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最強の魔法使い(前篇)  作者: 火威
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「最強の魔法使い」(前篇)序幕、第一幕、第二幕

「最強の魔法使い(後編)」へと続きます。そこで完結します。

 昔、昔、あるところに、一人の魔法使いの少年がいました。その魔法使いは、とても強い魔力と大きな野望をもっていました。

 魔法使いは、たった一人で、一つの国に、革命を起こし、自分が王さまになろうとしたのです。

 国を相手に戦いを始めた魔法使いの前に、神様が現れます。世界に六柱いる神様さまの中で、唯一、邪悪で残忍、破壊と混沌を司る、夜の神が。

「魔法使い、力を貸してやろうか?」

 賢い魔法使いは、断ります。

「おまえの力など、必要ない。後で、どんな代償を要求されるか、わからないからな。それに、オレは、オレだけの力で、王になるんだ。」

 夜の神様は、これはおもしろいと思いました。そこで、力は貸さず、魔法使いの戦いを、見守ることにしました。

 魔法使いは、たった一人で革命を成し遂げ、王さまになりました。

 夜の神様は、魔法使いがとても気に入りました。そこで、魔法使いの国に、いろんないたずらを仕掛けます。

 となりの国をそそのかして、戦争をしかけたり、日照りを起こしたりしました。

 けれど、王さまは、あっという間に解決してしまうのです。

 戦争には大差で勝利をおさめ、領土を広げます。日照りの時は、雨が少なくても育つ植物を生み出しました。

 夜の神様は、王さまが大好きになりました。そこで、魔法を使って闘いを挑みます。

 王さまと夜の神様は、何度も闘いましたが、決着はつきません。そのうちに、少年だった王さまは青年に、そして大人になり、お妃を迎え、子どもが生まれました。

 夜の神様は、恐ろしいことに気づきます。

 夜の神様は年をとらないし、死ぬこともないけれど、王さまは人間だから、いつか死んでしまいます。

 夜の神様は、ずっとずっと王さまと闘っていたいと思いました。そこで、王さまに提案します。

「おまえを、不老不死にしてやろう。」

 けれど、王さまは言うのです。

「永遠なんて、つまらない。それにオレは、誰かの思い通りになるのなんて、大嫌いなんだ。勝手にそんなことをしたら、二度とおまえとは闘わないし、口もきいてやらない。」

 断られて、夜の神様は困ってしまいます。そこで、王さまを脅してみました。

「おまえが、オレの言うことをきかないなら、おまえの妃を殺してしまうぞ。」

 王さまは、あっさりと言います。

「女なんて、いくらでもいる。新しい妃を迎えればいい。」

 夜の神様は、人質を変えてみました。

「おまえが、オレの言うことをきかないなら、おまえの子どもを殺してしまうぞ。」

 王さまは、あっさりと言います。

「子どもなんて、また産ませればいい。」

 なんということでしょう。

 王さまは、大切なものなんて、一つもなかったのです。

 王さまは、最後まで自分の思い通りに生きて、死にました。

 夜の神様は、せめて、王さまの死後、その魂だけでも自分のもとに留めたかったのですが、王さまは、それすら許してくれませんでした。

 王さまが死ぬ前に、夜の神様は、贈り物をしたいと言いました。王さまにではなく、王さまの子孫に。

 王さまは、夜の神様の希望を叶えてくれました。最後だったからなのか、死んだ後のことなんて、どうでもよかったからなのか、それはわかりません。

 王さまの心は、最後まで、誰にも、夜の神様にもわかりませんでした。

 王さまは死に、夜の神様は、王さまの残した子孫に、贈り物をして、王さまの国を去りました。

 夜の神様は、その後、王さまのような人間を見つけるために、いろんな土地の、いろんな人間に、いたずらを仕掛けます。けれど、人々は、苦しみ、嘆いた果てに死にゆくだけ。世界中を探しても、王さまのように、夜の神様を楽しませてくれる人間はいませんでした。

 これは、ずっとずっと昔のお話。

 夜の神様が、五柱の神様によって、封印される前のお話です。


「幼児向け サフィア王国建国神話」 第一章より抜粋



序幕 最後の皇子


「オレは、こんなところで死ぬ気はない。貴様たちは、正義だが、オレは、悪になっても生き延びてみせる。」

 少年の声には、迷いがなかった。

 城下は、火の海。

 敵兵に踏みにじられ、阿鼻叫喚の地獄と化している。

 遠く聞こえる、剣戟の音。悲鳴と怒号。

 火の臭い。それをかき消すほどに濃い、むせかえるほどの血の臭い。

 世界最古の魔道王国、サフィアは、今、滅亡の時を迎えようとしていた。

 最後の皇子は、玉座の間に一人佇み、いくつもの骸を、冷ややかに眺めている。

 十歳の誕生日を迎えたばかりの少年がする目つきではない。蔑み、突き放すその視線には、情の欠片もない。

 こと切れているのは、彼の両親や弟妹、叔父や叔母といった、サフィアの王族だというのに。

「サフィアの王族には、魔王召喚の禁呪が伝えられている。サフィア王家が途絶えれば、魔王は降臨しない。貴様たちは、世界を守った、尊い犠牲だ。」

 サフィア王家の始祖は、稀代の天才と謳われる魔法使いだった。彼は、魔王召喚の禁呪を、直系の子孫にのみ伝えた。

 しかし、魔王の力は、この世界には強すぎる。世界を滅ぼしかねないほどの力を、彼の子孫は恐れた。

 サフィアの王族で、魔王を呼んだ者は、一人もいない。いなかった。

 それでも、魔王の威光は、サフィアを守った。大国の侵略にさらされることなく、平和が続いたがー。

 時代は変わる。

 魔道の発達にともない、各国の王族は、より強い力を求めるようになる。

 禁呪とされた、魔王の召喚すらも。

 サフィアの隣国、大国、ベルンシュタインもその一つ。

 魔王召喚の禁呪を教えろと迫られ、サフィアの王は、それを突っぱねた。

 世界を危機にさらすわけにはいかないと。

「貴様の志は尊いが…国はあっさり滅んだな。」

 皇子は皮肉な口調で、玉座に座ったまま息絶えている父親に言う。

 そして、手にしていたワイングラスを、床に叩き付けた。

 グラスの欠片が、毒入りのワインに濡れて煌めく。大理石の白い床の上に広がるワインは、血溜まりのごとき赤。

 皇子は、腰に佩いていた剣を抜く。窓に映る炎を受けて、不吉に輝く刃に、皇子の端正な顔が映る。

 幼いのに、あどけなさより、整いすぎたゆえの冷たさが目立つ美貌。

 皇子は、剣で、深紅の絨毯を切り裂いた。

 現れたのは、複雑な文様がびっしりと描きこまれた、魔法陣。円の中に、六芒星が描かれている。

 皇子は、その中心に立つと、剣で手首を浅く切り裂いた。

 白皙の肌に、鮮血の赤が映える。

 血の珠が、皇子の肌をすべり、魔法陣に落ちる。

「世界を創造せし、六柱の神の一角、闇の王、夜を生み出せし者よ。我が前へ来たれ。我は、汝を求める。全ての邪悪の支配者、諸悪の根源にして、底無き深淵、暗き欲望を満たす者よ。」

 皇子が、朗々と紡ぐ声は、凛と美しい。しかし、感情を排したように冷徹。それがかえって、皇子の覚悟を物語るようだった。

「我が魂と引き換えに、我は汝に請願する。果てなき漆黒より出でよ、そして。」

 皇子は、告げる。躊躇いの無い声だった。

「我が敵を、殲滅せよ。」

 魔法陣から、風が吹く。嵐のように。

 皇子の髪が、マントの裾が揺れる。皇子は次第に激しくなる突風に、微動だにせずに立っている。

「我が敵を、血の海に沈めよ!」

 漆黒の光が、魔法陣から迸った。

 皇子が、腕をかざして目を庇う。

 耳をつんざく轟音。

 雷鳴に似て、体の奥まで貫く。

 爆風が吹き荒れる。

 突然、全ての光が、音が、風が消えた。

 代わりに、闇が生まれた。

 ただ、そこにいるだけで、周囲の空気を、昏く塗り替えていく、圧倒的な負の気配。静かに、空気を侵略していく、絶望。

 皇子は、腕を下ろした。

 それを、見上げる。

 顔を上げて。ひた、と視線を据えた。

「いい目だ。」

 に、と嗤ったのは、人の姿をしていたが、けっして、人ではなかった。

 黒い翼も、牙も角もなかったがー、圧倒的な闇の気配が、その正体を告げている。

 皇子は、す、と息を吸い込んだ。恐怖が無いと言えば、嘘になる。けれど、意志の力でねじ伏せる。

(オレは、犬死はごめんだ。)

 生き抜く。世界を守るために犠牲になるのは、崇高であっても愚かだと、皇子は思う。

(オレは、生きる。)

 そのためなら、どんな手段も使う。

「貴様が、魔王か。」

 いっそ、ふてぶてしいほど堂々と問う皇子に、魔王は、面白そうに真紅の両目を細めて、首肯した。

「そうだ。おまえの遠き祖先と交わした契約により、おまえの昏き願いを叶えよう。ただし、代償は、おまえの魂だ。」

 魔王の声は笑みを含んでいる。からかうように、試すように。

「死した後、転生の望みを断たれても、今の生にしがみつくか?亡国の皇子として生きるより、幸せな来世が用意されているかもしれないそ?」

 魔王からすれば、とるにたらない、小さなか弱き存在である人の子が、何を願い、どんな選択をするのか…遥かな高みから見下ろしている。

「くだらん。」

 皇子は吐き捨てた。魔王の提案を、言下に否定する。

 その目に宿る光は強い。何があっても逃げない目だと、魔王は思った。ただ一人になっても、生き抜くと決めているのだと。

 魔王の唇が、ゆっくりと弧を描いた。見た者の心を凍てつかせる、冴え冴えと美しい、無慈悲な笑みだった。

「ならば、今日この日、この時をもって、ベルンシュタイン帝国は滅亡する。」

 サフィア王国に侵攻していた、ベルンシュタイン帝国の軍は、空から降り注いだ漆黒の光によって、一瞬で灰と化した。

 さらに、ベルンシュタイン帝国の王宮は、一夜にして焦土と化したと伝えられている。

 実際には、一夜どころか、ほんの数分とかからず、王宮は焼け落ち、王族は全て死に絶えた。

 サフィア王国と同じように。

「戻ったぞ。」

 姿を消した魔王が、再び皇子のいる玉座の間に現れた時、彼は生首を抱えていた。

「土産だ。」

 と、床に放り投げられる。大理石の床が、赤黒い血に汚れた。

「ベルンシュタイン帝国皇帝の首だ。」

 その顔は、死の恐怖に歪んではいなかった。何が起こったかわからないという表情で、目を見開いたまま、死んでいた。

 皇子は、冷然と笑った。魔王ですら、一瞬、怯んだほど、冷酷な笑みだった。

「貴様にもう用はない。魔界へ帰れ、魔王よ。オレの命が尽きた時、この魂をとりに来い。」

 皇子は、傲然と命じた。

 彼は、自分の優位を知っている。魔王は、理を破らない。交わした契約以外の対価を、魔王は自分からとり上げることはできないと。

 魔王は、鮮血の瞳を見開き、その後で薄く笑った。

「…おまえは、おもしろい子どもだ。人の世にはもったいない。」

 魔王は愉快だった。

 この幼い子どもの、狡猾さが。残忍さが。傲慢さが。だから、魔王は問いかける。

「一つ、賭けをしないか。」

 皇子は、目をすがめた。油断のない表情で、魔王を見上げる。

「予言してやる。おまえは、遠くない未来、自分の意志で、人の世界を捨て、このオレの手をとる。」

 それは、死後の魂ではなく、残りの人生を魔王に捧げることを意味した。

「外れたら?」

 皇子は、動揺の欠片も見せずに問い返す。

 魔王は、告げる。

「その時は、契約の代価、返してやろう。」

 皇子は、にやりと笑った。

 魔王が見惚れるほどに、自信に満ちた、艶やかで鮮やかで、冷ややかな笑みだった。



第一幕 若獅子たちの闘い


 世界を創造したのは、六柱の神。

 天を創ったのは、ペガサス。

 地を創ったのは、グリフォン。

 太陽を創ったのは、フェニックス。

 海を創ったのは、ドラゴン。

 昼を創ったのは、サンダーバード。

 夜を創ったのは、魔王。

 六柱の神々は、世界の次に、人を作った。

 神々は、人が好きだった。五柱の神は、守り、愛し、慈しむ対象として。魔王だけは、己の退屈をまぎらわす、玩具として。

 五柱の神は、魔王が人を弄ぶのを憂え、神の世界と人の世界を分けることにした。そして、人に呼ばれた時だけ、人の世界に赴くことにした。もちろん、軽はずみな理由で神を呼ぶことのないよう、人界に神を召喚するには、正当なる理由と、厳しい条件を課して。

 しかし、これは、五柱の神の失策だった。

 なぜなら、魔王もまた、神の一柱。人の中には、正しく善なる五柱の神よりも、邪悪な魔王を求める者がいたから。

 つまり、魔王も、人に呼ばれれば、人の世界に赴くことができてしまう。

 しかし、魔王は、呼ばれた時だけしか人の世界に行けないことを不満に思った。そもそも、神々の定めた条件は厳しすぎ、神を人界に下ろせる人間など、滅多にいない。そこで、狡猾な魔王は、考えた。自分が世界へ出て行けないのなら、自分の手足となって働くものを作ろうと。

