零日
目を覚ますと、赤く錆びついた天井が視界を占拠していた。電球などの類いは見当たらないが、不思議と暗さは感じない。
換気扇の回る音が、やけに大きく聞こえた。
ここはどこだろう?
自分は一体何者なんだ?
どうすればこの場所から出られる?
意識が明確化するにつれて、次々に疑問が湧いてきた。
「何かひとつでも疑問を解消する手がかりが欲しい」……そう思いながら、寝かされているらしい自分の周囲に目を向けようとして。
異変に気づく。
わざわざそんな事をしなくても、よく見えたからだ。
いくつかのメモとシミだらけの紙袋が置かれた黒いテーブル、空になった点滴パックの山、黒ずんだ背後の壁、鉄臭い床に散らばった銀色のコイン。
普通なら少しばかり首を回さないと見えないモノが、何もしなくても見えている。
明らかに人間の視界ではない。
私は草食動物にでもなったのだろうか。それにしては立体的に見える部分が多過ぎる。
そもそもの話、今見ている身体は確かに人間のそれだ。
このまま考え続けて答えが浮かんでくるとは、到底思えない。硬い寝台から下りて、見えたモノをもう少し調べてみる事にした。
まずは床に散らばっていたコイン。これは全部で20枚もあった。輝く杖が描かれているが、特に手がかりにはならなさそうだ。まとめてテーブルの上に置いた。
次に点滴の山を漁ってみたものの、何もなかった。僅かに残っていた液体が、ぼんやりと青く輝いていたぐらいだ。
壁を調べた時、ようやく手がかりとなりそうなモノを見つけた。
ネームプレートだ。ご丁寧に「守徒」と振り仮名付きで書かれている。これが私の名前かもしれない。
最後にテーブルの上に置いてあったメモに目を通した。
『これを読んでいるキミへ
「病理」。それがこの世界の名だ。ここは決して現実ではない。
だけど、病理はとうとうキミにとっての現実になってしまった。
……幸いな事に、人間はどんな現実でも嫌ってしまう性質がある。もしキミがまだ人間の感性を保持していて、早くここから出たいと願うのなら、ぜひその通りにするべきだ』
走り書きの文字なので少し読みづらい。よほど急いでいたのだろう。
『急がば回れという言葉がある。焦って出口を探しても、かえって見つからない事の方が多いんだ。
知識を蓄えて、真実から目をそらさないで。
前へ進むためには、痛みがつきものなのだから。
痛いから、辛いからといって進むのを諦めてはいけないよ。
もしキミと同じ様に「ここから出たい」と願う人がいたら、なるべく一緒に行動した方がいい。お互いを道しるべにすれば、少しは進みやすくなるハズ。
……散々偉そうな事を書いたけど、これはボクの我が儘だ。
最早ボク一人ではどうする事もできないから、キミの願望に寄り添う形で助けを求めている。
どうか許してくれ。
キミの親友 ■■■より』
最後の名前は黒いインクで汚れて読めなかった。
メモを置いていったのがこの「親友」だと言うのなら、隣の紙袋を置いたのも彼、もしくは彼女なのだろう。
中身を出すと、錠剤と白いノート、赤色のシャープペンシル、折り畳み式の手鏡が出てきた。その全てにメモが貼りつけられている。
『治療薬
病理で生きていくためにはこの治療薬と点滴が必須だ。
ただ、長くこの世界にいると必要な量がどんどん増えていく。
瓶に詰まった治療薬でも足りない、一箱分の点滴でも足りないと思う様になったら、もう出られないと考えた方がいい』
『ノートとシャーペン
毎日治療薬や点滴の記録をつけたり、気になる出来事を書くのに使って。
あと何日で出られなくなるかの見当がつくし、こうした習慣もキミの道しるべになってくれると思う』
『手鏡
恐らくキミが最初に向き合う真実になる。
まずは自分の診断書を見て、鏡に映る姿に備えて欲しい。
形は違えど、他の人達も異質な姿である事には変わりはないよ』
先ほどまでなかったハズの診断書が、いつの間にか腕に裏向けで貼り付けられていた。テープを剥がして、表の文面を読む。
診断書
守徒様 性別 女 年齢 16歳
病名
多眼症
症状
眼球の過剰増殖。それによる視界の拡張、視力の倍加、不眠。
特記事項
■■■様の意向により記憶は引き継がれませんでした。
退院日まであと15日です。
上記の通り診断致します。
医療機関名 九竜医院
診断医師 無患子
自分についての情報をいくつか得た後、私は恐る恐る手鏡を開いた。
「ひぇ……っ」
事前にどういう姿か掴めていても、怖いモノは怖い。思わず悲鳴が出た。
……私の顔には目が三対あったのだ。
本来目がある場所に一対。頬に二対。
目は顔だけに留まらず、首にも付いている。そんな調子なのだから、身体中目玉だらけに違いない。
これが守徒、私の姿か……
鏡に映る眼球達は、正しい位置にある目をまじまじと見つめていた。