妻が悪女に変わる時6
「騎士と喧嘩になったと聞いたが、何があったんだ?」
リーンリアナを訪ねたアルバートは額に皺を寄せて開口一番に言った。
自室の居間の長椅子で編み物をしていたリーンリアナは気だるげにアルバートを目の端で認めると作業を続ける。
「特に何もございませんわ。ちょっとした意見の食い違いですの」
「ちょっとした意見の食い違いで喧嘩だと言われると思っているのか?」
説明に納得していないアルバートが食い下がって来るので、編み物をする手を止め、アルバートのほうを見る。
「喧嘩ではありませんのよ? 警備をしていた近衛騎士も止めてくださいましたし、ちょっとお互いに言いすぎただけですの」
「言い過ぎたことが喧嘩として報告が上がってくるとでも思っているのか?」
報告が上がってきたのは、異変が起きたからだった。
訪問者たちとの会話は容認されるようにはなっていても、言い争いはそうではない。そこからトラブルに発展しそうな出来事は報告されてくる。
リーンリアナは不快気に眉を顰めて、イライラとした手つきで編み物を再開する。
「アルバート様がお気になさる必要はございませんわ」
「それはお前が気にする内容だというのか?」
自分には気にされたくないことでも、リーンリアナ自身が気にしていることなのだろうとアルバートは考えた。
だが、何が原因でリーンリアナが気にしているのかはわからない。
「・・・いいえ」
明らかに嘘だった。
それがアルバートには辛かった。
信用されていないことは長男を失った時から知っていた筈だ。リーンリアナたちハルスタッド一族の側妃の意味も彼女らが産む子どもたちの運命についても自分は教えられていなかった。教えられるほどの信用も得られないほど、リーンセーラへの想いに溺れていた。
王位継承権は与えられなくても、王子も手元で育てられるように根回しをすることはできる。
今度こそ処分などさせられないようにするのが自分が傷付けたリーンリアナにできる唯一の償いだ。
「その言い方からしたら、言われた内容に心当たりがあるのか?」
「心当たり?」
心外だとばかりの表情をするリーンリアナが安心して話せるようにアルバートは穏やかな態度で促すことにした。リーンリアナがどんなに挑発的な態度をとっても、それに乗ってはいけない。彼女はそうやってアルバートを心理的に拒絶しているのだから。
「気にするような内容なのだろう? 言ってみたらいい」
「アルバート様のお耳を汚すような内容ではございませんわ」
心の中で数を数え、取り付く島もないリーンリアナを宥めるようにアルバートは言う。
「リーンリアナ。私はお前の夫だ。お前が気に病んでいることがあるなら、それを聞く義務がある」
「・・・!」
リーンリアナは目を見張った後、苦しそうに顔を顰めて、何か言いたげにアルバートを見た。
そんな表情をさせるのも自分の行いが悪かったせいだったと、アルバートの胸が痛んだ。
「リーンリアナ」
再度、穏やかに促す。
「・・・」
リーンリアナは視線を手元の編み物から足元に落とす。
泣きそうなリーンリアナの様子にアルバートは胸が締め付けられた。
「私が頼りないか? 歳下だから頼りなく感じるのか?」
「・・・」
リーンリアナが何も答えず、微動だにしないのが頼りないと言われているようで余計にアルバートは辛い。
リーンセーラに心奪われて、リーンリアナを見ようともしていなかったのはアルバートだ。
他の妃でもまだリーンリアナよりは見ていた。
どの妃よりも軽視し、なおざりに扱っていた。
それを自覚したら、アルバートは申し訳なくてたまらなくなった。
「・・・。それとも、まだ私を許してくれていないのか? お前に許してもらうには私は何をしたらいいんだ? リーンセーラのことを忘れろと言われても、忘れることはできない。だが、忘れるように努力する」
リーンセーラを恋うる気持ちは偽れない。
それを忘れることもできない。
だが、自分ができることはそれを忘れるように努め、リーンリアナを大切にすることだとアルバートは思った。
勢いよくリーンリアナが顔を上げる。
「・・・! そんなことは必要ありませんわ・・・」
重たげな睫毛の間から見える青い目が揺れていた。
リーンセーラとよく似た色の目。
「それなら、どうしたら・・・? いや・・・」
アルバートはどう言ったらいいのかわからなくなった。
今まで気付かなかったその目の色を褒めればいいのか。
それとも、必要ないと言った理由を聞けばいいのか。
リーンリアナは編み物の手も止め、斜め下の床を見つめる。
「私はもう、あなたに何も求めてはおりません」
「求めてない? 信用がないということか?」
自分で口にしていて、情けない実情だった。
思わずアルバートは一歩踏み出した。
一瞬、リーンリアナの肩がビクリと跳ねる。
「信用も何も。私はもう、あなたに期待することは何もありませんもの」
「何も、ない?」
上目遣いに言われた言葉の意味がわからなくて、アルバートはオウム返しに言う。
「ええ。私たちにあるのは王女を産むこと。それだけの関係です」
静かにリーンリアナは言った。
それはあまりにもひどい内容だった。
王女しか手元に残すことを許されていないのに、それだけの為に抱かれることを厭わないという態度は。