 そうして、魔王は、魔族を生み出し、人界に放った。魔族は、人を襲う。魔王がそのために作った種族であるから。

 そこで、魔王以外の、五柱の神は、聖獣を創った。聖獣は、神と同じ次元に存在するが、人の求めに応じ、人界に出現する。

 聖獣の力を使役し、魔族を倒す術を、人々は魔法と名付けた。

「<アカデミア>で学ぶ、未来の魔法使いたちよ。」

 魔術結社、<ヴァールハイト>の総帥、イデアル・トレラントは、そう呼びかけた。

 場所は、円形闘技場、ツヴァイト・コロシアムの中央舞台。

「諸君らが、<アカデミア>で学び始めて、一年がたった。今日は、諸君らの成長を見せてもらう。」

 イデアルは、声を張り上げた。長身の美丈夫は、長い銀髪をなびかせ、アカデミアの生徒たちの視線を一身に受けている。

 <ヴァールハイト>の頂点に立つ男は、観衆に向かい、宣言した。

「全力で戦え。」

「わくわくするなっ、ヘルツ。」

 お祭り騒ぎが大好きな親友が、深緑の目を輝かせている。金茶の髪も光を受けて、眩しい。

 無鉄砲で単純すぎる面はあるが、裏表も屈託もない友を見ていると、自分も気分が高揚してくるのを、ヘルツは感じていた。

「ああ。でも、浮かれてばかりもいられないぜ、ケルン。みんな、今日のために腕を磨いてきただろうからな。」

 と、ヘルツは浮かれすぎている親友をたしなめた。

 ヘルツは、小柄で、十一歳と言う実年齢よりも幼く見られることが多い。ケルンよりも明るい金髪に、赤みの強い紫の瞳の、愛らしい容姿をしている。

 しかし、見た目に反して度胸があり、多少のことでは動じない。

 少なくても、ケルンよりは、よほど落ち着いていた。

 十歳で<アカデミア>に入学した、魔法使いの卵たちは、一年後、<若獅子たちの闘い>と呼ばれる試練を受ける。

 闘って、魔法の腕を競う。その姿で、この一年を評価される。

 この後、<ヴァールハイト>の最高位、<大賢者>の位に上がれる魔法使いになれるか、最下位の<魔術師>で終わるか。将来をかけた、苛酷な闘いの、最初の一歩だ。

 ツヴァイト・コロシアムは、大小合わせて二十の舞台と、最大収容人数五百人を誇る観客席を有する。<若獅子たちの闘い>は、自分の望む相手に、バトルを申し込む。その闘いの様子を、<ヴァールハイト>に所属する魔法使いたちが評価する。

「ったく、おまえは落ち着いてんなあ。おまえぐらいだぜ、そんなに冷静なやつ。」

 ケルンは、感心し、ふと、あらぬ方に視線を投げると、続けた。

「あ、もう一人いるか。」

 ヘルツも、ケルンがその翠の目を向けた方に視線を巡らせ、

「ああ。そうだな。」

 と頷いた。

 二人の視線の先、同い年とは思えない、悠然たる態度で腕を組んでいる少年がいる。

 その存在感は、周囲からはっきりと際立っている。身にまとうのは、<アカデミア>の制服である、紺色の詰襟。他の生徒たちと服装は同じなのだが。

 すらりとした長身。白皙の肌。高雅で秀麗な顔立ち。幼いながらも、貴公子然とした容姿だが、彼から受ける印象は戦士だ。

 それは、青く輝く双眸が、刃のように鋭利な光を放っているせいだ。

「シュラ・エーアガイツ…。」

 ヘルツがその名を呟く。

 クラスも寮も違うので、この一年、何の接点もなかったが、天才児にして異端児である彼の名を知らない者は、<アカデミア>には存在しない。

 入学試験を主席で突破したシュラは、新入生代表として、スピーチをした。話す内容は、基本的には自由だが、締めくくりの言葉は、<アカデミア>が決めており、毎年、「研鑽を積み、魔法の腕を磨き、無辜の民のために尽くすことを誓います。」で終わることになっていた。魔法使いの役割は、魔族を退けて、民の生活を守ることなので、当然の誓いなのだが、シュラは、全校生徒の前で、宣言した。

「オレは、自分のために強くなる。無辜の民なんぞ、どうでもいい。」 

と。

 教師も生徒も、騒然となったが、シュラは、眉一つ動かさず、冷たいまなざしで、その様を見下ろしていた。たった十歳の少年が。

 入学後も、傲岸不遜で尊大で、天から人を見下すかのごとき言動のシュラは、早々に上級生に目をつけられた。

 <ヴァールハイト>のアカデミアは、実力主義。多少、素行に問題があっても、能力が高ければ、大目に見てもらえる。シュラに因縁をつけてきたのは、そういった類の輩だった。

 十人以上の上級生に囲まれても、シュラは、薄く冷たい笑みを浮かべていたらしい。

 そして、あっさり返り討ちにした。多勢に無勢、しかも、相手は何年もアカデミアで修行した上級生だったというのに。

 シュラに叩きのめされた彼らは、ほとんどがその後、アカデミアを自主退学している。残った数人も、別人のように大人しくなり、校内でシュラを見ると、脱兎の勢いで逃げていく。

「なんか…こうやってみると、迫力つーか…オーラが違うって感じだな…。」

 ケルンが、シュラに視線を向けたまま呟く。

 そして、

「よしっ。」

 と、自分の両頬を、パンと叩いて気合いを入れると、叫んだ。

「おい、シュラ・エーアガイツ!おまえにバトルを申し込むぜっ!」

 空気が凍りついた。

 しん、と静まり返った空間。コロシアム中の人間の視線を一身に浴びて、シュラは、冷ややかに青い目を細めた。キンと凍てついた真冬の空気のような、硬質な響きの声で、言う。

「身の程を教えてやろう。」

 ケルンの挑戦を受けたということだった。

 シュラは、優雅な足取りで、舞台に上がる。

 ケルンが、シュラと同じ舞台に上がるのを、

「ケルン、本気か?」

 ヘルツが引き止めようとする。

「おまえの実力じゃ…。」

「わかってる。」

 ケルンは、ヘルツに背中を向けたまま、答えた。

「でも、やってみてえんだ。あいつに、オレの力が、どこまで通じるか。」

 シュラとケルンが、同時に言った。

「「魔法戦闘(バトル)!」」

 先に動いたのは、ケルンだった。

「召喚、地の序列九位、ライカンスロープ!」

 ケルンの呼び声に応え、熊ほどもある、巨大な狼が出現する。魔法使いが、自分の魔力を糧にして、召喚する聖獣。

 カアッと、大きくあぎとを開き、鋭い牙を光らせて、シュラに襲いかかる。

 しかし、シュラは、微動だにせず、ライカンスロープを見据える。

「召喚、水の序列六位、アンフィスバエナ。」

 シュラの声に応えて出現したのは、双頭の竜。ライカンスロープを、一呑みにできる巨大な。

 四つの目に見下され、ライカンスロープはピクリとも動けなくなる。

 全ての聖獣は、光、水、地、火、風の五つの属性に分けられる。また、十の序列にも分けられる。

 序列が一つでも上の聖獣に、下の聖獣は敵わない。それが、三つも上なら、一切の抵抗ができなくなって当然である。

 アンフィスバエナの片方の口が開き、毒の息を吐きかける。

 ライカンスロープは、呆気なく消滅した。

 全てが、瞬き一つほどの刹那に終わった。

「うそだろ…。」

 まさか、ここまでの実力差とは思わなかったケルンが立ち尽くす。

 しかし、これで終わりではなかった。

 アンフィスバエナの、もう一つの口が開く。

 ケルンに向かって。

 ケルンは、はっと目を見開いた。

 恐怖に体が凍りつく。

 一切の抵抗ができない。

 眼前に迫る、毒の吐息。

(やられるー!)

「召喚、火の序列六位、サラマンダー!」

 真紅の炎が燃え上がる。

 竜の形に燃え上がった炎が、アンフィスバエナに激突した。

 炎の中に燃え尽きる双頭の竜。

 しかし、アンフィスバエナが燃え尽きると同時に、サラマンダーも消えていた。

 二頭の聖獣の序列は共に六位。相殺しかできない。

 シュラは、サラマンダーを召喚した相手を、睨み据え、低く問う。

「貴様、どういうつもりだ。」

 バトルに横槍を入れられたことへの、抗議。

 しかし、ケルンを背中に庇ったヘルツは、怒りに燃えた瞳で、シュラを射抜く。

「それは、こっちの台詞だぜっ…。」

 ヘルツが、ぎりっと奥歯をかみしめた。

「おまえ…ケルンを殺すつもりだっただろうっ…。」

 シュラは、唇の片端を、引き上げて、薄く笑う。

「言っただろう。身の程を教えてやると。」

「おまえっ…。」

<若獅子たちの闘い>における魔法戦闘(バトル)では、本来、聖獣で魔法使いを攻撃するのは、ルール違反だ。

 魔法戦闘(バトル)の基本は、聖獣を召喚し、闘わせること。聖獣は、何頭召喚してもいいので、一頭倒されても、再び召喚すればいい。しかし、召喚に必要な魔力には、限度がある。魔力の量には個人差があり、そのキャパシティを上げることが、高位の魔法使いになる最大条件だ。序列が上の聖獣ほど、魔力の消費量は大きい。また、召喚に成功しても、序列が上になるほど、制御が難しくなる。

<若獅子たちの闘い>は、あくまでアカデミアの授業の一環であり、魔法戦闘では、先に魔力が尽きた方が負けとなる。故意に、魔法使い本人を傷つけてはならないのだ。

 シュラが、アンフィスバエナの制御に失敗したわけではないことを、ヘルツは見抜いていた。

 おそらく、<若獅子たちの闘い>を見守る<ヴァールハイト>の魔法使いたちも。それでも、彼らは、口を出さない。ここの実力主義は徹底している。求められるのは、力。弱い者は、<ヴァールハイト>には不要なのだ。

 肩ごしに振り向いて、ケルンに尋ねる。

「ケルン、大丈夫か…?」

「…ああ。怪我はねえよ…。」

 ふだん騒々しいほど元気なケルンだが、流石に蒼ざめている。

「シュラ・エーアガイツ…やばいやつなんじゃねえか…。」

 ひそめた声が、震えている。

 シュラは、顔色一つ変えずに、アンフィスバエナに、ケルンを襲わせようとした。まだ幼さの抜けきらない、少年の顔に、躊躇は一切無かった。死にはしなくても、毒の息がかかれば、無傷では済まなかっただろう。

「やめとけよ。」

 ケルンが言った。この一年で、ヘルツの性格はわかっている。ヘルツが何を言い出すか、ケルンには予想がついた。

 しかし、ヘルツは、ケルンの忠告に耳を貸さない。

 まっすぐにシュラを見て、宣言した。

「シュラ・エーアガイツ。次は、オレが相手だ。」

「いいだろう。」

 居丈高に、シュラは受ける。

「少しは楽しめそうだ。」

「今年の<若獅子たちの闘い>は、レベルが高い。」

 満足そうに目を細め、<ヴァールハイト>の頂点に立つイデアルは呟いた。

 コロシアム全体が見渡せる特等席で、ゆったりと微笑む。

 彼と同じように魔法戦闘を見守っている魔法使いたちも、固唾をのんで、一つの舞台を凝視している。

 いつの間にか、他の舞台で闘っていたはずの、<アカデミア>生徒たちも、試合を中断して、彼らに注目していた。

 シュラとヘルツの闘いを。

 そもそも、<アカデミア>に入学して一年の、十一歳の少年の身で、序列六位の聖獣を召喚できるのは、天才というより異常だ。

 一年修行して、序列十位の聖獣を召喚できれば御の字だ。そして、序列六位からは、召喚はできても、制御するのに、その倍の年月がかかるとされている。下手に序列が上の聖獣を召喚すると、無駄に魔力を消費するだけで終わってしまうことも多い。

 そして、三位以上の聖獣は、一生かかっても召喚できない魔法使いの方が多いのだ。

 八位までが召喚できれば、魔術師、六位までで魔導士、四位までで、魔導師、三位以上が召喚できれば賢者と、階級が定められている。しかし、賢者は、五つの属性ごとに一人ずつと定められているため、前任の賢者の実力を上回らなければ、その位を与えられない。

 シュラもヘルツも、まだ学生の身なので、位は有していないが、現役の魔法使いを凌ぐほどの闘いを繰り広げていた。

 ヘルツが、凛と叫ぶ。

「召喚、火の序列六位、イフリート!」

 巨人の形の炎が召喚される。同じ序列でもサラマンダーより、巨大だ。イフリートが、シュラに向かって両手を伸ばす。

 同い年の少年の中では、長身でも、炎の巨人に比べれば、人形のよう。イフリートの炎の手に、握りつぶされる、と誰もが思った瞬間。

 シュラの手が翻った。

「召喚、水の序列六位、ジャック・フロスト!」

 イフリートの巨大な姿が、真っ白に染め上げられ、凍りついて動きを止める。

 シュラの前に出現したのは、シュラやヘルツと同い年くらいに見える少年。しかし、けして、人ではない証拠に、その姿は白銀に光り輝いている。

 吹雪の色に。

 ジャック・フロストは、見事な銀髪を、自らが巻き起こした、凍てつく暴風に遊ばせ、冷酷に笑っている。

 炎の巨人は、全身をびっしりと霜で覆われ、砕け散った。

 しかし、ジャック・フロストも、イフリートと同列の六位。同列の聖獣を消滅させるだけの力を放てば、自らもまた消える。

 ジャック・フロストは、振り返って、シュラを見る。

 目で問う。聖獣にとって、己を呼び出した魔法使いは、主だ。

 シュラが、ジャック・フロストに向かって頷くと、吹雪の聖獣は安心したように笑って消えた。

「序列六位を、二体も呼び出すとはな…流石、<アカデミア>、始まって以来の天才だぜ。」

 ヘルツが言った。その紫の目には、怒りしかなかった先ほどまでとは違い、驚嘆の色がある。

 シュラも、ケルンに対してとった、馬鹿にしきったものとは違う声で、答えた。

「フン。それは、貴様も同じだろう。」

 青い瞳は、変わらず傲慢で酷薄だが、奥底に、面白がっている光が瞬いた。

 ヘルツが、ふっと笑う。悪戯っぽく。

「褒めるのは、ちょっと早いぜ。」

「なに…。」

 シュラが、眉をひそめる。何かたくらんでいるのを感じとり。

 ヘルツが、叫ぶ。

「イフリートの、アビリティ発動!復活!」

 ヘルツの前に、再び炎の巨人が現れた。

 シュラは、とっさに後方に跳び、イフリートの手が届く範囲から離れる。

「アビリティだと!」

 と、叫んだのは、イデアル。

「まさか、<若獅子たちの闘い>で、アビリティなど!」

 アビリティは、聖獣に備わる、特殊な能力で、能力によっては、序列が上の聖獣を倒すことも可能だ。しかし、よほどその聖獣の制御が巧みでなければ扱えない。しかも、アビリティは、その聖獣の特性に応じたものであるため、特性にも精通していなければならない。

 イフリートは、実体がなく、呼び出した魔法使いに従順な聖獣。それゆに、アビリティは、一度倒されてもまた甦る「復活」だ。

 イデアルとは対照的に、シュラは、冷静だった。綺麗に整った顔に、焦りはない。

(と、いうことは…。)

