃げる。だが、それが仇になってしまった。
黒一色の身体が急激に膨らむ。
「ナイ……ワタシノバショ……ナイ!!」
「うわっ!?」
程無くして乾いた破裂音がした。私の足を止めて振り向かせるのには、十分過ぎるほどの音量だ。
それだけなら良かったのに、弾けた腹からはわらわらと小さなクモが出てきた。気味悪いほど素早い動きで、私の後を追いかけてくる。
クモが近づくほどに恐怖は加速した。一直線に逃げろ、と動物的な本能がうるさい。どうせ追いつかれるのに、愚直に逃げたって仕方ないだろう。
私は必死に頭を回した。
「廃人」には自分の部屋がない。ならば廊下は彼らの領域じゃないか。ここはまともなネームプレートのある部屋を探して、そこに避難した方がいい。
私は自分側にある病室を見た。……三つ先に名前がある!
だが、クモの群れは容赦なくこちらへ突っ込んでいる。このままだと、住人が来るまで無事でいられるかも分からない。
止まるよりはマシだ、走れ守徒!
言い聞かせながらそこに向かい、二回ノックした。少し乱暴かもしれないが、そこまで考慮できるほどの余裕はなかった。
「あのっ、少しの間だけ避難させてくれませんか! 「廃人」に追いかけられているんです!」
返事はなかった。まさか、出掛けているのだろうか。
絶望と共に、耳障りな音が私を取り囲む。とうとうクモに追いつかれたのだ。
何も知らないまま死にたくはない。脊椎反射的に、無様な命乞いをした。
「お願いします、助けて!!」
「──助けるから退けぇ! 頭打って死ぬぞ!」
自分でも誰に対してのモノなのか分からなかったが、奇跡的に願いは聞き届けられた様だ。大人しく声の通りに飛び退く。
黒の大軍が私を蹂躙しようとした瞬間、引き戸が勢いよく倒れた。
否、巨大な手によって引き戸ごとクモが押し潰された。
「新入りかよ、大丈夫?」
「ありがとうございます……大丈夫です」
助けてくれたのは、私よりずっと背の低い少女だった。黒い髪は短く、乱雑に切られている。私と違って目玉だらけではないものの、彼女もまた普通ではなかった。
そう、先ほどクモと化した「廃人」を倒したあの腕だ。丸太の様に太くて力強そうだが、貧血を疑うほど青白い。命の恩人なので、嫌悪感は感じなかった。あのクモの方が怖かったからというのもある。
少女は私の胸元を一瞥して、白い歯を見せた。
「守徒って言うんだな、オマエ。オレは朽無、ここの用心棒やってんだ。タメでいいぜ」
確かに用心棒と言うにはぴったりな見た目をしている。可愛らしい顔は絆創膏やガーゼが当てられていて、入院着もボロボロだった。
「ええと……朽無、この辺りに治療薬と点滴を売ってる所はない? ここに来たばかりだから、分からないんだ」
「医者屋か? 言われなくても連れてってやるよ」
倒れてしまったドアを指で示し、わざとらしいぐらいにっこりと笑う朽無。
「弁償な」
「あっはい」
私は二度目の脊椎反射を起こした。