他の妃なら身内や贔屓にしている貴族の取り立て、宝飾品やドレスをねだることもあるというのに、リーンリアナは何も望まないと言う。
「お前はそれでいいのか、リーンリアナ?」
「私にはこれしかないのです」
少しでも力になりたくて本心を聞き出そうとするアルバートをリーンリアナは拒んだ。
明らかに拒絶する妻にアルバートは何か自分ができることはないかと、縋るような気持ちになった。
役に立つどころか、自分がリーンリアナを傷付ける存在でしかないのが腹立たしい。
「他にはないのか?」
「私たちにはこれしかありませんもの。その他に何があるというのかしら?」
弱みを見せたくないのか、リーンリアナは話を終わらせようとした。
それでも、アルバートは本心が聞きたかった。
「リーンリアナ。本当に――」
「いつでもよろしいのよ? 今日からでも」
嫣然と微笑んで夫婦生活の再開を誘うリーンリアナにアルバートはしどろもどろに言った。
「いや、今日は・・・お前の日じゃない」
他の妃たちの機嫌を損ねるとまたリーンリアナに嫌がらせをしかねない。
それがこの前の件で直接は無理だとわかっていても、間接的に行うことはできる。離宮に関する予算を減らしたり、離宮に納入する食材や衣料品などの質を意図的に落とすことなど、考えればいくらでもある。
アルバートは自分の行動が何を招くのかわからないほど、もう、子どもではなかった。
リーンリアナに相手にされず、同僚のケネスに近衛騎士に不審者だと認識すると注告を突き付けられたダグラス・ベルガーが言葉に詰まっているところに、ベッケンバウアー公爵とイオン卿が連れ立って現れた。
「ダグ? ここで何をしているんだ?」
「ダグラス?」
「エド、なんで来たんだ?!」
ダグラスはここに来る前に再度エドモントに王太子の側妃に会いに行くなと忠告していた。
同じ王太子の側妃でも、このハルスタッド一族の女たちの離宮にいるのは政治的にも何も役に立たない側妃だ。実家が王の側近とは言え、代々それ以上でもなく、その上、貴族殺しの汚れ仕事をする一族でしかない。
エドモントが離宮に頻繁に訪れるのは夜会で見たハルスタッド伯爵令嬢の妖しい容姿に惑わされているとしか、ダグラスには思えなかった。
そんな理由でエドモントが家名を汚すことも、ましてや国王に対する反逆の意志と思われるのも友人であるダグラスが黙って見過ごすことはできない。
「お前こそ、どうしてここに?」
エドモントに聞かれ、ダグラスは悪戯が見つかった子どものように落ち着きを失くす。
「エドに言っても聞く耳を持ってくれなかったから、元凶を断ちに来た。この女がお前の相手をしなかったら、エドもここに来なくなるだろ? アリシアが王太子の正妃にならなかったとは言っても、その側妃と親しくするなんて、何を考えているんだ。それも、ハルスタッド伯爵家の人間なんかと。自分の立場をもっと考えろよ」
エドモントの姉や他の妃たちからの嫌がらせを受けたことのあるリーンリアナはダグラスの言うように、王太子の妃たちの関係が穏やかではないのだと気付いた。
毒を盛るように指示を出したエドモントの姉が特別なのではない。誰もが自分と同じようにアルバートに愛されようと必死で、ライバルの足を引っ張ろうとしているのだ。
今はもう、リーンリアナにとっては何の価値もないそれを巡って。
「僕が何をしようが、ダグには関係ない」
元々、エドモントは他人ととっつきにくい性格なのだろう。友人にすら頑なな言葉を向けるベッケンバウアー公爵にリーンリアナは自分だけがそうだったのではないのだと知った。
「関係ないってなんだよ。俺はお前のことを心配してだな――」
「僕には僕の考えがあって動いている。それは友だろうが、邪魔されるのは好きじゃない」
友を心配するダグラスにエドモントはつれない返事を返す。
「これは好き嫌いの問題じゃないだろ?! 俺はお前がこの女に骨抜きにされているのを見たくないんだよ!」
骨抜きになどしているつもりのないリーンリアナはダグラスの言葉に驚いた。
先程は失礼なことを言う、と反発してしまったリーンリアナだったが、露骨な表現をされて自分が浮気しているように見えているのがわかると恥ずかしくなった。
そして、アルバートの妻であることを強く意識すると今度は身体が震えた。
「・・・」
アルバートの妻であるということは、いずれはまたあれをしなければいけない。
今はアルバートが免除してくれてはいるが、王女を産む義務がある。
アルバートに真相を告げたら義務を果たさなくてもよくなるが、そうなると自分が離宮にいる意味もなくなる。ハルスタッド一族の当主の娘として生まれたからには王族に嫁ぎ、王女を産む義務がある。
姉や叔母たちがしてきたことを自分だけが逃げてはいけないとリーンリアナは自分自身を叱咤する。
愛されていなくたっていいじゃない。
私は義務を果たすだけ。
大丈夫。
大丈夫よ。
私はまたできる。
温かな日差しが降り注ぐ中庭にいるにもかかわらず、リーンリアナは震えが止まらなかった。
幸いなことに、ダグラス・ベルガーもベッケンバウアー公爵やイオン卿、近衛騎士と女騎士たちも門を挟んだ向こう側で、誰もリーンリアナが恐慌に陥っていることは見えない。
リーンリアナは何度も大きな息を吸いながら、自分の心を落ち着かせる。
かつては愛していた男だった。
かつては愛せた男だった。
愛していなくても耐えられると。