 ヘルツは、ごくりと喉を鳴らす。背筋が冷える。

 空気が、キンと張り詰めた。

 シュラの、玲瓏たる美声が響いた。

「ジャック・フロストの、アビリティ発動!凍結!」

 イフリートが凍りつく。

 ジャック・フロストは、霜の聖獣。全てを霜に閉じ込めて去っていく。景色を真白く染め上げる、冬の先触れ。

 それゆえに、消えた後も、敵を凍てつかせる「凍結」が、アビリティ。

 シュラの青い目が冷たく光る。

 真冬の空の、凍てつく青さだと、ヘルツは思う。シュラは、自らが呼び出す聖獣さながらに、無慈悲で冷酷で、容赦が無い。闘いを愉しむ、血に飢えた獣のようだ。

「のんびりしていて、いいのか?」

 シュラが、嘲笑を滲ませて言う。

 ヘルツは、ハッとする。

「凍結が…止まらないっ…。」

 イフリートを葬った凍気が、じわじわと広がっていく。舞台が、白く凍りついていくのだ。

 ヘルツは、自分の足元に迫る氷に、慄然とした。足が、この氷に触れたら、

(オレも、イフリートのように…。)

 ヘルツが、大きく息を吸い込んだ。残りの魔力をかき集める。魔力は、残り少ない。ならば、足りない分は、体力を変換する。それでも無理なら、次は。

 勝ちたい、と思った。なんとしても、この冷たく美しい少年に。

 何もかもが、遠くなる。

「おい、それ以上召喚したら、やばいだろ!負けを認めて、魔法戦闘を終わらせろ!」

 遠く聞こえたのが、親友の声だとわかっていた。けれど、この闘いのきっかけだったはずの、ケルンの声すら、今は遠い。

「召喚、火の序列五位、ウィル・オ・ザ・ウィスプ!」

 無数の火の玉が生まれた。

 同時に、凍気の侵食が止まる。

 数十の、燃え盛る光球が、ごうごうと音をたてて、シュラを取り囲む。

 ヘルツは、ぎりっと奥歯をかみしめる。こめかみに、脂汗が浮かび、頬へと滴り落ちる。

 限界を感じる。視界に黒い影がちらつく。

 それでも、ヘルツは、意地だけで、唇に笑みをひいた。

「先にルールを破ったのは、おまえだ。オレは、おまえを攻撃するぜ。」

 まっすぐに、シュラを、シュラだけを見据える。

「ウィル・オ・ザ・ウィスプは、一度死に、地獄に落ちた聖獣。甦る時に煉獄から持ち帰った炎こそが、この聖獣の力だ!」

 ヘルツの手が振り下ろされる。

 地獄の業火たる、火の玉が、一斉に、シュラへと向かう。

 シュラの整った顔から、初めて余裕が消えた。一度、きつくかみしめられた唇。赤くなった唇から、鋭い声を放つ。

「召喚、水の序列五位、ウンディーネ・ソード!」

 シュラの手に、剣が生まれる。

 武器型の聖獣。

 刀身が、青く輝いている。

 シュラが、剣を一閃するごとに、火の玉は爆発し、消える。

 しかし、ウィル・オ・ザ・ウィスプとウンディーネ・ソードの序列は同じ。火の玉を一つ葬るごとに、剣の輝きがあせていく。

 ヘルツが、舞うように、手を振る。

 火の玉が動く。

 シュラは、キッと、ヘルツを睨み据えた。

 ヘルツもシュラを見ていた。

 視線が合う。

 お互いだけを映して。

 シュラは、肩で息をしながら、剣を振るった。剣の動きが、空中に銀色の弧を描く。

 喘鳴する。空気が薄くなる。

 魔力は既に尽きている。体力を無理やり魔力に変換しているので、限界が近い。

(このままでは、同時に力が尽きる。)

 シュラは、悟る。

 火の玉を打ち落としながら。

 ぎりぎりの闘いの中でも正しく判断できる、天才的な魔法戦闘のセンスが、シュラにはあった。

 同時に、好戦的な本性が、疼きだす。

 シュラが、駆けた。

「なにっ!」

 ヘルツが瞠目する。

 シュラは、火の玉に突っ込んだ。

 ジュッと、肉の焼ける音とにおい。

 シュラは、肩を焼かれながら、そのまま間合いを詰めて、ヘルツに飛びかかった。

 ヒュンッと、刃が風を切る音。

 飛び散る血飛沫。

 視界を染める、真紅。

 二人の少年は、同時に倒れた。

 シュラが、苦しそうに眉根を寄せて、言う。

「ふん…とっさに急所は外したか…。」

「よけきれてないぜ…。」

 ヘルツも、息も絶え絶えに、答える。

 後ろに跳んだが、刃の先端が、ヘルツの額をかすめていた。

 額から眉間へ、紅い滴が落ちていく。

「そこまで。」

 イデアルの声を、二人の少年は、遠くなる意識の中で聞いた。

 紅い赤い、夕焼け。空を朱金に燃え上がらせる。

 全てが鮮血の真紅に染まった世界の中で、その双眸だけが、あらゆる物を拒絶するような、至高の青だった。

 若獅子たちの闘いから、一月の後。久しぶりに間近に仰ぐ、シュラの青い瞳を、ヘルツはまっすぐに見上げた。

 ヘルツは、シュラとは寮もクラスも違うのだが、シュラは、どこにいても目立つ。噂は耳に入るし、その抜きんでた美貌は、遠目にも、周囲からはっきりと際立っていて、すぐに見つけられる。

 だから、ヘルツは、久しぶりにシュラに会ったという感覚は薄いのだが、こうして、言葉を交わせる距離に立つのは、一月ぶりだった。

 紅い光の中、ヘルツが一人になるのを待ち構えていたように、シュラは突然現れた。

 まだ、十一歳でしかないのに、年齢不相応に落ち着き払った空気をまとって、傲然と腕を組んでいる。

 周囲に、人気はない。図書館から、寮に向かう道。等間隔に植えられ落葉樹のうちの一本に背を預け、シュラはヘルツを待っていた。

 ひらりと一枚舞い降りる葉は、もとから赤く色づいているのだが、夕日によって、さらに深い真紅に染め上げられている。

 ヘルツは、シュラにわからないように、小さく息を吸い込む。きりきりと、弓が引き絞られていくような、緊張がある。

 シュラという少年は、対峙する相手に、相応の覚悟を突きつける存在だった。生半可な気持ちでは、言葉を、否、視線を交わすことさえ許されないような。

 ヘルツは、かける言葉に迷う。「久しぶりだな。」と笑いかけられるほど、気安い仲ではない。

 ヘルツが言葉を探し当てるより早く、シュラが出し抜けに言った。

「ヘルツ・ヘクサグラム。」

 と、フルネームでヘルツを呼ぶ。刃を首筋に突きつけるような、容赦のない鋭さで、ヘルツを見据え。

「貴様は、何者だ。」

 ヘルツは、わずかに首をかしげた。

「おまえ、何を言って…?」

 シュラの問いの意味をつかめないヘルツに構わず、シュラは語る。

「ヘルツ・ヘクサグラム。魔術結社<ヴァールハイト>のアカデミア、第九十九期入学生。所属寮は、<フリューリンク>、所属クラスは、<シャルラハロート>、昨年度の成績のクラス内順位は、魔術理論三位、精霊知識二位、召喚実践および、魔術戦闘、クラス内総合順位首席。」

「おまえ、オレの成績なんて、何で知っているんだ。」

 ヘルツは、呆気にとられて声が上ずった。所属寮とクラスなど、調べると言うほどの手間もないことだが、生徒の成績は、教師たちが厳重管理している。「幾重にも張った結界の先にある部屋に保管されているから、安心するように。」と、入学時に説明された。

「おまえ…結界破ったのか…?とんでもないことをするやつだな…。」

「だが、貴様の入学前の経歴がわからない。」

 シュラの青い目が、興味というほど生易しいものではない感情を宿して、ヘルツを見据える。猜疑に近い、ごまかしを許さない目。

「<ヴァールハイト>は、世界でも有数の魔術結社だ。アカデミアの入学試験は、難関とされている。当然、いずれかの教育機関で、ある程度の魔術の基礎知識や実践を、身に着けているはずだ。だが、貴様の入学前の経歴は、白紙だった。」

 シュラが、組んでいた腕をほどく。背中を樹から離し、一歩前に出る。

 距離が縮まる。間近から見下ろされる。

「貴様の過去は、消さなければならないものだということか?<ヴァールハイト>に圧力をかけられるほどの組織が、貴様の背後にあると?」

 ヘルツは、ふっと笑う。笑ってから、矜持の高いシュラには、この笑みは、挑発的に見えるのかもしれないなと考えて、面白くなる。

「なんだ、おまえ。そんなにオレに興味があるのか。」

 すうっと、赤紫の瞳を細めて、笑みを深くする。見上げた先の、濁りも曇りも一切無い、紺碧の双眸が、忌々しげに歪むのが、少し楽しい。誰も寄せ付けない、凍てつく冬そのもののようなシュラが、他人に視線を向けていること自体が、ずいぶん稀有なことなのだろうと、わかるから。

 ヘルツは、自分からシュラに一歩近づいた。

 息のかかる距離。

 シュラは身を引かない。

 至近距離で、火花を散らすような視線を交わす。

 ほんのわずかでも、均衡が崩れたら、何が起こるかわからないような緊張感。魔法戦闘の最中のような、ぎりぎりの危うい空気。

「おまえが知りたいなら、教えてやりたいんだけどな…。」

 ヘルツは、くすりと、思わせぶりな笑みを浮かべる。シュラが、眉をひそめる。シュラには、ヘルツの表情が、黄昏の光の加減か、どこか寂しげな、儚い笑みに見えた。

「残念ながら、オレの過去は、オレも知らない。」

「何…?」

「オレに、アカデミア入学前の記憶はない。一年前、<ヴァールハイト>の門の前に行き倒れていたのを、イデアルに拾われた。覚えていたのは、ヘルツ・ヘクサグラムという名前だけだ。」

 季節は、今と同じ。昼間の空は、抜けるように青く、高く澄み渡り、代わりのように、夕日は、不吉なほどに深い赤に染まる。

 昼間は汗ばむほどの陽気なのに、夕方に吹く風は、肌寒く感じる。晩夏というより初秋。

 ヘルツにとって、記憶の始まりは、秋の夕刻だ。

「無理に、思い出そうとしない方がいい。」

 イデアルは、穏やかに微笑んで、何もおぼえていないと口ごもるヘルツに、そう告げた。

「人は、とても辛いことがあると、自らその記憶を封じてしまうことがある。自分の心を守るためにね。忘れたなら、それは、おそらく君の意志だ。」

 イデアルの言葉を、その時のヘルツは納得できなかった。どこか、違和感があった。

 けれど、その後、知った。当時、大きな戦争があったという事実を。

「イデアルは、オレが、サフィアとベルンシュタインとの戦争に巻き込まれた犠牲者だと思ったんだろうな。」

 <ヴァールハイト>は、サフィア王国ともベルンシュタイン帝国とも領地を接する、グラナト王国に在る。 当時、サフィアから逃げてきた民は多かったという。

 サフィアの最後の王は、名君と誉れ高く、大国、ベルンシュタインに攻め込まれれば、万に一つも勝つ見込みなどないことを悟り、開戦前に、全国民に対し、避難勧告を出している。兵士の任も解き、城に残ったのは、王家と命運を共にすると、自ら志願した兵のみだった。

 そのため、非戦闘員の犠牲はほとんど無かったはずだが、逃げ遅れ、ベルンシュタイン兵に殺された者も、皆無ではないはずだった。

 ヘルツは、ベルンシュタイン兵に家族を殺され、一人、グラナト王国まで逃げ延びた、戦災孤児ではないかと、イデアルは推測したのだろう。だから、ヘルツに魔法の才能があることがわかった時点で、入学試験を受けるよう勧めた。上位で、試験を突破すれば、奨学生となれると。

「本当のところは、わからないけどな。身分がわかるような物を、オレは何も持っていなかったから。ヘクサグラムという姓からも、何もたどれなかった。」

 ヘルツが語り終えると、シュラは、フンと、つまらなそうに鼻で笑った。一切の興味が失せたように、あっさりと踵を返し、離れていく。

 ヘルツが、その背中に声をかけた。小さく苦笑しながら。

「反応が薄いやつだな。何か言うことはないのかよ。」

「同情でもしてほしいのか?」

 シュラが足を止め、体ごと振り向いて、冷ややかに訊き返した。

「記憶など、ただの過去だ。振り返るものがないなら、前だけ見ていればいい。」

 ヘルツが、かすかに息を呑む。わずかな間を開け、動揺を呑みこんで、訊く。

「じゃあ、おまえは、どうしてオレの過去を調べたんだ。」

「貴様の強さの秘密が、そこにあるかと思ったからだ。だが、辿れないなら、どうでもいい。」

「…おまえは、強さ以外に、興味のあることはないんだな。」

 ヘルツは、声をたてて笑いだす。軽やかな、明るい笑い声には、ついさっきシュラが感じたような影はない。

 シュラは、笑うヘルツに構う気はないようだった。再び前を向き、さっさと歩きだす。

 ヘルツは、声を張り上げた。その背中にぶつけるように。

「おまえが二人目だ。記憶がないことを、大したことじゃないって、言いきってくれたのは。」

 最初に、そう言ってくれたのは、会ったばかりのケルンだ。あの明るい声で、

「そっかー。でもさ、そんなのべつに、たいしたことじゃねえよ。今から思い出たくさん作ろうぜ。」

 そう、笑い飛ばしてくれた。

 自分がどんなに楽になったか、ケルンもシュラも知らないだろう。

 夕闇に消えていくシュラの後姿を、ヘルツは見えなくなるまで見送った。



第二幕 闇の支配者


「魔道士、ミステル様でいらっしゃいますね。」

 突然かけられた声に、彼は驚いて振り向く。十五、六ほどの少年。魔術結社<ヴァールハイト>に所属する魔法使いの制服を着ている。

 十で入学を許され、六年間の修学を義務付けられる<アカデミア>を卒業して、それほど長い月日がたっていないのに、魔導士の位を得ている。優秀な魔法使いなのだとわかる。

 月明かりを浴び、銀色の髪が輝いている。蜂蜜色の瞳に、警戒の色を浮かべ、魔導士、ミステルは、見知らぬ相手と対峙した。

「そうですが、貴方は、どなたですか。」

 深夜とはいえ、<ヴァールハイト>の敷地内である。不審者が侵入することなどないはずなのだが…彼の本能が、危険を告げていた。

 魔法使いの勘、とも言うべきものが。

 それは、声をかけてきた相手が、フードつきのローブをまとい、しかも、フードを深くかぶって顔を見せないからでもあった。

 声から、若い男だとはわかるが。ローブの男は、バサリ、とフードを下ろした。

「私は、こういう者ですよ。」

 同時に、布を裂く音が夜闇に響いた。ローブの切れ端が舞う。

 同時に、バサリと翼の広がる音がした。

 ローブを破り捨てて出現したのは、漆黒の翼。

 黒きコウモリの羽根を背中に生やした男が、妖艶な美貌で笑う。血が滴り落ちそうに赤い唇がめくれ、鋭い牙が見えた。

「闇の序列六位の魔族、ナイトメアと申します。」

「魔族…!」

 なぜ、魔族がここに、とミステルは呆然自失した。<ヴァールハイト>の敷地内には、強力な結界が張ってある。魔族が入り込めるはずがないのに。

 しかし、ミステルは、驚きながらも、次の行動に移っていた。

「召喚、光の序列六位、エルフ!」

 背中に光り輝く白い翼をもった、美青年が出現する。尖った耳と、鍛えた剣をもつ、光の聖獣。

 エルフが、剣を一閃する。

 ナイトメアは、片手で受け止めた。

 その手に、傷一つつかない。

 ナイトメアが、エルフの首筋に牙を立てた。

 次第に、エルフの顔が青白くなっていく。生気を吸い取られたように。

 かくん、と崩れ落ちたエルフは、そのままかき消える。

 そして、ナイトメアは、何事もなかったかのように、立っている。

「どういうことだ…?」

 ミステルは、目の前の光景が信じられない。

 同じ序列なのに、倒すことができない…。

 だが、ミステルは、そこで立ち尽くすほど愚かではなかった。身を翻して、走り出す。

 しかし、

「逃がしませんよ。」

ナイトメアが立ちはだかった。

 首筋に牙を突き立てられ。

「うああああっ!」

 ミステルは悲鳴を上げる。

 生気が吸い取られ、意識が朦朧とする。

 視界が白く染まり、何も映らなくなる。

 遠のく意識の中で、かすかに、声が聞こえた。

「殺しちゃ駄目だよ。証言してもらわなきゃいけないんだから。」

「はい、マスター。」

「だけど、こいつ、本当に魔導士?全然大したことないじゃないか。」

「所詮、人間など我らの敵ではありません。」

「まあ、でも、今夜はただの練習だからね。」

 くすくすと、楽しそうな笑い声。

「お楽しみは、これからさ。オレは、絶対に、あの方を振り向かせてみせる。」

 朱金の夕日が、荒野の果てに沈んでいく。

 今日最後の光が、少年の輪郭を黄昏色に縁どっている。

 悠然と腕を組んだその少年は、完璧に整った美貌の持ち主だった。それは、見る者の背筋を寒くさせる類の美しさだ。

 それに加えて、青い双眸は、研ぎ澄まされた刃のよう。睨まれると、寿命が縮む気がすると、最初に言い出したのは、誰だったか。

 十六歳になったシュラは、既に<アカデミア>を卒業し、賢者の位を持つ魔法使いとなっていた。

 身にまとうのは、<ヴァールハイト>の制服、漆黒の詰襟。賢者の証に、足首までの青いマントを羽織っている。

 すらりとした長身に、その衣装はよく映える。

 シュラは、油断なく周囲を見回した。

 陽が、完全に沈む。

 気配が、生まれる。

 風が吹いた。血なまぐさい臭いを運んでくる。

 シュラの亜麻色の髪と、マントの裾が揺れる。

 まばたき一つの間に。

 無数の獣が現れていた。

 三つ首の犬。

 熊ほどもある、巨犬。

 三つの口は、どれも鋭い牙をむき出し、低くうなっている。

 ケルベロス。

 闇の序列五位の、魔族。魔王が、人を狩るために作り出しもの。

 魔族は、本能に刷り込まれている。人を襲い、その血肉を喰らうことを、至上の喜びとすることを。

 ケルベロスたちは、シュラを取り囲み、じりじりと、間合いを詰めてくる。

 しかし、シュラの白い面には、感情の揺らぎは一切ない。凍りついた真冬の湖面のように、ひどく静かで、どこまでも冷たい。

 ケルベロスたちが、一斉に飛びかかる。

「召喚、水の序列四位、ジェド・マロース!」

 シュラの声が、夕闇を切り裂いた。

 低く、深みのある、艶やかな美声。それに応え、足元までの長い銀髪をなびかせた、美青年が現れる。

 薄い長衣も、切れ長の双眸も、きらきらと光り輝く銀。その奥にあたたかい血が流れていないことは明白な、白すぎる肌。

 長い銀の睫毛の奥から、主の敵を見回す。

「やれ、ジェド・マロース!」

 シュラが、鋭く命じる。ジェド・マロースが頷く。

 猛吹雪が吹き荒れた。

 暴風が触れたとたん、ケルベロスたちは、凍りつく。氷の彫像と化した、三つ首の巨犬たちは、次の瞬間には、ばらばらに砕け散った。

 後には、暗紫色の小石が落ちていた。水晶に似たそれは、魔族の核だ。自然界に存在せず、人の手でも創りだせない成分を含んでいるので、高値で取引される。

<ヴァールハイト>の資金源の一つでもある。

 シュラは、ジェド・マロースに命じる。

「拾って来い。」

 銀色の青年の姿の聖獣は、肩をすくめる。

「主、聖獣使いが荒いですよ。」

 言いながらも、ジェド・マロースは、風を起こして、自分の手に、ケルベロスの核を集めた。

 シュラが手を差し出す。ジェド・マロースが、主の手に核を乗せると、

「ご苦労。」

 シュラが短くねぎらった。もう用はない、という意味だと知るジェド・マロースは、大気に溶けるように消える。

 シュラが、興味の薄い眼差しで、手の中の核を見ていると。

 背後で、闇が動いた。

 体のあちこちが凍りつき、吹雪によって切り刻まれて、赤黒い血を流しながら、それでも起き上がったケルベロスが。

 ジェド・マロースの吹雪から遠い場所にいたために、即死を免れた、最後の一頭。

 仲間を無惨に殺され、自らもひどい傷を負わされ、その目は憎悪と殺意に血走り、ぎらついている。

 ケルベロスは、ゆっくりと、慎重に歩み寄った。気づかれないよう、細心の注意を払って。

 ケルベロスが進む。ぽたぽたと、血を流しながら。

 あと一歩で、そのあぎとが、憎い敵に届く、というところで。

 シュラが、振り向いた。

 マントが翻る。

 青い目が、ケルベロスを捕えた。その美貌に、動揺の色は無い。

「召喚、水の。」

 だが、それより早く。

「召喚、火の序列四位、炎天使ミカエル!」

 バサリと、白い翼が羽ばたいた。

 現れたのは、金髪に朱色の瞳の天使。長身の、若者の姿の聖獣。ミカエルが、たくましい腕を伸ばすと、炎が広がった。

 ケルベロスが、炎に包まれた。

 断末魔の叫びが、荒野に響く。長く尾を引いたそれが、完全に消えた時、コロンと、魔族の核が大地に転がった。

 シュラが、不機嫌そうに眉をつり上げた。

「貴様、余計な真似を。」

「ごあいさつだな、シュラ。」

 くす、と唇に笑みを飾り、シュラに歩み寄って来たのは、明るい金髪を夕風になびかせた少年。

 薄闇の中、金色の髪が眩しい。紅を帯びた紫の瞳が、暁の空のようだ。

 長身のシュラと並ぶと、肩辺りまでしかない。小柄だが、小さな体には、活気が漲っている。

 身にまとうのは、シュラと同じ、<ヴァールハイト>の魔法使いの制服である、黒い詰襟。赤いマントを羽織っている。

 シュラと同じく、十六歳になったヘルツは、賢者になっていた。

「ヘルツ、貴様、何のつもりだ。」

 シュラは、ヘルツに視線を据え、咎める響きで訊く。気が弱い者なら、腰が引けてしまう物言いだが、ヘルツは慣れているので気にしない。

「そう怒るなよ。最後にちょっと手を出しただけだろ。」

 ヘルツは、苦笑気味に言い、それから、口調を改めた。

「仕事だぜ、シュラ。オレとおまえの二人に、だ。」

「…ほお。」

 シュラは、すうっと目をすがめた。もともと、涼やかというより冷たい印象の空色の目。こういう表情をすると、いっそう酷薄になる。

 珍しい、というより滅多にないことだった。シュラとヘルツの二人に仕事、など。

 シュラもヘルツも、<ヴァールハイト>に五人しかいない、賢者の位の魔法使い。しかも、最年少でその位を得た天才。

 たいていの任務なら、一人でこなせてしまう。

「詳細はまだ聞いていないんだ。よっぽどの難事件だと思うぜ。」

 ヘルツは、どこか挑発するように、シュラに笑いかけた。

<ヴァールハイト>本部。その最奥にして中枢、総帥の執務室。

 豪華な調度品と、四方の壁を埋め尽くす魔道書ー売れば、一生遊んで暮らせるほど高価な物も含まれるーに、大抵の人間は圧倒される。

 しかし、今、総帥に呼び出された二人は、並みの神経はしていなかった。

 シュラは、傲岸不遜を絵に描いたような態度で、総帥を見下ろしているし、ヘルツは、この任務には何か裏があると踏んで、警戒しながらも、面白がっている。

(喰えない子たちですよねえ…)

 イデアルは、心中でため息をつきつつ、表面はあくまでにこやかに言った。彼も、一流の魔術結社を率いるだけあって、一癖も二癖もある人物である。

「シュラ・エーアガイツ、ヘルツ・ヘクサグラム。仕事の依頼です。」

「貴様が、直々に話をするということは、国家機密レベルの任務か?」

 シュラが、目をすがめて尋ねてくる。

 普通、仕事の依頼は、文書で渡される。魔術結社に来る依頼の大半は、魔族の退治だ。魔族の出現には、規則性がない。突然現れ、街や村を襲う。自然災害に近い。それゆえ、ある程度の規模の村や街には、魔法使いが常駐している。

 しかし、出現する魔族の序列にも規則性が無いので、時に、常駐する魔法使いでは手に負えないことがある。そうした場合、その魔法使いが所属する魔術結社に、応援要請が来る。出現した魔族のレベルに応じて、魔術結社に詰めている魔法使いが派遣される。

 今回の任務が、そうした、よくある任務なら、総帥に呼びつけられることは無い。赴任先や、魔族のレベルなどが記された文書を受け取り、詳しいことは現地で話を聞くか、自分で調べる。

 ごく稀にあるのは、王侯貴族の護衛任務だ。魔術結社は、基本的にどの国家にも与しない中立の立場だが、護衛程度なら引き受ける。王族の護衛は、高位の魔法使いにしか任されないので、賢者の位のシュラとヘルツに回って来るのは、自然な流れだ。

 だが、イデアルは首を振った。

「いえ…どの国にも関わりはありません。仕事は、魔族の退治です。」

 シュラとヘルツが、同時に眉をひそめた。視線を交わす。ヘルツが、口を開きかえた時。

 ドオンッ!

 衝撃が襲った。

 突風、否、暴風か。巨大な、見えない手に吹っ飛ばされたような。

 シュラもヘルツも、無様に倒れることなく、踏みとどまった。

 二人の賢者の目がとらえたのは、巨大な鬼。

 身の丈は、三メートルはある。丸太のように太い腕に、棍棒を握り、耳まで裂けた口で、笑う。人食い鬼。闇の序列四位の、高位の魔族だ。

 棍棒を振り回して起こした風が、先ほどの衝撃かと、シュラは悟る。

「オーガだと⁉なぜ、ここに魔族が。」

 ヘルツが仰天して叫ぶ。

 <ヴァールハイト>は、魔族が入り込めないよう、強固な結界で守られている。しかも、総帥の執務室は、最も堅牢なはず。

「召喚、水の序列四位、ジェド・マロース!」

 シュラは、冷静だった。聖獣を呼び出す。

 白銀の美青年が出現し、オーガに向かって白い腕を伸ばす。

 吹き荒れる吹雪。

 凍てつき、氷の彫像と化す、オーガ。

 ジェド・マロースも、同じ序列の魔族を倒したことで、力を使い果たして消える。

「一体、どういうことなんだ。」

 ヘルツが、腑に落ちない表情で、凍てついたオーガに近づく。

 シュラが、厳しい表情のまま、オーガを見据える。

(妙だ。)

 オーガが、核にならない。

 パキン、と。

 オーガの体から、氷の欠片が零れ落ち。

 オーガが、動いた。

 氷に亀裂が入り、粉々に吹っ飛ぶ。

 オーガが、棍棒を構えた。ヘルツは、既に間合いにいる。

「ヘルツ!」

 イデアルが叫ぶより、ヘルツの動きの方が速い。

「召喚、火の序列四位、炎天使ミカエル!」

 ヘルツを庇うように出現した、金髪の天使が、オーガに炎を浴びせる。

 炎に包まれたオーガは、転げまわって苦しむ。

 炎とミカエルが同時に消えた。

 その時には、オーガは黒焦げになっており、核が、コロンと床に転がる。

 シュラが、忌々しそうに舌打ちし、イデアルの方を向く。

「説明しろ。」

 怜悧な、青い目。

「オーガは、序列四位。なぜ、同列のジェド・マロースの攻撃で倒せない?そもそも、ここに魔族が出現したのは何故だ。」

 危機一髪だったヘルツも、シュラの隣で、イデアルの答えを待つ。

「もちろん、話をしますよ。今回の任務に大きく関わることです。」

 ふだん、へらへらと笑うばかりで、感情を表に出さないイデアルが、珍しく沈鬱な顔で語りだした。

<ヴァールハイト>内部に、魔族が出現しだしたのは、ほんの一週間ほど前なのだという。しかも、何らかの手段で強化されており、一段上の序列の聖獣か、シュラとヘルツが図らずもそうしたように、同じ序列の聖獣なら、二体分の攻撃を受けなければ、倒せない。

 魔族が出現したのは、一定以上の実力の魔法使いの前であり、今のところ負傷者だけで、死者は出ていない。

 しかし、原因不明で、後手に回るしかないこの事態が続けば、いずれ死者も出かねない。そこで、年は若くてもー若すぎるほどだがー実力においては抜きんでている、シュラとヘルツに、事態を収拾する仕事を頼みたい、というのが、イデアルの話だった。

 余計な言葉を差し挟まず、黙って最後まで聞き終えたシュラが言う。

 居丈高に腕を組み、壁に背をつけた姿勢で、フンと鼻を鳴らす。

「序列の低い魔族の退治ばかりで、退屈していたところだ。」

 だが、とシュラは、眉をつり上げた。もともと秀麗な顔立ちは、怒気をはらむと、いっそ人間離れした迫力がある。

「仕事は、オレ一人でやる。こいつと組むなど、真っ平だ。」

 そのまま肩をそびやかし、イデアルの執務室を出て行ってしまう。青いマントがなびくのを、ヘルツは、肩をすくめて見送った。

 バタンと音をたててしまる扉を眺め、ヘルツは苦笑する。

「まあ、予想通りかな…。総帥、あいつは、誰かと一緒に仕事をするなんて、納得しませんよ。」

「…君なら、あるいは、と思ったのですが。シュラも、君だけは、自分のライバルとして、認めているでしょう?」

 探るようなアイス・ブルーの目が、紫の瞳を見つめる。

「だからこそ、ですよ。」

 プライドが高く、それに見合う実力を備えた、<ヴァールハイト>始まって以来の天才。

 シュラは孤高だ。

「まあ、何とかしますよ。総帥の考えは、正しいと、オレは思いますから。」

 シュラとヘルツの、二人の力がいると、イデアルは考えた。その判断は、おそらく正しい。

 ヘルツは、イデアルから、正式な依頼文書を受け取り、制服の内ポケットにしまった。

 中庭の噴水のところで、ヘルツはシュラに追いついた。<アカデミア>から近いところで、昼休みには、生徒たちの姿も見られるのだが、今はもう、午後の授業が終わっている時間らしく、人気は無い。

「待てよ、シュラ。」

 声をかけても、シュラは止まらない。仕方なく、ヘルツは前に回り込み、シュラを見上げた。

 午後の穏やかな日差しを浴びで、シュラの亜麻色の髪は、いつもより明るい色に見える。

 均整のとれた長身に、白皙の肌。端正な顔立ちに、サファイアのように鮮やかな、紺碧の瞳。

 貴公子然とした、育ちのよさそうな外見をしているのに、うかつに触れたら切り裂かれそうな、鋭利な雰囲気をもっている。

(ガキの頃からそうだったけど、さらにとっつきにくい性格になったな…)

 強烈な出会い方をしてしまったが、ヘルツは、あの時の闘いで、シュラの実力は認めている。五年たって、あの頃とは比べものにならないほど、シュラは腕を上げたが、自分だってひけはとらないと、思っている。

「どけ。」

 シュラは、高圧的に言うが、ヘルツは無視した。

「シュラ。おまえ、どうしても、オレと組むのは嫌なのか?」

「当然だ。」

 きっぱり言われる。誰も信じないシュラらしいが、ヘルツも引かない。

「もったいない。おまえとオレが組んだら、最強だぜ?」

 挑発的に。パチンと片目を閉じるヘルツを、シュラは冷ややかに見下す。

「まあいいさ。じゃあ、オレも勝手に動く。たまたま、おまえと同じところにいて、偶然に、おまえの助けになることをするかもしれないけど、な。」

 悪戯っぽく笑うヘルツに、シュラは、苛立つ。

「ふざけるな。」

 一触即発の空気。

 ピンと張り詰めたそれが、突然崩れた。

「助けてっ!」

 突然の悲鳴に、シュラとヘルツが同時に振り向く。

 ドンッと、シュラの腰の辺りに、小さな体がぶつかって来る。

 十歳くらいの子どもだった。<アカデミア>の制服である、紺の詰襟を着ている。

 子どもの叫んだ言葉の意味は、すぐに分かった。

「ダーク・エルフ…。」

 ヘルツがその魔族の名を呟く。

 子どもの背後に現れたのは、邪妖精と呼ばれる、序列三位の魔族の群れ。

 男もいれば、女もいる。皆、一様に美しい容姿と、尖った耳。背中に、トンボのような羽を広げている。光の聖獣、エルフならば、その羽は透き通って白いが、魔族のダーク・エルフの羽は、漆黒だ。

 顔立ちも、美しいが、浮かべる笑みは冷酷で、邪悪さが透けて見える。

 ダーク・エルフが、ふわりと舞う。その手に剣を手にして。

「召喚。水の序列三位、リヴァイアサン・ソード!」

 シュラの左右の手に、それぞれ剣が出現する。鋭く研ぎ澄まされた名剣。午後の日射しを冷たくはね返す。

「アビリティ発動、永続!」

 シュラ自身の魔力を糧に、聖獣の消滅を防ぐ能力を発動する。永続を使う限り、たとえ、同列の魔族を滅しても、リヴァイアサン・ソードは消えない。

 ガキィッと、ダーク・エルフの剣を、片方の剣で受け止める。

「くっ。」

 シュラが、歯を喰いしばった。

(序列三位の魔族か、流石に強いっ…)

 しかも、おそらくは、一つ上の序列の力を有しているはず。

 シュラが、空いている方の剣を一閃した。

 ダーク・エルフを切り裂く。

 青黒い血がほとばしる。

 しかし、核にはならない。

 ダーク・エルフが、ふわりと舞い上がる。

 シュラが跳躍した。

 もう一方の剣で、ダーク・エルフに切りつける。

 ダーク・エルフの体が、どさりと地に落ちた。その体が塵と化し、核だけが残る。

(二回斬れば死ぬな。)

 シュラは確信した。そのまま、ダーク・エルフの群れに突っ込む。

 青い目が、獰猛な肉食獣のように煌めく。

 青黒い血飛沫が飛び散り、空気が血の臭いに満ちる。

 シュラの斬撃を受けたダーク・エルフが、血を流しながらも、高く舞い上がった。

 シュラが舌打ちする。剣が届かない。新たに聖獣を呼ぶしかない。

「召喚、水の序列。」

「召喚、火の序列三位、ラ―・アロー!アビリティ発動、永続!」

 シュラの肩をかすめ、炎の矢がダーク・エルフに突き刺さった。

 燃え上がるダーク・エルフ。

 核だけを残して消滅する。

 シュラが、両の手に、リヴァイアサン・ソードを構えたまま、吐き捨てる。

「ヘルツ、貴様。」

「言っただろ。勝手に助けるってな。」

 ヘルツが、茶目っ気たっぷりに片目をつぶって見せる。炎の矢をつがえたまま。たいていの武器型の聖獣には、永続のアビリティが備わっている。

 シュラは、腹立たしそうだったが、戦闘中に口論を始めるほど愚かではない。

 シュラが斬ったダーク・エルフに、ヘルツが炎の矢を放つ。

 逆に、ヘルツが炎の矢で射抜いたダーク・エルフを、シュラが斬り捨てる。

 それを繰り返し、ついに、最後のダーク・エルフが、核だけを残して消滅した。

 ヘルツが、ふうと息を吐き、座り込んでいる子どもに視線を落とした。

 突然だったので、先程は分からなかったが、あらためて見ると、かわいらしい顔立ちをしている。

 艶やかな漆黒の髪が、肩にかかっている。零れ落ちそうに大きな瞳は、一見、黒く見えるほど深い、紫紺だ。

 可憐で愛らしく、光の聖獣の、フェアリーだと言われても信じてしまいそうな容姿だ。

「大丈夫か?」

 ヘルツに問われ、子どもは頷く。

「はい。ありがとうございます。」

 幼さを残した、高く澄んだ声。

「説明しろ。貴様、なぜ、ダーク・エルフに狙われた?」

 詰問口調で、シュラが横から言う。

 誰が相手でも変わらないシュラの態度に、ヘルツが呆れる。気の弱い子どもなら泣き出しそうな、きつい物言いである。

「おい、シュラ。」

 ヘルツがたしなめるより、子どもが答える方が早い。黙っていると、シュラに怒鳴りつけられそうで、怖いのかもしれない。

「わかりません。図書館で宿題を終わらせて、寮にもどろうとしたら、突然襲ってきて…。」

「近くに教師はいなかったのか?」

 ヘルツの問いに、子どもは首を振る。

「寮に戻る道には、オレ以外誰もいませんでした。図書館にいた時間が長かったから、みんな先に帰ったと思います。」

 一人称を聞いて、ヘルツは、ああ、男の子か、とやっとわかる。

「狙われる心当たりは無いんだな?」

 シュラに訊かれ、

「ありません。」

 と答えた少年は、

「あのっ。」

 と、勢いこんで言う。目がキラキラ輝き、丸い頬が紅潮している。

「シュラさまですよねっ、賢者のっ。」

「だったら何だ。」

 シュラは素っ気なく答える。

 少年は、シュラの右手を、両手で握った。

「オレ、イリスっていいます。オレ、ずっとシュラ様に憧れててっ。お会いできて光栄ですっ!助けてくださって、本当にありがとうございますっ!」

 思いがけないところで、憧れの相手に会えたのが、よほど嬉しいんだな、と傍から見ていたヘルツは思う。

 純粋で、無垢で、一途で、ひたむき。一切の不純物のない、憧憬。

「シュラ、よかったじゃないか、こんなかわいいファンがいて。」

 シュラは、かすかに眉をひそめている。こんな時くらい笑えばいいのにとヘルツは思うが、シュラの性格では無理だろう。イリスがショックを受けないよう、祈るばかりである。

「ああ、そうだ。」

 ヘルツが、名案を思いついた、というように切り出した。

「シュラ、おまえ、しばらくこの子の護衛をしてやれよ。」

「何だと?」

 シュラが、剣呑に目をすがめた。

「イリスに心当たりは無いみたいだが、襲われたのは事実だ。イリスの傍にいれば、また魔族が現れるかもしれない。うまくすれば、魔族が、<ヴァールハイト>内に現れた理由や、通常よりもパワーアップしている原因もわかるかもしれない。」

「不確定要素ばかりだろうがっ。」

「だけど、今の時点で手がかりなんて、イリスの存在だけなんだ。やってみて損はないさ。」

 シュラは、不満そうだが、ヘルツの言っていることには一理あるので、黙った。状況を適切に判断できる聡明さは持っているのだ。

「じゃ、そういうことで。」

 と、ヘルツはひら、と手を振る。

「オレは、ちょっと魔族について調べてみる。」

 そのままヘルツは歩き出す。

 シュラは、ヘルツの後姿を睨みつけていたが、

「あ、あの、シュラさま。」

 と呼ばれ、視線をイリスに向けた。突然の展開に戸惑いつつも、憧れの人の傍にいられることになって、嬉しそうだ。握ったままの手に、ぎゅっと力をこめる。

「シュラさまに守ってもらえるなんて、夢みたいですけど、ご迷惑なんじゃ…。」

「オレが請け負った仕事だ。貴様の気に病むことではない。」

 シュラの声は淡々としているが、イリスは、返事が返ってきただけで、嬉しそうだ。

「ありがとうございますっ、シュラさま!」

 元気に言った。

 しかし。

 シュラが、イリスを見下ろす目は、冷ややかだった。その奥にひそむものを、誰にも悟らせない。

 イリスは、ただ、にっこりと笑って、シュラを見上げている。

<ヴァールハイト>の図書館に向かったヘルツは、その途中で

「あれ、ヘルツじゃん。」

 気安い口調で声をかけられて、足を止める。

 聞き慣れた声だった。ヘルツが顔を上げると、ニッと、明るい笑顔が返される。

 金茶の髪に、深緑の目。長身のシュラよりは低いが、ヘルツよりは高い。やんちゃで腕白ないたずら小僧のまま大きくなったような、ヘルツの親友。

「ケルン。」

 ケルンは、魔導士の位の魔法使いだ。シュラやヘルツが、異常なくらいの天才なので目立たないが、十六で魔導士の位なら、相当優秀だ。

 ケルンは、片手に白い箱を抱えている。そこそこ値の張るケーキ店の箱だ。

 珍しい物を持っているという気がした。魔導士の位のくせに、育ちが庶民のケルンは、普段はもっと安い菓子を好んで口にするのに。

 ヘルツの視線を追って、ケルンは訊かれる前に言う。

「これか?見舞いだよ、ミステルの。」

 ヘルツが瞠目した。

 同期の、それなりに親しかった友人の名だ。彼もまた、おっとりと優しげな風貌を裏切って優秀で、ケルンと同じく魔導士だ。

「ミステルに何かあったのか…?」

「え、おまえ知らねえの?」

 そっか、賢者って何かと忙しいもんな、と呟くケルンの口調には、皮肉や嫌味が無い。

 ケルンは、彼にしては珍しく、やや声を落とした。

「襲われたんだってよ、魔族に。」

「魔族に…?」

 ヘルツがハッした。ついさっきイデアルから受け取った、依頼文書を取り出して目を通す。

 魔族に襲われた被害者の名に、確かに、ミステルの名があった。

「同行させてくれ。」

 親友の様子に、ただならぬものを感じたらしく、ケルンは、いつも陽気な顔を、珍しく引き締めて、頷いた。

 話を聞き終わり、ケルンが最初に言ったのは、

「よりにもよって、シュラとおまえを組ませるつーのもなあ…。総帥も何考えてんだか。」

 であった。

 シュラとヘルツの出会いのきっかけは、そもそも、このケルンである。ケルンは、シュラに対して、最悪な印象しかない。実力は認めざるを得ないが、あんなに高飛車で傲慢で偉そうで自分勝手なやつが賢者だというのは、納得がいかない。

「総帥が、この事態を重く見ているということだと思うんだが…。」

 ヘルツの言葉に、ケルンは

「まあ、そうだけどさ…。」

 と渋々頷く。

 そんなことを話している間に、目的地に着いた。

<ヴァールハイト>は、一つの大きな街であり、その敷地内に大抵の施設はそろっている。もちろん、病院も。

 コンコン、とノックすると、

「どうぞー。」

 のんびりとした声に迎えられた。

 入って来たヘルツとケルンを見て、

「あれ?ヘルツくんも来てくれたんだ。久しぶりー。」

 ミステルが、柔らかな笑みを浮かべた。ケルンが見舞いに来ることは、あらかじめ知らせてあったらしい。

「さっき、偶然会ってさ。これ、見舞いな。」

 ケルンが、箱を持ち上げてみせる。

「うわ、<アプリコーゼ>のケーキじゃん。ありがとう!」

 パッと顔を輝かせる。

「お茶淹れるねぇ。」

 鼻歌混じりに、ベッドから下りようとするので、ヘルツがちょっと慌てた。

「いいって。けが人が動くなよ。」

「って言ってもねえ、もう、全然大したことないんだよ。」

 ミステルがあっけらかんと笑う。

 確かに、目立った外傷はない。首に包帯が巻かれているくらいだ。

「こんな贅沢な個室用意してもらっちゃうし、お見舞いでケーキが食べられるし、かえってラッキーだったなあ。」

「「おいおい。」」

 ケルンとヘルツは、同時につっこんでしまった。

(そうだった。ミステルって、こういう性格だったなあ。)

 おっとりのんびり、のほほんとしているくせに、意外と図太いというか、肝が据わっている。

 魔族に襲われたことが、深刻なダメージになっていないなら、何よりだが。こうも呑気そうだと拍子抜けである。

(まあ、これなら話が聞きやすいか。)

 と、思い、ヘルツが頼む。仕事なのだと、明かして。

「悪いんだが、ミステル。おまえが魔族に襲われた時の状況、詳しく教えてくれないか。」

 ヘルツは、ケーキをぱくつきながらー食事中にする話題でもないかと思ったが、ミステルが全く気にしない様子だったのでーミステルの話を聞き終えた。

 ちなみに、ケーキはやたらたくさん買ってあったので、ヘルツの分もあった。

 結界内に現れた魔族。同じ序列の聖獣で倒せない魔族。

 イデアルから聞いた話と矛盾はしないが、目新しい情報もない。

 ヘルツが訊いた。

「ミステル、他に、何でもいいんだが、おまえが感じたことってないか?」

 ミステルは、ここまで、主観を入れす事実だけを語った。情報は正確な方がいいと察して、あえてそうした。一見、ぽやーっとしているように見えて、案外切れ者だ。そうでなければ、この若さで魔導士にはなれない。

 ヘルツに尋ねられ、少し黙って考えたミステルは、

「これは、客観的な根拠は薄くて、ボクが、ただ、そう感じたってだけなんだけど。」

 と、前置きをした。

「あのナイトメア、あんまり本気じゃなかった気がするんだよねえ。」

 記憶を探るように、蜂蜜色の目を、細めて。

「本気でボクをどうこうしようっていう、殺気が無かった。事実、生気を全部吸い取られて殺されるってこともなかったし。」

「…確かに。」

 ヘルツが、口元に手を当てて、頷いた。

「いきなり襲いかからず、おまえの名前を確かめたり、正体を明かしたりしているな。」

「なんか、魔法闘技(バトル)でも申し込んでるみたいだな。」

 黙って聞いていた、ケルンが言う。ケルンは、実技はまあまあだが、座学が苦手で、<アカデミア>時代、シュラには相当馬鹿にされていたのだが、時々妙に鋭いことを言う。

 野生の勘、のような。

「ああ、そんな感じだね、言われてみれば。」

「…。」

 ヘルツが眉根を寄せる。

 何かが引っかかっている気がする。だが、まだ答えが出ない。

「何か気づいたことがあったら教えてくれ。」

と頼み、ヘルツとケルンは、病室を後にした。

「シュラさま、お茶が入りました。どうぞっ!」

 テーブルの上には、湯気を立てる紅茶と、お茶請け。

 満面の笑みを浮かべてシュラを待つイリスに、シュラは嘆息した。

「そんなことはしなくていいと言ったはずだ。」

 イリスは、細い肩をシュンと下ろしたが、すぐに顔を上げる。

「だって、お世話になっているんですから、これくらいしないと。あっ、夕食、何にします?」

「貴様、オレの話を聞いているのかっ。」

 シュラは、うんざりした。

 場所は、<ヴァールハイト>の中核、賢者の塔。シュラの住む場所だ。

<ヴァールハイト>で賢者の位を得る者は、同時期に五人しかいない。それぞれ、水、火、地、光、風のいずれかの属性を極めた者に、位と、賢者の塔が与えられる。

 基本、魔法使いは、一つの属性の聖獣しか呼び出せない。稀に、複数の属性の聖獣を召喚できる魔法使いもいるが。

 シュラは、しばらく、イリスに<アカデミア>の授業を休ませ、自分の近くで生活させることにした。

<アカデミア>には、既に伝えてある。賢者には、それくらいの権力はあるのだ。

 既に三日が経過し、特にその間、事態に動きが無いので、シュラはいい加減、うんざりしている。

 魔族について調べているらしいヘルツからも連絡はないが、もともとヘルツの手など借りるつもりがなかったシュラは、ヘルツのことはほったらかしだ。

 イリスは、滅多に入れない賢者の塔に来られたことに、無邪気にはしゃいでいる。憧れていた、シュラの傍にいられることも嬉しいくてたまらないらしい。一生懸命、役に立とうと、ぱたぱたと動き回っている。

 賢者であるシュラは、<ヴァールハイト>から、高い給金が支給されている。しかし、生活に彩りを与えることに何の興味もないシュラも住居は、恐ろしいくらい殺風景だった。

 食事も、食堂で済ませることがほとんどだったのだが、イリスは、実に手際よく料理を作った。

 基本的に人との関わりを嫌うシュラは、イリスの献身が、正直、うっとうしい。だが、イリスの無邪気さに押し切られて、好きにさせている現状がある。

 高圧的な態度には、この上なく冷酷に接するシュラだが、イリスからは、シュラのために何かをすることが嬉しくてたまらない、という気持ちが伝わるだけに、強気に拒否できない。

 何となく流されるままに、シュラは椅子に腰かけて、紅茶を飲んだ。

 淹れ方が上手いのだろう。香りがよく、舌に優しい上品な甘さだった。

「…おまえの分はないのか?」

 にこにこと、シュラの様子を見守るイリスに、訊く。

「ご一緒させていただいて、いいんですか?」

 イリスの顔が、パッと輝く。

「…じろじろ見られているのが嫌なだけだ。」

「ありがとうございます、シュラさまっ!」

 イリスが、シュラの正面に座り、自分の分のカップに、紅茶を注ぐ。

 なめらかな、慣れた手つきのそれを見ながら、シュラは尋ねた。

「どこで、身に着けた?」

 十かそこらで、家事を完璧こなせるのが不思議だった。

 イリスは、動きを止めた。紫紺の瞳を、すっと伏せる。

「オレ、親がいないんです。」

 はしゃいでいた時とは、声のトーンが違う。

「六つの時に両親が死んで、その後いろいろあって…<光の家>に引き取られました。」

<光の家>は、<ヴァールハイト>が、慈善事業として資金を出している、孤児院の名前だった。<光の家>に、いられるのは、十三まで。それまでに、子どもたちは、生活に必要な技術を身に着け、手に職をつけることが要求される。

「オレは、魔法の才能があったみたいで、<アカデミア>に入学することが許されました。奨学金で、生活しています。」

<ヴァールハイト>も、ただの慈善事業をおこなっているわけではない。<光の家>は、才能ある子どもを見つける場でもあった。

 イリスが、黒に近いほど深い、紫の瞳を上げた。シュラのサファイアの目を、見つめる。

「だから、オレは、強くなりたいんです。シュラさまみたいに。一人で生きていけるように。」

 イリスの声には、静かな決意があった。イリスがそう決意するだけの理由が、彼の過去にあることを、  シュラは見抜く。

 無邪気なだけの少年ではなかった。それなりの辛酸を舐めてきたのだと。

 愛らしい、大きな丸い目に、激しい光が一瞬、よぎる。

「…そうか。」

 シュラは、短く答えた。相変わらずその声は、素っ気ない。同情も憐憫もない。

「なら、強くなれ。」

 イリスが、大きく目を見開いた。

 ゆっくりと、淡紅色の丸い頬がゆるむ。

「はいっ!」

 図書館。

 魔族についての、難解な専門書を積み上げたテーブルに、ケルンは、新たに数冊の本を置いた。

 ケルンは、今抱えている仕事は無くて暇だから、とヘルツに手を貸してくれているのだ。持つべきものは気のいい友人である。仕事が片付いたら何か奢ろうとヘルツは考えている。

 ヘルツが、読み進めていた本から顔を上げる。

 朝から始めた作業は、これといって進展のないまま、夕方を迎えている。途中で休憩を挟んだが、実りのない作業は辛い。

「…結構な量になったな…。」

「まあな。ちょっと休めよ、ヘルツ。」

 人気は無い一角だが、一応図書館なので、声は抑え気味で会話をする。

 ヘルツが、テーブルに本を伏せて頬杖をつくと、ケルンが正面に座った。

「そーいや、シュラの方はどうなったんだ?」

「何も言ってこないところを見ると、動きなしってことじゃないか?」

「あいつは、何かあっても、何も言ってこねーんじゃねーの?」

「…確かに。」

 苦笑しながら、ヘルツは頷き、ぽつりと呟きをもらした。

「そもそも、魔族って、どういう存在なんだろうな…。」

 世界を創りだした六柱の神のうち、魔王だけが、人に仇なす魔族を生み出し、放った。人は、聖獣を呼び出して、魔族に対抗する。

「神が、生み出したっていう点では、聖獣も魔族も同じだよな…。」

 ヘルツが呟く。特に意図はなく、心に浮かんだことをそのまま口にする。

 ケルンが反論した。

「でも、聖獣は呼び出して操れるけど、魔族は、そんなことできねえだろ。」

「作られた目的が違うからな。」

 魔族は、魔王が、人を襲う目的で生み出した生き物だ。本能で人を敵と見なす。

「魔王って、よくわかんねーよなー。」

 ケルンがうーん、とうなった。

「魔王を呼びだす禁呪だってあるだろ?そもそも、魔王だって人を生み出した神の一柱だし。結局、人の味方か敵か、よくわからん。」

「…。」

 ヘルツは、こめかみを押えた。

 ちくり、とかすかな痛みが刺したような。何かが引っかかっている…。

「魔王を呼びだす禁呪…確か、サフィア王家に代々受け継がれていたのも、それだったな。」

 ヘルツが、こめかみに手をやったまま、言う。

 世界最古の魔道王家、サフィア。六年前、ベルンシュタインに滅ぼされ、王族は死に絶え、その秘術も永遠に失われた、と授業では習った。

「あ、いたいた。やっと見つけたー。」

 ふわっと柔らかな声に振り向くと、ミステルが立っていた。

「よお。ミステル。」

 と、ケルンが手を振る。ヘルツもミステルを見上げる。

「退院したんだな。もう大丈夫なのか?」

 ミステルの首に、もう包帯はない。

「うん。もうすっかり元気。もともとたいしたことなかったし。それで、あの後ちょっと思い出したことがあって。役に立つことかどうかわからないし、気を失う寸前だったから、正確じゃないんだけれど。」

 ミステルは、自信のなさそうな様子で、朦朧とする意識の中で聞いた(ような気がする)会話を告げた。


「殺しちゃ駄目だよ。証言してもらわなきゃいけないんだから。」

「はい、マスター。」

「だけど、こいつ、本当に魔導士?全然大したことないじゃないか。」

「所詮、人間など我らの敵ではありません。」

「まあ、でも、今夜はただの練習だからね。」

 くすくすと、軽やかな笑い声。

「お楽しみは、これからさ。オレは、絶対に、あの方を振り向かせてみせる。」


 ヘルツは、目を見開く。

「マスター?魔族が…そう、呼んだ?」

 それなら、前提が崩れる。

「まさか、魔族を、聖獣のように、召喚して操れる人間がいる、ということか!」

 ヘルツは、立ち上がっていた。声を押えるのも忘れて叫んだ。

「そうだ。それなら、<ヴァールハイト>の結界内に、魔族が入り込んでいるのもわかる!」

 外側からの侵入ではない。

 呼び出されたなら、結界は、無意味。

 序列以上の力を持っているのも、魔法使いが力を与えているから。

「…やっぱり、ボクの記憶が正しいとするなら、そういう結論になるよね。」

 ミステルが、複雑な表情で言う。そこまでは、彼も考えたのだ。

 だが。

 ヘルツには、ミステルが聞いたという会話から、ミステル自身が気づかなかった事実にたどりつく。

「それだけじゃないんだ、ミステル。」

 ヘルツが、珍しく上ずった声になる。冷静になろうと努めている声。言葉にすることで、思考をはっきりさせようとしている。

「練習、ということは、魔族を召喚する魔法使いは、試している、ということだ。自分の実力を。当然、襲う魔法使いを選んでいる。」

 ヘルツは、イデアルから与えられた情報を、声に出した。

「魔族が出現したのは、一定以上の実力の魔法使いの前であり、今のところ負傷者だけで、死者は出ていない。だが。」

 どうして、気づかなかった?

 ヘルツは、歯噛みする。答えは、最初から目の前にあったのに。

「ただ一人、その条件に当てはまらない人物の前に、魔族が出現している。狙いは、あいつだったんだ!」

 ヘルツが走り出す。赤いマントを翻して。

「っておい、ヘルツ!」

「ヘルツくん!」

 思わず追いかけようとした、ケルンとミステルに、ヘルツは振り向かずに叫ぶ。

「二人はここにいてくれ!」

 ヘルツが、突風のように走り去る。

 ケルンが、椅子を倒して立ち上がった。

「おい、待てよ、オレも一緒に。」

 腕をつかまれた。意外なくらいの、強い力で。

「ミステル⁉。」

 無意識に非難めいた声を上げたケルンに、ミステルが首を振った。光をこぼすように、銀髪が揺れる。

 ケルンの腕を握ったまま、ミステルが言った。

「ボクたちじゃ、かえって足手まといだよ。」

 いつもと同じ、ふわりと軽やかな、羽のような声が、今は、ケルンの心に鋭く突き刺さった。

「っ…。」

 ケルンは、痛みをこらえるように、顔を歪めた。

「…オレたちが協力できるのは、ここまでってことか。」

「…そうだね。それに、これは、彼らの受けた仕事だよ。」

 ふっと、ミステルが笑う。

「信じて待つのも、友達の役割。」

 彼らの実力は知っている。ケルンとミステルは、頷き合った。

 いつも、遠くから見ていた。

 光り輝く、無敵の才能に、憧れた。本当の天才っていうのは、ああいう方のことをいうんだと。

 あの方みたいになりたかった。

 あんなふうに、誰よりも強く、自信に満ちた生き方がしたかった。

 あの方みたいになりたいという気持ちが、あの方のそばに行きたいという気持ちに、いつから変わったんだろう。

 けれど、それは、けして叶わない望みのはずだった。

 オレは、とてもちっぽけな存在で、あの方の目になんか、止まることはない。

 見ているだけで満足していれば、よかったのに。大それた望みをもってしまったから、苦しくなった。

 強くなりたかった。

 あの方みたいに。

 あの方を振り向かせるために。

「おまえが望む力を与えよう。」

 その言葉を言った相手が、とても危険な存在なのは、わかっていた。だけど、止められなかった。

 オレはその時から闇に堕ちた。

 だけど、後悔はしていない。

 だって。

 もうすぐ、欲しいものが手に入る。

 賢者の塔は、<ヴァールハイト>を一望できる高さがある。

 窓辺にたたずみ、下界の景色を見下ろすシュラの横顔を、イリスは黙って見上げていた。

 朱色の夕日が、シュラの亜麻色の髪を、オレンジ色に染め上げている。

 均整のとれた長身。<ヴァールハイト>の漆黒の制服が、こんなに似合う人を、イリスは他に知らない。

 貴公子然とした、育ちのよさそうな、整った顔立ち。それなのに、苛烈なほど強靭な意志が、青い瞳に常に宿るから、戦士に見える。

 空が焼け落ちそうな、夕焼け。

 見つめていると、魂が抜かれそうな、赤。見惚れるほど美しいけれど、危険で不吉な。

(今日が、世界の最後の日みたいだ。)

 イリスは、突然そんなことを思いつく。

 この時間は楽しかった。けれど、そろそろ終わりにしなければいけない。心地よい時間だったけれど、やはり、本当に欲しいものとは違う。

 こんな、穏やかで優しい、ぬるま湯のような安らぎを、望んでいたわけではない。

イリスは、すっと息を吸い込んだ。

「シュラさま。」

 シュラは、肩ごしに視線を投げかけた。鋭く、冷たく、それでいて澄んだ眼差し。あらゆる欺瞞を断罪する刃のように。

 イリスは、にこりと唇をもち上げた。

「シュラさまは、どんな手段を使っても、手に入れたいと願うものは、ありますか。」

「ああ。」

 シュラは頷いた。迷いも溜めもない。

「貴様にも、あるのか。」

「はい。」

 イリスが、笑みを深くする。

 可憐で愛らしい、少女のような美貌。透き通るような、儚さ。夕日に溶けてしまいそうな。

「オレは、シュラさまが、ほしいです。」

 イリスの、濡れたように艶やかな、漆黒の髪がうねる。

「召喚、闇の序列二位、堕天使ルシファー!」

 現れたのは、三対、六枚の翼を持つ、漆黒の天使。絶世の美貌の青年は、背筋が寒くなるほど麗しく、冷たく微笑んだ。

 ルシファーが白い手を一振りする。

 黒い閃光が奔った。

 爆発が起きる。

「召喚、水の序列二位、アジ・ダハーカ!」

 シュラの前に現れた、三つ首の竜が、口から雷を吐いた。

 爆発と雷がぶつかりあって、相殺される。

 シュラの亜麻色の髪と、青いマントが激しくたなびいた。

 風が収まった時、アジ・ダハーカは消えていた。ルシファーはその場に残り、変わらず優雅だが、邪悪さの透ける笑みで佇んでいる。

 ルシファーの影から一歩進み出たイリスが、小首をかしげる。長い黒髪が、細い肩口でさらりと揺れる。

「驚いていませんね、シュラさま。…もしかして、気づいていましたか?」

 シュラは、冷ややかに、紺碧の目をすがめた。

「負の感情に囚われた者は、魔王に魅入られやすい。」

「…?シュラさま?何を。」

「魔王は、常に自分を呼ぶ者を待っている。ゆえに、闇から呼びかける。邪悪な望みを抱いた者に、自分を求めよと。」

 シュラが感情を読み取れない、淡々とした声で語る。シュラの語る内容は、一般の魔術書には、けして書かれることのないことだ。

「貴様、魔王の力を借りているな。貴様からは、瘴気が漂ってくる。」

 シュラが言う。迷いの無い断定だった。

 イリスが、上目遣いにシュラを見上げる。

「…最初から、気づいていたんですか?」

「最初は、ダーク・エルフの瘴気がうつった可能性も考えた。だが、三日経っても瘴気が薄れないのは、」

 シュラが、細く長い指を、イリスに突きつけた。

「源が貴様自身だからだ。」

 イリスが笑う。大人しく控えめな、清楚な姫君のような美貌は、生意気な笑みを浮かべれば、きちんと少年に見える。

「さすがシュラさま。何もかもお見通しなんですね。それじゃ、ボクの召喚する魔族が、本来の序列よりも上の力を持っていることもわかりやすよね?ボクは、魔王の力で、魔族を呼んでいるんですから。」

 イリスの言葉に応えるように、ルシファーが、翼を広げ、ふわりと浮かぶ。

 ルシファーが、両手を広げる。

 黒い閃光が、幾筋も降り注ぐ。

「召喚、水の序列二位、アジ・ダハーカ!」

 再び召喚された三つ首の竜が、雷で黒き閃光を駆逐していく。

 爆発が起き、壁が、床が、木端微塵に砕け散る。耳をつんざく轟音と、地震のような揺れ、爆風。

 アジ・ダハーカが消えると同時に、

「召喚、水の序列二位、サーペント・ソード!」

 新たな聖獣を召喚する。

 シュラの身長ほどもある大剣が、その手に出現する。鍔に近い方の剣身に、蛇が巻き付いている意匠。蛇の目にあたる部分には、アイス・ブルーの宝石が光る。

 シュラは、大剣を軽々と振るう。

 大剣が起こす風圧を、ルシファーはよけた。

 ルシファーのいた場所が、凍りつく。

 ルシファーの顔から笑みが消えた。

 シュラが、凛と叫ぶ。

「アビリティ発動!永続!」

 サーペント・ソードが、青く輝く。

 ルシファーが、黒き閃光を放つ。

「無駄だ!」

 シュラが高らかに叫び、剣を振るう。剣が風を起こす。

 黒い光は、青い風に触れた瞬間、凍てついて消滅する。

 剣が空中に軌跡を描くたびに、部屋が凍りついて行く。

 それでも、ルシファーは、漆黒の光を放ち続ける。シュラは、それを打ち消し続けた。

 やがて。

 シュラのこめかみに、つっと汗がつたう。息が上がってきていた。

 イリスが、それに目ざとく気づく。

「流石に、魔力が尽きたんですね。体力を魔力に無理やり変換しているみたいですけど…すぐに限界がきますよ。」

 勝ち誇ったように、イリスが笑う。

 シュラは、イリスを睨み据えた。

 イリスが息を呑む。

 それほどにシュラの視線は鋭かった。未だ力を失っていない。

「それは、貴様も同じだ。」

「え?」

 イリスが、目を見開く。

 その時。

 かくん、と。

 イリスの全身から力が抜けた。

 ルシファーの姿が、煙のようにかき消える。

 ドサッという音を、イリスは、どこか遠くで聞いた。自分の体が床に倒れた音だと、理解するまでに、間があった。

「…え…?」

 倒れたまま、イリスはシュラを見上げる。

「これ…どういう…なんで…?」

「瘴気が、貴様の肉体の閾値を超えた。」

 シュラは、冷然と返した。

「十日前から、貴様は無計画に魔族を召喚し続けた。魔族は、本来、人間が召喚できるように作られてはいない。魔族の瘴気は、人の肉体を蝕む穢れだ。」

 シュラは、静かに問う。その声には、何もかもを見透かしたような凄みがあった。

「貴様、瘴気に侵されて、思考がまともに働かなくなっている自覚はあるか?」

「…思考…?」

 イリスはぼんやりと呟く。

 意識に、靄がかかっていることに、初めて気づいた。

 シュラは、問いを重ねた。

「オレを殺すことが目的ではなかっただろう。」

「…え…。」

 イリスが、ゆっくりと瞬く。

(シュラさまを…殺す?オレが?)

 何の迷いもなく、行動していた。

(ちがう。オレは。)

 そうじゃない。

(オレは、ただ、シュラさまに。)

 プツン、と糸が切れた。

「もう、遅い。もう、何もかも手遅れだ。」

 ふいに、声が響いた。

 高く澄んだ、幼さを残した少年の声。

 イリスの淡紅色の唇から放たれた、その声は、しかし、イリスの口調ではなく。

「この肉体は、我が手に堕ちた。」

 イリスは立ち上がる。

 イリスから、凄まじい瘴気が噴き出した。もはや、気配ではなく、可視化された、黒い霧となっている。

 まっすぐに、シュラに向けた瞳は。

 夕闇を思わせる濃紫ではなく、鮮血の真紅。

「貴様…。」

 シュラの声が、彼にしてはとても珍しく、刹那、戸惑いを含んで揺れた。

 見覚えのある色彩(いろ)だった。

 同時に、血と炎と剣戟の音を思い出す。

「貴様、魔王か。」

「ご名答。」

 魔王は、ゆったりと微笑んだ。残酷に優美に、艶やかに笑う。それは、イリスの顔でありながら、全く別人のように見えた。

「シュラ!」

 金髪をなびかせて飛び込んできたヘルツは、部屋の惨状と、空間に満ちた瘴気に、一瞬、立ち尽くす。

 そして、その瘴気の源がイリスであることに気づいて、愕然とした。

 シュラを振り返る。

「シュラ、イリスの、あの状態は。」

「魔王に乗っ取られている。」

「何で、そんな。」

「あいつは、正式な召喚の儀で魔王を呼び出し、契約を結んだわけではない。魔王にいいように利用されたということだ。」

 シュラの声には苦い響きがある。

「そう。魔族を呼べば呼ぶほど、この子どもの体には、瘴気が溜まる。限界まで満ちれば、俺が、人界に出てくる門となる。」

 ヘルツは知らないが、今は亡きサフィア王家にのみ伝わる魔王召喚の禁呪を、大国ベルンシュタインが欲した理由は、そこにある。

 正式な契約を結べば、差し出すのは、寿命が尽きた後の魂のみで済む。

 だが、イリスは、魔王に唆され、契約に縛られない状態の魔王を、人界に解き放ってしまった。

 魔王は、くつくつと笑う。愚かでちっぽけな存在を、遥かな高みから見下ろし、問いかける。

「さあ、どうする?若き魔法使いたち。」

 瘴気が膨れ上がる。

 シュラもヘルツも、とっさに、後ろに跳んで、直撃を避ける。

 それでも、巨大な手で、突き飛ばされたかのような衝撃を受けた。そして、瘴気に触れたことで、吐き気と悪寒に襲われる。生命を吸い取られたかのような、おぞましい感覚。本能が警告する。

 これは、けして触れてはならない、禁忌の存在だと。

 しかし。

 ヘルツは、ギリッと奥歯をかみしめた。キッと、正面から魔王を見据える。ゆっくりと、呼吸を繰り返す。目を閉じる。極限まで、精神を集中させる。

「召喚、火の序列二位、オルタナティブ・フェニックス!」

 爆発的な光が満ちた。

 ごうごうと音をたてて燃え上がる、真紅の炎。鮮やかな朱金の輝き。

 眩く輝く炎をまとった、聖なる炎鳥が出現する。

 魔王は、口の端に笑みを含んだ。

「ほお。神の亜種を呼ぶか。」

 オルタナティブ・フェニックスは、亜不死鳥とも称される。創世の神の一柱、太陽を作った、火の神、フェニックスそのものではない。しかし、炎神が、自分にもっとも近い聖獣として生み出した、火の序列二位の中でも、最上位の聖獣だ。

 当然、召喚にも維持にも、魔力を相当消費する。ヘルツのこめかみに、汗の玉が浮かぶ。

「アビリティ発動、浄火!」

 アルタナティブ・フェニックスが、羽ばたいた。真紅の炎が、魔王を襲う。

 魔王は、眉一つ動かさない。

 どす黒くなった瘴気が、炎を打ち消す。

 しかし、浄火は、邪悪を焼き滅ぼすまで、燃え尽きない効果がある。魔王には届かないが、瘴気を押えることはできる。

 ただし、ヘルツの魔力が尽きるまで、だが。

「シュラ!」

 ヘルツが、前を向いたまま、怒鳴った。

「龍を呼べ!」

 明晰なシュラが、一瞬、ヘルツの言葉の意味を、つかみ損ねた。

 ドラゴンは、聖獣ではない。創世の神の一柱。海を作った、水の支配者、龍王(ドラゴン・ロード)

 いかに、シュラが天才でも、神を召喚したことなどない。

 だが、ヘルツは、叫んだ。

「魔王は、神の一柱だ。浄化できるのは、神だけだ。このままじゃ、イリスは死ぬぞ!」

 シュラが、ハッと瞠目した。サファイアの双眸が揺れる。

「イリスは、本当は、おまえに憧れているだけなんだ。全部が偽りなんかじゃない!おまえだって、本当は、わかっているだろうっ!」

「シュラさま」と、無邪気に微笑んだイリスの笑顔に、曇りはなかった。

 憧れて、ただひたすら純粋に、ひたむきに、シュラを慕う目だった。

 シュラの脳裏に、共に過ごした時間が甦る。

「強くなりたい。」

 イリスはそう言った。あの言葉に偽りはない。シュラには、わかる。かつて、焦がれるように、同じ思いを抱いたシュラには。

 昔の自分と、同じ瞳。

 ヘルツが、肩ごしに振り向いた。汗が、あごを伝わって落ちる。浄火の炎を支えたまま。

「おまえなら、神を呼べる。おまえなら、イリスを救える。」

 暁の空のような紫の瞳と、真昼の蒼穹のような青い瞳が、互いを映す。

 その瞬間、交錯した思い。

 シュラが、不敵に笑った。シュラに、何よりもふさわしい、無敵の王者のごとき、自信に満ちた笑みだった。

「当然だ。」

 シュラは、目を閉じた。

 深く、呼吸する。

 思い描くのは、青い大海原。

 空の蒼。それを映して、さらに深みを増す、海の青。

 太陽に照らされて輝く、銀色の波飛沫。

 その、奥。深い深い、海の底に、創世の神の一柱、水を統べる、龍王が坐す。

(龍王。オレの声を聞け。オレに願いに応えろ。)

 シュラは、初めて、願う。自分以外の者のために。

 シュラは、唇をかみしめた。

 魔力が、吸い取られていくのがわかる。

 神の世界と、精神で繋がっているのを感じる。それゆえに、一瞬ごとに、気力も体力も搾り取られていく。

 それでも、シュラは、呼びかけ続けた。

 どれくらい、そうしていたのか。

 朦朧とする意識に、声がすべりこんできた。

 低く深い、慈悲と威厳を同時に感じさせる声音。遠い昔に聞いた、誰かの声に、少しだけ似ている。

(我が力を欲するのは、何ゆえか。)

 シュラが、目を開けた。

 映るのは、見慣れた賢者の塔の内部ではなかった。魔王に憑依されたイリスも、必死で魔王の瘴気を食い止めているヘルツもいない。

 一面の青い水の中。

 それよりもさらに濃い、混じり気の無い純粋な青をまとった、龍がいた。

 双頭のアンフィスバエナや、三つ首のアジ・ダハーカとは、全く違う。

 龍王(ドラゴン・ロード)

 全ての龍族の長であり、水に生きるものの父祖。

 叡智をたたえた、両の目で、シュラをまっすぐに見据える、それはまさしく、龍という名の神だった。

 シュラは、全身の震えを、意地で抑え込む。相手が神であっても、膝を屈する気は無かった。毅然と、というよりも傲然と、顔を上げる。

 龍王は、ふと目を細めた。笑ったのかもしれない。

(答えよ、我が眷属、水の聖獣に慕われし魔法使いよ。そなたが、我が力を欲する理由が、正当か否か、我が判じる。)

「知るか。」

 誰が相手でも変わらない、神に対してさえも媚びない、気高いというより傲慢な眼差しで。

「オレは、ただ、もう一度、あいつの淹れた紅茶が飲みたいだけだ。」

 龍王は、目を見張る。笑い出す。楽器の響きのような、音楽的な笑い声。ひどく、楽しそうに。

(まったく…神に対して、どこまでも意地を張る…。)

 龍王が、青い目を閉じた。

(いいだろう。その強情さは面白い。)

 龍王の閉じた双眸から、涙が零れ落ちる。

 周囲に満ちる水に混じることなく、涙の雫は、凝り、固まった。それぞれの目から、一粒ずつ。

 龍王の涙は、二つの青い石となって、シュラの方に流れてくる。

 シュラは、片手に、二つの石をつかんだ。シュラの手の中で、青い石は光り輝いた。青い水の世界を、さらに深い青で染め上げた。

「なかなかがんばるな、炎の魔法使い。」

 からかうような笑みを浮かべ、魔王が言う。姿は、イリスだが、まとう空気は、全く違う。永久の時を生きる、大いなる力を持った、神の一柱。ただ対峙しているだけで、精神力が削られていく。

 魔王は、重ねて言う。

「しかし、おまえの、その努力は、果たして報われるものかな。あの氷の魔法使いは、確かに天才だが、神を呼ぶというのは、魔力だけで成せることではないぞ。」

 魔王は、すうっと、紅い目をすがめた。それだけで、部屋の空気が冷えた。

 ヘルツは、歯を喰いしばる。

 魔王は、一度、目を閉じたまま微動だにしないシュラに、視線を投げかけた。

「オレ以外の神は、力を貸す相手を選ぶからな。奴らを引っ張り出すのは、至難の技だ。何よりも、高潔な魂が求められる。炎の魔法使いよ、おまえは、あの者を、信じられるのか?」

 魔王から放たれる瘴気が、膨れ上がった。

 ヘルツが、一歩退きそうになり、必死で踏みとどまる。

「オルタナティブ・フェニックス!」

 叫ぶ。炎の鳥に、魔力を注ぎ込む。

 オルタナティブ・フェニックスのまとう炎が、威力を増し、漆黒の瘴気を食い止める。

 ポタッと、ヘルツの汗が絨毯に落ちる。

 視界が、白く霞む。

 魔力は、とうに尽きている。精神力や体力を変換して魔力に変えているが、どちらも、既に限界が近い。

 それでも。

 ヘルツは、ひるまずに、魔王を見据える。

「シュラの魂が高潔だなんて、思ったことはないな。」

 ヘルツは、フッと笑う。魔王が、眉をひそめる。

「あいつは、いつだって、傲慢で尊大で偉そうで、協調性の欠片もなくて、自分勝手だ。」

 出会いは、最悪だった。<若獅子たちの闘い>から、ヘルツは、どうしてもシュラを意識せざるをえなくてー向こうもそれは同じだっただろうー気がつけば、いつも近くにいた。

 ヘルツは、シュラを挑発するし、シュラは、やたらと好戦的な性格だから、まともに受けて立つ。そんなことを繰り返すうちに、常に不穏な空気を漂わせつつ、そばにいる、という妙な関係になっていた。

「仲が悪いなら、離れてればいーじゃねーか。」

と、呆れた口調で言ったのは、ケルンだったか。

「だけど、シュラが、やるって宣言して、できなかったことなんて無いんだ。」

(おまえが、負けず嫌いなことは、オレが、一番よく知ってる。)

 前髪で隠れた額に、指で触れる。傷をなぞる。五年前に、シュラに刻まれた古傷。

 ヘルツは、指を下ろして、もう一度叫ぶ。肺の空気が空になるほど、声を張り上げた。

「オルタナティブ・フェニックス!この瘴気を、焼き尽くせ!」

 炎の翼が、羽ばたく。ヘルツの声に応えて、力強く。

 ゴウッと、燃え上がる劫火が、昏い瘴気を焼き払う。

 魔王が嗤う。

「愚かな。おまえがこの俺に刃向うこと自体が、許されぬことだ。」

 再び吹き出す瘴気。炎を駆逐する。

 同時に、ヘルツの全身から力が抜けた。

(やばっ…)

 がくり、と膝から崩れ落ちる寸前。

 ぐいっと、強引な力強さで、腕をつかまれた。無理やりに、引き上げられる。

 ヘルツは、自分の腕をつかむ、指の長い、白い手に視線を落とし、苦笑して、顔を上げた。

 細い体のどこに、こんな力があるのかと言いたくなる。

「遅いぞ、シュラ。」

「貴様に根性が無いだけだ。」

 前を向いて、魔王を睨み据えていたシュラは、少しだけヘルツに視線を向けた。

 シュラの眼差しを受けて、ヘルツは、両足に力を入れる。このまま、シュラに支えられているのは癪だった。ただそれだけの理由で、最後の力を振り絞る。

 シュラは、ヘルツが自力で立ったのがわかると、手を離す。

 ヘルツの腕をつかんだのとは、逆の手を開く。

 開かれた手から、二粒の石が浮かぶ。青い光が、部屋を満たす。

 青く清浄なる輝き。

 一瞬で、瘴気を駆逐する。

「ほお。」

と、魔王が、真紅の目を輝かせた。珍しい玩具を見つけた子どものように。獲物を前にした肉食獣のように。

「龍王が、認めたか。」

 シュラは、気負うことなく、自然に、珊瑚色の唇に、その名を乗せた。

「降臨、水の序列一位、龍王。」

 炸裂する、青き閃光。

 青き翼が広がる。

 広々とした賢者の塔の天井を埋め尽くす、巨大な龍。優美に舞う。

 空気が、冷たく澄み切った。

 一切の不浄を、邪悪を、容赦なく祓い清める、無慈悲なまでの、聖なる力。

 龍王は、シュラの背後に舞い降り、青い視線を魔王に向けた。

 水の神を従え、シュラが言う。

「浄化。」

 龍王が翼を広げる。その羽ばたきが生み出したのは、風ではなく、水。

 激流となって、魔王に向かう。

「…やれやれ。」

 魔王が、肩をすくめる。

「神が出て来ては、人に憑依している俺に勝ち目はないな。」

 魔王は、魂だけを魔界から飛ばしている状態だ。神界から完全なる状態で出現した、同等の神には、太刀打ちできない。

 イリスの体は、龍王の蒼い水に包まれる。

 洗い流される。

 一切の闇が。魔王が宿るよすがになるものが。

 魔王は、ふっと笑った。

 全てが青藍に染まる。押し流す。大いなる、清浄な力で。逆らえない、抗えない、けれど包み込むような、水の神の力。龍王が告げる。

「魔界に戻れ、我が同胞よ。」

(ああ、そうか。)

 シュラは、唐突に、思い出す。龍王の声は、もう二度と聞くことは無い、父の声に似ているのだと。

 魔王が、シュラに笑いかける。ひどく親しげな、楽しそうな笑み。

「また逢おう、オレの青き宝玉。」

 シュラは、眉をひそめる。

 魔王は、くっと、喉を鳴らして笑った。

「サフィアのラスト・プリンス。」

 シュラが、目を開けた。視界に映る天井は、見慣れた賢者の塔の自室ではない。作りは全く同じだが、ここは、火の賢者の塔、つまりヘルツの自室のはずだった。

「ああ、気がついたか。気分はどうだ?」

 ベッドの横に椅子を置き、座っていたヘルツが、ほっとしたように声をかけてくる。

「…。」

 シュラは、身を起こす。上半身を動かしただけなのに、眩暈が走る。

「っと。大丈夫か?」

 シュラが、右手をついて自分の身を支えるのと同時に、ヘルツの腕に抱えられる。それを、シュラは左手で振り払った。

「おまえなあ…。」

 ヘルツは、怒るよりも呆れた表情でシュラを眺め、その後、小さく苦笑した。

「まあ、そんな元気があれば大丈夫か。」

 おまえらしいなと、くすっと笑い声を洩らして。窓から斜めに差し込む月光を浴びたヘルツの顔には、まだ疲労が色濃く残っている。シュラは、まだそれほど時間が経っていないことを知る。

 シュラが上掛けをはねたのを見て、ヘルツは、慌てた。

「おい、まだ寝てろって。」

「もう十分だ。」

 頑なに言い切るシュラに対して、ヘルツは意外にも、あっさり引いた。

「そうか。なら、相手をしてやれ。」

 意味をとりかねて、形のよい眉をひそめたシュラに、ヘルツが悪戯っぽく微笑んだ。

「おまえに客だ、シュラ。」

 時間は、少し、遡る。

 神を召喚したシュラの消耗は激しかった。正直、立っているのもやっとだったのだが、意地だけで、イデアルの執務室に赴いた。正式な報告書は後日提出すると言い、口頭で事件の真相を告げ、気を失ったままのイリスを預けた。

 シュラは自室に戻るつもりだったのだが、

「あんな滅茶苦茶になったとこじゃ休めないだろう。」

と、ヘルツに、火の賢者の塔に連れてこられた。

 普段なら、

「誰が貴様の塔になんぞ行くか。」

とはねつけるのだが、とにかく、一刻も早く横になりたかった。気を抜くと、立ったまま気を失いそうになる。全身にのしかかる疲労感が重すぎて、一歩前に進むだけで、体が沈む気がした。

「借りはすぐに返す。」

と言ったシュラに、ヘルツは、崩れ落ちるようにソファに座ったまま答える。

「オレも疲れ切ってて、この程度のこと貸しになんかするかよとか、言い争う元気はないぜ。」

 ヘルツ自身も、限界まで体力も気力も使い果たしている。

 お互いに、(こいつより先に倒れてたまるか)という意地だけで、意識を保っていた。

 ヘルツは、小さく手を上げて、奥を指し示す。

「寝室はあっちだ。間取りはおまえの塔と同じだからわかるだろ。」

 シュラが口を開いたので、ヘルツはそれより早く言う。

「オレはもう立ちたくない。おまえが、寝室使え。」

 シュラの背中を見送って、ヘルツは眠りに落ちた。

 そして、目が覚めたのは、ヘルツの方が先だった。まだ完全に疲労が拭われていない身体を、引きずるようにして寝室に入ったヘルツは、死んだように眠るシュラを見て、神の召喚が、シュラに想像を絶する負担をかけたことを実感した。

 シュラの寝顔を初めて眺め、睫毛が長いことに気づく。月明かりの中、睫毛が白い肌に淡い影を落としているのを見て、不思議な感慨を覚えた。シュラが、自分の寝台で横たわっていることにも。

 強い意志を宿して、鋭く輝く青い眼光が閉ざされていると、整い過ぎた容姿は人形じみて見える。

 カンカンと、ノッカーの音が響いた。

 見惚れていたわけではないが、突然の音に、素で驚いてしまった。ひどく遠慮がちな音だったが、夜の闇の中では、大きく響いた。

 寝室を後にして、外とつながる扉を開ける。

 所在なげに立ち尽くす人影を、招き入れた。

 俯いて、シュラのいる寝台に近づいて来る、幼い姿。細く華奢で、儚げで、頼りない。

 入れ替わるように、ヘルツが立ち上がる。

「じゃあな、シュラ。オレは、居間にいるから。」

と、寝ていたソファのある部屋へと戻っていく。寝室の扉を閉める時に、足を止め、振り返る。震える細い背中が視界に入り、手を伸ばしかけ…止める。

 この小さな背中に必要なのは、自分の手ではないことを、ヘルツは知っている。

 パタン…と、かすかな音をたてて扉が閉まる。

 シュラは、顔を伏せたままの少年の名前を呼んだ。

「イリス。」

 イリスは、ビクッと細い肩を震わせた。

 シュラは、声を重ねる。

「顔を上げろ。」

「…はい…。」

 掠れた、かすかな声とともに、イリスが顔を上げる。漆黒の長い髪が、はらりと白い頬にかかる。

 可憐で愛らしい、姫君のような美貌なだけに、悲愴な表情が痛々しい。

 クッと、小さな、呻くような声とともに、淡紅色の唇が震え、歪む。

 泣きはらした、真っ赤な目から、新たな涙がぽろぽろと零れ落ちる。

「…すみません、すみません、シュラさま。」

 後は、言葉にならず、イリスはその場に崩れ落ちて、泣き伏した。

 漏れる嗚咽の間から、必死に、イリスは声を絞り出す。

「っ…オレはっ、オレは、魔王に完全にっ…操られてたわけじゃっ、ないっ…だからっ…だから、あれは、すべて、オレの…。」

「…。」

 シュラは、理解した。イリスが、自分の罪を自覚していることを。

 魔王の仕掛けた罠に落ちた。

 そんな言葉に縋ってしまえば、どれだけ楽か。けれど、イリスは、そんな欺瞞を自分に許しはしないのだ。

 イリスが望んだ。

 シュラを手に入れることが可能な力を。闇に堕ちてでも、それが欲しいと。

 イリスに下される罰が、そう重いものにはならないことを、シュラはイデアルから既に知らされているが、問題は、外から与えられる罰の重さではない。

 シュラは、泣き崩れるイリスの前で、途方に暮れる。シュラは、ずっと、聡明な天才と讃えられてきた。どんな難解な魔法の理論も、瞬時に理解し、聖獣に関する膨大な知識も、乾いた大地が水を吸うように吸収してきた。

 けれど、傷ついて泣き続ける年下の少年にかける言葉が、シュラには一つも出てこない。

 シュラは、うろたえてイリスを見下ろし、自分の狼狽に気づいて、驚く。

(オレは、こいつを慰めたいのか。)

 シュラは、他人に対して、そんな思いを抱いたことなどなかった。それなのに、イリスの涙だけは、止めたいと思う、その理由。

(こいつは、オレと同じだ…。)

 シュラは、静かに寝台から降りた。床に膝をつき、イリスの肩に手を置く。細い肩だった。見た目よりもずっと。

「っシュラさまっ…。」

 しゃくりあげながら、イリスがシュラを見上げる。

 シュラは、その暗紫の瞳をまっすぐに見据え、訊いた。

「強くなりたいか?」

 イリスが、ハッと、泣き濡れた目を見開く。

「はいっ!オレは…オレは、強くなりたいです。シュラさまみたいに。」

 シュラは、笑った。

 イリスは、泣くのも忘れて、魅入られたように、呆けたように、シュラの笑顔を見た。

 優しい笑みではない。許しの言葉もない。

 けれど、シュラが、満足そうな笑みで頷くのを見て、イリスの涙が引っ込んだ。

 闇の中でも、青く輝く瞳。いかなる時も、誇り高く、怖れを知らず、昂然と、見る者を射抜く。

「なら、強くなれ。」

 シュラは、珍しく、わずかな間だが逡巡してから、続けた。

「それから…また紅茶を淹れろ。」

「はいっ!はい、シュラさま。」

 イリスが笑う。涙の最後の雫が、頬に零れて月光を弾いて煌めいた。

「シュラさまのために、最高の紅茶を淹れます。」


「最強の魔法使い」後編(第三幕に続く)

 読んでいただけたら、とてもありがたいです。

「最強の魔法使い(後編)」へと続きます。そこで完結しますので、よければそちらも読んでいただけるとありがたいです。

 タイトルの意味は、後編で明らかになります。

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